入学式が終わった夜の寮では、有名人に会えたという興奮の声が絶えなかった。
俺は田邊の母親がどれほど凄い選手だったのか知らないし、水泳のこともさっぱり分からない。
けれど、水泳競技の名門であるこの高校では、その存在は特別らしかった。
だからだろうか。寮内にはいつも以上に騒がしい声が飛び交っている。
食堂で入学祝いのトンカツを箸でつつく。
揚げたてらしい衣はサクッと音を立てたはずなのに、周囲の喧騒にかき消されてしまった。
田邊の姿はない。
元から部屋から出ようとしない田邉。食事の時間だっていつも居ない。部屋で一人コンビニのおにぎりを食べたのであろう痕跡だけがいつもあった。
なんとなく、母親のことをあれこれ聞かれるのが嫌で、人を避けているのではないかと思った。
勝手な想像だとは分かっている。
それでも、昼間に見たあの背中が頭から離れなかった。
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
食欲が湧かなくなるほどに、俺は田邊のことが気になっていた。
食べきれなかったトンカツを欲しがる寮生に分けると、俺は早々に食堂を後にした。
あの背中がどうしても気になったのだ。
急いで部屋へ戻る。
けれど扉だけは静かに開けた。
まだ日が落ちきらない薄暗い部屋で、田邊はベッドに横になっていた。
窓の外では風に揺れた木々がさらさらと葉を鳴らしている。
かつて一人で使っていた部屋には、見慣れない制服と無造作に積まれた教科書があった。
床にはスポーツバッグが転がり、椅子の背にはジャージが引っ掛けられている。
どれも田邊のものだ。
生活感の薄かった部屋は、いつの間にか二人分の空間になっていた。
田邊の様子を窺うと、ただ目を閉じているだけではなく、本当に眠っているようだった。
力の抜けた身体が、それを物語っている。
ベッドの上でイヤホンを耳に差し、すうすうと寝息を立てている。
ふと視線を落とすと、手元のスマホがまだ明るく光っていた。
画面に映っていたのは、競泳の分析動画のようだった。
まだ点いたままのスマホを見て、画面を閉じる横のボタンだけでも押しておこうと手を伸ばした、その時だった。
「わっ!」
不意に腕を掴まれ、俺はバランスを崩した。
そのままベッドへ倒れ込む。
ふわりと柔軟剤の香りが鼻先をかすめた。
洗いたてのシーツと、田邊の体温が混ざったような香りだった。
どうやら夢の中でトレーニングでもしているらしい。
田邊は俺の腕を掴んだまま、確かめるように何度も握っている。
気づけば顔がすぐ近くにあった。
色白の肌も、整った輪郭も、薄い唇もはっきり見える。
心臓がやけにうるさい。
熱が頬へ集まっていくのが自分でもわかった。
恥ずかしいはずなのに、俺はその顔から目を離せなかった。
「あ……れ……先輩」
掠れた声が耳元をくすぐる。
ゆっくりと開かれた瞳は、吸い込まれそうなほど綺麗な黒だった。
じっと見つめているうちに、田邊の意識も少しずつ浮上してきたらしい。
半分閉じかけていた瞳がゆっくりと開き、焦点が俺を捉える。
「何してんですか、先輩」
眉間に皺を寄せてこちらを見る田邊は、自分が俺を引き寄せたという自覚などまるでないようだった。
「田邊に引っ張られたんだよ。寝ぼけてたみたい」
苦笑しながら身を起こそうとする。
けれど、田邊の手はまだ俺の腕をしっかりと握ったままだった。
ぐぅ――。
田邊の腹が、遠慮がちに鳴った。
夕食を食べていないのだから当然だ。
この時間なら食堂は片づけの最中だろう。田邊の分も、もう残ってはいない。
「ちょっと待ってて」
俺は困ったように笑うと、部屋の隅に置いた小さな冷蔵庫へ向かった。
冷凍室から小ぶりなタッパーを三つ取り出す。
表面はすぐに白く曇り、冷気をまとった。
少し前に寮の厨房を借りて密かに作り置きしておいた煮物だ。
「煮物、食べられる?」
そう尋ねると、田邊は不思議そうな顔をしながらも小さく頷いた。
「これ、俺が作ったやつ。みんなには内緒ね」
冷凍ごはんとタッパ--を抱えて部屋を出る。
数分後、温め直したそれをトレーに載せて戻ってきた。
熱くて素手では持てず、急いで運んだせいで少しだけ器が寄っている。
ローテーブルに並べて蓋を開けると、艶やかな白いご飯と、筑前煮、ひじきの煮物から湯気がふわりと立ちのぼった。
「これ、食っていいすか?」
「いいよ。そのために温めてきたんだから」
思わず笑みがこぼれる。
田邊は少し驚いたような顔をすると、箸を手に取った。
まずは筑前煮を一口。
「……うま」
ぽつりと漏れた一言に、思わず頬が緩む。
田邊は夢中になって箸を進め、あっという間に平らげた。
箸の持ち方もきれいで、食べ終えたタッパーにはほとんど何も残っていない。
よほどおいしかったのだろう。
その食べっぷりを見ているだけで、なんだか嬉しくなった。
「ごちそうさまでした」
きちんと手を合わせる姿は、不良じみた見た目からは想像もつかないほど丁寧だった。
「お粗末さまでした」
俺は笑ってタッパーを重ねる。
「先輩、お菓子以外も作るんですね」
「まあ、一応家庭科部だからね」
そう言って笑ってみせる。
本当は、お菓子よりもこういう料理を作る方が好きだ。
けれど、それを口にする気にはなれなかった。
あの頃の記憶が、また足音を立てて近づいてくる気がしたから。
「ひじき、めっちゃ美味かった」
「そう? よかった」
「これが、懐かしい味ってやつ?」
その一言に、胸がひやりとした。
この先に続く言葉を、俺は知っている気がした。
「あ、これ、洗ってくるね」
タッパを手に取ると、逃げるように部屋を出た。
***
部屋に戻ると、田邊はまたベッドに寝転がっていた。
「食べてすぐ寝ると、牛になるよ」
「なんすか、それ」
本当に知らないというように首を傾げる。
「昔からある迷信」
「へぇ」
興味があるのかないのか、よく分からない返事だった。
俺は床に置きっぱなしの教科書を机へ運び、椅子に掛けられた制服をハンガーに掛ける。
「先輩って……」
呼ばれて、はっと手が止まった。
また無意識に世話を焼いていた。
頭の先から血の気が引いていく。
――しまった。
聞きたくない言葉を覚悟した、その時だった。
「奥さんみてぇ」
思いもよらない一言が、静かな部屋に落ちた。
「え? 何それ? 普通は『おかんみたい』って言わない?」
思わず口を滑らせてしまった。
けれど、田邊は首を傾げる。
「あー……俺、母親ってどんなもんか、よく分かんないんで」
「え?」
「親、二人とも有名人だから、ほとんど家にいなくて。飯はレトルトか出前だし、掃除は業者任せだったし」
淡々と話している。
けれど、その声の奥には諦めのようなものが滲んでいた。
「じゃあ、さっき言ってた『懐かしい味』って……?」
「これが、そういう味なのかなって思っただけです」
少し照れくさそうに笑う田邊を見て、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「そっか」
少しの沈黙のあと、田邊が口を開いた。
「先輩、『おかん』って言われるの嫌なんすか? ……なんとなく、そんな気がして」
「ああ……昔のあだ名がそれだったんだ。結構いじられてね。だから、あんまり思い出したくなくて」
「だから甘党王子なんですか」
「……どうしてそれ知ってるの?」
「ちょっと小耳にはさんで」
思わず顔が熱くなる。
入学したばかりの後輩にまで知られているなんて、やっぱり少し恥ずかしかった。
「先輩の秘密聞いたから、俺もフェアに秘密教えます」
「んー?」
「俺、水泳が嫌い」
あまりにもさらりと言われて、一瞬意味が分からなかった。
数秒遅れて言葉が胸に落ち、俺は固まった。
俺と田邉のお互いの秘密は、全くフェアには思えなかった。
俺は田邊の母親がどれほど凄い選手だったのか知らないし、水泳のこともさっぱり分からない。
けれど、水泳競技の名門であるこの高校では、その存在は特別らしかった。
だからだろうか。寮内にはいつも以上に騒がしい声が飛び交っている。
食堂で入学祝いのトンカツを箸でつつく。
揚げたてらしい衣はサクッと音を立てたはずなのに、周囲の喧騒にかき消されてしまった。
田邊の姿はない。
元から部屋から出ようとしない田邉。食事の時間だっていつも居ない。部屋で一人コンビニのおにぎりを食べたのであろう痕跡だけがいつもあった。
なんとなく、母親のことをあれこれ聞かれるのが嫌で、人を避けているのではないかと思った。
勝手な想像だとは分かっている。
それでも、昼間に見たあの背中が頭から離れなかった。
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
食欲が湧かなくなるほどに、俺は田邊のことが気になっていた。
食べきれなかったトンカツを欲しがる寮生に分けると、俺は早々に食堂を後にした。
あの背中がどうしても気になったのだ。
急いで部屋へ戻る。
けれど扉だけは静かに開けた。
まだ日が落ちきらない薄暗い部屋で、田邊はベッドに横になっていた。
窓の外では風に揺れた木々がさらさらと葉を鳴らしている。
かつて一人で使っていた部屋には、見慣れない制服と無造作に積まれた教科書があった。
床にはスポーツバッグが転がり、椅子の背にはジャージが引っ掛けられている。
どれも田邊のものだ。
生活感の薄かった部屋は、いつの間にか二人分の空間になっていた。
田邊の様子を窺うと、ただ目を閉じているだけではなく、本当に眠っているようだった。
力の抜けた身体が、それを物語っている。
ベッドの上でイヤホンを耳に差し、すうすうと寝息を立てている。
ふと視線を落とすと、手元のスマホがまだ明るく光っていた。
画面に映っていたのは、競泳の分析動画のようだった。
まだ点いたままのスマホを見て、画面を閉じる横のボタンだけでも押しておこうと手を伸ばした、その時だった。
「わっ!」
不意に腕を掴まれ、俺はバランスを崩した。
そのままベッドへ倒れ込む。
ふわりと柔軟剤の香りが鼻先をかすめた。
洗いたてのシーツと、田邊の体温が混ざったような香りだった。
どうやら夢の中でトレーニングでもしているらしい。
田邊は俺の腕を掴んだまま、確かめるように何度も握っている。
気づけば顔がすぐ近くにあった。
色白の肌も、整った輪郭も、薄い唇もはっきり見える。
心臓がやけにうるさい。
熱が頬へ集まっていくのが自分でもわかった。
恥ずかしいはずなのに、俺はその顔から目を離せなかった。
「あ……れ……先輩」
掠れた声が耳元をくすぐる。
ゆっくりと開かれた瞳は、吸い込まれそうなほど綺麗な黒だった。
じっと見つめているうちに、田邊の意識も少しずつ浮上してきたらしい。
半分閉じかけていた瞳がゆっくりと開き、焦点が俺を捉える。
「何してんですか、先輩」
眉間に皺を寄せてこちらを見る田邊は、自分が俺を引き寄せたという自覚などまるでないようだった。
「田邊に引っ張られたんだよ。寝ぼけてたみたい」
苦笑しながら身を起こそうとする。
けれど、田邊の手はまだ俺の腕をしっかりと握ったままだった。
ぐぅ――。
田邊の腹が、遠慮がちに鳴った。
夕食を食べていないのだから当然だ。
この時間なら食堂は片づけの最中だろう。田邊の分も、もう残ってはいない。
「ちょっと待ってて」
俺は困ったように笑うと、部屋の隅に置いた小さな冷蔵庫へ向かった。
冷凍室から小ぶりなタッパーを三つ取り出す。
表面はすぐに白く曇り、冷気をまとった。
少し前に寮の厨房を借りて密かに作り置きしておいた煮物だ。
「煮物、食べられる?」
そう尋ねると、田邊は不思議そうな顔をしながらも小さく頷いた。
「これ、俺が作ったやつ。みんなには内緒ね」
冷凍ごはんとタッパ--を抱えて部屋を出る。
数分後、温め直したそれをトレーに載せて戻ってきた。
熱くて素手では持てず、急いで運んだせいで少しだけ器が寄っている。
ローテーブルに並べて蓋を開けると、艶やかな白いご飯と、筑前煮、ひじきの煮物から湯気がふわりと立ちのぼった。
「これ、食っていいすか?」
「いいよ。そのために温めてきたんだから」
思わず笑みがこぼれる。
田邊は少し驚いたような顔をすると、箸を手に取った。
まずは筑前煮を一口。
「……うま」
ぽつりと漏れた一言に、思わず頬が緩む。
田邊は夢中になって箸を進め、あっという間に平らげた。
箸の持ち方もきれいで、食べ終えたタッパーにはほとんど何も残っていない。
よほどおいしかったのだろう。
その食べっぷりを見ているだけで、なんだか嬉しくなった。
「ごちそうさまでした」
きちんと手を合わせる姿は、不良じみた見た目からは想像もつかないほど丁寧だった。
「お粗末さまでした」
俺は笑ってタッパーを重ねる。
「先輩、お菓子以外も作るんですね」
「まあ、一応家庭科部だからね」
そう言って笑ってみせる。
本当は、お菓子よりもこういう料理を作る方が好きだ。
けれど、それを口にする気にはなれなかった。
あの頃の記憶が、また足音を立てて近づいてくる気がしたから。
「ひじき、めっちゃ美味かった」
「そう? よかった」
「これが、懐かしい味ってやつ?」
その一言に、胸がひやりとした。
この先に続く言葉を、俺は知っている気がした。
「あ、これ、洗ってくるね」
タッパを手に取ると、逃げるように部屋を出た。
***
部屋に戻ると、田邊はまたベッドに寝転がっていた。
「食べてすぐ寝ると、牛になるよ」
「なんすか、それ」
本当に知らないというように首を傾げる。
「昔からある迷信」
「へぇ」
興味があるのかないのか、よく分からない返事だった。
俺は床に置きっぱなしの教科書を机へ運び、椅子に掛けられた制服をハンガーに掛ける。
「先輩って……」
呼ばれて、はっと手が止まった。
また無意識に世話を焼いていた。
頭の先から血の気が引いていく。
――しまった。
聞きたくない言葉を覚悟した、その時だった。
「奥さんみてぇ」
思いもよらない一言が、静かな部屋に落ちた。
「え? 何それ? 普通は『おかんみたい』って言わない?」
思わず口を滑らせてしまった。
けれど、田邊は首を傾げる。
「あー……俺、母親ってどんなもんか、よく分かんないんで」
「え?」
「親、二人とも有名人だから、ほとんど家にいなくて。飯はレトルトか出前だし、掃除は業者任せだったし」
淡々と話している。
けれど、その声の奥には諦めのようなものが滲んでいた。
「じゃあ、さっき言ってた『懐かしい味』って……?」
「これが、そういう味なのかなって思っただけです」
少し照れくさそうに笑う田邊を見て、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「そっか」
少しの沈黙のあと、田邊が口を開いた。
「先輩、『おかん』って言われるの嫌なんすか? ……なんとなく、そんな気がして」
「ああ……昔のあだ名がそれだったんだ。結構いじられてね。だから、あんまり思い出したくなくて」
「だから甘党王子なんですか」
「……どうしてそれ知ってるの?」
「ちょっと小耳にはさんで」
思わず顔が熱くなる。
入学したばかりの後輩にまで知られているなんて、やっぱり少し恥ずかしかった。
「先輩の秘密聞いたから、俺もフェアに秘密教えます」
「んー?」
「俺、水泳が嫌い」
あまりにもさらりと言われて、一瞬意味が分からなかった。
数秒遅れて言葉が胸に落ち、俺は固まった。
俺と田邉のお互いの秘密は、全くフェアには思えなかった。



