田邊は、水泳が嫌いだと言っていた。
親に敷かれたレールを、ただ歩いているだけだとでも言うように。
けれど、俺にはどうしてもそうは思えなかった。
あの日、眠っていた田邊のスマホに映っていたのは、競泳の分析動画だった。
母親がやっていた飛び込みの映像なら、仕方なく見ていると言い訳もできる。けれど、わざわざ競泳を分析するだろうか。
ダイビング部に入るのかと聞いた時も、田邊は迷いなく首を横に振った。
だったら、嫌いなのは水泳そのものじゃない。本当は飛込ではなく、競泳がしたいだけなんじゃないか。
そんな考えが、頭の中から離れなかった。
放課後、家庭科部で使うお菓子作りの材料を発泡スチロールの箱に詰め、廊下を歩いていると、少し先に田邊の姿が見えた。
リュックを背負い、気怠そうに歩くその背中は、相変わらず野良猫のようだった。誰とも群れようとしない空気も、いかにも田邊らしい。
「あの田邊選手の息子さ、全然愛想ねぇーの」
そんな声が耳に入る。
学校では、確かにそう見えるのだろう。
けれど寮では違う。表情は豊かだし、俺には秘密まで打ち明けてくれた。
有名人の息子として見られるのが嫌で、学校ではわざと壁を作っているだけなのかもしれない。
そう思うと、自分には少しだけ心を許してくれている気がして、胸の奥がくすぐったくなった。
田邊に声をかけようとした、その時だった。
「啓介!」
そう呼びながら、小柄な男子生徒が勢いよく田邊に抱きついた。
「優希」
田邉の顔が緩んだのが解る。
あんなに優しい顔を俺は知らない。
***
モヤモヤした気持ちを抱えたまま、俺は家庭科部で泡立て器を動かしていた。
カシャカシャと音だけが響く。無心で混ぜ続けているうちに、気づけばメレンゲはとっくに泡立ち切っていた。
「由良先輩~! 一年生が呼んでますよ~」
部員の女子に声をかけられ、俺は手を止める。
一年生に呼ばれるなんて、田邊くらいしか思い浮かばない。そう思って指さされた方へ視線を向けると、そこに立っていたのは関りのない男子生徒だった。
エプロンを外して、俺はその子の方へ向かう。
――さっき、田邊に抱きついていた子だ。
そう思っただけで、胸が小さく痛んだ。
「一年の水野優希です。先輩にお願いがあって来ました」
ぺこりと頭を下げると、水野は間を置かず本題を切り出した。
「啓介をダイビング部に入るよう説得してほしいんです。同じ部屋なんですよね?」
啓介と親しげに下の名前で呼ぶ声に、胸の靄がまた少し広がる。
けれど、それ以上に引っかかったのは、その頼みだった。
本人が嫌がっていることを、俺から勧めるつもりはない。そう思って、断ろうと口を開きかける。
「啓介、全国を狙えるくらいすごい実力なんです! でも、まだ入部届を出してくれなくて。さっきもお願いしたんですけど、『考えとく』って、それだけで……」
必死に言葉を重ねる水野の髪は、塩素で傷んだのか毛先がふわふわと広がっていた。
しょんぼりと肩を落とす姿は、雨に濡れた小型犬みたいで、俺は思わず胸が痛くなった。
聞けば、田邊は飛び込みの才能を高く評価されているらしい。母親譲りのセンスを持ちで、全国でも十分通用すると期待される選手だという。
それなのに最近になって突然、水泳を辞めると言い出したそうだ。
幼い頃から田邊と兄弟のように育ってきた水野は、田邊の母親から「説得してほしい」と頼まれているらしい。
親子の関係はかなりこじれていて、このままでは取り返しがつかなくなるかもしれない。そんな不安を、水野は隠そうともしなかった。
「親子なんだから、そんな簡単に縁が切れることなんてないでしょ」
俺がそう言うと、水野は首を強く横に振った。
「違うんです。啓介の家は、普通の家庭じゃないから」
その言葉には妙な重みがあった。
俺は軽く考えてはいけない気がして、改めて事情を聞くことにした。
***
寮へ戻ると、田邊のスペースは相変わらず散らかっていた。制服はしわになりそうなほど無造作に脱ぎ捨てられ、教科書も机の上へ適当に積まれている。
ベッドでは田邊が目を閉じて横になっていた。また狸寝入りだろうか。けれど、本当に眠っている時の田邊は決まってうつ伏せになる。そんな癖を、いつの間にか俺は覚えてしまっていた。
ふと、部屋の隅に置かれたスポーツバッグへ目がいった。
水泳選手なら誰もが知るブランドのロゴがはっきりと入っている。
やっぱり、水泳そのものが嫌いなわけじゃない。
制服も教科書も雑に放り出しているのに、そのバッグだけはきちんと壁際に丁寧に置かれていた。
俺はどう切り出そうか迷いながら、部活で作ったマカロンをローテーブルへ置く。
「これ、食べて」
その一言で、田邊がゆっくり目を開けた。
その時だった。
ブブッ、とスマホが震える。
画面には『母親』の二文字。
けれど田邊は横目で見ただけで、手を伸ばそうともしない。
鳴り止んでは、また震える。その繰り返しだった。
「出なくていいの?」
「……いい」
短く返した田邊は、それ以上話すつもりはないというように視線を落とした。
重たい沈黙が二人の間に流れる。
俺は小さく息を吸い、意を決して口を開いた。
「今日、水野くんに会ったんだ」
「優希に?」
少しだけ表情が動く。
「うん。幼馴染なんだね」
「あぁ……そんなとこです」
歯切れの悪い返事とともに、田邊の頬がわずかに赤くなる。
その照れたような表情は、幼馴染という言葉だけでは説明がつかない気がした。
胸の奥に小さな引っ掛かりを覚えながら、俺はその違和感を振り払うように本題を切り出した。
「……ダイビング部、入らないの?」
「は?」
「水野くんがね、田邊はすごい選手なんだって。全国を狙えるくらいだって、自慢してた」
家庭の事情を聞いたことは言えなかった。
だから、水野の言葉を借りた。
「……入りません」
「でも、才能があるなら一度くらい——」
「優希に何言われたんですか」
低い声だった。
「え? 何も……」
動揺が声に出た。
自分でも、隠せていないと分かる。
「……もったいないと思っただけだよ。せっかく有名なお母さんもいるんだから」
口にした瞬間、しまったと思った。
それは、田邊が一番聞きたくない言葉だろう。
わかっていたのに、とっさに出てしまったものはもう取り返しがつかなかった。
「先輩も……みんなと同じこと言うんだ」
苦しそうに歪んだその表情に、胸がぎゅっと締めつけられる。
「田邊——」
思わず手を伸ばした、その瞬間。
「うぜぇんだよ!」
鋭く吐き捨てられると同時に、伸ばした手は勢いよく振り払われた。
痺れるように痛む手よりも、胸の痛みの方がずっと強かった。
親に敷かれたレールを、ただ歩いているだけだとでも言うように。
けれど、俺にはどうしてもそうは思えなかった。
あの日、眠っていた田邊のスマホに映っていたのは、競泳の分析動画だった。
母親がやっていた飛び込みの映像なら、仕方なく見ていると言い訳もできる。けれど、わざわざ競泳を分析するだろうか。
ダイビング部に入るのかと聞いた時も、田邊は迷いなく首を横に振った。
だったら、嫌いなのは水泳そのものじゃない。本当は飛込ではなく、競泳がしたいだけなんじゃないか。
そんな考えが、頭の中から離れなかった。
放課後、家庭科部で使うお菓子作りの材料を発泡スチロールの箱に詰め、廊下を歩いていると、少し先に田邊の姿が見えた。
リュックを背負い、気怠そうに歩くその背中は、相変わらず野良猫のようだった。誰とも群れようとしない空気も、いかにも田邊らしい。
「あの田邊選手の息子さ、全然愛想ねぇーの」
そんな声が耳に入る。
学校では、確かにそう見えるのだろう。
けれど寮では違う。表情は豊かだし、俺には秘密まで打ち明けてくれた。
有名人の息子として見られるのが嫌で、学校ではわざと壁を作っているだけなのかもしれない。
そう思うと、自分には少しだけ心を許してくれている気がして、胸の奥がくすぐったくなった。
田邊に声をかけようとした、その時だった。
「啓介!」
そう呼びながら、小柄な男子生徒が勢いよく田邊に抱きついた。
「優希」
田邉の顔が緩んだのが解る。
あんなに優しい顔を俺は知らない。
***
モヤモヤした気持ちを抱えたまま、俺は家庭科部で泡立て器を動かしていた。
カシャカシャと音だけが響く。無心で混ぜ続けているうちに、気づけばメレンゲはとっくに泡立ち切っていた。
「由良先輩~! 一年生が呼んでますよ~」
部員の女子に声をかけられ、俺は手を止める。
一年生に呼ばれるなんて、田邊くらいしか思い浮かばない。そう思って指さされた方へ視線を向けると、そこに立っていたのは関りのない男子生徒だった。
エプロンを外して、俺はその子の方へ向かう。
――さっき、田邊に抱きついていた子だ。
そう思っただけで、胸が小さく痛んだ。
「一年の水野優希です。先輩にお願いがあって来ました」
ぺこりと頭を下げると、水野は間を置かず本題を切り出した。
「啓介をダイビング部に入るよう説得してほしいんです。同じ部屋なんですよね?」
啓介と親しげに下の名前で呼ぶ声に、胸の靄がまた少し広がる。
けれど、それ以上に引っかかったのは、その頼みだった。
本人が嫌がっていることを、俺から勧めるつもりはない。そう思って、断ろうと口を開きかける。
「啓介、全国を狙えるくらいすごい実力なんです! でも、まだ入部届を出してくれなくて。さっきもお願いしたんですけど、『考えとく』って、それだけで……」
必死に言葉を重ねる水野の髪は、塩素で傷んだのか毛先がふわふわと広がっていた。
しょんぼりと肩を落とす姿は、雨に濡れた小型犬みたいで、俺は思わず胸が痛くなった。
聞けば、田邊は飛び込みの才能を高く評価されているらしい。母親譲りのセンスを持ちで、全国でも十分通用すると期待される選手だという。
それなのに最近になって突然、水泳を辞めると言い出したそうだ。
幼い頃から田邊と兄弟のように育ってきた水野は、田邊の母親から「説得してほしい」と頼まれているらしい。
親子の関係はかなりこじれていて、このままでは取り返しがつかなくなるかもしれない。そんな不安を、水野は隠そうともしなかった。
「親子なんだから、そんな簡単に縁が切れることなんてないでしょ」
俺がそう言うと、水野は首を強く横に振った。
「違うんです。啓介の家は、普通の家庭じゃないから」
その言葉には妙な重みがあった。
俺は軽く考えてはいけない気がして、改めて事情を聞くことにした。
***
寮へ戻ると、田邊のスペースは相変わらず散らかっていた。制服はしわになりそうなほど無造作に脱ぎ捨てられ、教科書も机の上へ適当に積まれている。
ベッドでは田邊が目を閉じて横になっていた。また狸寝入りだろうか。けれど、本当に眠っている時の田邊は決まってうつ伏せになる。そんな癖を、いつの間にか俺は覚えてしまっていた。
ふと、部屋の隅に置かれたスポーツバッグへ目がいった。
水泳選手なら誰もが知るブランドのロゴがはっきりと入っている。
やっぱり、水泳そのものが嫌いなわけじゃない。
制服も教科書も雑に放り出しているのに、そのバッグだけはきちんと壁際に丁寧に置かれていた。
俺はどう切り出そうか迷いながら、部活で作ったマカロンをローテーブルへ置く。
「これ、食べて」
その一言で、田邊がゆっくり目を開けた。
その時だった。
ブブッ、とスマホが震える。
画面には『母親』の二文字。
けれど田邊は横目で見ただけで、手を伸ばそうともしない。
鳴り止んでは、また震える。その繰り返しだった。
「出なくていいの?」
「……いい」
短く返した田邊は、それ以上話すつもりはないというように視線を落とした。
重たい沈黙が二人の間に流れる。
俺は小さく息を吸い、意を決して口を開いた。
「今日、水野くんに会ったんだ」
「優希に?」
少しだけ表情が動く。
「うん。幼馴染なんだね」
「あぁ……そんなとこです」
歯切れの悪い返事とともに、田邊の頬がわずかに赤くなる。
その照れたような表情は、幼馴染という言葉だけでは説明がつかない気がした。
胸の奥に小さな引っ掛かりを覚えながら、俺はその違和感を振り払うように本題を切り出した。
「……ダイビング部、入らないの?」
「は?」
「水野くんがね、田邊はすごい選手なんだって。全国を狙えるくらいだって、自慢してた」
家庭の事情を聞いたことは言えなかった。
だから、水野の言葉を借りた。
「……入りません」
「でも、才能があるなら一度くらい——」
「優希に何言われたんですか」
低い声だった。
「え? 何も……」
動揺が声に出た。
自分でも、隠せていないと分かる。
「……もったいないと思っただけだよ。せっかく有名なお母さんもいるんだから」
口にした瞬間、しまったと思った。
それは、田邊が一番聞きたくない言葉だろう。
わかっていたのに、とっさに出てしまったものはもう取り返しがつかなかった。
「先輩も……みんなと同じこと言うんだ」
苦しそうに歪んだその表情に、胸がぎゅっと締めつけられる。
「田邊——」
思わず手を伸ばした、その瞬間。
「うぜぇんだよ!」
鋭く吐き捨てられると同時に、伸ばした手は勢いよく振り払われた。
痺れるように痛む手よりも、胸の痛みの方がずっと強かった。



