田邉くんの××がすごい!

 田邊は心底軽蔑したような目を俺に向けた。

「田邊……ごめん。言い方を間違えた。俺は——」

 弁明しようとした、その時だった。
ブブッ、と再びスマホが震える。

「うるせぇ! 何度もかけてくんじゃねぇ、ババア!」

 田邊はスマホを床へ叩きつけるように投げた。
勢いよく跳ねたスマホはローテーブルにぶつかり、置いてあったマカロンを潰す。
どういう拍子だったのか、通話が繋がった。

『啓介! 本当に飛込をやらないつもりなの!? 勉強もできないのに、飛込までやめたら、あなた何が取り柄になるっていうのよ!』

 部屋中に響いた女の声に、思わず息を呑む。
母親だった。
息子へ向ける言葉とは思えないほど冷たく、鋭かった。

『あなたは飛込ができるから推薦で高校に入れたのよ! あなたの成績じゃ、どこの高校も無理だって言われて、あたしがどんだけ頭を下げてそこに推薦してもらったと思ってるの! これ以上、恥をかかせないでちょうだい!』

 水野が言っていた。
田邊は幼い頃から、飛込の才能を期待されて育ってきたこと。
飛込をしている時だけは、母親が優しかったこと。
だからこそ、そのわずかな優しさに縋るように、田邊は飛込を続けてきたのだと。

――あれは、大げさな話なんかじゃなかった。

目の前で、その現実を突きつけられていた。

 怒りに震えているような、怯えたような、複雑な表情が、先ほどまでの俺に向けた威圧感をすっかり消していた。
母親という存在が、それほどまでに田邊を縛っているのだと、胸の奥がジュクッと痛む。

「啓介、聞いてるの!?」

 スマホ越しに響く荒い口調に、俺の堪忍袋の緒が切れた。

「ちょっと、おばさん! 何てこと言うんですか!」

 思わずスマホに向かって声を張り上げる。

「その言葉、自分の子に選びますか普通」

 言葉が止まらなかった。
そうだ――こうして頼まれてもいない説教を始めるから、俺は昔嫌われたのだ。
料理ができるからとか、片づけにうるさいとか、そんな細かいことは誰も気に留めなかった。
俺はお節介で口を挟みやすいから、大人しい自分を作り上げてきたというのに――。
それでも、止められなかった。
この人の言葉だけは、どうしても許せなかった。

『あなた誰なの?』
「同室の由良です。そもそも――」
『あなたに関係ある? うちの子は飛込に人生を懸けてきたのよ!』
「懸けさせてきた、の間違いじゃないですか?」

 思わず言い返す。

「田邊は飛込じゃなくて競泳が好きなんですよ。そんなことも知らないんですか?」
『え? 競泳? 今さら始めたって遅いわよ。競泳こそ狭き門なの。だから飛込を——』
「息子さんが高所恐怖症なのも知らないなんて、変わった親ですね」

「は?」

 今度は田邊が、はっきりと驚いた声を上げた。

「先輩、何言って——」
「お前は黙って」

 田邊を制しながら、俺はスマホへ向き直る。

『高所恐怖症なんて聞いてないわよ』
「言えないんですよ。母親との唯一の繋がりを壊したくなかったから」

 もちろん嘘だ。
その場で、俺がでっち上げた話にすぎない。
それでも、口にした瞬間に引き返せなくなっていた。

「それでも無理やり飛込を続けさせるなら、親としてどうなのか、世間にも知ってもらうことになりますけど」

 しばらく、沈黙が落ちた。
やがて母親は、大きく息を吐く。

『……分かったわ。でも、嫌でもやらなきゃいけないことはあるの』
「それでも飛込をやらせるんですか?」
『そうじゃないわ』

 少しだけ、声の調子が変わる。

『そんなに競泳をやりたいなら、夏の大会で予選を突破しなさい。それができたら競泳を認めるわ。学校にも私から話をする』

 条件付きだった。

『でも、突破できなかったら飛込に戻ること。それが約束よ』

 できるわけがない。という口ぶりだった。
俺は水泳に関しては全くの無知で素人だが、なぜか田邊ならやり遂げれると確信を持っていた。

「大会で結果を出したら、諦めるんですね?」
『……ええ』
「約束ですよ」
『分かったから! 本当にあなた、うるさいわね!』

 その一言を最後に、俺は通話を切った。
ふぅ、と大きく息を吐く。
ようやく高ぶっていた気持ちが落ち着いてきたところで、恐る恐る田邊へ目を向けた。
田邊は呆然としたまま、俺を見つめていた。

 ぷっと、田邉の口元が緩んだ。

「なんすか、先輩、今の。俺、高いところ平気だし」

 そう言った次の瞬間、堪えきれなくなったように吹き出した。

「あははっ……!」

 肩を震わせ、腹を抱えて笑っている。
こんなふうに笑う田邉を見るのは初めてだった。

「ご、ごめん! その……とっさに思いついたのが、それしかなくて……」

 しどろもどろに弁解する俺を見て、田邉はますます笑い声を大きくした。

「先輩、無茶苦茶すぎる」

 笑いすぎて目尻に涙まで浮かべている。
さっきまで部屋を満たしていた重苦しい空気は、いつの間にか跡形もなく消えていた。

「競泳、好きなの分かってたんですか」
「だって田邉、競泳の分析動画見てたから」
「ああね、バレてたか」

 照れくさそうに笑う田邉を見て、胸の奥が少しだけ軽くなる。

「水泳好きなんでしょ? やめる必要ないよ! お母さんの言質とったし!」
「大会ね……水野から聞いたら、あと一か月後に予選ですけどね」
「え……」

 思わず声が裏返る。

「先輩からお菓子もらってて、減量もしなきゃだし」
「ええ⁉」

 驚く俺を見て、田邉は袋の中で崩れてしまったマカロンをひとつ摘まみ上げた。

「でも、これはもらいます」
「待って! もしかして田邉が食堂でご飯食べないのって、体重管理?」
「そうですね」

 あっさり肯定されて、俺は目を瞬かせる。

「俺、お母さんの話されるから嫌で出てこないのかと思ってた」
「まあ、それも間違いではないですけど」

 どうやら俺は、盛大な勘違いをしていたらしい。

「俺のせいで、体重増えたり?」
「お菓子は冗談ですよ。オフシーズンで増えてただけで、でも今は減量中です」

 やってしまった。
全部、俺の早とちりだった。
ということは――。

「あのさ、水野くんのこと、どう思ってる?」
「え? 優希? あー……あいつ口軽いから……変なこと聞いてないかなって思う程度ですね。幼馴染だって言って、俺の黒歴史を勝手に語るんですよなんか恥ずかしいこと言われたのかと思いましたけど」

 さっき水野の話を出した時、頬を赤らめたように思えたのは、自分の過去を知られたかもしれないという羞恥だったのか。と、気づく。

「好きとか、そういう感情は?」
「え? ないですよ。何言ってんですか」

 これも勘違いだった。
ほっと胸を撫で下ろした、その瞬間。
――なんで、俺は安心してるんだ?
胸の奥が小さく騒ぐ。
その違和感の正体に、まだ俺は気づいていなかった。

「優希から、母さんと折り合いが悪いって聞いたんでしょ、先輩」
「う……」

 俺は否定できなかった。

「それは本当です。まあ優希は盛って話してるでしょうけど……」

 田邊が悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「だから、さっき先輩が言ってくれたこと、すんげぇスッキリしました」

 そう言って笑う田邉の表情は、どこか吹っ切れたように見えた。

「けど、なんで先輩、飛込をやれなんて言ったんですか?」
「……水野くんが必死にいうからなんか、色々聞いてそれで……」
「あいつ、俺が嫌がってるのを、面白がってるだけですよ」
「ええ?!」

 思わず素っ頓狂な声が出た。

「先輩、優希はね、見た目によらず腹黒ですから。気をつけてくださいね」

 どうやら俺は、騙されていたらしい。
けれど、水野に踊らされていなければ、田邉の本音を聞くことも、自分の気持ちに気づくこともなかった。
そう思うと、不思議と腹は立たなかった。