さっぱりして風呂から上がると、脱衣所に白いTシャツと赤紫色の短パンが用意されていた。七瀬の服かと思いきや、短パンのウエストには『笠野』と刺繍されている。
「……誰のだよ?」
思わず突っ込んでしまう。誰かの体操着を借りパクして、俺に又貸ししようとしているのだとしたら、許すまじ。
これは文句を言ってやろうと、リビングに突撃した。
「おい、七瀬! この短パン、誰のだよ? 笠野って書いてあるけど」
とりあえず履いた短パンの刺繍を指さして抗議したが、リビングに七瀬はいない。タブレットで動画を見ている陽菜ちゃんだけがいた。
「あ、七瀬は?」
「おにぃは、エイちゃんの塾の宿題を見てる。隣の部屋で」
「そっか……」
出鼻をくじかれてしまった。恥ずかしくなって黙り込んでいると、陽菜ちゃんは動画を眺めながら言葉を続ける。
「笠野は前の名字だよ。パパがいたときは笠野だったけど、離婚して七瀬になった」
「……え、そうなの?」
ものすごく突っ込んだ話を聞いてしまった気がするけど、いいのか? 固まっていると、陽菜ちゃんは動画を見ながら頷いた。
「パパと喧嘩してママが泣いていたときにね、おにぃが七瀬になってもいいって言ったの。七瀬になってからは、ママも元気になった。だから陽菜も、七瀬の方が好き」
きっぱりと言い切る陽菜ちゃん。だけど、その顔には先ほどまでの笑顔は浮かんでいない。唇も固く結んでいた。
そんな話をしていると、バタバタと廊下が騒がしくなり、リビングに七瀬が飛び込んできた。
「陽菜! 余計なこと言わなくていいから!」
珍しく焦った顔をしている七瀬。大声で咎められた陽菜ちゃんは、びくっと肩を震わせた。
「部屋行きましょう、キョウさん」
七瀬は俺の腕を掴むと、そそくさとリビングから連れ出す。さっきのは七瀬としては、あまり聞かれたくない話だったのかもしれない。
部屋に戻って扉を閉めたところで、俺は恐る恐る口を開いた。
「さっきの、聞こえたんだ」
「はい。うち壁薄いし、陽菜の声デカいんで。すみません。変なこと聞かせて」
「こっちこそ、踏み込み過ぎて、ごめん……」
小さな部屋に、重苦しい空気が流れる。
こんなとき、どんな言葉をかければいいのだろう? 柔らかい場所に安易に触れてしまったら、今ある関係すらも歪になってしまうような気がした。
俯いていると、ドアノブを掴んでいた七瀬が振り返る。
「別にそれはいいんですけど、俺んちのことでキョウさんに気ぃ遣わせるのは、違うような気がして」
「う、ん……」
顔を上げるのが怖い。七瀬がどんな顔をしているのか見るのが怖かった。
重苦しい空気から逃れるように、七瀬の足元を見ながら後退りする。一歩、二歩、三歩と踏み出したところで、うっかり枕につまずいてしまった。
「うわっ!」
どんっ、と布団の上で尻もちをつく。七瀬はすぐさま手を差し伸べてきた。
「大丈夫ですか?」
「あ、うん。平気……」
今の俺、ダサすぎるだろう……。
気まずさと恥ずかしさから、余計に顔を上げられなくなる。七瀬の手を取ることもできずに俯いていると、不意に頭の上から柔らかいものが覆い被さってきた。
「へ? なに?」
視界が真っ暗だ。この柔らかいものは、掛け布団か?
すぐさま剥がそうとしたが、布団はビクともしない。七瀬が布団の端を踏んでいるせいかもしれない。
「あの、出られないんだけど」
「いいですよ。出てこなくて」
「それって、どういう……」
「暗い顔しているうちは、そこで埋まっててください」
埋まってて……。意味がわからない。
戸惑いながらも反対側から脱出しようとすると、七瀬が布団の四隅を押さえるように覆い被さってきた。
「ちょっ……。重いって! 退け!」
「埋まっててって言ったじゃん」
てっきり怒っているのかと思いきや、七瀬はくくっと声を抑えながら笑っている。俺はまた、からかわれているようだ。
「暑いから出せって」
「ダメです。収穫にはまだ早いんで」
「収穫って……俺は芋かなにかか?」
「あー、確かに芋っぽいですね。中学のダッセェ短パンもよく似合ってるし」
「おいそれどういう意味だよ!」
布団越しに軽く蹴りを入れてみたが、あっさりか交わされてしまう。そこからじゃれ合いは、さらにエスカレートした。
「キョウさん、暴れすぎー」
「おまえが、いつまでも、布団押さえてるから」
「まだ収穫の時期じゃないんで」
「もう食べごろだから。収穫、収穫!」
もみくちゃになっているせいで、息が上がっている。暑いし、シーツはぐしゃぐしゃだし、なんだよこれ?
夜のせいか、二人ともおかしなテンションになっている。ついさっきまでの重苦しい空気なんて、かき消されてしまった。
汗だくのぐちゃぐちゃになった頃、七瀬が布団に手を突っ込んでくる。
「そんなに言うなら収穫してあげますよ。よいしょー」
ぐいっと手首を引っ張られる。その勢いのまま、七瀬の方へ倒れ込んだ。
「うわっ!」
浮いた身体が着地した瞬間、ハッと息をのむ。仰向けになった七瀬に、覆いかぶさる態勢になってしまったからだ。
ふざけていた二人の顔が、一瞬にして真顔になる。一歩間違えば、キスをしてしまいそうな距離感だ。
胸も、お腹も、下半身も、くっついて熱い。それがどっちの熱なのかは、区別がつかなかった。
――これは、ちょっとマズイかも。
慌てて布団に手をついて起き上がろうとした瞬間、七瀬が腰に手を回してくる。そのせいで余計に離れられなくなってしまった。
「なに、してんだよ?」
声が震えている。動揺しているのを見透かされてしまいそうだ。
さっきまでのおふざけモードに戻ってほしいのに、七瀬は全然笑ってくれない。恥ずかしさで視界が滲んでいくと、七瀬はようやく薄い唇を動かして、にやりと笑った。
「こうしてると、悪いことしてる気分になりますね」
「わ、悪いことって?」
「手ぇ出しちゃいけないものを、食べちゃってるみたいな?」
頭の中がぐわんと火照っていく。熱に侵されて思考回路がおかしくなった。
「食べて、みれば?」
俺は、なに言ってんだ?
「食べごろ、かもよ?」
黙れよ、俺。
そうだ。これは冗談だ。いつも七瀬にからかわれてばかりだから仕返し。
そう自分を納得させながら、七瀬の反応を待った。
にやりと笑っていた口元に、力が抜けていく。その瞳には、学校でもバイト先でも見たことがないような熱が宿っていた。
冗談だから、笑えよ! また布団を被せて埋めたっていいから!
しばらく見つめ合っていると、七瀬の耳がじわじわと赤くなった。
「なに言ってんですか? 食うわけないでしょ!」
どんっと肩を押されて、突き飛ばされる。距離をとったところで、七瀬は慌てたように布団から起き上がった。
「つーか、あっつ。汗やばっ。俺、風呂入ってきます。その間にぐちゃぐちゃになった布団、直しといてくださいよ。キョウさんが暴れたんだから」
早口でそう命令すると、七瀬はそそくさと部屋から出ていった。
ぐちゃぐちゃになった布団の真ん中で、俺は一人取り残される。先ほどのやりとりを思い出すと、顔面からボッと火が噴き出しそうになった。
「俺は、一体なにを……」
あんな誘うみたいな言い方をして。恥ずかしすぎる。
ゴロゴロと布団の上で転がっていると、余計に布団がぐちゃぐちゃになる。この熱の冷まし方は、わからなかった。
部屋にこもった熱を逃がすように、窓を開ける。雨はすでに上がっていて、湿った夜風が入り込んだ。
外の空気を吸い込むと、頭がちょっとずつ回るようになる。
見つめられて喜んで、触れられて喜んで、なおかつ食べられてもいいとすら思っている。それってつまり、俺は七瀬のことが……。
「いや、そんなはずは……。七瀬は男だし、バ先の先輩だし」
これが恋だったら困る。夏の暑さで頭がおかしくなっただけだと信じたい。
だけどもし、この熱が恋心からくるものだとしたら、相手が七瀬なのは不幸中の幸いだったのかもしれない。
七瀬は恋をしない。誰とも。どんなに欲しがっても、手に入ることのない存在だ。
それならこの想いがむやみに育たないように、誰にも触れられないように、胸の奥で凍結させておこう。
この感情の扱い方を知れば、少しは余裕が持てるような気がした。
三十分後。風呂から上がった七瀬は、暗くなった部屋の前で足を止める。
「キョウさん、もう寝ました?」
はい。寝ました。寝ましたとも。布団の中で、狸寝入りを決め込む。
「それ、俺の布団なんだけど」
恨めし気な声に、うっ、と息を漏らす。そういえば、そうだったな。
「……まあ、いいや」
七瀬は投げやりに吐き捨てると、一度部屋から離れる。しばらくすると、タオルケットを引きずって戻ってきた。
フローリングの上で寝転がると、ミイラのようにタオルケットに包まる。
「あっつ……」
わかる。俺も熱い。
冷房は効いているはずなのに、この日は一晩中熱くて仕方がなかった。



