田邉くんの××がすごい!

 その夜、俺は田邊との会話に成功した。

「ダイビング部に入るの?」

 田邊は顔を横に振る。

「そっか」

 それだけ返すと、田邊は意外そうにこちらを見た。

「ん? どうした?」
「……理由、聞かないんだ」
「え? 聞いたほうがよかった?」
「いや……」

 田邊は視線を逸らした。
その反応を見るに、断るたびに同じ質問をされてきたのかもしれない。

「別に入りたくないなら、入らなくていいと思うけど」

  俺は無責任だと思いながら、正直な気持ちを口にした。

「ほかにやりたいことがあるなら、そっちやればいいんじゃない?」

 その言葉をかけた瞬間、田邊の表情が豆鉄砲を食らった鳩――ならぬ猫のように固まった。
いつも不機嫌そうにしか見えなかった顔に、初めて年相応の驚きが浮かぶ。

「初めて言われた……」

 ぼそりと零れた低い声は、どこか嬉しそうにも聞こえた。
そんなに意外だったのだろうか。

 俺にとっては当たり前のことを言っただけなのに。

「あんた、名前は?」

 不意に返ってきた質問に、俺は目を瞬かせた。

「え? 由良淳だよ。って入寮の日に言ったじゃない。部屋の名簿にも書いてあったでしょ」
「忘れたから」
「興味なさすぎでしょ」

 思わず笑う。
すると、それにつられたわけではないだろうが、田邊の口元がほんのわずかに緩んだ気がした。

「あんた、三年なんだな。一年だと思ってた」
「ええ!?」

 思いもよらない言葉に、俺は間抜けな声を上げた。

「三年は受験だから一人部屋になるって聞いてたから」
「ああ、それで……」
「あと」
「あと?」
「先輩、小さいから」
「なっ……!」

 今度は本当に言葉に詰まった。
平均身長は超えている。決して小さい方ではない。
なのに、小さいなんて言われるとは思ってもみなかった。

「田邊が大きすぎるんだろ!」

 思わず反論すると、田邊は肩をすくめた。
確かに、立ち上がった彼はかなり背が高い。
ベッドに寝転がっているとわからなかったが、広い肩幅にすらりと伸びた手足は、男にとって恵まれた体格だった。

「先輩、あのクッキーどこのですか?」
「あれ? あれは俺が作ったよ」
「え……すげぇ……」

 心を許してくれたのだろうか。
田邊は意外にも、自分から会話を続けようとしてくれていた。
どうやらこの野良猫は、ほんの少しだけ俺に興味を持ってくれたらしい。

 ***

 入学式が行われ、俺は部活の勧誘のために桜の花びらが舞う昇降口に立っていた。
春の日差しはまだ柔らかく、風が吹くたびに淡い桃色の花びらが空へと舞い上がる。
地面へ降り積もった花びらは、校舎へ続く石畳や芝生を淡く染めていた。
真新しい制服に身を包んだ新入生たちは、その花びらに負けないくらい眩しい。
友人同士で肩を並べて笑い合い、部活動の勧誘に足を止め、期待と不安を抱えながら新しい高校生活を楽しんでいる。
その初々しい光景は、俺にとって嫌いじゃない。
 そんな春の風景の中でひときわ目を引いたのは、田邊だった。
朝に見た時と変わらず、新入生らしい初々しさはどこにもない。
周囲の新入生たちが未来へ向かって歩き出しているのに対し、田邊だけはやっぱり別の場所から迷い込んできた野良猫のようだった。

「田邊選手だ!」

 そんな声があちこちから上がる。
誰もが田邊ではなく、その隣を歩く有名人に目を向けていた。
 母親は飛込の有名な選手で、この高校の卒業生でもあるらしい。
慣れた様子で歩くその姿は、今でも現役選手のように凛々しかった。
父親は有名なモデルらしいが、その姿はなかった。仕事なのか、それとも騒がれるのを避けたのかは知らない。
田邊の母親に群がる生徒たちとは別の場所で、女子たちが残念そうな声を漏らしていた。

 舞い散る桜の向こうにいる田邊へ、ふと視線を向けた。
田邊の大きな背中が、なぜだか少しだけ小さく見えた。
俺はその様子を遠巻きに眺めることしかできない。

「息子さん、飛込するんですよね!」

 そんな声が遠くにいる俺の耳にまで届く。

「ええ、そのつもりで入学したのよ」

 母親の返答が風に乗って届いた。
周囲は当然のように未来を決めていた。
男子ダイビング部に入ることも、その先に進む道も。

 けれど、昨日の田邊は確かに首を横に振っていた。
その背中は大きいはずなのに、今だけは少し窮屈そうに見えた。