ひとつ上手くいかなくなると、他のこともことごとく崩れていく。その日は久々に、キョウさんとシフトが被っていた。
ものすごく、気まずい。
だけど仕事に恋愛を持ち込むなんて一番やりたくないから、できる限り平静を装った。
それなのに……。
「七瀬、オーダー入ったのメロンソルベじゃなかった?」
「はい」
「それ、宇治抹茶だよ」
キョウさんが俺の手元を指さす。そこで別のアイスをスクープしていたことに気づいた。
「すみません。すぐに作り直します」
急いでディッシャーを水につけて洗浄する。こんな初歩的なミスをしたのは、新人のとき以来だ。
密かに凹んでいると、キョウさんにぽんっと背中を叩かれた。
「落ち着いて。七瀬が準備している間に、お会計しておくから」
視線を合わせることなく、淡々と告げられる。フォローされてしまった。
「ありがとう、ございます……」
キョウさんは、落ち着いた手つきでレジを操作している。その表情には、一切の動揺も滲んでいなかった。
なんでだよ? 他人のキスシーンを見たときは、真っ赤になって動揺していたのに、自分のときは冷静ってどうなってるんだ?
キョウさんの心の内が、まったくわからなかった。
十八時を過ぎた頃。店内に小さなお客さんが来た。ゆるかわのサンデーが欠品したときに、大泣きしていたルイくんだ。
そういえば先週、ルイくんママがバースデーケーキを予約していたっけ。
「あいしゅケーキ、くーだーさいっ!」
カウンターの前で、元気よくオーダーされる。うん、可愛いな。
「準備するから待っててね」
少し腰を屈めてから、ルイくんに微笑みかけた。
バースデープレートは、あらかじめ店長が書いてくれた。あとはドライアイスとロウソクを入れるだけだ。今度は間違えないように慎重に確認してから、ルイくんママにケーキを渡した。
「素敵なお誕生日をお過ごしください」
「ありがとうございます!」
黒いキャップの下で、ルイくんママは嬉しそうに微笑んだ。
「ルイ、行くよ。早く帰んないと、ケーキ溶けちゃう」
帰ろうと促していたママだったが、ルイくんはじーっと俺の顔を凝視して動こうとしない。
「ん? どうしたの?」
「ゆるかわのおにーさん、元気ない?」
まんまるな瞳で見つめられて、どきりとした。平静を装えていたと思っていたのに、こんなに小さな子に見抜かれるなんて……。
子どもは案外、大人の顔色をよく見ているものだ。うちの妹もそうだったと思い出した。
「ルイ、失礼なこと言わないの! ごめんなさいねー」
全然平気です、と笑顔で首を振る。そんなやりとりをしている間に、ルイくんがリュックを漁り始めた。
出てきたのは、『ルイくん、おたんじょうびおめでとう』と書かれた絵本。多分、幼稚園でもらったものだろう。
ルイくんは、絵本からハートのシールをぺりっと剥がすと、俺の手の甲に貼り付けた。
「あげる」
まさか、お客さんからシールを渡されるとは思わなかった。元気のない俺を慰めようとしてくれているのか?
「ありがとう。大事にするね」
腰を屈めながらお礼を言うと、ルイくんはにぱっと微笑んだ。
「元気出してね、ゆるかわのおにーさん!」
そう励ますと、ルイくんはママと手を繋いで店から出ていった。
小さな背中が見えなくなってから、手の甲に貼られたハートのシールにそっと触れる。
情けないな。あんな小さな子にも、気を遣われるなんて……。
いや、それ以上に、好きな人と向き合えず、逃げようとしている自分の方がよっぽど情けないか。
結局、その日は最後まで不調のまま、バイトが終わった。
更衣室でポロシャツを脱いだとき、ハートのシールがポケットに入れっぱなしだったことに気づく。どこに貼っておこうかと悩んでいると、カーテンの向こうで影が揺れた。
先に着替えを済ませたキョウさんだろう。もう帰ったと思っていたのに、まだいたのか。
カーテン越しにキョウさんの影を見つめていると、肩が大きく上下する。
「この前さ、なんでキスしたの?」
どきりと心臓が鳴る。こんな逃げ場のない場所で、その質問をするのは反則だろう。
店長はどうした? 聞かれたら、絶対にマズイ。動揺する俺の気も知らず、キョウさんは話を続けた。
「俺をからかっていただけなら、やめてほしい。悲しくなるから」
その声は、今にも泣き出しそうに震えていた。
キョウさんがチョロそうだったからしただけです。あんなのは冗談です。本気にしました?
そんな風に軽口を叩ければよかった。そうすれば、ギリギリ形を保っていられる。
だけど、無理だった。
好きって気持ちが、溢れて止まらない。
シャツを羽織ることすら忘れて、カーテンを開く。もうなにも隠せない。目の前で立ち尽くすキョウさんを、思いのままに抱きしめた。
「からかってなんかいません。本気のキスです」
素肌から心臓の音が聞こえてしまいそうだ。ドクドクと暴れまわって仕方がない。
華奢で柔らかそうに見えたけど、抱いてみれば案外かっちりとした身体つきをしていることに気づく。そのことで、キョウさんも男なんだと当たり前すぎる感想が浮かんだ。
腕の中で固まっていたキョウさんだったが、しばらくすると我に返る。
「なにやってんだよ!? 店長に見られたらヤバいだろ!」
真っ赤になりながら俺を突き放すと、逃げるようにバックヤードから飛び出した。
もう、全部終わりなんだ。ここまで来たら、全てを曝け出してしまおう。
俺はシャツを羽織って、キョウさんを追いかけた。
パニックになっているせいか、キョウさんは駅とは反対方向へ走っている。月明かりに照らされた背中を、全速力で追いかけた。
逃がしたくない。俺だけのものにしたい。捕まえて、強く抱きしめた。
「好きです。頭ん中おかしくなるくらい、キョウさんで支配されている」
この恋は制御不能だ。この人の傍にいたら、頭がおかしくなる。
こんな想いをするのは、もうこれっきりにしよう。



