放課後の嘘つきな体温






 それから、放課後のリンクは二人だけの秘密の時間になった。
 翌日の放課後、浩一はカメラバッグを抱えてリンクに向かいながら、自分の胸のざわつきに戸惑っていた。あのトリプルアクセルを見た興奮は、まだ胸の奥に残っている。でも、それだけじゃない。遥に名前を呼ばれた瞬間から、なんだか心臓の音がいつもより少し大きい気がする。

(……ただ、憧れだった人だ。その人と話せてそれだけ……)

 そう自分に言い聞かせながら、リンクの観客席に着いた。遥はすでに氷の上にいた。練習着姿で、軽くストレッチをしている。学校で見せる明るい笑顔とは違う、集中した横顔。浩一はそっとカメラを構えた。

「遥さん、今日はどのジャンプから練習しますか?」

浩一が声をかけると、遥は氷の上からこちらを見て、にっと笑った。

「浩一、早速来てくれたんだ。やる気満々じゃん」

 それから二人の秘密の時間が始まった。
 浩一は連写モードで遥の一挙手一投足を記録しながら、時折真剣に指摘をする。

「遥さん、今のコンビネーションスピン、シット姿勢からキャメルに移行するタイミングが、音楽とコンマ数秒ズレています。キャメルスピンのフリーレッグの膝が少し緩んでるので、レベル4は取りにくいと思います」

 遥は氷の上に座り込み、肩で息をしながら苦笑した。

「……鬼かよ。俺のスピンにまでそんな細かく突っ込んでくるなんて。アシスタントコーチにも言われたことないのに」

 でも、その瞳にはどこか嬉しそうな光が宿っていた。浩一はモニターを遥に見せながら、熱心に続ける。

「でも、回転速度自体はすごく安定してますよ。特にキャメルスピンのラインが綺麗で……遥さんの体、柔らかいんですね」

 遥は汗を拭いながら、柵越しに浩一の顔を覗き込んだ。

「浩一って、本当にスケートのこと好きだよな。俺の顔、一回もちゃんと見てないでしょ? エッジとか膝とか、そんなのばっかり」

 浩一はモニターを見つめたまま、静かに答えた。

「……見てますよ。ちゃんと。
遥さんがジャンプを決めた後の、ほんの一瞬だけ見える子供みたいな笑顔とか……苦しそうなときの真剣な表情とか……全部、カメラに収めてます」

 遥は一瞬、言葉を詰まらせた。

「……っ……」

 耳の先がわずかに赤くなるのが見えた。

「なんか……変な感じだな。誰も見てくれなかった過程を、浩一はレンズ越しに全部暴いていくんだもんな」

 浩一の胸が、ふわりと温かくなった。
 その言葉が、なぜかとても嬉しかった。

 次の練習は、遥の得意とするトリプルアクセルだった。
 浩一はベンチに座り、カメラを構えながら真剣に遥を見つめる。

「遥さん、もう一回お願いします。踏み切りから着氷まで、しっかり見てますね」

 遥は軽く頷き、リンクの中央に戻った。助走のステップを踏み、速度を上げていく。左足のフォワード・アウトサイドエッジで滑りながら体を低く沈め——踏み切り。

 体が美しく宙に舞う。
 三回転半。空中でコンパクトにまとまり、回転軸がびしりと決まる。着氷の瞬間は滑らかだったが、少しバランスを崩して左足が浮いてしまった。
遥は小さく舌打ちをしてリンクサイドに戻ってきた。

「どうだった?」

 浩一はすぐにカメラのモニターを遥に見せながら、眼鏡を押し上げて解説を始めた。

「踏み切りは良かったんです。左足のアウトサイドエッジが深く氷を捉えていて、パワーも出てました。フリーレッグの振り上げも鋭い。でも……着氷の瞬間に左肩が少し落ちてるんです。軸がほんの少し後ろに傾くと、最後の半回転のキレが甘くなって、流れが途切れてしまいます」

 浩一は真剣な目で遥を見つめ、続けた。

「トリプルアクセルは他のジャンプと違って前向き踏み切りだから、半回転多いんです。3.5回転を確実に決めるには、踏み切りでしっかり体重を左足に乗せて、『ステップアップ』するようなイメージで跳ぶのが大事。空中では腕と右足を体に思いっきり引きつけて回転半径を小さくして……着氷は右足のバックアウトサイドエッジで、膝を柔らかく曲げて衝撃を吸収しながら、次の動きに繋げる……」

 そこで浩一は少し声を柔らかくした。

「遥さんは高さと距離が本当に素晴らしいから、もっと軸を垂直に意識すればGOEで+2や+3が狙えますよ。……僕、遥さんのトリプルアクセルが一番好きなんです。決まった瞬間の、子供みたいに嬉しそうな笑顔が……すごく綺麗で、胸が熱くなるから」

 遥はモニターを覗き込みながら、照れくさそうに頭を掻いた。

「……浩一にそんなこと言われると、なんか練習に集中できなくなるんだけど」

「えっ、ごめんなさい……でも本当のことなので」

 浩一も頰が熱くなるのを感じて、慌てて視線を逸らした。
 遥はくすっと笑って、柵に手をかけたまま浩一に少し体を寄せてきた。練習で火照った体温が、冷たいアリーナの空気の中で近く感じられる。

「わかったよ。もう一回やってみる。……浩一がちゃんと見ててくれるなら、頑張れる」

「うん。僕、ずっとここで見てますから」

 遥は再びリンク中央に戻った。
 今度は先ほどより助走の入り方を丁寧に調整し、深く息を吸う。踏み切り——左足のエッジが氷を強く捉え、体が大きく跳ね上がる。空中での回転はよりコンパクトで、軸が完璧に決まっていた。三回転半の最後の半回転も綺麗に収まり、着氷は滑らか。すぐに流れるようなステップへと繋がった。

 完璧に近い、遥のトリプルアクセルだった。
 遥は勢い余ってリンクサイドまで滑り寄り、柵に手をついて浩一を見た。息が荒いのに、瞳が輝いている。

「どう……?」

 浩一はカメラを下ろし、満面の笑みで何度も頷いた。

「最高でした、遥さん! さっきの指摘をちゃんと意識してくれたんですね。軸が真っ直ぐになって、高さも距離も増したし、着氷のフローも綺麗……これなら大会で絶対に観客を魅了できます」

 遥は照れくさそうに笑いながら、浩一の隣に腰を下ろした。肩と肩が軽く触れ合う。

「……浩一の言う通りだった。軸を意識したら、なんか体が勝手に動いてくれた気がする。お前がレンズ越しにずっと見ててくれるから……俺、頑張れるんだよな」

 浩一の胸が、甘く疼いた。

(遥さん……そんな風に言ってくれるなんて)

「僕も……遥さんのジャンプを記録してる時が、一番幸せです。技術のことも、遥さんがどれだけ努力してるかも、全部知ってるつもりでいるから」

 二人はしばらく無言で並んで座っていた。冷たいリンクの空気の中で、遥の体温だけが近くて、温かかった。
遥が小さく、けれどはっきりとした声で呟いた。

「次の『初恋』のプログラム……このアクセルに、もっと想いを乗せられたらいいな。浩一が教えてくれた『熱』を、ちゃんと氷の上で出せるように」

 浩一はそっと遥の横顔を見つめ、優しく微笑んだ。

「うん。一緒に、最高のプログラムにしましょう」

 遥はくすっと笑って、浩一の肩に軽く頭を預けてきた。

「……頼りにしてるよ、専属カメラマン」

 その瞬間、浩一の心臓がまた大きく鳴った。

(遥さんの頭……重くて、温かくて……どうしてこんなに、胸が苦しいんだろう)

 まだ名前で呼ばれるだけでドキドキするのに、肩に頭を預けられるなんて。
 浩一は顔を赤らめたまま、そっとカメラを握りしめた。

 この気持ちが何なのか、まだよくわからなかった。
でも、遥さんと一緒にいる時間だけは、確かに特別で、甘くて、温かいものだった。放課後のリンクで、二人の秘密の時間は、少しずつ深まっていった。