王女セシリアが二十一歳になった頃、同年代の王女たちは次々と嫁ぎ先を決めていた。だからといって、彼女が求婚相手に恵まれなかったわけではないし、躊躇いがちな性分だったわけでもない。むしろ、その正反対だ。
剣術なら女性としては国一番の腕前。
どんな時でも、物怖じせず意見を述べる性格。
求婚してきた名家の若者たちを、彼女は見事なまでにきっぱりと断ってきた。
だが今回の縁談は、これまでとは勝手が違った。
アストリウス新興王国の三十二歳の国王、レオナルド・フィリスからの求婚。肖像画は送ったが、顔を合わせたことはない。
それでも彼の熱意ときたら、「国王の威厳を脱ぎ捨ててでも嫁を取りに来る」と言われるほど積極的で、さらに提示された結納金は、財政難に苦しむエルナリス王宮の石壁すら震え上がるほどの巨額だった。
最初、セシリアは当然のように拒否した。
「辺境の国?そんなの無理よ。王都の空気を吸って育ったこの私が、田舎暮らしなんて、冗談じゃないわ」
それが本音だった。彼女の性質は、都会にこそ似合い、辺境の地では活かされない。
しかし、国王や重鎮たちの説明を聞くうち、胸の奥深くに眠っていた思いが、息を吹き返した。
祖国エリナリスは、かつて本当に誇り高い国だった。
肥沃な大地は人々を潤し、城下は笑顔で満ちていた。だが今、戦乱と飢饉に疲れ果てた民は、明日の暮らしすら見通せない。
一方、レオナルド王が治めるアストリウスは、若い国ながら勢いがあり、豊かな鉱脈を武器に領地を広げ続けている。
名門の血筋を欲するアストリウスと、金を必要とするエルナリス。 政略結婚としては、あまりにも理にかなっていた。
セシリアを一番よく知る弟エリウス王子は、もちろん反対した。 姉が田舎で幸せになれるとは思えず、なにより政略の犠牲になる姿を見るのがつらかったのだ。
「考えてみなさい、エリウス。私が嫁げば、この国に堤防が作れるのよ。崩れかけた橋も直せる。貧しい子どもたちのための施設だって建てられるの」
使命を語るときのセシリアの声は、いつも揺るがない。
「でも、姉上。自分の幸せはどうなるんですか?」
「幸せなんて人によって形が違うわ。私は王女に生まれた。それなら、果たすべき役目がある。それに王妃になれる最後のチャンスかもしれないじゃない。レオナルド王がそのうち世界征服でも始めたら、私は歴史に名を刻むかもしれないわよ」
本気なのか冗談なのか分からない言葉だったが、彼女の目には未来を切り開こうとする光があった。
しかし、この婚姻が正式に決まるまでには数々の騒動が起こった。そのたびにアストリウス側は「支度金」の名目で金額を増やし、気づけば、国庫が三度は満たされそうなほどの財が積み上がっていた。
もう、輿入れは避けようのない既定路線となっていた。
「私が嫁げば、エルナリスはもう一度立ち上がれる」
高揚した声でそう語る姉を、エリウスは複雑な思いで見つめたものだ。
だが都会に慣れきったセシリアが辺境での生活に適応できるのか。
その時、継母アイリーン王妃がこう助言した。
「セシリア王女。もし田舎の生活がどうしても合わなかった場合には、エリウス王子にも来ていただくというのはいかがでしょう? 仲の良い姉弟でいらっしゃいますし、それなら、寂しくはございませんでしょう?」
継母アイリーンはすでに三人の子を持ち、亡き王妃の遺した姉弟は扱いにくい存在なのだった。
セシリアはその提案を聞き、かすかに笑った。
あの継母にしては、上出来な案だわ。
*
そして今、出発前夜。
エリウスの部屋で、セシリアは震える声で言った。
「明日、私は嫁ぐことなんてこと、よく分かっているわ」
涙が一筋、そしてもう一筋、頬を滑り落ちた。 肩が震え、ついには声を上げて泣き出した。
エリウスは、生まれて初めて見る姉の姿に息を呑んだ。
扉の前に立つリリルも、目を丸くしている。宮廷の女官たちの誰もが恐れている強い王女が、こんなふうに泣き崩れるなど想像もしなかった。
「アランが兵隊に行く時、私は、さよならすら言わなかったの。だから、せめて言いたいのよ。ありがとうって。さよならって……」
姉の涙を見ると、エリウスの表情は痛みにゆがんだ。
「ね、お願い、エリウス」
震える指で弟の手を強く握りしめた。
「だから、私の代わりに行ってほしいの」
「え?」
時間が止まった。 リリルの心臓も止まりかけた。
「ど、どこへ?」
「レオナルド王のところへ」
「……はい?」
セシリアは大きく息を吸い、言い切った。
「数日だけでいいの、ほんの数日。私がアランに会って、気持ちに区切りをつけるまで、あなたが私の『身代わり』になってほしいの」
リリルの頭の中から、すべての音が消えた。
次に来たのは、爆発するような衝撃だった。
(弟が姉の身代わりって、どういうこと!?)
セシリアは畳みかける。
「ね、私たち似ているでしょう? 同じ母親で、背丈も顔立ちもそっくり。メイクさえすれば絶対に分からないわ」
泣きながら必死にすがりつく姉の姿に、エリウスの瞳に迷い、悲しみ、諦め、そして決意が順に浮かんでは消えていった。
「たった二日か三日、代わりをしてくれたら、それですべてがうまくいくのよ。その間、仮病を使って、ベッドに寝ていればいいことよ。そんなに難しいことではないでしょ」
リリルには分かる。優しいエリウスは、姉を突き放せないことを。
「……分かったよ」
とエリウスは小さな声で言った。
「本当に?もう一度、言って」
「代わりをするよ。寝ていればいいんだろ」
「そうよ」
セシリアはぱっと顔を明るくした。涙などどこかへ消えている。
「ありがとう、エリウス。愛しているわ」
彼女は弟を抱きしめ、弟は途方に暮れた顔をしていた。
リリルの手の中で燭台が震え、溶けた蝋が手に落ちる。熱いはずなのに、驚きの方が大きくて痛みを感じない。
冷血王と呼ばれるレオナルド・フィリスのもとへ、王子が「花嫁」として送り込まれる?
もし正体が露見すれば、エリウスはどうなるのか。 国と国との関係はどうなるのか。
考えた瞬間、リリルの背筋が凍りついた。
「リリル!」
振り返ったセシリアが命じた。
「あなたも一緒に行きなさい。あなたしか知らない秘密なのだから、一緒に行って、エリウスを守るのよ」
「はいっ!エリウス様を守り、ではなく、全力で守らせていただきます」
雷鳴が轟き、蝋燭の炎が右へ左へと揺れ、リリルの影が壁の上で、大きく揺れ踊った。
剣術なら女性としては国一番の腕前。
どんな時でも、物怖じせず意見を述べる性格。
求婚してきた名家の若者たちを、彼女は見事なまでにきっぱりと断ってきた。
だが今回の縁談は、これまでとは勝手が違った。
アストリウス新興王国の三十二歳の国王、レオナルド・フィリスからの求婚。肖像画は送ったが、顔を合わせたことはない。
それでも彼の熱意ときたら、「国王の威厳を脱ぎ捨ててでも嫁を取りに来る」と言われるほど積極的で、さらに提示された結納金は、財政難に苦しむエルナリス王宮の石壁すら震え上がるほどの巨額だった。
最初、セシリアは当然のように拒否した。
「辺境の国?そんなの無理よ。王都の空気を吸って育ったこの私が、田舎暮らしなんて、冗談じゃないわ」
それが本音だった。彼女の性質は、都会にこそ似合い、辺境の地では活かされない。
しかし、国王や重鎮たちの説明を聞くうち、胸の奥深くに眠っていた思いが、息を吹き返した。
祖国エリナリスは、かつて本当に誇り高い国だった。
肥沃な大地は人々を潤し、城下は笑顔で満ちていた。だが今、戦乱と飢饉に疲れ果てた民は、明日の暮らしすら見通せない。
一方、レオナルド王が治めるアストリウスは、若い国ながら勢いがあり、豊かな鉱脈を武器に領地を広げ続けている。
名門の血筋を欲するアストリウスと、金を必要とするエルナリス。 政略結婚としては、あまりにも理にかなっていた。
セシリアを一番よく知る弟エリウス王子は、もちろん反対した。 姉が田舎で幸せになれるとは思えず、なにより政略の犠牲になる姿を見るのがつらかったのだ。
「考えてみなさい、エリウス。私が嫁げば、この国に堤防が作れるのよ。崩れかけた橋も直せる。貧しい子どもたちのための施設だって建てられるの」
使命を語るときのセシリアの声は、いつも揺るがない。
「でも、姉上。自分の幸せはどうなるんですか?」
「幸せなんて人によって形が違うわ。私は王女に生まれた。それなら、果たすべき役目がある。それに王妃になれる最後のチャンスかもしれないじゃない。レオナルド王がそのうち世界征服でも始めたら、私は歴史に名を刻むかもしれないわよ」
本気なのか冗談なのか分からない言葉だったが、彼女の目には未来を切り開こうとする光があった。
しかし、この婚姻が正式に決まるまでには数々の騒動が起こった。そのたびにアストリウス側は「支度金」の名目で金額を増やし、気づけば、国庫が三度は満たされそうなほどの財が積み上がっていた。
もう、輿入れは避けようのない既定路線となっていた。
「私が嫁げば、エルナリスはもう一度立ち上がれる」
高揚した声でそう語る姉を、エリウスは複雑な思いで見つめたものだ。
だが都会に慣れきったセシリアが辺境での生活に適応できるのか。
その時、継母アイリーン王妃がこう助言した。
「セシリア王女。もし田舎の生活がどうしても合わなかった場合には、エリウス王子にも来ていただくというのはいかがでしょう? 仲の良い姉弟でいらっしゃいますし、それなら、寂しくはございませんでしょう?」
継母アイリーンはすでに三人の子を持ち、亡き王妃の遺した姉弟は扱いにくい存在なのだった。
セシリアはその提案を聞き、かすかに笑った。
あの継母にしては、上出来な案だわ。
*
そして今、出発前夜。
エリウスの部屋で、セシリアは震える声で言った。
「明日、私は嫁ぐことなんてこと、よく分かっているわ」
涙が一筋、そしてもう一筋、頬を滑り落ちた。 肩が震え、ついには声を上げて泣き出した。
エリウスは、生まれて初めて見る姉の姿に息を呑んだ。
扉の前に立つリリルも、目を丸くしている。宮廷の女官たちの誰もが恐れている強い王女が、こんなふうに泣き崩れるなど想像もしなかった。
「アランが兵隊に行く時、私は、さよならすら言わなかったの。だから、せめて言いたいのよ。ありがとうって。さよならって……」
姉の涙を見ると、エリウスの表情は痛みにゆがんだ。
「ね、お願い、エリウス」
震える指で弟の手を強く握りしめた。
「だから、私の代わりに行ってほしいの」
「え?」
時間が止まった。 リリルの心臓も止まりかけた。
「ど、どこへ?」
「レオナルド王のところへ」
「……はい?」
セシリアは大きく息を吸い、言い切った。
「数日だけでいいの、ほんの数日。私がアランに会って、気持ちに区切りをつけるまで、あなたが私の『身代わり』になってほしいの」
リリルの頭の中から、すべての音が消えた。
次に来たのは、爆発するような衝撃だった。
(弟が姉の身代わりって、どういうこと!?)
セシリアは畳みかける。
「ね、私たち似ているでしょう? 同じ母親で、背丈も顔立ちもそっくり。メイクさえすれば絶対に分からないわ」
泣きながら必死にすがりつく姉の姿に、エリウスの瞳に迷い、悲しみ、諦め、そして決意が順に浮かんでは消えていった。
「たった二日か三日、代わりをしてくれたら、それですべてがうまくいくのよ。その間、仮病を使って、ベッドに寝ていればいいことよ。そんなに難しいことではないでしょ」
リリルには分かる。優しいエリウスは、姉を突き放せないことを。
「……分かったよ」
とエリウスは小さな声で言った。
「本当に?もう一度、言って」
「代わりをするよ。寝ていればいいんだろ」
「そうよ」
セシリアはぱっと顔を明るくした。涙などどこかへ消えている。
「ありがとう、エリウス。愛しているわ」
彼女は弟を抱きしめ、弟は途方に暮れた顔をしていた。
リリルの手の中で燭台が震え、溶けた蝋が手に落ちる。熱いはずなのに、驚きの方が大きくて痛みを感じない。
冷血王と呼ばれるレオナルド・フィリスのもとへ、王子が「花嫁」として送り込まれる?
もし正体が露見すれば、エリウスはどうなるのか。 国と国との関係はどうなるのか。
考えた瞬間、リリルの背筋が凍りついた。
「リリル!」
振り返ったセシリアが命じた。
「あなたも一緒に行きなさい。あなたしか知らない秘密なのだから、一緒に行って、エリウスを守るのよ」
「はいっ!エリウス様を守り、ではなく、全力で守らせていただきます」
雷鳴が轟き、蝋燭の炎が右へ左へと揺れ、リリルの影が壁の上で、大きく揺れ踊った。



