『バンコクの屋台は微笑まない』~人生の唐辛子!



1. 佐藤からの誘い

 あの一九九二年五月の「暗黒の五月事件」を境に、向井と佐藤の二人の関係は親密度を増していった。

 惨状のスラウォン通りの“マクドナルド事件”を共に生き抜いたことで、佐藤は向井を一人前の戦友、そして好き後輩として認め始めた。

 暴動の傷跡が驚異的なスピードで路上から消え去り、タイのバブル経済が再び猛烈に点火した、ある金曜日の夕暮れ。

 午後八時、デスクでファックスを整理していた向井の背中に、佐藤が声をかけた。

「おい向井。仕事切り上げろ。メシ行くぞ」

「え、どこへ行くんですか?」

「いいから。美味いもん食いに行こう、それから面白いところに連れてってやる」

 佐藤の不敵な笑みに、不思議と嫌な予感はしなかった。

 あの事件以来、張り詰めていた心のワイヤーが、心地よく緩んでいくのを感じていた。

 地下駐車場から冷房の効いた社用車に滑り込む。

 佐藤はシートに深く身体を沈めると、彼の専属運転手のデーチャ―にぶっきらぼうに告げた。 

「らあめん亭!」

「クラップ!」

 当時、バンコクでまともな日本のラーメンが食べられる店は、スクムヴィット・ソイ33のこの店くらいしかなかった。

「……佐藤さん、美味いもんって、ラーメンですか?」

 高級ステーキかフレンチを期待していた向井は、思わずがっかり感を口にした。

 佐藤は「おう」とだけ言って店に入ると、座るなり「醤油ラーメン二つ、チャーシュー追加で!」と威勢よく注文した。

 運ばれてきた一杯は、驚くほど日本の“中華そば”そのものの味だった。

 店内は仕事帰りの日本人駐在員や家族連れで賑わっている。

 異国の中の、奇妙な“ニッポン”。

 しかし向井は、これが佐藤の言う“美味いもん”なのかと、喉に麺を通しながら終始疑問を拭えなかった。

 その間も佐藤は猛烈なペースでラーメンを平らげると、コップの冷水をぐいと飲み干した。

「さぁ、行くぞ」

 バンと肩を叩かれた佐藤の目は、すでに夜の“戦闘モード”に入っていた。


2. ソイ40の「Cola」と夜の(バタフライ)

 ソイの入り口で待機していた白いクレシーダに佐藤が手を挙げる。

 運転手のデーチャーは、読んでいたタイ語新聞を慌てて畳み、滑り込ませるように車をつけた。

「Cola!」

 佐藤が行き先を告げると、デーチャーは弾んだ声で「クラッポム!(かしこまりました)」と応じた。

 日系企業で働く運転手たちにとって、駐在員の夜ごとの“お遊び”に付き合う残業手当は、基本給を遥かに上回り、彼らの生活を支える給与の大半を占めていた。

 デーチャーの嬉しそうな声のトーンから察するに、佐藤はこれまで相当な時間と残業代を彼に費やしているに違いなかった。

 数分後、車が滑り込んだのは、スクムヴィット・ソイ40にあるディスコ兼ライブハウス「Cola」だった。

 一歩足を踏み入れた瞬間、床から脳天を揺さぶるような爆音の重低音が直撃する。

 フロア中央のDJブースを囲むように、小さな丸テーブルとスツールが隙間なくひしめき合っていた。

 独立したダンスフロアはなく、客たちはテーブルのわずかな隙間で思い思いに身体を揺らす

 ―若者の熱気と混沌が凝縮された構造だった。

「サワディーカー、サトーさん!」

 指定されたテーブルには、夜に舞う蝶のような華やかなミニドレスのタイ人女性が三人、派手な化粧でカクテルグラスを傾けて待っていた。

「お連れしましたよ、佐藤さん。もう少しで他の客に取られちゃうところでした‥‥ははは」

 卑屈な笑みで揉み手をしてきたのは、下請けの運輸会社で営業マネジャー、江口大輔だった。

 大口顧客の商社に勤める佐藤は、江口にとって絶対に逆らえない“最高の上客”。

 佐藤の頼みなら昼夜問わずに動き回り、こうして女たちを夜の店から連れ出してくることすら厭わない、典型的な日本の下請け根性がそこにあった。

「江口さん、いつも悪いね!」

 佐藤が両手を合わせると、江口は免罪符を得たように「いただきます!」と言って、持っていたジョッキのハイネケンを喉を鳴らして一気に飲み干した。

 向井が目を見張ったのは、最先端のディスコのテーブルの上に、およそ場違いなイサーン(東北)料理が満ち満ちていたことだ。

「おい向井、遠慮すんな。バブルのタイじゃ、これが一番の贅沢なんだよ」

 狐色に焼かれた鶏肉、脂がジクジクと音を立てているガイヤーン(焼き鳥)、香ばしい脂の甘みが鼻をくすぐるコームーヤーン(豚の喉肉の炙り焼)、ミントと唐辛子がひき肉と絶妙に絡んだナムトク(ひき肉のハーブ辛和え)。

 その傍らには、当時のステータスシンボル、「ジョニ黒」(ジョニーウォーカー・ブラックラベル) のボトルが鎮座していた。

 女たちは香水の匂いを振りまきながら、スコッチを安価なコカ・コーラでドボドボと豪快に割っていく。

 赴任当初、拒否反応を示した強烈なハーブとナンプラーの匂い……何故か全く気にならない。

 脂の乗ったコームーヤーンをフォークで刺して、ピリ辛のナムジム(タレ)につけて口に放り込む。

 ジョニ黒のコーラ割りで一気に流し込んだ瞬間、向井の脳内で何かのスイッチがパチンと切り替わった。

「う、美味い……!」

「だろ? この辛さと脂を、ウイスキーの甘みで流すんだよ。これが最高なんだ」

 佐藤がニヤリと笑う。

 ハーブの鮮烈な清涼感とウイスキーの炭酸が、あの五月事件の恐怖の残滓を、五臓六腑から一気に洗い流していくようだった。


3. サンプラザ中野と不意打ちのキス

 午後十一時、フロアの照明がさらに怪しく変わり、ステージの生バンドが交代した。

 暫くの静寂の後、聞き覚えのある激しいイントロがスピーカーから弾け飛んだ。

「――え?」

 向井はグラスを止めた。

 スポットライトの中に現れたのは、見紛うはずのないスキンヘッドに黒のサングラス。

 日本のロックバンド「爆風スランプ」のボーカル、サンプラザ中野がそこに立っていた。

 八十年代のヒットチャートを席巻した彼らも、九二年当時は国内の人気が落ち始め、アジア進出に勝負をかけていた。

 圧倒的な声量で繰り出されるメドレー。

 若き駐在員にとって、それは文字通り"青春の学生時代”を謳歌したメロディだった。

 驚くべきはタイ人客たちの反応だった。

 歌詞の意味など理解していないはずなのに、大興奮でテーブルを叩き、日本のロックナンバーに激しく腰をくねらせ跳ね踊っている。

 サンプラザ中野の独特のユーモアとジョークを交えたオーディエンスとのトークもない。

 ただ、彼はひたすら「サワディークラップ!! アイ・ラブ・タイランド!!」と連呼していた。

 その度にタイ人から大歓声が巻き起こった。

 向井の脳内でアドレナリンが全開になった。

 水割り一杯で翌朝まで頭痛を引きずる男が、なぜか今夜はハイペースで、ウィスキーのコーラ割りを煽っても全く酔いが回らない。

 心臓が激しくビートを刻み、身体が勝手に熱くなっていく。

「うお、すげえ……! 楽しい!」

 興奮が頂点に達した瞬間、向井は勢い余って、隣で踊っていた女の肩をがっしりと抱きしめてしまった。

(あ、しまった、やりすぎたか――)
 
 慌てて腕を引こうとした、その時だった。

 彼女は妖艶な笑みを浮かべて向井の首筋に手を回すと、ディスコの重低音のなかで、向井の唇にいきなり熱いキスを浴びせてきた。

 口の中に広がる、コーラと甘い口紅の混ざった味がした。

(え……!? ひょっとして彼女、俺に気があるのか……?)

 バブルの熱狂と不意の快感によって、向井の脳は完全にバグを起こしていた。

 佐藤はそれを見て、グラスを掲げながら大笑いしている。

 接待の大役を終えて安心したのか、江口はすっかり泥酔し、テーブルに思いきり突っ伏して眠りこけていた。


4. 午前二時のカオトム屋台へ

 どれほど踊り、どれほど飲んだだろうか。

 深夜二時。

 耳の奥にキーンという強烈な耳鳴りを残したまま、向井は佐藤に連れられるようにして「Cola」の重い扉を出た。

 スクムヴィット通りに出ると、雨季特有の低く湿った夜風がじっとりと肌にまとわりついた。

 昼間の殺人的な喧騒が嘘のように静まり返った大通りを、アソーク方面へとトボトボと歩く。

 薄暗い街頭の切れ目に、不自然なほど明るい蛍光灯の光がポツンと浮かび上がっていた。

 古いタウンハウスを改造した店舗の前にトタン屋根を突き出し、色褪せたプラスチックの丸椅子とステンレスのテーブルが並ぶ、ローカル食堂。

 煤けた看板には、タイ語の下に中国語で店名が書かれていた。

『阿財(アーチャイ)』――。

 創業三十年は下らない、深夜に未明まで営業している老舗の「カオトム(中華粥)」屋だった。

 ちなみにこの店は、令和の時代になった今でも、同じ場所で変わらず営業を続けている。

 店先の大鍋からは、濃厚な出汁の湯気が湿った夜空へと立ち上っている。

「おい向井、座れよ。ディスコの後は、ここで胃袋を休ませるのがバンコクっ子のルーティンだ」

 佐藤がガタつくプラスチックの椅子を引き、大きなゲップをした。


5. 午前二時のクールダウン

 揚げたニンニクと鶏出汁の混ざった湯気が顔を包む。

 運ばれてきたのは、熱々のカオトム(白粥)と、塩漬け卵、そして空心菜の強火炒め。

 爆音とアルコールで麻痺した胃壁に、その滋味がじわりと染み渡る。

「で、向井。お前、さっきタイ人の女にキスされて、ちょっといい気になったろ?」

 レンゲでお粥をすすっていた佐藤が、悪戯っぽく笑いながら突いてきた。

 向井は喉を詰まらせかけ、慌てて水を飲み込んだ。

 完全に図星だった。

「いや、それは……。急に抱きついた俺も悪かったですけど、あんなに熱烈に返されると、つい……」

「だろ? でもな、あれは江口が仕込んだ『芝居』だよ」

 佐藤は使い古された箸で空心菜を突きながら、どこか楽しそうに口に運んだ。

「江口はうちからの仕事を繋ぎ止めたいが為、とびきり気が利くプロの女たちを事前に仕込んでおいたんだよ。お前という男に惚れたんじゃなくて、お前の背後にある“わが社の看板”へのサービスさ。一番盛り上がったタイミングで不意打ちのキスを返してくるあたり、タイの女は本当に賢くて強かだよな。まあ、俺はそういうプロ意識、嫌いじゃないけどさ、ふふふ……」

 非情なからくりの話のはずなのに、佐藤の口から聞くと、不思議と嫌味がなく大人のユーモアのように響く。

 向井は半分納得しつつも、まだどこかで「でも、もしかしたら……?」と、キスの余韻に浸りながら、彼女の連絡先を訊かなかったことを悔やんだ。


6. “夜の牒”には気をつけろ

「ディスコのハイテンションなんて、その場限りの幻だからな。あんな場所での調子の良い約束なんか、仕事でも私生活でも絶対に信用しちゃダメだぞ。だから俺は、あの爆音の後に、必ずここでお粥を食うことにしてる。頭を優しくクールダウンさせるためにな」

「だから、わざわざここまで歩いたんですね」

 向井は苦笑した。

「確かに、お粥を食べていたら、少し頭が整理されてきました」

「夜はトコトン楽しめばいい。せっかくのタイ生活だからな、でも一線は超えちゃダメだぞ…」

 佐藤はそう言うと、店の前まで車を移動させて来たデーチャーに目をやった。

「現地の人間を動かすのも同じさ。説教じゃなく、相手が喜ぶ仕組みをこっちが作ってあげることだ。さあ、デーチャを待たせてる。帰るぞ」


7. 深夜二時半の覚醒

 向井は熱いお粥を最後の一口まで味わい、佐藤の言葉を噛み締めた。

 それは、佐藤自身がこれまでにバンコクの夜の街で騙され、手痛い失敗を重ねながら身に付けてきた、生々しくて、どこか温かい「活きた教科書」のように思えた。

「佐藤さんの言いたいこと、半分くらいは分かりました」

「なんだ、半分かよ?」

 佐藤は呆れたように鼻で笑った。

「ええ。残りの半分は、僕自身が一度は痛い目を見ないと、本当には理解できない気がします。でも、今日のところは、このお粥のおかげで本当に勉強になりました」

 佐藤が「そうか、ならよかった」と言いながら、財布から数枚の20バーツ札を取り出し乱雑にテーブルに置いた。

 店を出た瞬間、生暖かい夜気が一変し、雨の匂いを含んだ激しい突風がスクムヴィット通りを吹き抜けた。
 
 次の瞬間、雷鳴と共にバケツをひっくり返したような大粒の雨が降ってきた。

 バンコクに本格的な雨季の到来を告げる、激しいスコールだった。

 アスファルトに弾ける大粒の雨が、ディスコの残響も、プロの女が残していったキスの味も、すべて鮮やかに洗い流していく。

 デーチャーは手際よく傘を広げ、車のドアを開けて待っていた……。