下級女官リリルの片思いと奔走


行き先は、決まった。
そこはサラナント国の剣術の都として名高い、サラカレという町。

「僕が、サラカレに行けるなんて、考えてもみなかった」
エリウスはその町の名前を知っていた。そこは、世界中の剣術士が憧れる場所なのだった。

「一流の場所で学ぶのが、強くなる一番の近道ではありませんか」 とリリルが笑顔で話した。

「そうかもしれないけど、でも、僕が、その町でやっていけるのだろうか」

「できるかできないか、まずは、やってみてください」

「もし、できなかったら?」

「できるまで、やってみてください」
「わかった。頑張ってみるよ」

エリウスの口元には笑みが浮かんでいたが、どこか不安が混じった表情をしていた。



サラカレまでは、歩いて二か月間かかる。
旅の間、エリウスが、時々、何度もレオナルド王のことを思い出していることに、リリルは気づいていた。

エリウスは、時々遠い目をするから、その時、何を考えているのか。わかってしまうのだ。

ある日、リリルが、提案した。
「名前を、変えましょう」

「え?」

「追手がやって来るかもしれないですし、それに、もう、昔の私たちじゃないのですから」

「そうだね、いいね」
エリウスがあっさりと、同意した。

「私は」
リリルが、顔を輝かせた。「カトリーヌになります」

「カトリーヌ?」

「私、ずっと名前というものがなかったらしくて」
リリルが、少し恥ずかしそうに笑った。
「小さかったから、誰かがリリルって呼んで、それが名前になったんです」

「そうだったのか」

「私、カトリーヌっていう名前に、ずっと憧れていたんです」
エリウスが、首を傾げた。
「でも、リリルという名前は、可愛いよ」

リリルの頬が、ほんのり染まった。
「でも、今日からは、カトリーヌです」
リリルが、きっぱりと言った。
「わかった。じゃあ、カトリーヌ」
彼がその名前を呼んだ。

「はい。何がご用事ですか。とてもよい響きです」
リリルが、嬉しそうに笑った。

「では、エリウス様は、どうされますか?」
「僕は……」
エリウスは唇をわずかに曲げて、しばし考えた。

「ゼリアンにしよう」
「ゼリアンですか。どうして?」

「子供の頃に読んだ物語の、剣士のヒーローの名前なんだよ」
エリウスが、少し照れたように笑った。

「子供の頃から剣士に憧れていたのですね」

「本当は、そうなんだよ。恥ずかしいから、言わなかったけど」

「では」
とリリルが、さらに提案した。

「私たちは、姉弟ということにしませんか?」

「いいけど。それ、逆だろう。兄妹だよ」

「私のほうが、年上です」

「同じ歳じゃないか。誕生日は、いつ?」

「はっきりとはわからないけど、猫年の春生まれ。だから春が好き」

「僕は、鼠年の十一月生まれだけど……」
エリウスが、リリルをまじまじと見た。

「リリル、もしかして、十六歳っていうのも確かじゃないのか?猫年なんて、ないよ」

「鼠があるのなら、猫だってあっていいじゃないですか」

「ないよ」

「私もしかしたら、十七歳か、十八歳かもしれません」

「それはないね。その顔を見れば、たぶん十四歳か十五歳だ」

「私、そんな子供じゃありませんよ。私はカトリーヌで、十六歳です!」

「普通は若いほうがいいんじゃないか。どうして、そんなに年上になりたがるの?姉上みたいに命令したのかい」

「そんなこと、ないです」
でも、ああ、そうかもしれないとリリルは内心思った。私は彼の後ろを歩くのではなくて、彼の行く先を示す存在になりたいのかもしれない。

リリルが虚空を見つめていると、
「わかった、わかったから」
エリウスが、リリルの頭をぽんぽんと撫でた。

「そんな顔、しないで。じゃあ、カトリーヌが姉さんで、僕が弟でいい」

「本当ですか?」

「うん」

「身寄りのない孤児の姉弟ってことで、いきましょう」

「うん、そうしよう」
こうして、リリルは、ゼリアンの姉の「カトリーヌ」になったのだった。



旅のある日、カトリーヌとなったリリルが、また思いついた。

「ゼリアン」

「何?」

「毎日歩くだけじゃなくて、たまには、走るっていうのはどうですか?」

「走るのかい?」

ゼリアンが、目を丸くした。「歩き続けるだけでも、十分大変なのに」

「サラカレに着くまでに、少しでも体を鍛えておいたほうが、いいと思うのです」

「それは、そうだね」
ゼリアンが、自分の体を見た。
「僕は運動不足だから、走るのは、いいアイデアかもしれない。でも、できるかな。荷物もあるし」

「大丈夫です。できます」
カトリーヌが笑顔で言った。

「私も、荷物を背負って、一緒に走りますから」

カトリーヌは考えていたのだ。 ゼリアンが走ることに集中すれば、陛下のことを思い出さずに済むだろう。

彼女自身は、走るのが得意だ。先頭を切って走れば、彼も、走らずにはいられないはずだ。

「じゃあ」
カトリーヌが、立ち上がった。
「今から、走りましょう!」

「え、今から?」
「はい。行きますよ。善は急げです」
と カトリーヌが、走り出した。

「待って、カトリーヌ。待てって」
エリウスが、追いかけてきた。

二人は草原を走った。 風が、頬を撫でて行った。
太陽が、まぶしい。

「ゼリアン、遅いですよ!」
カトリーヌが、振り返って手を振った。

「待ってよ、カトリーヌ」

「いやです」

カトリーヌは笑いながら走り続けた。