翌日の夜のこと、
コン、コン。
扉をノックする音が響いた。
夜のノックは心臓に悪い。いや、昼でも、ノックの音には緊張するのだが。
リリルは、針仕事の手を止めた。
「はい」
扉を開くと、現れたのは、レオナルド・フィリス国王、その人だった。
また来たか。
リリルは心の中で、呆れ返った。陛下は、待つということを知らないお方だ。
「こんばんは」
レオナルド王が、穏やかに言った。
「お元気になったと聞きましたが、いかがですか?」
リリルはそんなことは誰にも言ってはいない。けれど、食事係やお花の取り替えなど、部屋には常に使用人が出入りしている。誰かが伝えてしまったのだろう。
「はい」
エリウスが、囁くように答えた。
「それはよかった」
レオナルド王が、柔らかく微笑んだ。
「食欲はありますか?」
「あ、はい」
「では、セシリア姫」
レオナルド王が、一歩近づいた。
「今夜は、特別な場所で食事をしましょう」
エリウスの肩が、わずかに強張った。
「それとも、またこちらへ、お運びさせましょうか?」
とレオナルド王が、手を差し伸べた。
「大丈夫です」
とエリウスが、立ち上がった。
「少し遠いですから、遠慮なさらず、どうぞ」
と王が両手を広げた。
エリウスは一瞬ためらったが、やがて王の腕に身を委ね、 レオナルド王が、軽々と抱き上げた。
また、これか。
リリルはその光景を見て、胸に苦しさがこみ上げた。
王はエリウスを抱いたまま、長い回廊を歩き出し、リリルはその後ろを、ぷりぷりしながらついていった。
*
王は、城内のある一室へと案内した。
家来が扉を開くと、リリルは息を呑んだ。
部屋は贅沢に装飾されていた。テーブルには、目を奪うような美しい料理が並んでいて、たくさんの蝋燭の光が、部屋の隅々まで柔らかに広がっていた。
「セシリア姫」
レオナルド王が、エリウスをそっと椅子に下ろした。
「あなたのために、特別に用意させました」
エリウスは黙って頷き、レオナルド王は、エリウスの向かいに座った。
「私は明日から、北部の方に行きます」
と王が、静かに言った。
それを聞いたリリルは微笑まずにはいれない。笑いを噛みしめて、「どのくらいでしょうか」と聞いてみた。
王はリリルを一瞬睨んだが、すぐにエリウスに顔を向けた。
「一週間ほど、城を空けます。それで、発つ前に……」
一週間。それだけあればなんとかなる、とリリルはほっとした。解決とは突然、降ってくると聞いたことがあるが、本当だ。
「出かける前に、あなたと、一緒に、夕食をしたかったのです」
「戦い……ですか」
エリウスが、か細い声で尋ねた。
「そうです。でも、すぐに戻りますから、心配なさらないでください」
エリウスは何も言わず、頷いた。
「では、いただきましょう」
王がグラスを手に取った。
リリルは部屋の隅に立って、二人を見守っていた。本当は、エリウスのすぐ後ろに立ちたかったのだが、王がこの離れた場所を指示したのだった。
レオナルド王の目が、エリウスから離れない。その眼差しは優しくて、何かかけがえのないものを見守るような光を帯びていた。
リリルは、胸の中がざわざわと騒ぐのを感じていた。
「どうですか?」
と王が尋ねた。
「おいしい……」
エリウスが、笑顔を作って答えた。
王子の笑顔は春に咲く小さな花のように愛らしく、レオナルド王が、それを見て微笑んだ。
これって、まずくない?
陛下はエリウス様を、いや、セシリア様を、本気で愛し始めているのではないかとリリルは不安になる。
「喜んでくれて、嬉しい」
王が、真剣な眼差しでエリウスを見つめていた。
エリウスが恥ずかしそうに目を上げると、そこには王の瞳があった。
「セシリア姫」
王が低い声で言った。
「あなたは、私をどう思っていますか?」
リリルは息を呑んだ。これは、どう答えても、危険な質問だ。
「尊敬……しています」
エリウスが、小さな声で答えた。
レオナルド王の表情が、わずかに曇った。やや寂しげな、そんな表情。
「尊敬か」
王が、自嘲するように笑った。
「それは、ある意味、残酷な言葉だな」
その言葉を聞いて、エリウスの顔が、苦しげに歪んだ。
「すみません」
「いや」 レオナルド王が、すぐに肩をすくめた。「謝ることではない」
それから、王はまっすぐエリウスを見つめた。
「セシリア姫。あなたは、私を嫌いですか?」
「いいえ」
「では、好きですか?」
リリルが、拳を握りしめた。エリウス様は、何と答えるのだろうか。
「……はい」
エリウスが、か細い声で答えた。
レオナルド王の目が、輝いた。
「よかった。では」
王が、懐から一枚の紙を取り出した。
「では、今夜、結婚しても、よろしいのですね」
えっ。
リリルは息を呑み、手を固く握め視線を落とし、王の言葉を反芻した。
今夜?
結婚?
エリウスの顔が、蒼白になったが、震える声で答えた。
「……はい」
ほかに、答えはなかったのだ。
レオナルド王が、一枚の紙をテーブルの上に置いた。
「ここに、署名をしてください」
と王は穏やかに言った。
「私は式や披露宴は好きではありません。ああいうものは、しなくてもよい。でも、あなたが望むなら、盛大にやりますが」
「いいえ……」
エリウスが、首を振った。
「今夜は二人の記念として、こうやって祝いたかったのです」
王が、優しく微笑んだ。
「……はい」
「嫌なら、無理強いはしません」
「……いいえ」
「本当に、よろしいのですか?」
「はい」
とエリウスが感情を押し殺したような声で答えた。
「あのう」
リリルが、思い切って口を開いた。
「結婚の署名には、証人……、二人の証人の署名が必要なのではないですか?」
レオナルド王が、リリルに一瞥をくれた。
「いりません」
王が、きっぱりと言った。「私は国王ですから、私が規則です」
リリルは口惜しいが、歯がゆい思いで立っているしかなかった。
レオナルド王が、ペンを取り出し、エリウスに渡した。 エリウスは、ペンの先をじっと見つめた。
やがて、エリウスはゆっくりとペンを動かした。
「エルナリス国第一王女セシリア」
その文字の上に、レオナルド王が署名をした。
二人の署名が、並んだ。
レオナルド王が立ち上がり、エリウスの側にやってきた。 エリウスが顔を向けると、王はエリウスの両頬を手で包んで、そっと唇を重ねた。
リリルは思わず目を逸らした。
キスは最初は優しく。それから、次第に、深く。熱く。
リリルの胸が、激しく波打った。
やがて王が唇を離した時、エリウスがよろめき、王が支えた。
「次のことは」 レオナルド王が、エリウスの耳元で囁いた。
「私が、遠征から帰ってきた時に」
「……はい」
リリルはぐっと奥歯を食いしばり、床に視線を落とした。
エリウス様、「はい」なんて返事をして、その意味がわかっているのだろうか。
レオナルド王は悦に入ったように微笑み、エリウスの手に、優しくキスをした。そして、またエリウスを抱え上げ、部屋まで連れて行った。
それから何度かのキスが続いた後、
「では、お休みなさい、私の愛しい妻」
と言って、王は出ていった。
ようやく扉が閉まると、しんとした空気が部屋に戻ってきた。 エリウスは、椅子に座ったまま、動かなかった。
「エリウス様……」
リリルが駆け寄ると、エリウスが、ゆっくりと顔を上げた。 その目には、涙が浮かんでいた。
「リリル……」
エリウスの声が、震えていた。
「僕、どうしたらいいんだろう……」
リリルは、何も言えず、彼を抱きしめることもできなかった。
偽りの結婚が、成立してしまった。
一週間後、王が戦場から戻ってきたら、本当の夜が、訪れる。
それまでに、何とかしなければ。でも、どうやって?
リリルの頭の中は、まだ空っぽだ。しかし、目の前には、一週間という時間がある。
いや、一週間しかないとも言える。
その間に、必ず、方法を見つけ出すのだ。



