放課後の嘘つきな体温






 学校の屋上から見える白い建物は、秦野(はたの)浩一(こういち)にとって特別な場所だった。
 春の柔らかな風が頰を優しく撫でる中、浩一はフェンスに寄りかかり遠くのリンクをぼんやりと眺めていた。手にしているフルサイズミラーレスのカメラが、今日はやけに重たく感じるがシャッターを切る。
 

「――秦野、このままじゃ本当に写真部は廃部だぞ。もう少し実績を作れ。全校生徒が息を呑むような、そんな『一瞬』を撮ってこい」
 

 顧問の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。浩一は眼鏡のブリッジを指で押し上げ、小さく息を吐いた。
 だけど、写真自体はそう好きでもない。ただ、半年に一度写真を撮りコンテストに一回は出す。佳作でもなんでも賞を一年に一人は実績つけることが条件なのだ。
 それでも精力的に活動する部ではないし、ほとんどが帰宅部と同然だ。だが、浩一が入学し入部してからコンテストでの実績がない。それが問題なのだという。

 だが、しかし。俺はこの高校に来たのは写真部に入りたかったんじゃない。
 ここには、県内唯一の本格的なフィギュアスケートリンクが隣接していることとフィギュアスケート部が存在していることが関係している。
 実は、浩一は重度の隠れフィギュアスケートオタクだ。
 夜になると部屋の電気を消してヘッドホンを付ける。浩一が好きなとある選手の演技動画を何度も繰り返し観ているし、採点を読みながらトリプルアクセルの回転軸がどれだけ真っ直ぐか、エッジの角度がどれだけ深いかをノートに細かくメモをしたりしている……やったことはないけど、両親と見に行った時に魅了され今に至る。

 そんな時間が浩一にとって何よりの癒しであり、密かな幸せを感じられるのだ……でも、結局僕はレンズ越しに眺めることしかできない。
 
 そんなことを考えている時だった。リンクの裏口に、ひらりと茶髪の影が滑り込むのが見えた。

 それは学園一の陽キャで常に人が周りにいるのが普通の彼と有名な瀬戸さんだった。
 瀬戸さん――瀬戸(せと)(はるか)は、浩一が好きで応援をしているスケート選手である。

 その彼がスケートリンクに入って行く。
 もしかしたら肉眼で滑ってるところがわかるかもしれないという好奇心が、浩一の足を自然と動かした。カメラをしっかりと握りしめて階段を駆け下りリンクの観客席へと急ぐ。

 リンクの中は、ひんやりとした静寂に満ちていたけれど氷を削る、スッと鋭くも滑らかな音が響いた。
 そこにいたのは、学校で見せる人を惹きつける笑顔を一切捨て去った、スケーターだ。遥のスケーティングは、浩一が動画で何百回も観てきたトップ選手たちにも引けを取らない美しさがあった。

 一蹴りで加速し、氷の上に深いエッジの軌跡を描き出す。体が低く沈み、勢いを溜めて彼は跳んだ。前向き踏み切り。これは……アクセルだ。

 浩一の心臓が、大きく跳ねた。遥の体が宙に舞う。腕を固く締め、回転軸は驚くほど垂直で真っ直ぐ。
 空中で三回転半——トリプルアクセル。着氷の瞬間、氷の粒子がキラキラとダイヤモンドの粉のように舞い上がり、滑らかなフローで次のステップへと繋がっていく。

 それは完璧だった。浩一の胸の奥から、熱いものが込み上げてくる。
 すごい……本当に、すごい……!

 思わず、手が勝手に動いた――カシャッ、カシャカシャカシャッ!

 氷を滑るだけの静寂を切り裂くシャッター音が響いた。その音に、遥の動きがピタリと止まる。鋭い視線が、影に隠れた浩一をまっすぐに射抜いた。

「……誰?」

 氷を滑る音が近づいてくる。遥は柵まで来ると、浩一を見下ろした。

「もしかして隠し撮り?  趣味悪いな。俺の顔、そんなに撮りたかったわけ?」

 いつもの人を食ったような薄笑い。
 でも浩一は怯まなかった。眼鏡を押し上げ、早口で熱く語り出す。

「そんなんじゃ! ありません! ……というか、顔じゃありません! 今のトリプルアクセル、踏み切りから空中姿勢、着氷後のフローまで……本当に完璧でした。先日バッジテスト8級取得されたって聞きました……国内最高峰の級!!」

 ペラペラと得意げに話す浩一に遥の目が見開かれた。

「……はははっ」

「ど、どうしたんですか?」

「いや、君、3Aとか8級とか……とても詳しいからさっ……」

 浩一の胸は、まだ興奮で高鳴っていた。言葉が止まらない。

「適当に跳べるジャンプじゃないって知ってます! あなたのエッジの深さ、回転軸の安定感……本当に素晴らしいです」

 遥はふっと視線を逸らし、照れくさそうに笑った。

「……変なやつ。君ってただの根暗で真面目の代表格だと思ってたのに。実は結構熱いんだな」

「僕のこと、知って――」

「知ってるよ、写真部の秦野くん。秦野浩一くん」

 その笑顔を見た瞬間、浩一の胸の奥が、ふわりと温かくなった。
 瀬戸さん……笑うと、すごく優しい顔になるんだ。いつもの胡散臭い笑顔じゃない。

 遥は浩一をじっと見つめていたが、やがて小さく息を吐いて言った。

「そこまで俺の技術がわかるなら、写真のモデルになってあげるよ。でも高いよ? 俺、8級の超エリート様だし」

「えっ」

「その代わり、俺のジャンプ写真でも動画でも撮って、ダメなところ指摘してほしいんだ」

「へ?」


 浩一がポカンとしていれば遥が、にっと笑った。

「よろしくな、浩一」

 ——その瞬間。浩一の心臓が、どくん、と大きく鳴った。
 こ、こ、こ……浩一、って!?初めて呼ばれた自分の名前が、耳の奥に残る。頰が熱くなり、指先が微かに震える。胸の奥が、ざわざわと甘く疼くような感覚。
 どうして……ただ名前を呼ばれただけなのに、こんなに熱くなるんだろう。
 浩一は慌てて眼鏡を直し、声を少し上ずらせながら答えた。

「は、はい……よろしくお願いします、瀬戸さん」

 遥はくすくすと楽しげに笑いながら、氷の上を軽く滑って離れていった。浩一はカメラを強く握りしめたまま、その背中をぼんやりと見つめていた。
 心臓の音が、まだ少し速い。
 なぜか胸の奥が、温かく、甘く、ざわついていた。