大会が近づくにつれ、放課後のリンクはますます二人の世界になっていった。
ある雨の日の放課後、浩一はタブレットとノートを抱えてリンクにやってきた。遥はすでに練習を終え、ベンチに座って髪を拭いていた。
「遥さん、今日は『初恋』の表現について一緒に研究しましょう。古い名プログラムを何本か持ってきました」
浩一が隣に座ると、遥は自然に体を寄せてきた。肩が軽く触れ合う。
「へえ、熱心だな。俺のためにそんなに用意してくれたんだ」
遥の声が近くて、浩一の耳が熱くなった。
二人はタブレットの画面を一緒に覗き込みながら、過去の選手たちの演技を観ていく。浩一は真剣な目で解説を始めた。
「ここを見てください。この選手の目線。大切な人を思い浮かべて、でもその人が自分を見ていないことを悟った瞬間の、一瞬の影……。そういう繊細な表情が、『初恋』の表現には必要なんです」
遥は画面を見つめながら、ふっと小さく笑った。
「浩一って、案外ロマンチストなんだね」
その言葉に、浩一の胸がどきりと鳴った。
(ロマンチスト……? 僕、そんな風に思われたことないのに……)
遥の手が、そっと浩一の手の上に重なってきた。練習後の温かい体温が伝わってくる。
浩一は慌てて声を上げた。
「せ、瀬戸さん……!」
「手、冷えてるだろ? 俺のほうが温かいよ」
遥は悪戯っぽく笑いながらも、指を軽く絡めてきた。浩一の心臓が激しく鳴り始める。
「……遥さん、そんなに近くで……僕、ちゃんと説明してるのに……」
「説明、ちゃんと聞いてるよ。でも浩一の顔が赤いのが面白くてさ」
遥はくすくすと笑いながらも、すぐに真面目な顔に戻った。
「なあ、浩一。このプログラム……俺、誰のことを想って滑ればいいか、分かった気がする」
浩一は息を詰めて遥の横顔を見た。
「……誰、ですか?」
遥は少し照れくさそうに目を細め、浩一の指を優しく握った。
「秘密。大会で滑るまで、教えない」
その笑顔は、いつもよりずっと柔らかくて、どこか切なげだった。浩一の胸の奥が、甘く締め付けられる。
(遥さんのこんな顔……僕だけが見てるんだ)
その夜、浩一は自分の部屋で遥の練習写真を眺めながら胸がざわついて眠れなかった。
(どうしてだろう……遥さんのことを考えると、胸が苦しくて、温かくて……)
ただの尊敬じゃない。憧れでもない。
これは、きっと——浩一は慌てて首を振った。そんな気持ちを抱くだなんて彼に失礼だ。
(まだ、わからない……でも、遥さんと一緒にいると、すごく幸せな気持ちになる)
数日後、再びリンクでの練習。
「初恋」の旋律が流れ、遥が何度も同じ部分を繰り返している。浩一はカメラを構えながら、表現力について熱心に指摘した。
「遥さん、キャメルスピンのところで、もっと首と背中を優しく伸ばして。視線を少し遠くへ向けて……『想っているのに、届かない』という切なさを、指先の微かな震えで表現してみてください。音楽が静かになる部分で回転スピードを少し落として、終わった瞬間にそっと目を伏せる……そんな余韻が大事です」
遥はスピンを終えてリンクサイドに戻り、汗だくのまま浩一の隣に座った。
「……浩一のアドバイス、いつも的確すぎて怖いよ。コーチが憑依してんじゃないかって思うくらい。でも、まぁ、お前がそう言うなら試してみる」
遥はタオルで顔を拭きながら、ふと遠い目をした。
「なあ、浩一……俺、昔から『天才』って言われてきたんだ」
浩一は静かに耳を傾けた。遥の声は少し低くなった。
「小学生の頃から、周りは俺に完璧を求めてきた。親もコーチも『お前は才能があるんだから、失敗したらダメだ』って。8級を取る頃は毎日、リンクに残って一人で練習してた。何度も転んで膝を擦りむいて、腰が痛くて泣きそうになりながら……それでも『天才だから楽だろ』って言われるのが辛くてさ」
遥は自嘲気味に笑った。
「だから学校では、チャラ男のフリをしてるんだ。明るく振る舞って、誰も本気の俺を見ないように……努力してる姿も、弱いところも、見せたくなかった」
浩一の胸が、痛いほど締め付けられた。
(遥さん……そんなに一人で頑張ってたなんて……)
「でも、浩一は違うよな」
遥は浩一の顔をまっすぐに見つめた。瞳が優しい。
「レンズ越しに、俺の転んだ後の痣も、疲れた顔も、全部真正面から見てくれる。厳しく指摘しながらも、ちゃんと褒めてくれる……お前の前だと、嘘をつかなくていい気がするんだ」
浩一の目が熱くなった。
「……遥さん」
声が震えてしまう。
「僕、知らなくて……ごめんなさい。遥さんがそんなに頑張ってたなんて……もっと早く、君の本当の姿を知りたかったです」
遥は照れくさそうに笑って、浩一の肩に軽く頭を預けてきた。
「謝るなよ。今、浩一がちゃんと見てくれてる。それだけで、めちゃくちゃ嬉しいんだよ」
二人はしばらく無言で並んで座っていた。
冷たいリンクの空気の中で、遥の体温がとても近く感じられた。浩一の心の中で、何かがゆっくりと、確実に変わり始めていた。
(遥さんの孤独を知って……ただ尊敬してるだけじゃなくなってきた)
遥の努力、痛み、笑顔、全部が愛おしく思える。
学校の廊下で遥が女の子たちに囲まれて笑っているのを見たとき、胸がちくちくと痛んだこともあった。
これは、きっと——浩一はそっと自分の胸に手を当てた。
(好き……なのかな。遥さんのことが)
その想いを、まだ言葉にできなかった。でも、放課後のリンクで遥と過ごす時間が、毎日が、どんどん特別になっていくことは、はっきりと感じていた。
遥が小さく呟いた。
「浩一……お前がいると、練習が楽しくなるよ」
浩一は顔を赤らめながら、精一杯の笑顔で答えた。
「……僕もです。遥さんと一緒にいると、すごく……温かい気持ちになります」
遥は満足そうに笑って、浩一の指に自分の指をそっと絡めてきた。
「じゃあ、これからもずっと見ててくれよな。俺の全部を」
浩一の心臓が、甘く高鳴った。
「……はい。ずっと、見てます」
雨の音がリンクの屋根を優しく叩く中、二人の秘密の時間は、ますます甘く、温かく続いていった。



