バイト先の完璧男子が俺だけに素を見せてくる

 去年の夏は、特に予定もなくダラダラ過ごしていたけど、今年は違う。カレンダーの三分の一は、バイトで埋まっていた。
 今日も十三時からシフトが入っている。家を出るには、まだ少し早い。

「マル、おやつ食べる?」

 ベッドの上で丸くなっている飼い猫のマルに声をかける。マルはピクリと耳を動かしてから、みゃーんと甘えた声を出しながらベッドから飛び降りた。

「食べたいかぁ。そうか、そうかぁ」

 デレデレと頬がゆるんでいくのを感じながら、リュックの中から昨日買った猫用のおやつを探す。その間にも、マルはふわふわした身体を脚にすり寄せた。

 いつもは素っ気ないくせに、こういうときは甘えてくる。そんな気まぐれなところも、愛おしい。

「いろんな味が入っているパックを買ったんだけど、今日はカツオにしよっか」

 ほら、とカツオ味のスティックを見せながら床にしゃがむと、マルの瞳がギランと輝いた。
 マルは、三年前にうちにやって来た黒猫だ。母の友人宅で五匹の子猫が生まれたと聞き、当時中学生だった俺が飼いたいと強請った。母は世話が大変だからと渋っていたが、俺が面倒を見るという約束で迎えることになった。
 宣言通り、マルの面倒は俺が見ている。だから実質、俺の猫だ。いつか実家を離れるときも連れて行くし、最期まで面倒を見る覚悟をしていた。

「今開けるからねー」

 包装を開けるのに手こずっていると、マルがガジガジと指に噛みついてくる。甘噛みだけど、痛い。

「あげるからちょっと待て! それにこれは特別なおやつなんだぞ。俺の初給与で買ったんだから」

 そんな説明をしたって、マルにはわかりっこない。早くよこせ、と言わんばかりに指に噛みついてきた。
 ……まあいいか。猫の恩返しなんて期待していない。マルが喜んでくれるなら、それで十分だ。

 おととい、初めてのバイト代が支給された。金額は二万円ちょっと。そのうち千円は、マルのおやつ代にあてた。
 それ以外の使い道は、まだ決めていない。せっかくだから、思い出に残るようなことに使いたいと考えていた。

「開いた! はいどうぞー」

 スティックを差し出すと、マルは夢中になって液状のおやつを舐める。その姿を眺めていると、ふと七瀬にアイスを分けてあげた日のことを思い出した。
 アイスを舐める柔らかそうな舌。上目遣いのアーモンド形の目。ふっと溶けたような笑顔。それらがフラッシュバックすると、心臓がおかしな速度で暴れ出した。

「ぐふっ。うぅ……ああぁー……」

 墓から這い上がってきたゾンビのような呻き声を上げる。一瞬マルが顔を上げたが、おやつの提供には問題ないと判断したのか再び食べ始めた。

 最近の俺は、ちょっと変だ。
 七瀬のことを思い出して、悶えるようになってしまった。
 直接顔を合わせているときは平気だけど、あの夜と関連するものを見ると、うわあっと胸を掻きむしりたくなる。自分でも、なんでこんな状態になっているのかわからない。

「マル、俺は頭がおかしくなったのかもしれない」

 お悩み相談をしても、マルは知らんぷり。当然か。
 邪念を追い払うように、ぶるるっと首を振る。
 余計なことを考えるな。七瀬はただのバイト仲間だ。俺がおかしな想像をしたら関係が崩れる。

「七瀬は後輩。……いや、先輩か。先輩、先輩」

 ぶつぶつ呟きながら暗示をかけていると、ガチャリと玄関のドアが開く音が聞こえた。
 誰か帰ってきた。多分、大学生の姉、桃華だろう。
 昨日はサークルの飲み会があるとかで、家には帰ってこなかった。そのことに母が鬼のように怒っていたのを覚えている。
 自由奔放な姉に呆れつつも、廊下に響く足音に耳を傾けていた。
 パタリ、パタリ、と響いていた足音は、突如ドサッとした重たい音に変わる。

「ん? 倒れた?」

 気になって部屋から出ると、姉が廊下でうずくまっていた。その姿を見て、サアアッと血の気が引いていく。

「姉さん、どうしたの!? 熱中症? きゅ、救急車呼ぶ?」
「水とマルを……」
「え?」
「水とマルを!」

 大声で訴えられたところで、俺は急いでリビングに走った。
 数分後。水を飲んで落ち着いた姉は、マルの背中を撫でながら、涙ながらに事情を明かした。

「うう……。彼氏がね、サークルの後輩と浮気してたの。二人でホテル入るところを見たって子がいてね、問い詰めてみたらクロ。向こうはほんの出来心だったから別れたくないって言ってるんだけど、どうするべきか悩んでて」

 ものすごくディープな恋愛相談をされてしまった。
 困るんだよな。俺、恋愛経験ないし。

「昨日、サークルの同期に相談したんだけど全然結論でなくて……。別れるべきかな? それとも見逃すべき?」

 わからない。全然わからない……。

「ね、姉さんはさ、その人のこと、まだ好きなの?」

 恐る恐る聞いてみると、姉はぐすんと鼻をすすりながら視線を落とす。

「正直、わかんなくなっちゃった。裏切られたのはショックだし、彼氏が他の女に触れたと想像すると、気持ち悪くて……」

 その話を聞くと、なんとなく察してしまった。
 多分、その恋はもう終わったんだと思う。『好き』が『気持ち悪い』に変わるなんてよっぽどだ。とはいえ、弟の口からそれを告げるのは酷な気がした。
 掛け時計を見ると、十二時を過ぎている。そろそろ出かけないと、バイトに遅刻してしまう。

「ごめん、俺は相談相手にはなれそうにない。バイトもあるし……。マルは貸してあげるから」

 マルに慰め役を託して、そそくさと椅子から立ち上がる。

「元気、出してね……」

 申し訳程度の慰めの言葉を残して、逃げるようにリビングから飛び出した。
 玄関の扉を開けると、攻撃性すら感じる日差しに襲われる。それだけで、HPがジリジリ削られていくような気がした。先ほどの姉の話を思い出すと、余計に身体が重くなる。

 姉から恋愛絡みの話を聞かされたのは、今回が初めてではない。喧嘩したり、蛙化したり、愚痴もさんざん聞かされた。
 恋愛に興味のない俺からすれば、何度失恋しても懲りずに恋人を作る姉の心理はよくわからない。いつか終わるかもしれない幸せなんて、最初から欲しがらなければいいのに。

「あっつ……。さっさと行こう」

 額に滲んだ汗を拭ってから、早足でアイスクリーム屋へ向かった。