下級女官リリルの片思いと奔走

「……会いたい」
窓辺に立つセシリア王女の吐息が、ガラスに白く広がって消えた。



外は嵐。雷鳴が轟くたびに窓枠が震え、暗闇に稲妻が走る。その冷たい光が王女の横顔を浮かび上がらせては消していく。

「会いたい……ああ、どうしてもアランに会いたい」
セシリアの震える声は、怒号のような嵐の音に呑み込まれた。

部屋の隅で、下級女官のリリルは針を動かしている。
今夜の王女の付き添いは二人。もう一人の年上の女官ソフィラは椅子で舟を漕いでいたが、リリルは起こさずに黙って針仕事を続けていた。

十六歳のリリルが王宮に雇われてから、まだ二か月しか経っていない。この裁縫の腕を生かして、ここまで辿り着いたのだ。
雨風をしのげる屋根、毎日の食事、衣服も、ここにはすべてがある。リリルにとっては夢のような仕事なので、みんなが嫌がる夜勤にも進んで手を挙げ、懸命に働いている。

そして、リリルはこの城で初めて「憧れ」というものを知ってしまった。
エリウス王子。
セシリア王女の弟、十六歳。
遥か遠い存在。
リリルは王子のことはちらりと見ただけだが、美しすぎて、名前すら口にできない。

*
「セシリア様」
王女があまりに悲しそうなので声をかけようとした瞬間、針が指先に深く刺さった。
「痛っ」
リリルは痛みには慣れている。血のにじむ指を口に含みながら、じっと王女を見つめた。
セシリアは振り返らず、ただ嵐の闇を睨みつけ、肩を震わせている。

そして、突如顔を上げた。
「私、決めたわ」
涙の跡を残した頬が、稲妻に照らされて鋭く光っている。

「リリル、行くわよ」

「どちらへですか?」

「エリウスのところ」

どきん。リリルの心臓が跳ねた。
その名前を聞いただけで、胸はじんじんと痛くなるのだ。

「急いで。燭台を持ってついてきなさい」
「は、はいっ」

「それに、そのドレスも」

ドレス?

セシリアが夜着のまま、裸足で部屋を飛び出した。金の髪が嵐の光に照らされ、逃げていく精霊のように見えた。
リリルは裁縫箱を放り出し、大きな燭台を掴み、王女の靴とピンクのドレスを持って追いかけた。
銀の燭台は重く両手で運ばなくてはならないから、靴はベルトに差し込み、ドレスは口にくわえた。

石造りの廊下は暗くて長い。風が窓を叩き、稲妻が走るたび影が踊る。
リリルの影が、壁に大きく伸びては縮んだ。



リリルは走るのが得意である。
八歳で奉公先を逃げ出してから、ずっとひとりで生きてきた。神社の軒下で暮らしたり、市場で働いていたこともある。追われて、隠れ、走ったからこそ無事に生き延びられたのだ。だから、少しくらい走ったって息が切れない。

王城東棟、三階の奥。エリウス王子の部屋の前に着いた時、リリルの胸は嵐よりも激しく暴れていた。
ここに、あの方がいる。

「エリウス」
セシリアはノックもせず扉を開け放った。

「エリウス、起きなさい」

「姉上……?」
暗闇の中、低く柔らかな声が聞こえた。

ああ、もうだめ。 リリルは彼の声を聞いただけで、膝が震えてしまった。

「リリル、何をしているの? 入りなさい」

「はい」

リリルが燭台を掲げて中に入ると、揺れる炎が寝台を照らし出した。
エリウス王子。乱れた黒髪。まだ半分眠っていて、焦点の合わないぼんやりした目。穏やかな表情。シャツの胸元が少し開いて、白い首筋が見えた。
美しい方というのは、どうしてこんなにも美しいのだろう。リリルは息が止まりそうだった。

「朝、ですか?」

エリウスがゆっくりと上体を起こした。
「婚礼の迎えが来ましたか?」

「違うわ、まだ夜よ」

セシリアの姿を見た瞬間、エリウスの目が見開かれた。
姉の顔には涙の跡。濡れた金髪。そして裸足。

「姉上、どうしたのですか。もしかして結婚が嫌で」

「違うわ、馬鹿ね」

セシリアは長い指で弟の額にかかった髪をそっと払った。
リリルは燭台を持ったまま、ただ立ち尽くしていた。

「エリウス……私、どうしてもアランに会いたいの」

エリウスの顔に困惑が走った。
リリルは息を殺して二人を見つめていた。燭台を持つ手は、止めようとしても恐ろしいほど震えてしまった。

「幼馴染の、あのアランですか?」

「そう、あのアラン」

雷鳴が城全体を揺らすように轟いた。
「どうして」

セシリアは大きく息を吸い込んだ。
「ただ会って、最後に、さよならを言いたいの」

その言葉は嵐の音に消えていったが、直立不動のリリルには、自分の心臓の音が聞こえていた。
窓の隙間から忍び込んだ微風が、炎を揺らした。