田邊はプールサイドのレーンに立っていた。
十人いる選手は、どのレースも勝ち抜いてきた実力者ばかりだ。競泳に詳しくない俺ですら、その身体つきや立ち居振る舞いから只者ではないと分かる。
県大会への切符を懸けた最終レース。
誰一人として気を抜いている選手はいなかった。
鍛え上げられた身体がスタート台の前に並ぶ。
その中でも、田邊はひときわ目を引いた。
他の選手より頭一つ高い長身に、無駄を削ぎ落とした筋肉。肩を痛めているとは思えないほど堂々と立つ姿に、会場の空気まで支配してしまいそうだった。
それでも俺は知っている。
あの右肩が悲鳴を上げていることを。
スタート台へ足をかけた田邊が、一度だけ右肩を小さく回す。
その僅かな仕草に、胸が締めつけられた。
アナウンスが流れ、選手たちが一斉にスタート台へ上がり、静寂が訪れた 。
全員が前傾姿勢になり、俺は思わず手を胸の前で握り締める。
乾いた電子音が、スタートの合図として鳴り響いた。
十人の選手が一斉に飛び込み、水面に白い飛沫が上がった。
その瞬間だった。
「あいつ、何やってんだ?」
会場がざわつく。
クロールで飛び出した他の九人とは違い、田邊だけが平泳ぎを始めたのだ。
自由形は、文字どおり泳法は自由。
けれど、高校競泳で平泳ぎを選ぶ選手など、まずいない。
観客席のあちこちから失笑が漏れる。
指を差して笑う者までいた。
俺には、その理由が分かっていた。肩への負担を減らすためだ。
それでも胸が締めつけられる。
あれだけ競泳をやりたいと願っていた田邊が、得意なクロールを封印してまで泳いでいるのだ。
笑われても、格好悪いと思われても、それでも前へ進もうとしている。
その姿を、笑うことなんてできなかった。
気づけば俺は立ち上がっていた。
「頑張れー!!」
周りの視線なんて気にならない。
声が枯れるほど叫ぶ。
田邊は顔を上げることなく、水をかき続ける。
クロールよりは速度は落ちていたが、田邊はそれでも早く、誰よりも力強く前へ進んでいた。
俺には、その背中が誰よりも格好よく見えた。
***
夕暮れの空は、湿気をまとった茜色に染まっていた。
大会が終わり、会場では今日のレースを振り返る声があちこちから聞こえてくる。
「平泳ぎで三位ってあり得る? 化け物でしょ」
平泳ぎで自由形に挑み、三位に入った田邊の話題は、誰もが口にしていた。
一位と二位との差は、腕一本ほど。
「あれでクロールだったら一位だった」
そんな声が、耳に入る。
一方で、なぜ最後のレースだけ平泳ぎを選んだのかと首をかしげる人も多かった。
肩を痛めていたのではないかという噂よりも、「クロールじゃなくても勝てると見せつけたかったんじゃないか」と、田邊を悪く言う声の方が目立っていた。
俺はそんな噂に腹を立てる余裕もなく、ただ会場の出口を見つめていた。
田邊がどんな顔で出てくるのか、それだけが気になって仕方がない。
一位を逃した悔しさを抱えているのか。
それとも、母親との約束だった「予選を通過すること」を果たせた安堵の方が大きいのか。
考えても答えは出ない。
だからこそ、一刻も早く田邊の顔が見たかった。
やがて、大勢の選手たちがぞろぞろと姿を現す。
笑顔で仲間と話す者、悔しそうに俯く者、それぞれの思いを胸に会場を後にしていく。
その人波の中に、見慣れた明るい髪が見えた。
「田邊!」
名前を呼んで駆け寄ると、田邊はそのまま俺を強く抱きしめた。
「やった、先輩! 競泳やっていいって!」
子どものように無邪気な笑顔だった。
その表情を見た瞬間、張り詰めていた緊張が一気にほどける。
「よかった……本当によかった!」
安堵が涙になって溢れた。
田邊の胸に額を預けながら、何度も「よかった」と繰り返してしまう。
「そうだ、田邊! 肩は?」
ふと現実に引き戻され、慌てて肩へ視線を向けた。
「今から病院よ」
後ろから声がして振り返ると、田邊の母親が静かに立っていた。
「あの時、私に説教してきた子ね」
苦笑しながらそう言うと、田邊の肩にそっと視線を落とす。
「あの泳ぎを見て、この子がどれだけ本気なのか、ようやく分かったわ」
穏やかな表情のまま、今度は俺を見つめた。
「応援してくれて、ありがとう」
「俺は……お節介を焼いただけです」
思わず頭をかく。
面と向かって礼を言われるのは、どうにも落ち着かない。
「そのお節介に救われたのよ」
母親は小さく微笑み、車の鍵を取り出した。
「啓介、病院へ行くわよ」
「少しだけ先輩と話してから行く」
「分かった。でも長話は駄目よ。病院、六時で閉まるんだから」
そう言い残すと、母親は駐車場へ向かって歩いていった。
周囲を見渡せば、さっきまで賑わっていた会場もすっかり人が少なくなっている。
夕日が長い影を落とす中、俺たちだけがその場に取り残されたようだった。
「先輩」
田邊がゆっくりと俺を見つめる。
「減量も料理も、応援も……全部嬉しかったです」
照れくさそうに笑うその顔は、レース中の真剣な表情とはまるで別人だった。
「そんな、大したことしてないよ」
「俺には大したことでした」
真っ直ぐに言われると、胸の奥がじんわりと温かくなる。
視線を逸らしたくても、田邊の黒い瞳に捕まってしまう。
「先輩」
「ん?」
「約束、覚えてます?」
その言葉に、心臓が大きく跳ねた。
思い出した途端、頬が熱を帯びていく。
「でも、先輩に『好き』って言ってもらってないのに無理強いはできませんね」
意地悪そうに笑う田邊。
分かっていて言っているのだ。俺がこういう駆け引きや押しに弱いことを。
「先輩は……俺のこと、どう思ってるんです?」
静かな問いかけだった。
逃げ道を塞ぐような強引さはない。
ただ、答えを待っている。
その優しさが、かえって俺の覚悟を決めさせた。
「……好きだよ」
消え入りそうな声だった。
「え? なに?」
案の定、聞き返される。
絶対に聞こえていたはずなのに。
「もう……!」
恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、俺は田邊を見上げた。
「好きだって言ったの!」
その瞬間、田邊の表情がぱっと明るくなる。
レースで県大会への切符を掴んだ時よりも嬉しそうに笑うその顔を見ていたら、自然と俺まで笑ってしまった。
人気のなくなった会場の片隅。
照れ隠しのように田邊の胸元を軽く掴み、そっと唇を重ねる。
触れるだけのつもりだった。
けれど田邊は優しく応えるように唇を重ね返し、その温もりは少しだけ長い口づけへと変わっていった。
茜色に染まる空の下、俺たちだけの時間が静かに流れていた。
十人いる選手は、どのレースも勝ち抜いてきた実力者ばかりだ。競泳に詳しくない俺ですら、その身体つきや立ち居振る舞いから只者ではないと分かる。
県大会への切符を懸けた最終レース。
誰一人として気を抜いている選手はいなかった。
鍛え上げられた身体がスタート台の前に並ぶ。
その中でも、田邊はひときわ目を引いた。
他の選手より頭一つ高い長身に、無駄を削ぎ落とした筋肉。肩を痛めているとは思えないほど堂々と立つ姿に、会場の空気まで支配してしまいそうだった。
それでも俺は知っている。
あの右肩が悲鳴を上げていることを。
スタート台へ足をかけた田邊が、一度だけ右肩を小さく回す。
その僅かな仕草に、胸が締めつけられた。
アナウンスが流れ、選手たちが一斉にスタート台へ上がり、静寂が訪れた 。
全員が前傾姿勢になり、俺は思わず手を胸の前で握り締める。
乾いた電子音が、スタートの合図として鳴り響いた。
十人の選手が一斉に飛び込み、水面に白い飛沫が上がった。
その瞬間だった。
「あいつ、何やってんだ?」
会場がざわつく。
クロールで飛び出した他の九人とは違い、田邊だけが平泳ぎを始めたのだ。
自由形は、文字どおり泳法は自由。
けれど、高校競泳で平泳ぎを選ぶ選手など、まずいない。
観客席のあちこちから失笑が漏れる。
指を差して笑う者までいた。
俺には、その理由が分かっていた。肩への負担を減らすためだ。
それでも胸が締めつけられる。
あれだけ競泳をやりたいと願っていた田邊が、得意なクロールを封印してまで泳いでいるのだ。
笑われても、格好悪いと思われても、それでも前へ進もうとしている。
その姿を、笑うことなんてできなかった。
気づけば俺は立ち上がっていた。
「頑張れー!!」
周りの視線なんて気にならない。
声が枯れるほど叫ぶ。
田邊は顔を上げることなく、水をかき続ける。
クロールよりは速度は落ちていたが、田邊はそれでも早く、誰よりも力強く前へ進んでいた。
俺には、その背中が誰よりも格好よく見えた。
***
夕暮れの空は、湿気をまとった茜色に染まっていた。
大会が終わり、会場では今日のレースを振り返る声があちこちから聞こえてくる。
「平泳ぎで三位ってあり得る? 化け物でしょ」
平泳ぎで自由形に挑み、三位に入った田邊の話題は、誰もが口にしていた。
一位と二位との差は、腕一本ほど。
「あれでクロールだったら一位だった」
そんな声が、耳に入る。
一方で、なぜ最後のレースだけ平泳ぎを選んだのかと首をかしげる人も多かった。
肩を痛めていたのではないかという噂よりも、「クロールじゃなくても勝てると見せつけたかったんじゃないか」と、田邊を悪く言う声の方が目立っていた。
俺はそんな噂に腹を立てる余裕もなく、ただ会場の出口を見つめていた。
田邊がどんな顔で出てくるのか、それだけが気になって仕方がない。
一位を逃した悔しさを抱えているのか。
それとも、母親との約束だった「予選を通過すること」を果たせた安堵の方が大きいのか。
考えても答えは出ない。
だからこそ、一刻も早く田邊の顔が見たかった。
やがて、大勢の選手たちがぞろぞろと姿を現す。
笑顔で仲間と話す者、悔しそうに俯く者、それぞれの思いを胸に会場を後にしていく。
その人波の中に、見慣れた明るい髪が見えた。
「田邊!」
名前を呼んで駆け寄ると、田邊はそのまま俺を強く抱きしめた。
「やった、先輩! 競泳やっていいって!」
子どものように無邪気な笑顔だった。
その表情を見た瞬間、張り詰めていた緊張が一気にほどける。
「よかった……本当によかった!」
安堵が涙になって溢れた。
田邊の胸に額を預けながら、何度も「よかった」と繰り返してしまう。
「そうだ、田邊! 肩は?」
ふと現実に引き戻され、慌てて肩へ視線を向けた。
「今から病院よ」
後ろから声がして振り返ると、田邊の母親が静かに立っていた。
「あの時、私に説教してきた子ね」
苦笑しながらそう言うと、田邊の肩にそっと視線を落とす。
「あの泳ぎを見て、この子がどれだけ本気なのか、ようやく分かったわ」
穏やかな表情のまま、今度は俺を見つめた。
「応援してくれて、ありがとう」
「俺は……お節介を焼いただけです」
思わず頭をかく。
面と向かって礼を言われるのは、どうにも落ち着かない。
「そのお節介に救われたのよ」
母親は小さく微笑み、車の鍵を取り出した。
「啓介、病院へ行くわよ」
「少しだけ先輩と話してから行く」
「分かった。でも長話は駄目よ。病院、六時で閉まるんだから」
そう言い残すと、母親は駐車場へ向かって歩いていった。
周囲を見渡せば、さっきまで賑わっていた会場もすっかり人が少なくなっている。
夕日が長い影を落とす中、俺たちだけがその場に取り残されたようだった。
「先輩」
田邊がゆっくりと俺を見つめる。
「減量も料理も、応援も……全部嬉しかったです」
照れくさそうに笑うその顔は、レース中の真剣な表情とはまるで別人だった。
「そんな、大したことしてないよ」
「俺には大したことでした」
真っ直ぐに言われると、胸の奥がじんわりと温かくなる。
視線を逸らしたくても、田邊の黒い瞳に捕まってしまう。
「先輩」
「ん?」
「約束、覚えてます?」
その言葉に、心臓が大きく跳ねた。
思い出した途端、頬が熱を帯びていく。
「でも、先輩に『好き』って言ってもらってないのに無理強いはできませんね」
意地悪そうに笑う田邊。
分かっていて言っているのだ。俺がこういう駆け引きや押しに弱いことを。
「先輩は……俺のこと、どう思ってるんです?」
静かな問いかけだった。
逃げ道を塞ぐような強引さはない。
ただ、答えを待っている。
その優しさが、かえって俺の覚悟を決めさせた。
「……好きだよ」
消え入りそうな声だった。
「え? なに?」
案の定、聞き返される。
絶対に聞こえていたはずなのに。
「もう……!」
恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、俺は田邊を見上げた。
「好きだって言ったの!」
その瞬間、田邊の表情がぱっと明るくなる。
レースで県大会への切符を掴んだ時よりも嬉しそうに笑うその顔を見ていたら、自然と俺まで笑ってしまった。
人気のなくなった会場の片隅。
照れ隠しのように田邊の胸元を軽く掴み、そっと唇を重ねる。
触れるだけのつもりだった。
けれど田邊は優しく応えるように唇を重ね返し、その温もりは少しだけ長い口づけへと変わっていった。
茜色に染まる空の下、俺たちだけの時間が静かに流れていた。



