下級女官リリルの片思いと奔走


着替えを終えたエリウスが、ベッドに座った。

「リリル」
エリウスが、口の端だけ、わずかに持ち上げた。

「僕、結婚しちゃった」

「あれは、結婚ではありませんよ」
リリルは、何でもなかったかのように、平静な声を出した。

「そうなの?」

リリルは下級女官として宮廷に勤めて、エリウスの顔を見てとたん、恋に落ちてしまった。 その時は、エリウスがどんな人なのか、何も知らなかった。しかし、行動をともにしてみると、この王子は、想像以上に世間を知らない。

いや、世間知らずというより、純粋すぎるのだ。 城の外の世界を、ほとんど知らないのではないかと思う。

だからといって、嫌いになることなんかない。 すでに好きという感情が、思考の基盤になっているのだから、エリウス様の全てが愛おしく見えるのだ。

「あれはただの紙ですから、結婚ではありません」
リリルは精一杯、明るさを装って、空元気を出して笑顔を作った。

「紙だけで、済むだろうか」

「済むに決まっています」
リリルが、力強く言った。

「セシリア様が来られたら、すぐに交代していただきましょう。元の姿になって、さっさとお国に帰りましょう」

「でも、姉上が来なかったら?」

「その時は」
リリルが、腕を曲げて、走るふりをした。
「その時は、逃げましょう」

「どこへ」

「誰も、知らない所です」

エリウスは驚いた目をしたが、それから、少し笑った。

「リリルは、いつも明るくていいね」
リリルは無言で掛け布団をめくって、エリウスに、ベッドへ入るように促した。

「まだ、一週間ありますから」
リリルは、エリウスに布団をかけながら言った。

「私が、よい案を考えますから、エリウス様は安心してお休みください」
「ありがとう、リリル」

エリウスが目を閉じるのを見て、リリルはそばの蝋燭を消した。

暗闇の中で、リリルは心が見えなくて、よかったと思った。
もし今、誰かが私の心の中を覗いたとしたら、この心の中には、暴風雨に、地震に、津波が巻き起こっているのだから。



リリルは、この一週間を無駄にしたくなかった。
翌朝、すぐに手紙を書くことにした。アランのもとへ。そしてソフィラへ。
セシリアの行方を、何としても知りたい。

リリルはエリウスに紙を手渡した。
「アラン様への手紙をお願いできますか?」
リリルは、字は一応読めるが、文を組み立てるのは得意ではない。

「わかった」
と エリウスが、ペンを取った。

リリルが書きたい内容を伝えて、エリウスがそれを文章にした。 やはり、家庭教師がついていた王子には、学がある。文章が、美しい。これまで、何かと頼りない行動が多かったので、リリルはすごく嬉しかった。

女官仲間のソフィラへの手紙は、リリル自身が書いた。 そして、二通の手紙を、侍女に託した。
「これを、急いで届けてください」

あとは、待つだけだわ、とリリルは重荷を下ろしたかのように、長い息を吐いた。

「エリウス様、陛下が帰られるまでの一週間は、自由時間です」
とリリルが、明るい声で言った。

「自由時間?」
「はい。せっかく異国の地にいるのですから、何か特別なことをしてみませんか?」

「特別なことって?」
エリウスの目が、好奇心に満ちて輝いた。

「たとえば、男子の姿に戻って、町に行くとか」
「町?」
エリウスが、前のめりになった。

「市場なんかに行くというのは、どうでしょう?」

「そんなことが、できるの?」

「できます」
リリルが、にっこりと笑った。

「陛下から、なんでも頼んでいいと言われましたから、馬車を用意してもらいます。馬車の中では顔をマントで隠して。でも、馬車から降りたら、自由です。ここではエリウス様のことは、誰も知りませんから」

「それ、いい。リリルは、頭がいいね。女性のドレスや靴には、もう飽きたよ」

「でしょう。では、やりましょう」
リリルが腕を振り上げた。

「私が段取りしますから、エリウス様はメイクを落としてください」