下級女官リリルの片思いと奔走


次の日は、夜まで国王は現れなかった。

レオナルド王はセシリアのためになら時間を作ると言っていたのに、次の日には夜になっても、現れなかったのだ。

エリウスはベッドに横たわっていたが、なかなか寝付かれないようだった。
これが王の手なのだ、とリリルは思う。

期待させて、落胆させて、人の気持ちを弄んでいる。
あのいやな男は、次はどんな作戦を立ててくるのだろうか。わけのわからない感情が、濁流のように押し寄せてくる。

窓の外では、雨が降り始めていた。 ぽつり、ぽつりと。やがて、激しくなった。 その音が、心のざわめきを増幅させるように、部屋に響いていた。

その時、 コン、コン。 扉が、ノックされた。
ついに現れたか。

「どうぞ」
リリルが扉を開けると、やはり例の人だったが、しかし、今夜の王は、いつもと違っていた。威厳ある姿ではなく、どこか物憂げな雰囲気を漂わせている。

レオナルド王は、リリルを押しのけるようにして、エリウスのベッドのそばに近づいた。
「セシリア」
王の声は柔らかかった。

「眠っていましたか?」

「いいえ」

「何を、していましたか?」

「何も……」
とエリウスが、目を逸らした。

「そうですか」
王が、ベッドの端に腰を下ろした。

「これから明日の夜まで、大雨になりそうです」
雨がすでに激しく窓を叩いている。

「だから、あなたと話したくなりました」

「何を」

「そうですね。あなたの故郷の話を、聞かせてください。エルナリス王国は、どのような場所なのですか?」

「リリル……」
エリウスが、咳をした。

「セシリア、あなたときたら」
レオナルド王が、少し笑った。

「まだリリルがいなくては、だめなのですか?嫉妬しますよ」

「セシリア様の喉の調子が悪いので」
とリリルが、すかさず言った。「この私が、お話しさせていただきます」

リリルは故国のことを語った。王宮での思い出。雪の降る冬の美しさ。

レオナルド王はリリルの話に静かに耳を傾け、時折、質問を挟んだ。

リリルが話しているうちに、レオナルド王はエリウスの頭をそっと持ち上げて、自分の膝に乗せた。

リリルが仰天して、話すのを忘れた。

「リリル、続けなさい」

「は、はい」

リリルの話を聞きながら、しだいに、王の表情が和らいでいくのがわかった。エリウスは目を閉じて、穏やかな表情で聞いている。

「あなたのお国のことが、よくわかりました」

レオナルド王が、リリルに微笑んだ。 それから、エリウスを見下ろして、優しく囁いた。

「でも、セシリア、あなた自身からも、何か言ってください」

「私の故郷は……美しい」
エリウスが、か細く答えた。

「いいですね。続けてください」

王が、エリウスの髪を撫でた。

「私の故郷は……」 と王がエリウスに続けるように言った。

「……寂しい」

「寂しい時は……」

「……夜」

「夜は……」

「……怖い」

「怖いものは……」

エリウスが、答えを探した。

「セシリア」
レオナルド王の声が、真剣になった。

「あなたが恐れているものは何なのですか」

「それは……」

「あなたが恐れているものは」
王が、もう一度尋ねた。

「……それは」

エリウス様が暗示にかけられている?洗脳されているのではないかとリリルは焦った。

ガッシャン!

リリルがティーカップを大理石の床に落としたので、ものすごい音を立てて、割れた。

エリウスが、はっとした。
「あー、……よく、わからない」

王はしばらくエリウスを見つめた後、その顔をそっと撫でた。

そして、自分の顔をもっと近づけて、じっと見つめた。
エリウスはその強い視線に耐えられず、顔を逸らそうとしたが、 王はそうはさせず、しばらく黙って見つめ続けたまま、静かに言った。

「セシリア」
王の声が、低く響いた。

「あなたは、何かを隠していますか?」

「……なにも」

「そうですか」
王が、エリウスの手を取った。

「私はあなたのことを、もっと知りたいと思っています」
王の目は、真剣そのものだった。

「あなたの考えていること。あなたの感情。あなたの……すべてを」

「……」

「あなたは」
レオナルド王が、エリウスの手を優しく握りしめた。

「セシリア、あなたは、私にとって、世界で一番特別な存在です」
王が、両手でエリウスの頬を挟んだ。
「だから、あなたのことを知りたいのです」
そして、また、唇が、重ねられた。

エリウスは、逃れることができなかった。
二人の顔は、なかなか離れなかった。
ようやく離れた時、エリウスは、耳まで真っ赤になっていた。

「……陛下……」
エリウスが、小さく呟いた。

レオナルド王が、もう一度、キスをした。

「セシリア、あなたは、私を恐れているのですか」
と王が囁いた。

「……いいえ」

「では、なぜ……」
王の目が、エリウスを見つめた。

「そんなに、怯えているのですか?」

「……それは……」
エリウスが、言葉に詰まった。

「それはですね」
とリリルが、口を挟んだ。

「そういう質問をなさるのは、陛下がセシリア様のことをどう思われているのか。セシリア様がまだよくおわかりになっておられないからではないですか」

「リリル」
レオナルド王が、うんざりしたような視線を向けた。

「ここは、二人だけの大切な会話です。どこかへ行っていてもらえますか?」

「だめです。私は、国を出る時、エルナリス国王から……」

「それは、もう聞きました」
王が、少し苛立った口調で言った。

「部屋を出て行けとは言いません。しかし、セシリアはもう私の妻なのですよ」

「それは、紙の上だけです」

「リリル、少し離れていなさい」
王が指で部屋の隅を指さしたので、リリルはしぶしぶと移動した。

レオナルド王が、再びエリウスを見つめた。
「セシリア」
王の声が、優しく響いた。

「私はあなたのことを、深く愛しています」
エリウスの目が、見開かれた。

「あなたの美しさに……すべてに……心を奪われています」

「顔がお美しいから、お好きなのですか!」
と リリルが、叫んだ。

「あなたは黙っていなさい」
レオナルド王が、リリルを睨んだ。

「本当に、部屋を出て行ってもらえますか? 私は王なのですよ」

「いやです! 死刑になっても、出ていきません」

エリウスが戸惑って、顔を赤らめていた。

王はリリルを無視して、エリウスを見つめた。
「セシリア、あなたは、私を……どう思っていますか?」

「……私は……」
エリウスの言葉が、続かない。エリウスが、リリルの方を向いて、助けを求めた。

「……セシリア様は」
リリルが、また助け舟を出した。
「陛下のことを、もっと知りたいと思っておられます」

「まったく、セシリアときたら」
とレオナルド王が、苦笑した。
「仕方のない人ですね。あなたは、リリルなしでは、本当に、何も言えないのですか?」

王が、エリウスの頬をそっと撫でた。
「でも、そんなところも、嫌いではありません」
と王が、微笑んだ。

「では、これからは、私のことを知っていただけるように、努力します」
王が、またエリウスの頬を優しく撫でた。
エリウスが、うっとりと顔を赤らめた。

それを見ているリリルの胸は波打つのだった。



王がようやく帰った後、エリウスが、呟いた。

「リリル」
エリウスが、ベッドに座ったまま、リリルを見た。

「僕は陛下のことが……好きになってしまったのだろうか」
リリルの心臓が、止まった。

「胸が、どきどきするんだ」

「まぁ、そうですか」
リリルは、できるだけ平静を装った。

「それは、まぁ、よくあることです」
リリルが、明るく言った。

「私なんか、青空を見たり、きれいな花を見ても、どきどきします。エリウス様も、そうでしょう?」

「うん……」
エリウスが、少し考えた。

「でも、ちょっと違う気がする」

「同じですよ」
と リリルが、強く言った。

「ですから、気になさらないように」

でも、リリルの心の中は、嵐だった。
陛下が、エリウス様に惹かれている。エリウス様が、陛下に惹かれている。
リリルは、この先を思うと、不安に、押しつぶされそうになりながら、またドレスのお直しを始めた。
針を深く刺す。一針、一針。
雨音が、さっきよりも、窓を激しく叩いていた。