田邉くんの××がすごい!

 朝、田邊はいつもと変わらなかった。
昨夜はあんなことをしたというのに、本人は何事もなかったかのように歩いている。俺だけが、昨夜のキスを思い出しては胸の奥を騒がせていた。
そんなことを考えながら登校していると、田邊は先に教室へ向かっていった。
 朝日が窓ガラスに反射して眩しい廊下を歩いていると、不意に見慣れた顔がこちらへ駆け寄ってくる。

「あ、由良先輩だぁ!」

 水野だった。
田邊から「腹黒いから気をつけろ」と言われていたけれど、この人懐っこい笑顔からはとてもそんな印象は受けない。もしかしたら、田邊が冗談半分で言っていただけなのかもしれない。
そう思いながら、俺は笑顔を返した。

「ごめんね。俺、水野くんのお願いには応えられなかったな」
「お願い?」

 水野はきょとんと首を傾げた。
本当に忘れていたようで、俺が飛込の話をすると「あー、あれねぇ!」と手を叩いて笑った。

「啓介の家庭の事情を話すと、大体みんな同情して『飛込をやったほうがいい』って説得するんですよ。そうすると、啓介とケンカして、結局俺とだけ絡むようになるんです」

 さらりと口にした言葉に、俺は少しだけ引っかかった。

「だから今回は、それをちょっと見てみたくて」

 水野は悪びれもせず笑う。

「先輩のこと、啓介がすごく気に入ってるみたいだったから。どんな反応するのかなって、ちょっとからかいたくなっちゃって」

 笑っているはずなのに、その笑顔の奥だけが少し寂しそうだった。
その瞬間、胸の中で何かが繋がった。

――ああ。この子は、田邊が好きなんだ。

 だから今まで、田邊が自分のそばに戻ってくるよう仕向けていた。
飛込を勧めさせたのも、そのためだったのだ。
けれど今回は、思惑とは逆に、田邊は俺を選んだ。

「今回はなんだか、かなり深入りしてる感じ?」

 水野は困ったように肩をすくめる。

「もう啓介、先輩しか見えてないもんね」

 冗談めかした言い方だった。
だけど、その一言には、諦めにも似た響きが混じっていた。

「じゃ、先輩」

 軽く手を振って、水野は笑う。

「啓介のこと、よろしくね」

 それだけ言うと、水野は俺に背を向け、そのまま教室へ駆けていった。
俺はその背中を見送りながら、小さく息をつく。

水野の気持ちに気づいても、俺は田邊を諦めるなんて考えられなかった。

***

 朝の事もあるが、それを上回って昨日の出来事が頭から離れない。
俺は一日中、抜け殻みたいだった。

「先輩! 噴いてる!」

 ぼんやり鍋をかき混ぜていたせいで、煮立った鍋が火山みたいに吹きこぼれる。

「あっ!」

 慌てて火を止めた拍子に、立ち上る湯気が手首をかすめた。

「大丈夫ですか!?」
「だ、大丈夫……」

 そう答えたものの、有無を言わさず保健室へ連れて行かれた。

一日中ふわふわしている原因は分かっている。
昨日、田邊と交わしたキス。
思い出すたびに胸が熱くなって、何をしていても上の空になってしまう。
夢みたいな幸せが、まだ現実のことだと受け止めきれなかった。

 処置を終え、気づけば俺は競泳部の屋内プールへ足を運んでいた。
水泳強豪校であるこの学校には、屋外だけでなく屋内プールもある。
二階の見学スペースからガラス越しにプールを見下ろすと、青い水面が照明を反射してきらきらと揺れていた。

 水泳帽をかぶっているのに見つけられるだろうか。
そんな心配は、すぐに消えた。
広いプールの中でも、俺の目は真っ先に田邊を捉えていた。

 泳ぎ終えた田邊がプールサイドを歩いている。
鍛え上げられた肩や背中は想像以上に逞しく、無駄のない体つきだった。
その姿だけが、周囲とは違う空気をまとっているように見える。
見惚れるように眺めていると、不意に田邊が顔を上げた。

 目が合った。
気づいた田邊が、太陽みたいな笑顔を浮かべて大きく手を振る。
以外にも子供っぽいところのある田邊の姿に、ふっと笑みがこぼれた。
――その瞬間だった。
田邊の体が大きくぐらりと傾き、床へ叩きつけられるように横転した。

***

「だからって、酷いじゃないですか!」

 水野の怒鳴り声が部室に響いた。
病院で診察を終えた田邊は、肩を固定するバンドをつけたまま椅子に腰掛けている。窓の外では、プールの水面が夕日に照らされてきらきらと揺れていた。
さっきまで賑やかだった部室は、今では息苦しいほど重い空気に包まれている。
顧問立ち会いのもと、事故についての話し合いが行われていた。
原因は、正規部員の先輩たちの嫌がらせだ。

 仮入部という立場でありながら予選大会への出場を認められた田邊は、「親の力を使ったずるい選手」と陰口を叩かれていた。
俺に気づいて手を振った、その一瞬。
二、三年の部員がトレーニング用のボールを足元へ転がし、田邊はバランスを崩して床へ倒れ込んだ。
幸い頭は打たなかったものの、一歩間違えれば大事故だった。
一部始終を見ていた俺が顧問へ報告し、この話し合いの場が設けられたのだ。

「実力で勝負しろよ!」

 水野は二、三年生を睨みつけた。
親の力が関わっていると反感を抱く気持ちは、分からなくもない。
本気で競泳に打ち込んできた人たちからすれば、突然現れた田邊が目障りだったのだろう。
それでも、人を傷つけるやり方だけは間違っている。
水野の怒りは、もっともだった。

 顧問は深いため息をつくと、「処分については学校とも相談する。今日はもう解散だ」と静かに告げた。
二、三年生は気まずそうに部室を出ていき、扉が閉まる音だけがやけに大きく響く。
静まり返った部室には、俺と田邊そして水野の三人だけが残された。

「ごめんね……俺が見に行ったから」

 口にした途端、胸が苦しくなった。

俺があそこへ行かなければ。
田邊が俺に手を振ることも、転ぶこともなかったのかもしれない。
そんな後悔ばかりが頭を巡る。
病院で告げられた診断は全治二週間。
予選大会は、その前に始まってしまう。
打撲で済んだことに安堵する一方で、田邊から大切なチャンスを奪ってしまったような気がして、どうしようもなく苦しかった。

「先輩が悪いんじゃないでしょ」
「けど……!」

 二週間は安静にするよう言われたばかりなのに、田邊は困ったように笑う。

「これくらい、なんてことないし。泳げますよ」
「その肩で競泳なんて無理だよ。馬鹿じゃない?」

 すぐさま水野が声を荒らげた。

「打撲を甘く見るなって。今無理したら、選手生命に関わるかもしれないんだぞ」

 怒っているというより、必死に止めようとしている。その声からは、田邊を心配する気持ちが痛いほど伝わってきた。

「大体お前さぁ――」

 水野の説教はまだ続く。見た目によらず、口が悪いのには驚いた。
田邊は慣れた様子で、一度もそちらを見ようとせず、まっすぐ俺だけを見つめていた。

「先輩、心配しないで」

 その優しい声に、涙が込み上げる。

「けど、肩を壊したまま泳いだら、この先だって……」

 スポーツのことは詳しくない。
それでも、水野の話を聞けば、無理をすれば選手生命を左右するような怪我につながることくらいは分かった。
だからこそ、今度の予選だけは諦めてほしい。
そう願うしかなかった。

「ごめん……ごめんね」

 謝ることしかできない俺を見て、田邊は困ったように笑う。

「大丈夫。俺、諦めてないから。先輩は何も悪くない」

 そう言って、痛めていないほうの腕で俺をそっと引き寄せる。

「だから泣かないで」

 耳元で囁かれた瞬間、堪えていた涙が静かに頬を伝った。