下級女官リリルの片思いと奔走


宵のうち、扉をノックする音が響いた。
あのお方に、決まっている。
やれやれとリリルは眉を寄せた。

出ていくと、案の定、レオナルド王だった。こんな時刻なのに、散歩のお誘いだという。
王がエリウスを連れて出ていこうとするのを見て、リリルが従おうとすると、王が手を上げて制した。

「今夜は、二人だけで」
リリルの心臓が、跳ねた。

「それはできません!」
リリルが語気を強めた。

「いくら陛下に頼まれましても、できません。私は、エルナリス国王から直々に厳命されております。セシリア様を、決して一人にしてはならないと」

「リリル……」
エリウスが、困ったように頭を下げた。「陛下、お願いします」

「まあまあ」
と レオナルド王が苦笑した。「では、リリルも一緒に来てよい。ただ、離れていなさい」

リリルはほっと息をついたが、その安堵もすぐに消えた。 エリウス様の後ろ姿が、あまりにも嬉しそうだったからだ。

リリルの胸は、荒波に揺れる小舟のように騒いだ。だが、この小舟は、まだ座礁していない。



レオナルド王は長い廊下を歩いた。
まるで迷路のような廊下。 やがて辿り着いたのは、宮殿の裏側にあるバルコニーだった。

彼が鍵を入れて扉を開くと、視界に広がったのは圧倒的な景色だった。遠くには天を突くような山々がそびえ、一番高い頂には白い雪が輝いている。
雲が流れ、男性的な山が見え隠れする。
現実とは思えない美しさだ。

「これが、」
レオナルド王が誇るように言った。
「私の、最も好きな景色です。今日、まだこの景色が見える時間に、あなたに見せたかった」

エリウスはバルコニーの手すりに手を置き、身を乗り出すようにして遠くを眺めた。

王がエリウスに近づき、その吐息がかかるほどの距離に立った。
「これからは、私の好きなものを、全部、あなたに見せたい」

「ありがとう」
夕陽が地平線に沈み、空が赤く染まった。

目の前の景色は柔らかな光に包まれ、バルコニーから見える草原は黄金色に輝いていた。

「これが、私の国ですよ」
「……美しい」
とエリウスが呟く。

「今日」
と王が微笑んだ。

「交渉の末、また新しい国が増えました。戦争をしないで、国が増えました」

「新しい国?」

「その国に、新しい名前をつけます」
王がエリウスを見つめる。

「セシリア国にしようと思っています。どうですか?」

「……それは、困ります」
と エリウスが首を振った。

「どうしてですか?」
「国の名前は……大切です」

「そうですか。気に入りませんでしたか」
王は眉を上げ、少し冗談めかした口調になった。
「あなたの名前だということもありますが、その響きがとても好きなのです。詩人のような名前だ」

「セシリアは、もともとは母上の名前です」

「お母上の?」

「はい。もう、亡くなりました」

「あなたはお母上を、ずいぶんと愛しておられたのでしょう」
「はい……とても」

「それなら、なおさら」
「でも、そんな名前に変えられたら、その国民の思いは……」
エリウスは王を見上げた。

「なるほど、喜んで下さるかと思いましたが、厳しいですね。一国の王女は、さすが、言うことが違います」
王は肩をすくめ、軽く笑った。

「では、セシリア、あなたの意見を聞かせてください。名前は、あなたが決めてください」

「でも、その国をもっと知らないと……」

「では」
レオナルド王はエリウスの手を取った。「そこにお連れします、近いうちに」

「はい」
エリウスの頬が、ほんのり染まった。

リリルは少し離れた場所から二人を見つめていたが、その胸はちくちく痛んだ。

「あなたの国エルナリスの景色も、美しいのでしょうね」
王が尋ねた。

「はい」

「どんなふうに?」

「……」
エリウスが助けを求めるような目でリリルを見た。長い説明はリリルの担当だ。

リリルは三歩前に出て、穏やかに語った。
「たとえば、春には木々にピンク色の花が咲き、夏は野原が紫の花で埋まります。冬になりますと、雪が降り、山も野原も真っ白になります。まるで絵本の中の景色です」

王は目を細めて微笑んだ。
「いつか、その景色を」

王がエリウスを見つめた。
「あなたと一緒に見てみたいものです」

「はい」
エリウスは小さく頷いた。

「約束ですよ」
王がエリウスの手を握った。

「セシリア、私はあなたといると、不思議と心が穏やかになります。こんな人に、今まで会ったことがない」
エリウスの顔がさっと赤くなり、リリルは視線をそらした。

「だから、戦争中なのに、あなたに会いたくなって、帰ってきてしまいました」
王が自嘲気味に笑った。「ひどい国王です」

「いいえ、優しいお方です」

「私が、優しい?」
王がはははと声を上げた。

「私は冷血国王と呼ばれる男だ。人を罰したり、死刑にしたりする噂を聞いたことがないのですか?」
王は少し冗談めかして言ったが、目は真剣だ。

「それは、」
と リリルが口を挟んだ。
「その噂は本当なのですか?」

「どう思いますか?」
王はリリルを見て、そしてエリウスを見た。

「セシリアは、どう思いますか?」
エリウスは黙って視線を伏せた。
「そのことは、あなた方が、判断してください」

これはチャンスかもしれない、とリリルがまた割って入った。
「つまり、陛下はこれまで、たくさんの方々と会われたということですね」

「そうですよ」

「結婚は、初めてですか?」

「いや」
王はさらりと答えた。「結婚は二度しました。二度、別れました。それはお伝えしてあります」

「二度もですか? 気に入らなくて、死刑にしたのですか?」

王は肯定も否定もせず、ただ笑った。 リリルはぞくりとして、背中に悪寒が走った。

「セシリア様は」
と リリルが声を絞り出した。「これまで会われた方々と、どこがどう違うのですか?」

王はしばらく考えた。
「その不器用さ……かな」

「不器用なところがよいのですか?何もできないところが、よいのですか」

「いや、言葉が悪かった。純粋さと言うべきでした」

王はエリウスの頬に手を添えた。
「言葉では言い表せない何かが、私を惹きつけてやまない」

リリルは唇を噛んだ。 さて、どうすればいいのか。

夕陽が沈んでいき、空は深い紺色に染まり、一番星が輝き始めた。 王とエリウスは並んで空を見上げ、王が優しく見つめると、エリウスが目を閉じた。

「セシリア」
王がエリウスにキスをした。
リリルは思わず目を逸らした。胸が痛い。

時間は刻一刻と過ぎていく。
セシリア様からの返事はまだ来ない。
エリウス様の心は、どんどん王に傾いていく。

リリルは涙目で星空を見上げた。
誰か、教えてください。私は、どうすればいいのですか。



王はしばらく黙った後、静かに口を開いた。
「愛しいセシリア、正直、最初はあなたとどう接すればいいかわからなかった」

その声が、夜の静けさの中で低く響いた。
「でも、今では、セシリア、あなたのことが」

リリルはさらに一歩前に出た。 王は「また君か」といった表情をしたが、リリルは気にしない。
「それでは、今はセシリア様のことがよくおわかりになったのですか?」

「いや」
と 王は首を振った。「そういうことではない。少しわかりかけた、というくらいです」

王はその目をエリウスから離さず、その肩を抱いていた手に力を込めた。

「静かですね、ここは。この静けさをどう感じていますか?」
王が囁くように尋ねる。

「ここは、落ち着きます」
とエリウスが小さく答えた。

「それは、よかった」
王は静かに微笑んだ。

エリウスが王を見上げた。
「陛下はなぜ、こんなに優しいのですか?」
王の目が驚きに見開かれた。王女が長いセンテンスを話してくれたことが嬉しかったのだ。

王の顔に、大きな笑顔が広がった。
「理由などありません。ただ、あなたがここで少しでも安らげることを願っているだけです」

「私は……」
エリウスは言葉を飲み込んだ。

「無理に話す必要はありませんよ」
王はエリウスの髪をそっと撫でた。

「陛下といると……」
エリウスが囁くように言った。「静かな時間が……心地よく感じられます」
そして、熱い瞳で王を見上げた。

リリルはその光景を見て、思わず爪を噛んだ。
非常にまずい。
これは、非常にまずい。

王の存在が、エリウスにとってどんどん特別なものになっていく。
王がエリウスに顔を近づけ、何かを囁こうとしたその時、 「ゴホン」 リリルがわざとらしく咳払いをした。

「あの、陛下」
リリルが笑顔で言った。
「夜も遅いですし、セシリア様もお疲れでしょうから、お部屋に戻られたほうが」

リリルはエリウスの傍まで来て、その腕を掴んだ。
「さあ、お部屋に戻りましょう」

「そうですね」
王は少し不満そうな顔をしたが、リリルの言葉に逆らわなかった。名残惜しそうにエリウスを見つめた。

「では、また明日」

「明日も、お忙しいのでは?新しい国がひとつ増えたのですよね」
リリルがすかさず言った。

「大丈夫ですよ」
王は微笑んだ。「時間は、作ります。明日も会えます」

えっ。
リリルの心の中で悲鳴が上がった。
大丈夫、ということは、つまり川遊びはできないということだ。
あんなに楽しみにしていたのに、リリルはまたも陛下にしてやられてしまったのだった。