『バンコクの屋台は微笑まない』~人生の唐辛子!



1. ビー社長の仕込み

 ある日の午後、社長から呼ばれ応接室のソファに向かい合った。

「向井、ちょっと手土産を持って、旅行代理店のビーさんのところへ行ってきてくれ」

 社長は手元の資料に目を落としたまま言った。

「うちの現地スタッフのタローな。勤続五年で真面目で努力家だ、日本本社での研修日程を組んでやりたい。そこでパスポートと渡航ビザを手配してやってくれないか。だが今の時期、日本行きのビザの審査が厳しいようでな。ビーさんに頼み込んで、なんとか手続きを最速で通すようお願いしてきてくれないか」

 向井はすぐに動いた。

 シーロム通りにある日系企業御用達の旅行代理店を訪ねると、社長のビーが満面の笑みで迎えてくれた。

 年齢は五十歳前後だろう。

 バブル期のバンコクで修羅場を何度も渡り歩いてきたであろう、気は強そうだが、同時にどこかチャーミングな大人のタイ女性だった。

 向井が彼女のニックネームの“ビー”しか覚えていなかったのは、彼女の容姿がニックネーム通りの“蜂(ビー)”そのものだったからだ。

 小柄で丸みのある体型に、常にせわしなく動き回る細い手足、少し突き出したお尻、そして何より、人の品定めをするような鋭く丸い眼が、どことなく女王蜂を連想させた。

「マイペンライ・カァ、ムカイさん。大社長からの頼みだもの、私が最高のルートで手配してあげるわ」

 ビーはそう言ってウインクしたが、その眼は向井の視線がちらちらと左右に泳いでいるのを見逃さなかった。
 
 空いたデスクの傍らに、見慣れない若い女性が静かに座っていた。

「私の姪のワサナー。ニックネニックネームはファーよ」

 ビーに促され、その女性は恥ずかしそうに両手を合わせてワイ(お辞儀)をした。

「タイ航空に入社して、まだ二年目のCAなの。オフの日はこうして、私のお店を手伝ってくれているのよ」

 向井の心臓がぴくんと跳ね上がった。
 
 健康的でなめらかな褐色的でなめらかな褐色の肌に、吸い込まれそうなほど大きな瞳。

 タイ人にしてはやや小柄だったが、制服を着ていなくとも一目でそれと分かる、西洋人のように豊満で均整の取れたプロポーションをしていた。
 
 数週間前、ディスコ「Cola」で見た、ネオン街を舞う夜の蝶たちの派手な美しさとはまるで違う。

 南国の太陽の下でそのまま育ったような、健康的で瑞々しい野生の輝きがそこにはあった。

「はじめまして、ファーです」

 少しはにかんだ彼女の笑顔に、向井はビジネスモードの脳のギヤが、不意にニュートラルに外れるような感覚を覚えた。



 それから一週間後、ビー社長からオフィスに直接電話が入った。

「ムカイさん、ビザも航空券もすべて完璧に揃ったわよ。お礼なんていいから、今日のランチ、三人で美味しいものでも食べに行きましょう」

 指定されたスクムヴィットのベトナム料理のレストランへ向かうと、向井の期待通り、そこにはファーがビーの隣に座っていた。

 向井はこの時、生まれて初めてベトナム料理に挑戦した。

 注文はすべてビーに任せていたが、彼女が注文する間にも、向井はファーのことが気になってしょうがない。

 運ばれてくる野菜中心のヘルシーな定番メニューの味もそこそこに、向井の視線は完全に泳いでいた。

 そのため、料理の具体的な味についての記憶は、後になって思い返しても完全に白紙だった。
 
 ビー社長にどういう意図があったのかは分からない。

 ただの可愛らしい姪の身内自慢をしたかっただけなのか、それとも、日本の大手商社の若き駐在員という“優良株”を値踏みしようとしたのか。
 
 ビーは、いかに今回のビザ取得が困難であったか、そして自分がどのような人脈を駆使して成功させたかという手柄話をまくしたてていた。

 しかし、その賑やかな声の横で、時折向井と視線が合うたびに、ファーは大きな瞳を細めて小さく微笑んだ。

 彼女が時折口にする、フライト先での他愛のない失敗談や、機内で出会う奇妙な乗客の話の方が、向井にとっては遥かに興味深かった。
 
 店の外を流れるバンコクの喧騒とは遮絶された、レモングラスとミントが香る涼やかな空間の中で、二人の距離は、磁石が引き合うようにして確実に縮まっていった。


2. プロペラ機とサムイ島の大仏

 ファーはバンコクのラマ九世通り、日本人学校のすぐ近くにある、伯母のビーが所有する小さなアパートで一人暮らしをしていた。

 連絡先を交換してからは、彼女がフライトの合間にバンコクの自宅にいる夜は、どちらからともなく受話器を取るのが習慣になっていった。

 日本路線のフライトが多い彼女の話は、向井には新鮮で面白くて仕方がなかった。

 機内での日本人のいささか生真面目すぎる振る舞いや、タイ人から見れば奇妙に映るお国柄の質問に答えているうちに、気づけば深夜の長話になっている。

 受話器の向こうで、鈴を転がすように笑う彼女の声を聴く時間が、向井には楽しかった。

 そんなある日の会話だった。

「今度の連休、サムイ島へ行かない?」

 どちらからともなく、そんな話になった。
 
 一九九二年のサムイ島は、現在のような大規模なリゾート開発はされておらず、また、プーケットほどに西洋人の観光客も多くはなかった。

 素朴な島民と、静かなビーチがそのまま残る、バックパッカーたちの聖地としての面影を色濃く残している時代だった。

「サムイ島には、私の親戚が住んでいるから大丈夫」

 それが彼女なりの慎み深い「建前」であり、一緒に行くための可愛い言い訳であることは、向井にもよく分かっていた。

 だが、その一言のおかげで、向井も妙な後ろめたさを感じることなく、安心して計画を進めることができた。

 当日、二人はドンムアン空港のロビーのカフェで待ち合わせ、バンコクエアウェイズの小さなプロペラ機に乗り込んだ。
 
 高度を下げ、椰子の木がどこまでも広がる緑の島が眼下に近づいてくる。

 滑走路に着陸した瞬間、プロペラが巻き上げる乾いた南国の風が二人の頬を震わせた。

 当時のサムイ空港は、ターミナルといっても椰子の葉で葺いた屋根があるだけの、信じられないほど素朴な平屋建てだった。

 空港を出ると、予約していたホテルからの迎えが来ていた。

「Welcome, Mr. Kenji & K.Far」

 小さなホテルのロゴが入ったプラカードを掲げた、アロハシャツのスタッフが出迎えてくれた。

 向井はどことなく、その連名の表記に嬉し恥ずかしい思いを抱きながら、スタッフに二泊分の衣類が詰まったスーツケースを預けた。

 ホテルにチェックインした後、向井は近くのバイクレンタル店で小型のスクーターを借りた。

 ガイドブックに付箋紙を挟んでいた向井はそれを頼りに、ホテルのカウンターで受け取った島の地図と合わせながら見学ルートの確認をしていく。
 
 ファーは隣からその様子を覗き込み、くすくすと笑った。

「なんだか、キャプテンとのフライト前のブリーフィングみたいね」

「仕事柄、あらかじめ行動ルートを決めておかないと落ち着かなくてさ。よし、しっかり捕まってて」

「うん」

 後ろに跨ったファーの柔らかい身体が、向井の背中にぴったりと密着する。

 彼女の細い腕が向井の腰に回り、そこからドクドクと刻まれる心臓の鼓動がダイレクトに伝わってきた。

 時速四十キロ。向井はスクーターのアクセルを捻り、二人は未舗装の赤土が混ざる、海岸線の一本道を地図を頼りに走り回った。

 左手には、エメラルドグリーンに輝く広大なタイ湾の海。

 右手には、どこまでも続く椰子林の深い緑。

 バンコクの埃っぽい空気と喧騒のノイズが、潮風とスクーターの軽快なエンジン音によって、みるみるうちに脳内から洗い流されていく。

「ムカイ、あそこへ行ってみようよ」
 
 ファーが風の中で向井の肩を叩き、岬の方を指差した。
 
 島の北東部、海に突き出た小さな岬の丘の上に、そのお寺はあった。

 地元の人々が「ワット・プラヤイ」と呼ぶその寺の境内には、高さ十二メートルはあろうかという、黄金に輝く巨大な大仏(ビッグブッダ)が、青い空を背に堂々と鎮座していた。

 参道の長い階段を、バイクを降りて歩く。

 照りつける太陽で熱くなった石段を一歩ずつ登りきると、そこは遮るもののない、大パノラマが広がっていた。

「景色、すごいなぁ……」

 向井は思わずため息をもらした。
 
 潮風が、汗ばんだシャツを心地よく通り抜けていく。


3. 屋台の“肉ラーメン”

 大仏の足元をぐるりと回り、並んでいる土産物屋の賑やかな軒先を抜けたときだった。
 
 小さなお堂の壁を背にするようにして、リヤカーを改造した、小さな屋台がぽつんと佇んでいた。

 通り過ぎようとした向井の足がピタリと止まった。

 屋台の上の食材が入ったガラスケースに、一枚の白い紙が貼られていた。

 折り目のついたA4のコピー用紙。

 そこに、サインペンで書かれた日本語が並んでいた。

『肉ラーメン』

「……肉ラーメン?」
 
 向井は思わず声を漏らした。
 
 決して上手な筆跡ではないが、よく見ると、文字の下には。

「おいしいタイラーメン!」

「豚肉と血のスープ」

 と、微妙なニュアンスのキャッチコピーまで添えられている。

 おそらく、ここを訪れた日本人旅行者が、老夫婦のクィッティオの味に心打たれ、お礼代わりに書いてあげたものなのだろう。

「どうしたの?」
 
 ファーが不思議そうに顔を覗き込んできた。

「いや、あそこに日本語が書いてあってさ。なんかおもしろそうだし、食べてみない?」

「いいよ。お腹もすいてきたし」

 二人は、タイの路地裏の庭先でよく見かける、中央にチェス用のマス目が入った重い石製のテーブルと長椅子に腰掛けた。

 屋台を切り盛りしているのは、日に焼けて顔中が深い皺で覆われた老夫婦だった。

 少し腰の曲がった小柄な婆さんが麺を茹でる釜の前に立ち、いかにも頑固そうな、だが優しい目をした爺さんが配膳を担当しているようだった。

 向井はメニューにある黄色いバミー(小麦粉で作った中華麺)を選び、タイ語で注文した。

「バミー・ナーム・ソーン・クラップ!」

 婆さんは嬉しそうに白い歯を見せて頷いた。すかさず、注文の確認が飛ぶ。

「血は入れるかい?」

 婆さんが訊くのとほぼ同時に、ファーが即座に手を振った。

「マイ・カオ・カァ!」

 向井は「血」という言葉に一瞬どきりとした。

 ファーから「豚の生の血をスープのコク出しに使うのよ」と説明を聞いて、さらに身を硬くする。

 黙っていれば、婆さんは当たり前のようにレンゲ一杯の血をスープに落とし込んでしまうところだった。

 ファーの機転に救われた。

 運ばれてきたのは、血を入れずに仕上げた「バミー・ナー・ムー・トゥン(豚肉の煮込み麺)」だった。

 じっくりと煮込まれた豚骨だしをベースに、八角などの香辛料とタイの黒醤油を合わせ、何時間も煮込まれたスープは、深い琥珀色に澄んでいる。

 その上に、クタクタになるまで煮込まれた、豚の塊肉がいくつもゴロゴロと転がっていた。

 爺さんがヨロっとした足取りで、器を二つ持って、親指がスープに浸からない程度に慎重にテーブルへ運んできた。

「さぁ、お食べなさい」

 まるで孫に食べさせるかのような口ぶりに、ファーはクスっと笑った。

 向井は割り箸を威勢よく割って、スープを一口すする。

「あ……」

 特別に驚くほど美味いわけではない。

 バンコクの有名な中華飯店で食べるような洗練された味でも、スクムヴィットの「らあめん亭」のような慣れ親しんだ日本の味でもない。

 だが、この場所の空気、海から吹き上げる湿った潮風、頭上で燦然と輝く黄金の大仏、そして突き抜けるような真っ青な空。

 そのすべてがスパイスとなり、向井の味覚に、奇妙なほど温かく懐かしい味となって染み渡っていった。

「美味しいね、ムカイ」

 ファーがレンゲでスープをフーフーと吹きながら、大きな目をさらに丸くして言った。

「ああ。最高だな、これ!」

 向井は心からそう思った。


4. 爺さんの(くわ)と古い自転車

 二人が麺をすすっていると、注文を運び終えた、婆さんの旦那さんである爺さんが、おもむろに店の裏から一本の鍬を持ち出してきた。

 爺さんは黙って境内の乾いた赤土をザク、ザクと、あちこち不規則に掻き始めた。

 掘り起こすわけでも、穴を埋めるわけでもない。

 ただ、土の表面をなぞるようにして鍬を動かしている。

(一体、何をしてるんだ……?)
 
 向井とファーが不思議そうに見つめていると、爺さんは三分ほどで土掻きに飽きたのか、今度は境内の木陰に停めてあった、一台の古い自転車の前にしゃがみ込んだ。

 それは、昔の新聞配達や氷屋が乗っていたような、かなり年季の入った黒い業務用自転車だった。

 爺さんは油の切れた真っ黒なチェーンを、素手でいじり始めた。

 ガチャガチャと不器用な音を立ててチェーンを直すと、やおら立ち上がり、サドルに跨る……のかと思いきや、やはり乗らない。

 ただハンドルを握り、直したばかりの自転車を、前方へ二メートルほど「手押し」で進めた。

 そして、何かを確認するようにじっと足元を見つめると、今度はそのままバックで二メートル引き戻した。
 
 乗る気配は、一切ない。

 ただ押しては、引くだけ。

 その徹底的に不審な一連の動きが、あまりにも島のゆったりとした時間に溶け込んでいて、向井とファーは箸を止めて釘付けになってしまった。

 都会の効率主義の真っ只中で、分刻みのスケジュールに追われていた向井にとって、その爺さんの行動は、時間の概念そのものを揺るがすような奇妙な儀式に見えた。

 そのとき、お寺の古いスピーカーから、ジジジ……と歪んだノイズを立てて、境内アナウンスが流れ始めた。
 
 タイ語の、低くのんびりと間延びした年配の男性の声だった。

『――業務連絡。境内の売店のプラシットさん。寺の事務所まですぐにお越しください。繰り返します、プラシットさん――』

 向井もファーも、特に気にとめることもなく、残りの麺をすすり始めた。

 アナウンスが完全に終わり、境内に再び静かな波の音だけが戻ってくる。

 それから、たっぷりと一分ほどが経った、ちょうどその時だった。

 それまで自転車のハンドルを握ったまま固まっていた爺さんが、ふと手を止め、こちらを振り返った。
 
 そして、実にとぼけた顔で、ボソッと呟いた。

「……ワシのことだ」

 あまりのタイムラグとその間の抜けた一言に、向井とファーは一瞬の沈黙の後、同時に吹き出した。

「ぷっ……あははは!」

 ファーが堪えきれずに、お腹を抱えて笑い転げる。

 向井も喉に麺を詰まらせそうになりながら、声を上げて笑った。

 すると婆さんが、濡れた雑巾で手を拭きながら、呆れたように爺さんの背中を叩いた。

「だったら早く行きなよ、プラシット爺さん! 事務所の人が待ってるよ!」

 爺さんは「おっと、そうだった」とでも言うように頭を掻きながら、今度は本当に自転車に跨った。

 そして「ぎーこ、ぎーこ」と鈍い音を立ててペダルをゆっくりと漕ぎながら、お寺の事務所の方へと消えていった。

 婆さんも、それを見送りながら、つられて楽しそうに「ふふふ」と笑っている。

 向井の胸の奥が、じんわりと温かいもので満たされていくのを感じた。


5. ワープロの約束

 麺をほとんど平らげたころ、向井は先ほどのA4の紙を指差した。

「お婆さん、この日本語の紙さ……」

「ん? ああ、これかい。ずいぶん前に日本人のお客さんが書いてくれたんだよ」

 婆さんが大鍋のスープの味を調えながら、当時を懐かしむように振り返る。

「これ、ちょっと文字が汚くて読みにくいからさ。僕、バンコクに戻ったら、会社のワープロできれいな日本語に打ち直して、新しいのを送ってあげるよ。ラミネートして、雨に濡れても破れないようにしてさ」

 ワープロで作った均整な印字なら、この島の素朴な屋台でも、もっと多くの日本人の目を引くに違いないという、向井なりの親切心だった。

「まあ、本当かい? それはありがたいねぇ」

 婆さんは顔中の皺をさらに深くして喜んだ。

「じゃあ、お店の名前と、送り先の住所を教えて。メモするから」

 向井がポケットから手帳とボールペンを取り出すと、婆さんは、何を大袈裟なという風に、のんびりと手を振って笑った。

「店の名前も住所なんていらないよ。このお寺、ワット・プラヤイの『肉ラーメンのばあさん宛』って書いて送れば、郵便屋さんがちゃんと届けてくれるさ。島のもんはみんな知り合いだからね」

「……このお寺宛、だけで?」

「そうだよ。問題ないさ」

 婆さんはそう言って、ガハハと大らかに笑った。

 向井は呆気にとられ、可笑しさが込み上げてきて手帳を閉じた。

 そうだ、ここはそういう島なのだ。

 何丁目何番地なんていう、人間の住処を細かく分類する記号など、この黄金の大仏の足元では何の意味も持たない。

 お寺に手紙を出せば、ちゃんと届く。

 そのシンプルで絶対的な信頼関係が、ひどく羨ましかった。

「あんた、いい男だね。コボリみたいだ。よし、おまけしてあげるよ」
 
 婆さんはそう言うと、手招きをして、二人が食べていた器を持ってこいと促した。

 向井とファーが器を差し出すと、婆さんは特大のレンゲで、何時間も煮込まれて、とろけるような豚の煮込み肉を大鍋の底から掬い上げ、これでもかと、二人の器にてんこ盛りに入れてくれた。

「たくさん食べな。若いんだから」

「コープクン・クラップ」

「コープクン・カァ」

 二人が同時にお礼を言った。

 新しく肉が追加されたスープからは、再び温かい湯気が立ち上り、二人の顔を優しく包み込んだ。


6. 映画のワンシーンのように

 向井は、新しく追加された肉を口に運びながら、目の前の光景をじっと見つめていた。

 真っ青な空。

 どこまでも穏やかなエメラルドグリーンの海。

 背後で静かに島を見守る、黄金の大仏の横顔。

 そして、自分の目の前で、口の周りを少しスープで茶色くしながら、嬉しそうに肉を頬張っているファーの横顔。

 向井には、自分の人生のこの時間が、まるで一本の青春映画のワンシーンのように流れていくように思えた。

 南国の光と、老夫婦の笑顔と、自分たちがその一コマの中に完璧に収まっているような、静かな充足感があった。

「ムカイ、どうしたの? 早く食べないと冷めちゃうよ」

 ファーが不思議そうに、大きな瞳を丸くして向井を見た。

「いや、なんでもない。これ、美味いなと思ってさ」

 向井は微笑み、再び箸を動かした。

 彼女との、束の間の休日。
 
 お寺の“肉ラーメン”屋台を包む、優しく素朴な味わい。

 それを二人で分け合った記憶は、向井の胸の内に忘れることのない、鮮烈な足跡を残そうとしていた。

 お代を払い、再びスクーターのエンジンをかける。

 シートに跨りハンドルを握った向井の腰に、ファーが再びその細い腕を回してきた。

「……行きましょ、いい男、コボリ……」

 走り出した瞬間、彼女の手が、先ほどよりも少しだけ強く、向井の体に引き寄せられたような気がした……。