そのあともドリンクを飲んだり、スマホをいじったり、ぼーっとしたりと、まったりとした時間を過ごしていた。
七瀬と一緒だと、沈黙も怖くない。バイト中は黙って作業していることも多いから、沈黙には慣れていた。
七瀬がスマホをいじっていると、スマホカバーに挟んだサンクスカードが目に留まる。そこで、ずっと引っかかっていたことを聞いてみることにした。
「あのさ、聞いていい?」
「なんすか?」
「サンクスカードを渡したとき、なんでちょっと怒ってたの?」
あの日は、サンクスカードを突き返されそうな勢いで睨まれた。今でも七瀬がなんであんなに怒っていたのか謎だった。
七瀬は「あー……」と気まずそうに視線を逸らす。急かさずに言葉を待っていると、少しずつ本音を教えてくれた。
「気ぃ遣われているみたいで、ムカついたんです」
「きぃ?」
「忙しくて、余裕なくて、イラついてるのを見透かされたようで……。それでお情けでカードをもらったのかと。すいません。ガキみたいな理由で」
七瀬は悔いるように額を押さえる。
「まあ、確かにあの日は忙しかったよね。日曜だったし、スタッフ三人だったし、一人は戦力外だったし」
軽く自虐してみる。七瀬は苦々しく笑ってから、氷が溶けて薄くなったアイスコーヒーを一口飲んだ。
少しの沈黙が流れたあと後、七瀬は伏し目がちに言葉を続けた。
「本当はあの日、三人じゃなかったんです。もう一人来る予定だったんですけど……」
「え? そうだったの?」
それは初耳だ。確かに人は少ないと思っていたけど。
七瀬は項垂れるように頷く。
「俺より一個上の他校の女子が働いていたんですけど、その前の週に告られたんです。それで俺が『ただの先輩としてしか見られない』って振ったら、泣きながら逆ギレされて……。そしたら、バイトに来なくなりました」
「うわぁ……」
それは、お気の毒に。
失恋したショックからバイトに来られなくなった女子も、自分のせいでバイトをやめたと罪悪感を抱いてしまった七瀬も、ついでに諸々の後処理をさせられた店長も。
俺が知らなかっただけで、あの日はみんな余裕がなかったのかもしれない。
七瀬がグラスを揺らすと、残っていた氷がカラカラと音を立てる。だんだん小さくなっていく氷を眺めていると、七瀬が力なく笑った。
「あの日忙しかったのは俺のせいなんです。人足りてなくて、新人のキョウさんにオーダーが飛んだのも」
「いや、七瀬のせいってわけじゃ……」
忙しいのはタイミングの問題だし、俺にオーダーが飛んできたのもたまたまだ。告白を断るのだって、悪いことではない。
それでも七瀬は責任を感じているようだ。長くて繊細なまつ毛が、目元に影を落としていた。
「余裕なくて、イラついて、キョウさんにキツくあたったのも、今となっては申し訳なかったなぁって反省しています。ホント、ごめんなさい」
背中を丸めながら謝る七瀬は、いつもより小さく見えた。
確かに最初に冷たくされたときはショックだったけど、今はなんとも思っていない。だからそんなしょぼくれた姿は、見せなくてもいい。
俺は上も下も関係なく、堂々と振る舞う七瀬が好きだ。丸くなった背筋を正すように、ぽんっと背中を叩いた。
「別にいいよ。気を遣われて惨めな気分になるのも、恋愛を煩わしく思うのも、わかるから」
ふっと七瀬が顔を上げる。申し訳なさそうに沈んだ表情が、笑顔に変わればいいと願いながら、微笑みかけた。
「多分俺たち、ちょっと似ているところがあるんだと思う。だからかな。七瀬の隣はすごく居心地がいいよ」
こんな風に、誰かと一緒にいて心地いいと思ったのは初めてだ。俺にとって、七瀬は特別。だからこれからも、堂々と隣にいてほしかった。
精いっぱい歩み寄ったつもりだったけど、七瀬は頬杖をつきながらそっぽを向いてしまう。
「なんすか、それ?」
「え? 俺、変なこと言った?」
「無自覚ですか? こわっ」
七瀬の耳は、燃え上がりそうなほど赤く染まっている。
まさか、怒らせた? 俺と同類にされたのが嫌だったとか? やっぱりコミュニケーションって難しい……。
オロオロしていると、七瀬にギロリと睨まれる。次の瞬間、隣から伸びてきた手で、むにっと頬をつままれた。
「キョウさん」
「ふぁに?」
「これからは、俺以外の前で笑うの禁止です」
突然飛んできたオーダーに、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
笑うの禁止? それは……横暴だろう。
「いやいや、笑えなかったらバイトでも困るでしょ」
頬をつまむ手を振り払いながら抗議する。七瀬は依然としてむくれていた。
「接客業やってんなら、営業スマイルとガチデレスマイルの使い分けくらいしてくださいよ」
「ガチデレスマイル!?」
俺はそんなものを晒していたのか? 自覚なかった。恥ずかしい……。
ジリジリと頬が熱くなるのを感じていると、七瀬は薄くなったアイスコーヒーを一気に飲み干す。
「あー、もう帰りましょう。暗くなったら、キョウさん攫われそうだし」
「攫われないよ? 子どもじゃないんだし」
「どうだか。ゆるかわとかアイスに釣られて、ホイホイついてかないでくださいよ」
そう悪態をつく七瀬は、いつもの生意気な年下の先輩に戻っていた。
「ありがとうございました!」
新人店員さんに見送られながら店を出る。言い合いをしながら隣を歩いている間も、頭の中では先ほどの会話が渦巻いていた。
ガチデレスマイルを、他の人に見せるのは禁止。思い出すだけで、にやけそうになる。
独り占めにされるのが、こんなにも嬉しいものだとは思わなかった。
陽が落ちる前に、俺たちは電車に乗り込んだ。二人分の席を確保して電車に揺られていると、睡魔に襲われていく。
ごとん、ごとんと電車が揺れると、うつら、うつらと頭も揺れる。重心が傾くのを感じながら意識が遠のきかけたとき、七瀬に腕を掴まれた。
「キョウさん。寝てもいいけど、寄りかかるなら俺の方にして」
七瀬に声をかけられたところで、見知らぬオジサンに寄りかかりそうになっていたことに気づいた。
危ない、危ない。慌てて姿勢を正して、真っすぐ座り直した。
しかしすぐに抗いようのない睡魔に襲われる。またしても、うつら、うつらと重心が傾いていくと、七瀬に腕を掴まれた。
「だからこっち」
強く引き寄せられて、七瀬の肩に頭が乗っかる。これはちょうどいい枕だ。他人だったら申し訳ないけど、七瀬だったら気兼ねなく預けられた。
心地よい揺れと、温もりに包まれながら、俺は意識を手放した。
眠っていたのは、ほんの数分だった思う。意識が戻ってきたとき、誰かに頭を撫でられていることに気づいた。
頭頂部から後頭部にかけて、ゆっくりと手のひらが滑っていく。これはどういう状況だ?
薄目を開けて隣を見ると、七瀬が俺の頭を撫でていた。
慌てて目を瞑る。なんだか見てはいけないものを見てしまったような……。
眠気なんて、すっかりどこかへ飛んでいってしまった。
なんで頭撫でてんだよ、とツッコミたかったけど、それをしたら七瀬の手が離れていってしまう。それは、なんだか惜しい。
――もう少し、このままで。
そんな風に思っていることに、自分でも驚いていた。
もう一度薄目を開けてみると、七瀬の耳が真っ赤に染まっていることに気づく。夕日のせいだろうと思いつつも、都合のいい解釈をしてしまった。
熱い。頭も、首筋も、胸の奥も、全部。なんで俺、こんなに熱くなっているんだろう?
電車はだんだん速度を落としていく。すると頭を撫でていた七瀬の手が、ゆっくりと離れていった。
電車が完全に停車したところで、軽く肩を叩かれる。
「キョウさん、俺もう降りますから」
声をかけられたけれど、恥ずかしくて目を開けられない。「んー」と曖昧に返事をして姿勢を正してからも、寝たふりを続行していた。
電車の扉が閉まった頃、ようやく目を開ける。七瀬は、もう隣にいなかった。
火照った顔を隠すように、手の甲で口元を押さえる。
「なんだよ、さっきの……」
小さく漏らした戸惑いの声は、電車が走り出した音でかき消された。



