屋上のブラックリリィ

その日は、雨だった。

校舎の窓を叩く音がやけにうるさくて、廊下は湿った空気で満ちていた。

私、高校二年の司さゆりは、職員室の前に立っていた。

中に入るつもりはない。

ただ、聞こえてきた声を確認したかっただけ。

「証人はいるのか」

という教師の声が聞こえた。

「ちゃんとした証拠がないと、処分できないだろ」

わっという女の子の泣き声が聞こえた。

「でも……あの人達は、毎日……」

途切れて、また泣いた。

私は傘を持ったまま、白い壁に寄りかかった。

他人のことなんて、関係ない。

この学校で起きていることなんて、全部、私には関係ない。


*

その前日、廊下の奥の教室で、変な笑い声がした。私はなぜか悪の臭いには敏感なのだ。

三年生の女子が数人、つるんでいた。

その中心にいるのは、見覚えのある顔だった。

みかみは、いつも「正しい側」にいる人間。いや、いるように見せているだけだ。

「虫が好かない。めそめそ泣いてると、ますます腹がたつ」

とみかみが言った。でも、誰も否定しないし、誰も止めない。

みかみの世界では、みかみの言うことが絶対なのだ。彼女には支配者のオーラがあり、みんな従う。

こういう光景は、世の中では珍しくない。

テレビを見たって、こういうのはどこにでもある。

強い人には、みんなへらへらする。

だから私は関わらない。

私は、ひとりで私の道を行く。


*

数日後の放課後。

その女子は、屋上にいた。

制服は濡れていて、髪も乱れていた。

柵の向こう側に、半歩だけ近づいている。

私は屋上のドアを押さえながら、立ち止まっていた。

風が強くて、ドアが押し返されそうだ。

その子の声は聞こえないけど、唇が動いているのが見えた。

「もう、いい」

ひとりで、そう言っていた。

その瞬間、私は駆け寄っていた。

「やめなよ」

女の子が振り返った。すごく驚いた顔をしていた。

彼女は私を知らない。

「あなたには、関係ないことです……」

と女子が言った。

「そうね」

と言って、私は一歩近づいた。

「じゃあ、飛べば。飛び降りるつもりなんでしょ」

女の子の目が揺れた。

「……止めてくれないんですか?」

「関係ないし、止める理由がないわ」

「はい」

「でも、こういう場面を見るのは、いい気分じゃないけど」

彼女が黙った。

「誰にいじめられているの?」

「え?」

女の子が戸惑った。

「いじめられているんでしょ。みかみに?」

「違います……」

「こわいの? 違わないでしょ。こわくなかったら、どうして飛び降りようとするの?」

「でも……」

私はもう少しだけ近づいた。

「なんとかしてほしいのなら、してあげられるけど」

「できないです。先生にも、できないのだから」

「私には、できる」

その言葉で、女の子は泣き崩れた。


*

三日後。

問題は消えていた。

いや、正確には私が消した。

加害者の噂。

裏アカ。金の話。教師との関係。全部、どこからかSNSで流れて、バズった。

みかみは転校し、被害者は黙った。

教師は何も言わなかった。

そして私は、いつも通り学校にいた。

廊下で、誰かが囁いた。

「知ってる?」

「最近、みかみ先輩に制裁されたハナシでしょ」

「あれ、ブラックリリィの仕業らしいよ」

「ブラックリリィ?」

「この学校に、そういう人がいるらしい」

「だれ」

「知らない」

私は足を止めて、振り返った。

誰も私の裏の顔を知らない。

私はゴーイングマイウェイ、他人のことには関わらない。



*


昼休み。

屋上のフェンスにもたれながらパンを食べていた私は、ため息をついた。

またか。

目の前にはおどおどとした一年生の女子。

私を見て「中井加奈です。お願いします」と頭を下げた。

制服の袖が少し破れている。

頬にはうっすら痣。

何があったのか、見ればわかる。

「何のこと?」

「先輩はブラックリリィですよね」

「何かわからないけど、お断りします」

「だめですか」

加奈の顔が凍りついた。

「どうして人に助けてもらおうとするのよ。自分のことは自分でしなさい」

加奈は唇を噛んだ。

「それが、できないから」

だから、私のところへ来た。ブラックリリィのところへ助けてもらおうという選択をしたわけだ。

「お願いします」

「無理」

私はパンの最後の一口を飲み込んだ。

「私は正義の味方じゃないから」

少女の目に涙が滲んだ。

泣けばどうにかなると思っている人は、好きではない。

世の中はそんなに優しくないんだよ、と言いたい。

「私、生きたいんです。普通に生きたいんです」

「誰にやられてるの?」

「二年の……」

「ああ、あいつか」

と私は眉を上げた。

志川純子。

あいつのことは、よく知っている。同級生で、生徒会副会長。教師受け抜群。

頭も、ルックスもいい。悪いのは性格だ。

誰にもいい子ぶっている子は、どこかで無理していて、弱い子に的をしぼって、じわじわといたぶって、ストレスを解消する傾向がある。

私はスマホを取り出した。

加奈が顔を上げる。

「助けてくれるんですか?」

私は画面を操作する。

保存フォルダを開く。

同級生だから、情報はたくさんたまっている。

放課後のカラオケ店。未成年飲酒。万引き。喫煙。暴力。補導歴だってある。
人気者ほど弱みが多い。


その時、屋上の扉が開いた。

噂をすれば何とやら。

純子が取り巻きを連れて現れた。こういう連中は、いつも集団で現れる。

こちらを睨む。

「あ」

加奈の肩が震えた。

純子がニヤニヤ笑った。

「ここにいたのか。なんだよ。告げ口か?」

加奈が顔を青くする。

私は面倒そうに頭を掻いた。

「うるさいな」

「なんだと?」

純子が眉をひそめ、きれいな顔がみにくく歪んだ。

それが純子の本当の顔だ。

私はスマホを掲げた。

「昨日の居酒屋、美味しかった?」

沈黙。

純子の顔色が変わる。

「……何言ってんのよ」

「店名言おうか?」

取り巻きがざわつく。

私は続ける。

「未成年飲酒。喫煙。暴行。万引き。どれから送ろうかな」

「どこに」

「親か、担任か、警察か、どれがいい?」

純子の額に汗が浮かぶ。

「司……」

「同級生だからって、呼び捨てにされる筋合いはない」

私は笑い、スマホの送信ボタンに指を置いた。

「三秒あげる」

純子の顔から血の気が引く。

「この子に謝るか」

私は微笑んだ。

「いい子の仮面を脱ぐか、ひとつ、選びな」

私はスマホの画面を純子の目の前に突きつけた。

「三」

純子が固まっている。

「二」

私は送信ボタンにかけた親指に、わざとらしく力を込める。

「ま、待って! 謝ればいいんでしょ!?」

私には、正義感もないし、優しさもない。

でも、私は知っている。

世の中の悪人は、善人よりも弱いことを。

そうあるべきなのだ。

だから今日も。

誰かを救うためではなく、気に入らない不条理というやつを潰すために、

情報を集め続ける。

ブラック・リリィは、ただそういう作業が好きなのだ。


          了