田邉くんの××がすごい!

 予選大会の日が訪れた。
土曜日に行われた県大会予選。
会場には大勢の選手や応援に訪れた人たちが集まり、熱気に包まれていた。プールサイドには塩素の匂いが漂い、ウォーミングアップをする選手たちの水しぶきが絶え間なく上がっている。

その中に、田邊の姿があった。

 俺と水野が何度止めても、田邊は首を縦には振らなかった。
このチャンスだけは逃したくない。
その強い意思が、田邊の瞳にははっきりと宿っていた。
普段は人に合わせることも多いのに、競泳のこととなると驚くほど頑固になる。俺たちの心配をよそに、田邊は出場を決めていた。
水野も競泳に出場している。

「無理してるようだったら、俺がすぐ棄権させるから」

 水野がそう言ってくれた。
同じ選手として一番近くで見ている水野なら、応援席にいる俺よりも異変に気づけるはずだ。
その言葉だけが、今の俺には救いだった。

 レーンには各校の実力者が並ぶ。
俺が見ても分かるくらい、どの選手も身体つきが違う。本気で県大会を目指してきた選手ばかりだった。

「できるなら……今後のためにも辞退してほしい」

 最後にもう一度だけそう伝えた。
けれど田邊は、小さく笑って首を横に振る。

「このチャンスだけは逃したくないんです」

 その言葉に、俺は何も返せなかった。
覚悟を決めた人間の目だった。
だからせめて、と願うように言葉を続ける。

「……無理だけは、本当にしないで」
「はい」

 短く返事をした田邊は、そのままスタート地点へ向かっていった。
予選はタイムレース形式で進み、田邊は順調に勝ち上がっていく。
そして、ついに最後のレース。
県大会への切符を懸けた一本を前に、短い休憩時間が設けられた。

「もうダメだってば!」

 控室から水野の大きな声が聞こえてきた。
嫌な予感がして、俺は慌てて駆け込む。
そこでは水野が、田邊を必死に止めていた。

 田邊の肩は、もう限界だった。
練習を休めと言われても休まず、痛みをごまかしながら泳ぎ続けてきた。その無理が、ここへきて一気に肩へ現れたのだろう。

「田邊! 無理したらダメだって! もう十分勝ち抜いてきたじゃないか!」

 俺も駆け寄って声をかける。
息を切らした田邊の身体から、水滴が鍛えられた筋肉を伝い落ちる。
肩にはまだ薄く痣が残り、その右腕をかばうように力なく下げている姿が、痛々しく見えた。

「大丈夫ですって」
「ダメだってば!」

 俺と水野の声が重なる。
次のレースを棄権すれば順位は十位以下。県大会への切符は、その瞬間に消えてしまう。

「これが最後のレースなんですよ!」

 田邊は一歩も引かなかった。

「それで人生棒に振ってほしくないから言ってるんだろ!」

 水野の声にも焦りが滲む。
肩を痛めたまま泳げば、競泳だけじゃない。飛込まで続けられなくなるかもしれない。
そう医者から言われているのに、田邊は聞く耳を持たなかった。
 ここまで積み重ねてきた努力も、この一レースに懸けてきた想いも、俺には痛いほど分かる。
ここで結果を残せば、親だって実力を認めてくれるかもしれない。
競泳を続ける未来も、自分の手で切り開けるかもしれない。
だから簡単に諦められないのだ。
そして──きっと田邊は、自分のためだけに意地を張っているわけじゃない。
俺が「自分のせいで怪我をした」と責め続けないように。
そんな優しさまで抱えていることが分かってしまって、胸の奥が苦しく熱くなった。

「それでも……俺はやめてほしい」

 そう告げると、田邊は苦しそうに目を伏せた。
その沈黙を破るように、水野が大きくため息をつく。

「啓介は頑固だからなぁ」

 呆れたように頭をかきながら、俺たちを見回した。

「……俺に一つ考えがあるんだけど」

 水野の提案は決して現実的なものではなかった。
それでも、田邊の覚悟と、俺たちの心配。そのどちらも無駄にしないための答えだった。
俺は、水野の提案がどれほど現実的なのか考える余裕もなかったが、田邊は静かに頷き、その案を受け入れたようだった。
 正しい判断だったのか、俺には分からない。
けれど、田邊が納得してくれたのなら、それを信じるしかなかった。

「先輩」

 会場へ向かう直前、不意に田邊が俺を呼んだ。

「ん?」

 振り返ると、さっきまでの張り詰めた表情とは違う、柔らかな笑みを浮かべている。

「終わったら、先輩の料理食べたい」

 その一言が、張りつめていた心をふっと緩めた。
きっと俺をこれ以上心配させないための気遣いなんだろう。
そんな優しさが嬉しくて、俺は思わず笑ってしまう。

「いくらでも! 好きなもの食べさせてあげる!」

 勢いよく答えると、田邊は「好きなもの、か」と小さく呟き、何かを思いついたように口元を緩めた。
そして、俺の耳元へ顔を寄せる。

「それって、"先輩"も入ってますか?」

 甘く囁かれた言葉の意味を理解するまで、一瞬間が空いた。
次の瞬間、全身の血が一気に駆け巡る。

「な、馬鹿言ってないで行ってこい!」

 思わず大声を張り上げると、控室にいた選手たちが一斉にこちらを振り向いた。
田邊は肩を揺らして笑う。

「じゃあ、行ってきます」

 そう言って軽く手を振ると、会場の入口へと歩き出した。
俺は熱を持った耳を押さえながら、その背中を見送る。

 どうか無事に帰ってきて。
その願いを胸に、田邊がレーンへ向かう姿を、いつまでも目で追い続けていた。