二十時ジャストに、パソコンの勤怠システムで退勤ボタンを押す。
働いていたのは四時間だったけど、丸一日働いたかのような疲労感だ。
おまけに右手も悲鳴を上げている。アイスクリームのスクープ練習を何度もしたからだろう。
「お疲れ様でした」
先に着替えを済ませた七瀬が、さっさと帰ろうとする。ピリッとしたオーラに一瞬怯んでしまったが、気を強く持ってその背中を見つめた。
「あ、あのさ、七瀬」
「……なんですか?」
立ち止まった七瀬が、怪訝そうな顔で振り返る。早く帰りたいオーラをガンガンに発していた。
あまり時間を取らせるわけにはいかない。さっさと要件を済ませよう。
「これあげる。今日助けてもらったからそのお礼」
早口で伝えてから、七瀬のズボンの尻ポケットにカードを突っ込む。なにか言われる前に、更衣室に飛び込んでカーテンを閉めた。
こうしてしまえば、結構です、なんて突き返されることもない。無事にミッションを達成したところで、アイスクリーム屋の制服を脱いだ。
数分後。更衣室のカーテンを開けたところで「ひぃっ!」と悲鳴を上げてしまった。七瀬が更衣室の前で立っていたからだ。
とっくに帰ったと思っていたのに、まだいたのか……。
気まずさからヒクヒクと口元を引きつらせていると、七瀬が冷めた目でカードを突き出した。
「これ、店長に書けって命令されたんですか?」
「う、えぇ?」
ビビり過ぎて、情けない声を出してしまった。
なんだか、怒ってる? ここで突き返されるパターンもあるのか?
「サ、サンクスカードのことを教えてくれたのは店長だけど、命令されたわけじゃ……。書こうって決めたのは俺だし……」
「なんで書こうと思ったんですか? わざわざ、俺なんかに」
なんでって……。その理由って、そんなに重要か?
七瀬がどうしてイラついているのかはわからないけど、このままでは本当に突き返されてしまいそうだ。それは、嫌だ。
「な、仲良くなりたかったから!」
上擦った声で叫ぶ。テンパりすぎてわけがわからなくなっているけど、ここまできたらなるようになれ!
「お、俺、この店が好きで、アイスも好物で、だからバイトを始めようと思ったんだ」
なに言ってんだ、こいつ、という眼差しで見下ろされる。言われた側は、意味がわからないだろう。
頭の中はぐしゃぐしゃだ。頬は燃え上がりそうに熱い。それでも、必死で訴えた。
「俺、とろいし、すぐテンパるし、イラつかせることもあると思うけど、ここでのバイトは頑張ろうと思ってる。七瀬とも、できればいい関係を築きたい」
バクバクと暴れる心臓を落ち着かせるように、大きく息を吸い込む。
「だからそのカードは、仲良くなりましょうの、しるし」
稚拙な言葉になってしまったけど、言いたいことは伝えた。俺としては上出来だ。
ビクビクしながら反応を待つ。七瀬は視線を落として、手元のメッセージを眺めていた。
「……俺、結構キツイこと言ったのに、それでも仲良くなりたいんですね」
呆れたような物言いに、うぐっと言葉に詰まる。やっぱり突き返されるかと諦めてかけたとき、ある変化に気づいた。
凍り付いていた七瀬の表情が、ふっと溶けている。冷たかった瞳には、温かみが宿っていた。
――え? 笑ってる?
営業中も七瀬の笑顔は目にしてきたけど、今の笑い方はちょっと違う。柔らかいところをくすぐられて、ふっと力が抜けた。そんな笑い方だ。
七瀬は大きく息を吐き出すと、口元にカードを引き寄せる。
「わかりました。受け取っておきます」
カードの後ろからは、にやりと吊り上がった口元が覗いている。その仕草がやけに色っぽく見えたせいで、心臓がおかしな動きをした。
固まっていると、七瀬は踵を返してバックヤードの扉を押す。
「ばいばい、キョウさん。また次のバイトで」
開かれた扉から、ぬるい夜風が吹き込む。
「あ、うん。ばい、ばい……」
最後まで言い切る前に、ガチャリとオートロックがかかって七瀬の背中が見えなくなった。
キョウさん。それは、俺のことか?
杏弥だから、キョウさん。それはわかるけど、そんな呼ばれ方をされたのは初めてだから、背中がムズムズする。
あだ名をつけてくれたということは、仲良くしてくれるという意味なのか?
友達の作り方なんて、もう忘れてしまったからわからない。
更衣室で立ち尽くしていると、ポップを貼り替えていた店長がバックヤードを覗いた。
「あれ? 小平くん、まだいたんだ」
声をかけられたことで、ようやく俺の時間が動き出した。
「あ、ハイ。すぐ帰ります」
「うん、お疲れさま~」
そそくさとロッカーにしまったリュックを取り出して帰ろうとすると、店長が「あ!」となにかを思い出したように声を上げる。
「小平くん、アイス買ってく? うち、従業員は二割引きで買えるんだよ」
「……マジすか?」
二割引き。最高か! ここでバイトを始めてよかった!
「か、買います。選んでいいですか?」
「もち! 決まったらお会計するから声かけてね~」
にっと微笑みかけられたところで、俺はカウンターに飛び出した。
カラフルなショーケースの中から、今日食べるアイスを選ぶ。それだけで、自然と笑みが零れた。
――大丈夫。最初はつまずいたけど、ちゃんと立ち上がれた。
カードに綴ったメッセージと、七瀬の笑顔を思い出すと、胸の奥がじんわりと温かくなった。
【困っていることに一番に気づいてくれてありがとう。
これからは隅っこじゃなくて、隣に立てるように頑張るから】



