俺と田邊啓介が出会ったのは門脇の桜並木がちょうど見頃を迎えた四月の上旬だった。
入寮してきた一年生たちの多くは、いかにも新入生らしい初々しさに満ちていた。
けれど、俺と同室になる生徒として紹介された田邊は、その初々しさはどこにもなかった。
陽の光を反射するほど明るい髪。隠そうともしない不機嫌そうな表情。肩に引っ掛けたスポーツバッグも、どこか投げやりに見える。
周囲の新入生たちが期待に胸を膨らませている中で、田邊だけが春の景色から取り残された野良猫のように見えた。
「お前、田邊選手の息子なんだってな!?」
入寮生の挨拶もそこそこに、三年の寮生が目を輝かせて声をかけた。
田邊選手と聞いても、俺にはすぐ誰のことかわからない。
けれど、飛込競技の世界大会に出場した選手を母親に持つ新入生が入寮してくると、少し前から寮内で話題になっていたのを思い出した。
つまりはすごい人の息子らしい。
声をかけたのは水泳部員だった。
この高校は水泳競技が盛んで、競泳部とダイビング部がある。ダイビングといっても海に潜る方ではなく、飛込競技の部活だ。
田邊に話しかけているのは、その男子ダイビング部の部長だった。
「待っていたぞ! 男ビングの期待の星!」
女子部員の方が圧倒的に多いため、男子部員たちは自虐を込めて自分たちを「男ビング」と呼んでいる。
暑苦しいほど期待のこもった眼差しを向けられ、田邊は心底嫌そうな表情を浮かべた。
小さく舌打ちをすると、その期待を振り払うように相手の横を素通りし、渡された寮の配置図に目を落としながら歩き出す。
どうやら彼は見た目どおり、群れることを嫌う猫らしい。
「あ、待って、田邊くん!」
俺は同室になることを伝えようと、慌てて彼の後を追った。
「あそこが俺たちの部屋だよ」
そう言って、廊下の一番奥にある扉を指さす。
そこは三年生の部屋が並ぶ区画だった。
受験を控えた三年生に配慮して、本来なら一年生と同室になることはない。けれど今年は入寮生が多く、部屋数が足りなかったらしい。
むしろ、これまで二人部屋を一人で使わせてもらえていたことの方が幸運だった。
田邊は何も言わず廊下を進み、部屋の扉を開けた。
角部屋であるこの部屋はほかの部屋より窓が多く、差し込む春の日差しがまぶしかった。
少しひんやりとした風が吹き抜ける。
それと同時に、室内から柔軟剤の香りがふわりと流れ出てきた。
新しく入ってくる同室者のために用意した、真新しいシーツの香りだった。
田邊は無言で部屋に上がると、きっちり整えられたベッドへ腰を下ろした。
俺のベッドにはパジャマ代わりのジャージやクッションが置いてあるし、新しく整えた方が田邊のベッドだとすぐに気づいたようだった。
脱ぎ捨てるように置かれたスリッパを見て、思わずそれを揃える。そうしてから、俺は部屋の説明をしようと田邊のもとへ向かった。
「今日からよろしくね。俺は由良淳」
そっと手を差し出して挨拶をするも、田邊は反応しなかった。
何も言わずベッドにごろりと横になり、俺との関わりを避けるかのように背を向ける。
挨拶くらい返してくれてもいいのに。
そんなことを思いながら、俺はため息を飲み込んで自分の机へ向かった。
机の上に置いてあった透明な袋の中にはクッキーが入っている。
新入生への挨拶代わりにと、俺が焼いたものだった。
「これ、よかったら食べて。甘いものが苦手だったらごめんね」
そう言って、部屋の中央に置かれたローテーブルの上に置く。
「さっき聞いたかもしれないけど、朝の六時半に点呼があって、朝食は七時から。門限は夜の七時で、夕食は八時。お風呂は点呼のあとで、消灯は十一時だから」
再確認のつもりで話しかけるが、田邊は何も答えない。
案の定、反応はなかった。
まさかと思って近づいてみると、すでに寝息を立てていた。
狸寝入りなのか、本当に寝てしまったのか。
どちらにせよ、俺は懐きにくそうな野良猫との生活を始めることになった。
***
入寮して一日が経った。
この懐かない野良猫と仲良くなろうと話しかけてみたものの、俺は見事に玉砕していた。
少しくらい反応を返してくれてもいいのに――なんて思いつつ、いつか仲良くなれることを願っていた。
けれど、最後の一年になる寮生活がどうなるのか、少しずつ不安も募っていく。
俺とは正反対の色を持つ田邊と、本当にうまくやっていけるのだろうか。
そんなことを考えていた。
寮の厨房を借りて、俺はお菓子を作っていた。
不安なときは、こうして何かを作るのが性に合っている。
料理が好きで家庭科部に所属している俺は、ときどき許可をもらって寮の厨房を使わせてもらっていた。
「おっ! 今日は何作るんだ?」
同じ学年の寮生が声をかけてくる。
「今日はマフィン」
そう答えると、相手は嬉しそうに顔をほころばせた。
俺は作ったお菓子をよく寮生たちに振る舞っている。
甘いものが苦手な生徒には申し訳ないけれど、食べたいと言ってくれる生徒は多く、いつも喜んでもらえていた。
「さすが、甘党王子!」
それが、この学校での俺の通称だった。
王子なんて柄じゃない。けれど、中学時代のあだ名よりはずっといい。
昔の俺は、年の離れた弟と妹の面倒を見ていたせいか、誰にでも世話を焼く性格だった。
けれど、友人にも、好きになった子にも言われた。
――お母さんと一緒にいるみたいで息苦しい。
その一言をきっかけに、俺は「おかん」と呼ばれるようになった。
優しさのつもりだったものは、相手には重荷だったらしい。いじられ方も次第にエスカレートし、俺は必要以上に人の世話を焼かないと決めた。
転勤を機に、この学校では昔の俺を知る人はいない。
料理は今でも好きだ。だからこそ、家庭的な和食よりも、お菓子ばかり作るようになった。
寮生に振る舞うことはあっても、それ以上踏み込むことはしない。
そのおかげか、この学校で俺についたのは「甘党王子」という愛称だった。
あの頃の呼び名を思えば、その方がずっとマシだった。
寮生活でも部屋を一人で使っていたこともあり、そういう一面を誰かに見られることもなかった。それは幸いだったと思う。
出来上がったマフィンを一つ皿に載せ、残りはその場にいた寮生たちに配る。
そうして俺は、自分の分を持って厨房をあとにした。
戻ってみると、案の定、田邊はベッドの上にいた。
本当に仲良くできるのだろうか。
そんな不安を抱えながら部屋に入る。
初日なのだから仕方ないと、自分に言い聞かせるように前向きな気持ちを保ちながら。
ローテーブルにマフィンの載った皿をコトンと置く。
そこで俺は異変に気づいた。
置いておいたクッキーがない。
思わず田邊を見るが、相変わらず壁を向いて背中を見せている。
近くのごみ箱に目をやると、空になった透明な袋が捨てられていた。
クッキーごと捨てられたのかと一瞬焦ったが、中身はきれいになくなっている。
食べてくれたんだ。
そう思った瞬間、胸の奥がふっと温かくなった。
「甘いの、好きなんだ?」
狸寝入りをしている田邊の背中に向かって、俺は声をかけた。
きっと反応はないだろうと思っていた、その時だった。
「腹減ってたんで」
初めて聞いた田邊の声は、思っていたよりも低く、耳に心地よかった。
たった一言。
それだけなのに、俺は妙に嬉しくなってしまった。
懐かない野良猫が、ほんの少しだけこちらを向いてくれた気がした。
入寮してきた一年生たちの多くは、いかにも新入生らしい初々しさに満ちていた。
けれど、俺と同室になる生徒として紹介された田邊は、その初々しさはどこにもなかった。
陽の光を反射するほど明るい髪。隠そうともしない不機嫌そうな表情。肩に引っ掛けたスポーツバッグも、どこか投げやりに見える。
周囲の新入生たちが期待に胸を膨らませている中で、田邊だけが春の景色から取り残された野良猫のように見えた。
「お前、田邊選手の息子なんだってな!?」
入寮生の挨拶もそこそこに、三年の寮生が目を輝かせて声をかけた。
田邊選手と聞いても、俺にはすぐ誰のことかわからない。
けれど、飛込競技の世界大会に出場した選手を母親に持つ新入生が入寮してくると、少し前から寮内で話題になっていたのを思い出した。
つまりはすごい人の息子らしい。
声をかけたのは水泳部員だった。
この高校は水泳競技が盛んで、競泳部とダイビング部がある。ダイビングといっても海に潜る方ではなく、飛込競技の部活だ。
田邊に話しかけているのは、その男子ダイビング部の部長だった。
「待っていたぞ! 男ビングの期待の星!」
女子部員の方が圧倒的に多いため、男子部員たちは自虐を込めて自分たちを「男ビング」と呼んでいる。
暑苦しいほど期待のこもった眼差しを向けられ、田邊は心底嫌そうな表情を浮かべた。
小さく舌打ちをすると、その期待を振り払うように相手の横を素通りし、渡された寮の配置図に目を落としながら歩き出す。
どうやら彼は見た目どおり、群れることを嫌う猫らしい。
「あ、待って、田邊くん!」
俺は同室になることを伝えようと、慌てて彼の後を追った。
「あそこが俺たちの部屋だよ」
そう言って、廊下の一番奥にある扉を指さす。
そこは三年生の部屋が並ぶ区画だった。
受験を控えた三年生に配慮して、本来なら一年生と同室になることはない。けれど今年は入寮生が多く、部屋数が足りなかったらしい。
むしろ、これまで二人部屋を一人で使わせてもらえていたことの方が幸運だった。
田邊は何も言わず廊下を進み、部屋の扉を開けた。
角部屋であるこの部屋はほかの部屋より窓が多く、差し込む春の日差しがまぶしかった。
少しひんやりとした風が吹き抜ける。
それと同時に、室内から柔軟剤の香りがふわりと流れ出てきた。
新しく入ってくる同室者のために用意した、真新しいシーツの香りだった。
田邊は無言で部屋に上がると、きっちり整えられたベッドへ腰を下ろした。
俺のベッドにはパジャマ代わりのジャージやクッションが置いてあるし、新しく整えた方が田邊のベッドだとすぐに気づいたようだった。
脱ぎ捨てるように置かれたスリッパを見て、思わずそれを揃える。そうしてから、俺は部屋の説明をしようと田邊のもとへ向かった。
「今日からよろしくね。俺は由良淳」
そっと手を差し出して挨拶をするも、田邊は反応しなかった。
何も言わずベッドにごろりと横になり、俺との関わりを避けるかのように背を向ける。
挨拶くらい返してくれてもいいのに。
そんなことを思いながら、俺はため息を飲み込んで自分の机へ向かった。
机の上に置いてあった透明な袋の中にはクッキーが入っている。
新入生への挨拶代わりにと、俺が焼いたものだった。
「これ、よかったら食べて。甘いものが苦手だったらごめんね」
そう言って、部屋の中央に置かれたローテーブルの上に置く。
「さっき聞いたかもしれないけど、朝の六時半に点呼があって、朝食は七時から。門限は夜の七時で、夕食は八時。お風呂は点呼のあとで、消灯は十一時だから」
再確認のつもりで話しかけるが、田邊は何も答えない。
案の定、反応はなかった。
まさかと思って近づいてみると、すでに寝息を立てていた。
狸寝入りなのか、本当に寝てしまったのか。
どちらにせよ、俺は懐きにくそうな野良猫との生活を始めることになった。
***
入寮して一日が経った。
この懐かない野良猫と仲良くなろうと話しかけてみたものの、俺は見事に玉砕していた。
少しくらい反応を返してくれてもいいのに――なんて思いつつ、いつか仲良くなれることを願っていた。
けれど、最後の一年になる寮生活がどうなるのか、少しずつ不安も募っていく。
俺とは正反対の色を持つ田邊と、本当にうまくやっていけるのだろうか。
そんなことを考えていた。
寮の厨房を借りて、俺はお菓子を作っていた。
不安なときは、こうして何かを作るのが性に合っている。
料理が好きで家庭科部に所属している俺は、ときどき許可をもらって寮の厨房を使わせてもらっていた。
「おっ! 今日は何作るんだ?」
同じ学年の寮生が声をかけてくる。
「今日はマフィン」
そう答えると、相手は嬉しそうに顔をほころばせた。
俺は作ったお菓子をよく寮生たちに振る舞っている。
甘いものが苦手な生徒には申し訳ないけれど、食べたいと言ってくれる生徒は多く、いつも喜んでもらえていた。
「さすが、甘党王子!」
それが、この学校での俺の通称だった。
王子なんて柄じゃない。けれど、中学時代のあだ名よりはずっといい。
昔の俺は、年の離れた弟と妹の面倒を見ていたせいか、誰にでも世話を焼く性格だった。
けれど、友人にも、好きになった子にも言われた。
――お母さんと一緒にいるみたいで息苦しい。
その一言をきっかけに、俺は「おかん」と呼ばれるようになった。
優しさのつもりだったものは、相手には重荷だったらしい。いじられ方も次第にエスカレートし、俺は必要以上に人の世話を焼かないと決めた。
転勤を機に、この学校では昔の俺を知る人はいない。
料理は今でも好きだ。だからこそ、家庭的な和食よりも、お菓子ばかり作るようになった。
寮生に振る舞うことはあっても、それ以上踏み込むことはしない。
そのおかげか、この学校で俺についたのは「甘党王子」という愛称だった。
あの頃の呼び名を思えば、その方がずっとマシだった。
寮生活でも部屋を一人で使っていたこともあり、そういう一面を誰かに見られることもなかった。それは幸いだったと思う。
出来上がったマフィンを一つ皿に載せ、残りはその場にいた寮生たちに配る。
そうして俺は、自分の分を持って厨房をあとにした。
戻ってみると、案の定、田邊はベッドの上にいた。
本当に仲良くできるのだろうか。
そんな不安を抱えながら部屋に入る。
初日なのだから仕方ないと、自分に言い聞かせるように前向きな気持ちを保ちながら。
ローテーブルにマフィンの載った皿をコトンと置く。
そこで俺は異変に気づいた。
置いておいたクッキーがない。
思わず田邊を見るが、相変わらず壁を向いて背中を見せている。
近くのごみ箱に目をやると、空になった透明な袋が捨てられていた。
クッキーごと捨てられたのかと一瞬焦ったが、中身はきれいになくなっている。
食べてくれたんだ。
そう思った瞬間、胸の奥がふっと温かくなった。
「甘いの、好きなんだ?」
狸寝入りをしている田邊の背中に向かって、俺は声をかけた。
きっと反応はないだろうと思っていた、その時だった。
「腹減ってたんで」
初めて聞いた田邊の声は、思っていたよりも低く、耳に心地よかった。
たった一言。
それだけなのに、俺は妙に嬉しくなってしまった。
懐かない野良猫が、ほんの少しだけこちらを向いてくれた気がした。



