下級女官リリルの片思いと奔走

リリルの手元にあるのは、金貨三十枚。
そのほとんどは、エルナリスを出る際、セシリア王女から託されたものだった。もし身代わりが露見するような事態になれば、賄賂として使うようにと。

その中には、リリルがこつこつと貯めてきたわずかな金貨も含まれている。
リリルは、計算した。この金貨があれば、しばらくの間はなんとか生活できるだろう。

自分だけなら、数年は生きていける額。
でも、エリウス様は王子様。実際、どのくらいお金が必要なのか、想像ができない。
まあ、そんな時には、自分が働けばどうにかなるだろう、とリリルは思った。



深夜、二人は村外れのさびれた小さな宿に辿り着いた。

「こんな粗末なところで、すみません」
リリルが、申し訳なさそうに言った。

「エリウス様は、こんな場所に泊まられたことは、ないのでしょうね」
「ないけど」
とエリウスが、笑った。「そんなこと、気にすることはないんだよ」

エリウスが、部屋を見回した。
「僕が一人で旅立っていたら、野宿だったと思うから。寝る場所があるなんて、ありがたいと思う」

王子様がありがたい、ですって、とリリルは、感激した。
城から脱出して、まだ数時間なのに。
彼がもう成長しているのを見て、リリルは、涙ぐみそうになった。

二人は木板を四方でつなぎ合わせただけの、簡素な寝台に座った。そして、これからの計画を考えた。

これまで、短い時間で、城からの脱出に全神経を注いでいた。
だから、今後の具体的な計画は、まだ立てていない。

「エリウス様、一番したいと思われていたことは、何ですか?」

「したいと思っていたこと?」
エリウスはしばらく思いをめぐらせていた。

「うーん、僕は」
エリウスが、ゆっくりと言った。「ずっと、剣術をうまくなりたいと思っていたんだ」

「剣術ですか」
「でも、全然だめなんだ。腕も細くて、腕力もない」
エリウスは、片腕を反対の手でつかんだ。

「姉上には、全く歯が立たなかった。だから、できることなら、強くなりたい」

「それは素晴らしいお考えです」
リリルが、胸を叩いた。
「では、そうしましょう。情報収集は、私にお任せください」

リリルが、元気よく言った。
「エリウス様なら、きっと強くなられます」

「こんな僕でも、強くなれるかな」
「なれます。やる気があれば」

「やる気はあるんだ」
とエリウスが、顔を輝かせて笑った。

セシリアとして生きていた時の、どこか遠慮がちだった笑顔よりもずっと爽やかで、ずっと自由な笑顔を見て、リリルの胸は熱くなった。
この方と、二人で旅ができると思うと、心が跳び上がった。

「リリル、ありがとう」
エリウスが、優しい視線を向けた。
「いいえ……」
リリルが、頬を染めた。「私のほうこそ、ありがとうございます」

「どうして、お礼なんか言うの?」
「エリウス様と一緒にいられるからです。それが、私の幸せなんです」
エリウスが、少し驚いたような顔をした。

「リリル、君は不思議だね」

「そうですか?」

「うん。リリルが一緒で、よかった」

リリルの心臓が、またドキンと跳ねた。
外では、虫の声が響いていた。この静かな夜の、この瞬間を、リリルは心に刻んだ。
どんなことがあっても、この幸せを忘れない。

エリウスが、あくびをした。
「眠いね。今日はいろんなことをしたから、疲れたよ」

「はい。どうぞお休みください」
とリリルが、立ち上がった。

「どこへ行くの?」
「私は、床で寝ますから」

「え、床?それはだめだよ。リリルも寝台で寝よう」

「でも……」

「一緒に寝よう」
エリウスが、ベッドを叩いた。「こっちにおいでよ」

リリルの顔が、真っ赤になった。

「え、え、えっ……?」

「どうしたの?」

「あ、あの、その……」

リリルが、しどろもどろになった。

「僕たちは二人とも少年だろう? だから、一緒に寝ても大丈夫だよ」

ああ、そうだった。今、私たちは二人の少年。
「わ、わかりました」

リリルは、ベッドの端で横になった。
エリウス様が、こんなに近くに。
リリルの心臓は爆発しそうだった。

「おやすみ、リリル」
「おやすみなさい、エリウス様」

リリルは、天井を見つめた。 眠れるはずがない。
でも、最高に幸せだった。

エリウス様の穏やかな寝息が聞こえてきた。よほど疲れたのだろう。まずは、体力をつけてもらわないと。

リリルは、そっと反対側を向いてみた。 エリウスの寝顔が、すぐそこにあった。美しい。

リリルはそっと手を伸ばしたが、でも、触れる直前で止めた。

おっと、いけない。 リリルは手を引っ込めた。

そして、また壁の方を向いて、目を閉じた。

明日から、新しい人生が始まる。
エリウス様と一緒の、新しい人生が。
どこへ行こうか……?
そうしているうちに、いつの間にか、眠りに落ちていった。