二人は、馬車で町の大きな市場へと向かった。
市場に着くと、 御者には三時間後に迎えに来るようにと指示を出した。
馬車を降りると、エリウスが半信半疑といった表情で、目を凝らした。
「すごいな。僕はこういう場所には、来たことがない」
「エルナリス国で?」
「うん。王室の規則なんだ。僕は規則を破ったことがなかった」
「そんなの、つまらなくないですか?」
「うん。つまらないけど、王子は行ってはならないという規則だから。十八歳になったら、行けるんだよ」
エリウスが、少し寂しそうに笑った。
「姉上は子供の時から、よく行っていたけどね。姉上は、規則は破るものだって言っていた。僕には、そんな勇気がなかった」
「でも、エリウス様は、規則を破りたいとは思ってはいたのですか?」
「うん。それはね、やりたかった」
「じゃあ、今日は、やりたいことをやればいいんじゃないですか」
「そうだね。リリルと話していると、何でもできそうになるよ」
エリウスが、花が咲いたような笑顔で言った。
市場は朝の陽光で満ちていて、 露天の店先には新鮮な野菜や果物や香料が並んでいた。
人々の笑い声や、値段を交渉する声が響き渡り、活気と熱気があふれていた。
「僻地の国だと聞いていましたけど、こんな賑やかな場所は、エルナリス国にはなかったです。国が栄えているのがわかります」
とリリルが周囲を見回した。
「本当だね。ここには、いろんな顔の人がいる。外国からも、集まってきているんだね」
「はい。ほら、あそこにも、黒い肌の人や、褐色の肌の人。それに、見たことのない髪型の人もいますね」
「みんな、どこから来たんだろう?」
「黒い肌の人たちは、熱帯から。髪型の違う人たちは、温暖な気候の地域からでしょうか」
エリウスが、ふと立ち止まった。
「じゃあ、レオナルド陛下は、どこから来たと思う?」
「陛下ですか。陛下の髪は黒くて、顔は褐色で立体的。背も高い。いったい、どこからなのでしょうね」
「今度、直接、聞いてみようかな」
「でも」
とリリルが、慌てて言った。 「エリウス様、長い会話は危険ですから、気をつけてくださいね。お聞きになりたいことは、言ってください。この私が聞きますから」
「わかった」
二人は、市場の中を歩いた。 色とりどりの布、様々な香辛料の匂い、人々の忙しそうな姿。まるで、お祭りのようだった。
リリルは古着屋に立ち寄った。
「これを、ください」
リリルは二枚の男性用の農着を買った。
「それ、人が着古したものではないのかい」
とエリウスが、指摘した。
「それがいいんです」
「どうして?」
「いざ逃げなければならなくなった時のためですから」
リリルが、ちょっと得意げに笑った。
「女性の恰好で逃げるよりも、いいでしょう?」
「なるほど」
エリウスが、服を胸元に当ててみた。
その時、リリルは感心した。エリウス様ときたら、ボロ着でも似合ってしまうわ。
「ほら、あそこに見えるのは、新鮮な魚を売っているお店です」
リリルが、楽しそうに説明した。「あれは、今日の朝、捕れたばかりの魚ですよ」
「そうなのか」
エリウスは、生の魚を見たことがないような表情で、興味深そうに見ている。
「あちらの店では、香辛料が山みたいに積まれている。どんな料理に、使うのだろうか」
「あれはターメリックで、こちらはサフラン。ターメリックはカレーに、サフランはご飯に入れます」
「リリルはよく知っているね」
「そのくらいは。市場で働いていたことがありますし」
「リリルはこういう場所に慣れているけど、僕は人にぶつかってばかりだよ」
「それ、コツがあるんです」
リリルが、肩を少し前に出す恰好をした。
「こうやって、割り込んでいくんです。みんなが道を空けてくれるのを待っていたら、だめです」
「リリルは、市場で何をしていたの?」
「お餅を作って、売っていました」
リリルが、懐かしそうな目をした。「野草を集めて、それを混ぜたお餅を作って売りました」
「売れた?」
「まあまあ、ですね」
「どうして」
「砂糖をケチりました」
「どうして」
「砂糖が高いからですよ」
「砂糖は高いの?」
「エリウス様にしたら、安いかもしれません」
「それ、いくつの時?」
「十歳くらいからです」
とリリルが、さらりと答えた。「八歳の時に奉公先から逃げ出して、それからずっと一人で生きてきました」
「どうして逃げ出したの?」
「食べ物ももらえないし、それに、親方が何かと、暴力をふるうからです。だから、ある晩、逃げました」
「勇気あるね。それって、すごいことだよ、リリル」
エリウスが足を止めて、リリルを見つめた。
「ひとりになってからも、すごく大変なことが、あったのかい」
「それはありましたけど。でも、危険を感じたら、すぐに逃げるので大丈夫でした。だから、足が速いんですよ」
「リリルは、いろんな経験をしているんだね」
とエリウスが、空を見上げた。
「レオナルド陛下は、どんな人なんだろう。何をしてきた方なのだろうか」
自分のことを考えてくれたのかと思ったら、また、そこか。
リリルの胸が、ちくりと痛んだ。
「エリウス様は、陛下のことがそんなに気になるのですか?」
「そういうわけじゃないけど」
「気をつけなければなりませんよ。あの方は、経験が豊富です。誘惑の仕方も、よくご存じでしょうから」
「そうかな」
「エリウス様は、恋の経験がないので、陛下にしてみれば、エリウス様を夢中にさせるなんて、お手のものです」
「そうかな」
「ほら。あっという間に、署名をさせられてしまったじゃないですか」
「ああ、あれには、驚いたけど」
と言ってから、エリウスは侮辱されたような顔をした。
「僕は、恋の経験がないわけじゃないよ。恋をしたことがある」
「そうなんですか?いつですか?」
「五歳くらいの時だけどね」
リリルがほっとして、微笑んだ。なんて純粋で、可愛らしい王子なのだろうか。
「リリルは、どうなの?」
「私にはいますよ。憧れの方がいます」
「誰?」
「それは、秘密です」
「リリル」
エリウスが、不満そうな顔をして名を呼んだ。
「僕たちの間に、秘密はないはずだろう?」
僕たちの間、ですって。
リリルの胸が、高鳴った。いつ、そんなこと約束したのだろうか。でも、嬉しい。
「リリルが思う人って、どんな人?」
「とても素敵な方ですけど」
リリルは、少し頬を染めた。「ちょっと、世間のことをご存じなくて」
「それは、残念だね」
エリウスが慰めるように言った。
「でも、頭が悪いとか、そういうことじゃないんです」
「じゃ、なに」
「ただ、ものごとを知らないだけ」
「知らないでは、済まされないことがあるし、無知は危険だよね」
「はい」
リリルは、苦笑した。
エリウス様、そういうところが、世間を知らないところだと言うんですよ。
「リリルはそういう無知な人が好きなの?」
とエリウスが、不思議そうに言った。
「そういう人がじゃなくて、たまたまそういう人だったというか」
「僕は、リリルのこと、もっと知りたい」
「そうですか」
リリルの顔が、熱くなった。
「私は、エリウス様付きの女官になったばかりですし、こうして出かけるのも初めてです。まだ、お互いのことがよくわかっていませんよね」
「そうだね」
「私も、エリウス様のことが、もっと知りたいです」
「同じだ。僕たち、意見が合うね」
エリウスが、おもしろそうに笑った。
「なんだか、リリルとはずっと前から一緒にいる気がしていたけど、知り合ったばかりなんだよね」
「私のことは、少しずつ話していきますから、エリウス様も、自分のことを教えてくださいね」
「わかったよ」
楽しすぎる時間は、あっという間に過ぎていった。
「あそこに、迎えの馬車が来ている」
とエリウスが、残念そうに言った。
オレンジ色に染まる空の下、迎えの馬車がゆっくりと近づいてきた。
エリウスは名残惜しそうに市場を振り返り、それから、マントで顔を隠した。
「リリル、ありがとう。男の姿で町を歩けて、本当に楽しかった」
「どういたしまして」
リリルにとって、このエリウスとの三時間は、宝物になった。 彼と出会ってから、たくさんの宝物をもらったけれど、また大きいのが一つ、増えた。 私って、なんて幸運な女性なのだろう。
こんなことなら、もっと遅く迎えに来てもらえばよかったな。
でも、まだ明日がある。明後日も、ある。



