『バンコクの屋台は微笑まない』~人生の唐辛子!



1. 竹本社長からの特命

 サムイ島のエメラルドグリーンの海と、あの穏やかなファーとの時間は、向井とファーにとって忘れられない甘い記憶となった。

 一九九二年九月の某日。

 五月の流血事件の混乱がようやく落ち着きを見せる一方、滞っていた物流やストップしていたプロジェクトの巻き返しで、街全体に狂ったような活気が戻っていた。

 向井のデスクには、決裁を待つ書類と現地スタッフからの報告書が、文字通り山となって積み上がっていた。

 そんな中、向井の心に残るサムイ島の青い海と透き通るような空の余韻をかき消すように、日本の本社から一本の急電が入った。

 それはタイ支社への社運を賭けた至上命令だった。

 バンコク支社のオフィスでは、支社長の竹本が目に見えて焦り出し、朝から秘書のパワナーに何度も珈琲のお代わりをさせていた。

 オフィスには独特のピリピリとした空気が張り詰めていた。

 正午を少し回った頃、その日は先輩の佐藤がチェンマイへ出張中だったため、向井はタイ語のノートを手に取り、いつもの『クラシック・プレース・ホテル』へ向かおうとしていた。

 お気に入りのカオパッド(炒飯)を頼んで、ケウとの束の間のタイ語学習に気分を躍らせていたのだ。

 そんな日常のささやかな癒やしに逃げ込もうとした、まさにその時だった。

「向井君、ちょっと来てくれ」

 社長室から響いた竹本の声が、オフィスを出る向井の一歩目の足を呼び止めた。

 部屋に入ると、竹本は壁に掛けられている色褪せたタイ全土の地図を指差し、少し上ずった口調で、開口一番に向井に告げた。

「来週早々にナコンシータマラートへ行ってくれ」

 向井が言葉を失う間もなく、竹本は一気にまくしたてた。

「タイ南部は軍閥や地元の有力者の利権が複雑に絡む裏事情があるんだが、そこに手つかずの巨大なブラックタイガー(エビ)の養殖ルートと、日本向けの冷凍食品の買い付け利権が眠っている。競合の日系商社も、欧米のバイヤーも一斉に動き出した。現地で最も力を持つ華僑財閥のタン社長を説得して、独占買い付けルートを開拓してくれ。これは本社の命運を握るプロジェクトだ。君ならやれると信じてるよ」

 他社との熾烈なシェア争いというプレッシャー。

 竹本がこれほど露骨に期待を寄せてくることへの重圧とともに、向井の胸には一つの疑問が浮かんでいた。

 これほどの重要案件なら、なぜ支社長である竹本自身が現地に赴き、トップ交渉を仕掛けないのか。

 南部の複雑な利権の渦中に、若手にすぎない自分を弾除けとして放り込もうとしているのではないか――そんな冷めた疑念が、胃の奥にじわじわと苦い澱を沈めていった。

 その日の夜、アパートに帰宅してからも向井の心は悶々としたままだった。

 巨大な利権争いの渦にたった一人で放り込まれたような不安が頭から離れない。

 そのとき、部屋の静寂を破って電話のベルが鳴った。

 受話器の向こうから、ファーの柔らかい声が聞こえてきた。

 向井は堰を切ったように、今日オフィスで起きた出来事を彼女にぶちまけた。

 期待と不安が入り混じった複雑な感情が、言葉となって溢れ出す。

 向井のただならぬ様子を察したのか、彼女は優しく諭すように言った。

「ナコンへ行くのね。なら、私も行くわ。ちょうどフライトのオフ日なの。ナコンには兄が住んでるのよ。県内の病院で外科医の助手をしてるんだけど、もう三年も会っていないわ。ちょうどいい、私が案内してあげる」

 ナコンの出身者は、地元愛を込めて自らの故郷を親しげに「ナコン(都)」と呼ぶ。

 ナコンシータマラート県――バンコクから南へ約八百キロ。

 タイ南部で最も古い歴史を持つナコンシータマラート県は、七世紀に交易国家として栄えたスリヴィジャヤ王国の中心地で、古くから格調高い仏教文化が根づく保守的な古都だった。

 向井は急ぎホテルと航空券を手配しようとしたが、五月事件の移動制限解除の余波とビジネス客の殺到により、南行きのプロペラ機はまさかの全便満席。

 頭を抱える向井に、ファーは微笑みながら「じゃあ、夜行寝台特急で行きましょ」と、意外な鉄道ルートを薦めたのだった。

 手配した現地ホテルは、ダブルルームを一部屋だけ。

 これも伯母のビーには内緒で、向井が現地の旅行代理店を通してこっそりと予約していた。

 建前は出張だが、経費として精算できるのは自分の切符一枚だけだったため、ファーの分の切符は私費で支払った。

 二枚の寝台券を手にしたとき、向井の胸にはビジネスの緊張とは別の、小さな高揚感が芽生えていた。

 もちろん、ファーと二人きりで長い夜を過ごせるということ。

 そしてもう一つは、憧れの寝台特急に乗れることだった。

 向井は小学生の頃、父に連れて行ってもらった東京駅でのブルートレイン寝台特急の撮影を思い出していた。

 丸一日かけて東京から九州まで走る深夜特急に、幼い頃の向井は憧れたものだ。

 だが、物心がついた頃には、経営効率化の波にのまれて寝台列車は次々と姿を消していき、ついぞ乗る機会はなかった。

 大人になったいま、乗車したのは向井の期待通り、日本のJRから譲渡された24系二等寝台車だった。

 異国で第二の人生を歩み、タイ人の鉄道マニアたちからも、そのまま「ブルートレイン」と呼ばれ愛されている。

 その懐かしい青い車両に、ファーと二人で乗れること、それが向井にとってはもう一つの密やかな喜びだった。

 鈍い車体とレールの軋み音を響かせ、列車がバンコク・フアランポーン駅を午後七時五十分定刻に出発した。

 到着は翌朝、午前八時五十分の予定だ。

 日曜日というのに車内はタイ人のビジネスマンや、帰省の家族連れでほぼ満席だった。

 冷房が異常なほど効きすぎた車内。

 上の段にいたファーがタオルケットを被り、するりと降りてきて、向井の下段ベッドに転がり込んで、通路側のカーテンを閉めた。

 車窓の外は、またたく間に漆黒の闇へと塗り潰されていく。

 薄暗い読書灯の下、カーテンで仕切られた二人だけの小さな空間、二人は互いの肩を寄せ合った。

 向井がフアランポーン駅構内の売店で買っておいたムーピン(炭火で焼いた豚の串焼き)と、竹の器に入ったカオニアオ(もち米)を広げる。

「寝台列車のベッドの上で食べるムーピンは最高だよね」

 甘辛のたれで味付けされた豚肉を頬張りながら、カオニアオを小さく丸めて、口に放り込んだ。

 炭火の香ばしい味と豚肉の歯ごたえに自然と笑みがこぼれる。

 するとファーはバッグに忍ばせておいたシンハーの缶ビールをプシュッと小気味よく開けた。

「ムーピンと言えば、これでしょ?」

 いつの間に買ったのだろう。

 ファーの機転の良さが向井は嬉しくて、彼女の頬にキスをした。

「乾杯!チャイヨー!」

 小さな声で缶を合わせる。

 冷えたビールが喉を潤す。

 深夜、王室の保養地としての洗練された街明かりが消え、タイ中部と南部の精神的な境界線でもあるフアヒンを過ぎる頃、車窓の景色は背の低い雑木林から、月明かりに照らされた広大なゴム林の影へと姿を変えていった。

 二人が眺める夜空を、一つの流れ星が静かに横切っていった。


2. 「カノムチン・ナームヤー」とチャチャイの塩対応

 翌朝の月曜日。

 午前十時過ぎ、列車は予想通りに一時間ほど“遅れて”走行していた。

 そんなこともあろうかと、ファーが途中駅のホームで、揚げたてのパータンコー(タイ風揚げパン)とプラスチック袋に入った温かい豆乳を買ってきてくれていた。

 ほのかな甘みの豆乳をすすり、サクサクとした生地をかじる。

 列車がクラ地峡を抜け、サムイ島への玄関口であるスラタニーへ近づく頃、タイ湾から溢れ出した強烈な朝日が、二人の手元と車内を黄金色に染め上げていった。

 二人はその劇的な夜明けの情景をぼんやりと眺めながら、終着を目指していた。

 十二時間以上の長旅となったが、向井は不思議と疲れもなく、心地よい満足感でいっぱいだった。

 向井は隣で大きな欠伸をするファーの表情を見て、きっと同じ気持ちだろうと勝手な想像をしていた。

 ナコンシータマラート駅に降り立った二人を待っていたのは、バンコクの華やかな商業主義とも、サムイ島の開放的なリゾート感とも違う、椰子の木の街路樹が続く静かな風景だった。

 駅前の小さなレンタカー屋で年季の入ったセダンを借りる。

 料金表はあってないようなものなので、ここは南部タイの訛りで交渉できるファーが受付に回ってくれた。

 しかし、いざ支払いの段になり、領収書の宛名に向井の勤務先の名前を書くよう頼むと、店のスタッフは一転して、「しまった、値切られた!」という顔をして、面倒くさそうに向井の名刺を受け取った。

 アポイントは午後二時。

 まだ時間があるため、二人は街の中心にそびえる大寺院「ワット・プラ・マハタート」を訪れ、その黄金の仏塔を静かに拝んだ。

 その足で、兄チャチャイが指定した市内の待ち合わせ場所へ向けて車を走らせた。

 そこが、ファーの兄との初対面の場となる。

 ファーの声と指差しのナビに従って辿り着いたのは、下町の市場の裏手にある、地元民しか行かないような庶民的な食堂だった。

 店先の大きな木の枝がだらりと垂れ下がり、まるで自然の暖簾のようになって日差しを遮っている。

 そこに現れたのは、白衣こそ着ていないものの、医療従事者らしい清潔な白い肌を持った、三十四歳の男だった。

 藍色のシャツの袖から覗く腕は、ジムで鍛えられたように均整が取れており、その佇まいは静かな威圧感を放っていた。

「私の兄、チャチャイよ」

 少し歳の離れた妹を溺愛しているという彼は、非番の日に二人だけの再会を楽しむつもりだった。

 それなのに、見知らぬ日本人の向井を伴って現れたことに激しい不快感を抱き、向井が挨拶を交わそうとしても、あからさまな嫌悪の情を隠そうとしなかった。

 チャチャイが向井に向ける拒絶の視線には、明確な理由があった。

 彼の華僑二世の祖父は、太平洋戦争時の日本軍南部侵攻(一九四十一年)の際、連合国側のスパイ容疑をかけられ、この地で凄惨な拷問を受けたという暗い先祖の記憶を持っていた。

 さらに、一九九〇年代初頭、日本の圧倒的な経済進出によって我が物顔でタイの市場を席巻していく日本人に対する、若いタイのインテリ層特有の反発が、彼の態度をより頑ななものにしていた。

 二人の間に流れる不穏な空気を感じ取ったのか、ファーがテーブルの下で、向井の膝にそっと手を置いて小声で囁いた。

「大丈夫よ、兄はああ見えても、本当は気の優しい人なのよ……」

 重苦しい沈黙の中、この店の名物料理が運ばれてきた。

 タイ南部の代表的なソウルフード「カノムチン・ナームヤー」だ。

 純白の発酵米粉麺が盛られた大皿と、毒々しく黄色い魚介カレーの器がテーブルに乗せられた。

「さぁ、戴きましょう!」

 ファーが陽気な声で、重苦しい雰囲気を断ち切ってくれた。

 向井は少し用心深く、少量の麺を皿に取り、スプーンでカレーを薄くかけて口に運んだ。

「――っ!?」

 次の瞬間、喉から脳天に向けて高圧電流のような激しい痛みが突き抜けた。

 あまりの辛さに喉が痺れ、まともに呼吸すらできない。

 まつ毛に汗が踊り、必死に水を求める向井の醜態を、チャチャイは鼻で笑いながら見つめていた。

「兄さん、彼には無理ですよ。カオパッドでも頼んであげましょうよ」と慌ててファーが助け舟を出した。

 しかし、向井は水を一気に飲み干すと、ゲーン(イエロー・カレー)の容器を自分の手前に引き寄せた。

 ここで弱音を吐いて「無理です」と言えば、これから始まる厳しい商談にも勝てないし、何よりファーの隣に立つ資格を失う気がして、奇妙な闘争心が湧き起こっていた。

 辛さの激痛に耐えながら、額に滲む汗を拭おうとせず、真っ赤な顔をして「ふぅーっ」と息を吐いて、再びスプーンとフォークを握り直すその姿に、チャチャイは初めて目を細めた。

 チャチャイはテーブルに置かれていた籠を向井の前に引き寄せた。

 そこには、見たこともない南部の生野菜や、独特の苦味を持つサトー豆、ニガウリ、キャベツ、もやし、そして酸っぱいピクルスがわんさと盛られていた。

 おまけに、戦慄の赤唐辛子が、純白の麺の上に三本ほど無造作に投げ入れられている。

 チャチャイは無骨な手でそれらを一掴みむしり取ると、向井の皿へと放り込み、フォークで乱雑に麺とカレーを混ぜ合わせ始めた。

(お願いです、その唐辛子だけは入れないでください……!)

 向井は喉から声が出かかったのを必死に抑えた。

「オマエ、南部のカレーがなぜここまで辛いか分かるか。年中暑いこの土地で、魚の腐敗を防ぎ、発酵させた麺の菌を殺し、俺たちの胃袋を守るための知恵だ。だが、ただ辛いだけじゃない。こうして野菜の苦味と酸味を完全に合わせることで、初めてこのカノムチンの本当の味が完成するんだ。よく混ぜて食べてみろ」

 言われた通り、麺、カレー、そして何種類かの野菜を混ぜ合わせた、スプーンに乗せた塊を口に運ぶ。

 すると、先ほどの地雷を踏んだような辛さと痛みが嘘のように和らぎ、複雑なハーブの香りと、カレー色に染まった白身魚の爆発的な旨味が口いっぱいに広がった。

「カノムチン……恐るべし」

 昼食の後、向井はチャチャイの実家へ二人を送っていった。

 昼食時の奮闘によって、チャチャイの態度は明らかに軟化していた。

 それは、向井をファーの恋人として静かに受け入れ、向井のタイの食文化へのリスペクトを認めたという、チャチャイの無言の心情の変化だったのかもしれない。

 ファーと別れた向井は、スーツの襟を正し、ネクタイの結び目をきゅっと締め直して、午後の目的地である華僑系のエビ養殖業者「タン・アクアカルチャー社」へと向かった。

「さぁ、本番と行くか……」

 事務所の扉を開けると、そこは街の落ち着いた古都のイメージとは打って変わり、壁一面が真っ赤に塗られ、金色の龍の彫刻が施された巨大なマホガニーのデスクが目に入ってきた。

 そこに座る経営者の老華僑、タン社長が一人で中国茶を煎れていた。

 タン社長は、濃く淹れた高そうな鉄観音茶を自分と向井の分まで自ら運んできた。

 重厚な黒漆に真珠貝が妖しく光る、最高級の螺鈿(らでん)の応接セットの椅子に腰かけると、向井に淹れたての熱い鉄観音茶を勧めた。

「なに、日本人が南部のエビを独占したいだと?」

 茶の香りを漂わせて、タン社長は声を上げて笑った。

 すでに他社の日系商社が、本社の資金力を背景に法外な買い付け価格を提示してきているという。

 向井は怯まなかった。

 カノムチンで鍛えられたばかりの胃袋に力を入れて、タン社長の目をじっと見据えた。

「タン社長、他社は価格を吊り上げていますが、一過性のブームが去れば買い叩きにきます。我が社はバンコクの冷凍加工工場と直結した、五年間の長期固定買い付けプランを提案します。五月事件の復興需要を見据えた、お互いが生き残るための相互関係です。目先の利益か、永続的な繁栄か、どちらを選びますか?」

 老華僑の鋭い目が細められた。

 商談が佳境に入ったそのとき、多忙なタン社長の次のアポイントの時間が迫り、交渉は一時中断となった。

 しかし、向井を送り出したタン社長の胸には、若き日本人が放った実利のロジックが、確かな引っかかりを残していた。

 商談は明日の最終交渉へ持ち越しとなった。


3. 山田長政の足跡と向井の覚悟

 翌朝の午後に、タン社長とのシビアな最終交渉が行われることになった。

 午前九時すぎ、ファーは兄チャチャイが運転する車に送られて、向井の待つホテルまでやってきた。

 あの不愛想だったチャチャイが、ホテルまで愛する妹のファーを送り届けて、そのまま去っていったこと―

その行動の裏にある男の心理を、向井は三十年経った今でも、完全には理解することができずにいる。

 その日の午前も時間があったため、向井はファーと一緒に、市内郊外の貯水池の畔にある「ターラート・パーク」へと車を走らせた。

「タイ日文化センター ナコンシータマラート県」と書かれた半分朽ちかけた木製の看板が、うらぶれた哀愁を漂わせている。

 頭上からは、湿地帯特有の甲高い鳥の鳴き声が、どこか物悲しく響いている。

 そこは、向井がタイに来てからずっと気になっていた場所だった。

 タイへの赴任前、夢中になって読んだ遠藤周作の『王国への道』に描かれていた、異端の英雄、山田長政の終焉の地。

 かつてアユタヤ王朝の最高官位にまで上り詰めながら、宮廷闘争の末にこの地「リゴール」(ナコンシータマラートの旧称)へ左遷され、毒殺されたという。

 その英雄が最期を迎えた場所が一体どんな光景なのか、向井自身の目で確かめておきたいという、強い興味からの訪問だった。

 草むらの中、円形のコンクリートの中央に、一柱の石碑が毅然と立っていた。

 歴代総理である森喜朗の揮毫による「山田長政この地に眠る」の文字。

 向井はその前に立ち、ゆっくりと手を合わせた。

 四百年前にこの地で命を削り、最期は祖国の土を踏むことなく異国に消えていった、一人の日本人の生涯。

 激しい競争社会の最前線に立たされ、結果を出して、出世を掴み取らなければならない商社マンとしての厳しさが、その寂れた石碑に重なった。

 この南部のプロジェクトを何としても成功させてやる、そんな密かな野心と覚悟を、長政の石碑の前で誓うのだった。

 シャツの襟を正し、引き締まった顔つきになった向井の横顔を、隣で静かに手を合わせ、ワイ(祈り)を捧げていたファーは、言い表せない不安の混じった眼差しで見つめていた。


4. 「コボリ」の幻影に抱かれて

 その後の商談の結果、すべての独占ルートとはいかなかったものの、主要な買い付け商権を確実にもぎ取ることに成功した。

 他社の圧倒的な資本力に対抗し、タン社長の懐へと泥臭く飛び込んだ向井の粘りが、老華僑の頑なな心を動かしたのだ。

 こうして、本社から下されたタイ支社の社運を賭けた特命任務は、ひとまずの完了を見た。

 その夜、地元の古いホテルの客室を、狂ったような大雨が襲った。

 ガタガタと激しく音を立てて波打つ窓枠。

 南部の凄まじいスコールは、街のすべての音をかき消している。

 向井はシャワー室から出て、冷蔵庫にあった冷えたシンハビールをグイっと一口、喉に流し込んだ。

 激しい交渉の後に訪れたのは、奇妙な静けさだった。

 ベッドの端で、薄暗いランプの光に照らされたファーが、雨音に負けないよう、少し声を震わせて向井を呼んだ。

「ねえ、コボリ……」

「うん?」

 突然の呼び名に、向井はビール缶を握ったまま振り返った。

 それはサムイ島のビーチで見せたような無邪気な冗談では決してなかった。

「……あなたは、山田長政みたいに、遠いところへ行って突然いなくなったりしない?」

 かつてこの地で命を落とした山田長政の悲劇。

 ファーは、目の前の恋人がビジネスの濁流に呑まれ、いつか自分の手の届かない世界へ帰ってしまうのではないかという、切実な恐れを口にしたのだった。

 向井は彼女の温もりのある白い両手を、包み込むように強く握り締めた。

「俺はどこにも行かないさ。今、こうして君の前にいるじゃないか」

 窓の外で吹き荒れる暴風雨が激しさを増し、雷鳴が轟くほど、二人は互いの体温を確かめ合うように、深く、強く抱き合った。

「明日はバンコクに帰ろう……」