『バンコクの屋台は微笑まない』~人生の唐辛子!



1. 運転手が来ない朝

 一九九二年、五月。

 バンコクの容赦ない乾期の終わりを告げる熱気が、部屋の遮光カーテンの隙間から入ってきた。

 向井健司は、遠くから響く、地を幾重にも這うような低音の唸りで目を覚ました。

 時計の針は午前七時を回っている。

 いつもならスクムヴィット通りを行き交う車のクラクションの音が十五階の部屋まで届く時間だが、今朝の音の正体は違った。

 悲鳴、怒号、そして断続的に鳴り響くサイレン――。

「なんだ、朝から……」

 寝癖のついた頭を掻きながら、向井は寝室を出てコンドミニアムの階下ロビーへと降りた。

 ロビーは異様な雰囲気に包まれていた。

 いつもは眠そうにデスクに座っているタイ人の管理人が、カウンターの奥にある旧式のブラウン管テレビにかじりついている。

 画面には、激しい黒煙を上げて燃え盛る数台のトラックと、それを取り囲む文字通り「蟻の群れ」のような人間たちの姿が映し出されていた。

 テレビニュースのアナウンサーのタイ語は、いつもの穏やかなイントネーションを完全に失い、銃撃戦の実況さながらの猛烈なトップスピードで言葉をまき散らしている。

「アライ・ナ・カップ(何が起きたんだ)?」

 向井が管理人に声をかけると、彼は怯えた目で向井を振り返った。

 しかし、口から飛び出してきたタイ語の濁流を、向井の脳は一言も理解できなかった。

 記号としての言葉が遮断された世界で、ただ管理人の顔に浮かんだ、差し迫る恐怖の表情だけが、向井の皮膚にピリピリと伝わってきた。

 数人の出勤前の日本人が不安げに外を眺めている。

 向井は部屋に戻り、とりあえず身支度を整えてロビーへ降りてきた。

 午前八時半。

 待てど暮らせど、運転手のサロートが来ない。

 いつもなら十分前には社内のエアコンをガンガンに効かせた車内で待機しているはずだった。

「クソッ、会社に行かなきゃ何もわからない!」

 向井は腹をくくり、コンドミニアムの地下駐車場へ向かった。

「まさか、こんな時に自分で運転することになるとはな……」

 恐る恐るスペアキーで白いクレシーダのエンジンを回す。

 念のため、日本で用意して来た"国際免許証”を確認する。

「よし、行くか……」

 バンコクで初めての運転に、向井の足元はびくついた。

 スクムヴィット・ソイ39の狭い路地を慎重に抜ける。
 
 ペッブリー通りに出た瞬間、向井はハンドルを握る両手に冷や汗が滲んだ。

 ――車が、人が、いない。

 あの、世界最悪と称されるバンコクの殺人的な渋滞が、文字通り消えていた。

 見渡す限りの片側四車線の道路は、がらんどうの滑走路のようにひび割れたアスファルトを見せつけている。

 その不気味なほど静まり返ったソイ21(アソーク)の交差点を、赤色灯を激しく点滅させた警察のピックアップトラックが、タイヤの悲鳴を上げながら猛スピードで走り抜けていった。

 何かが決定的に壊れている。

 向井の心臓は、エンジンの回転数よりも早く、激しく早鐘を打ち始めていた。

(一体何が起きてるんだ……?)


2. オフィスで籠城

 アソークのビルに滑り込み、オフィスに一歩足を踏み入れた瞬間、向井はまるでパニック映画のワンシーンの中に放り込まれたような錯覚を覚えた。

「違います! だから、まだ社内の人間に被害は出ていません! 本社は落ち着いてください!」

 いつもは冷徹な佐藤が、灰皿にタバコの吸い殻を満杯にし、日本の本社からの国際電話にしがみついて怒鳴り声を上げている。

「そう言われても出来ないものは出来ません!」

 鳴りやまない電話。

 佐藤は机の上にあぐらをかいて、また煙草に火をつけた。

「くそ、本社の馬鹿どもが!」

 その奥では、場違いなほど滑稽な原色のゴルフウェアに身を包んだ竹本社長が、額に脂汗を滲ませながら、もう一本の回線で別の取引先に平謝りを繰り返していた。

 朝からのコンペが中止になり、そのままオフィスへ引き返してきたのだろう。

「パワナーさん、パワナーさんはまだ来てないのか?」と一人慌てふためいている。

 断っておくが、この場に勿論のこと、秘書のパワナーは来ていない。 

 後で聞いたのだが、彼女は危険を察知してとっくにプーケットの別荘に家族で避難していたそうだ。

 方々のルートから命がけで出勤してきたタイ人スタッフたちは、手持ちの小さなラジオにイヤホンをつけて、事の成り行きをひっそりと聴き入っている。

 向井はそのタイ語のラジオの情報が、限りなく事実に近い報道のはずなのに、なぜ佐藤も竹本も彼らに訊こうとしないのか不思議でならなかった。

 日本人だけでパニックを共有している姿は、どこか奇妙だった。

 昼前になると、ビル内に入居している他の日系企業の日本人駐在員たちが廊下に集まり、血走った目で情報交換を始めた。

 インターネットもSNSもない時代、生き残るための情報はすべて日本人社会の「口コミ」だった。

「軍が本格的に動いたらしい」

「スチンダー首相が非常事態宣言を出したぞ。完全に軍部が民衆を圧殺しにきてる」

「おい、もう王宮前広場や民主記念塔のあたりで、死者が百人以上出ているっていう噂だ……」

 飛び交う噂はどれも凄惨で、向井の処理能力を遥かに超えていた。

 赴任してわずか二か月に満たない身だ。

 タイの政治構造も、スチンダー首相と民衆の反政府側リーダーであるジャムロン氏の対立の構図も、向井には何も分からなかった。

 ただ分かっているのは、自分が言葉の通じない異国の暴動のど真ん中に放り込まれているという事実だけだった。

 向井は佐藤や竹本から言われるままに、手元のおぼつかないワープロで本社あての報告書を打ち、印刷しては東京本社へひたすらファックスを流し続けた。

 午後一時を過ぎると、極限の緊張状態のせいで、激しい空腹が向井を襲った。

 しかし、ビルの地下にある、頼みの綱だった日本食レストランのシャッターは、無情にも完全に下ろされていた。

 それならばと、いつもの運河沿いにある名店「グリーンハウス」へ、タイ人スタッフの通称“タロー君”を偵察に向かわせたが、そこも厚い緑色のトタン板で無骨にふさがれ、人の気配は全くなかったという。

 そう、この通称“タロー君”だが、結局彼が退職するまでその由来は聞かずじまいだった。

「向井、見ろ! 奴ら、完全にイカれちまったぞ!」

 窓際に立っていた佐藤が、新しい煙草に火を点けて向井を呼んだ。

 オフィスビルの上階から見下ろすアソーク通りには、いつの間にか黒頭巾を頭に巻いた暴徒の群れが集結していた。

 彼らは鉄パイプで信号機を破壊し、どこからか引きずってきた無数の古タイヤを道路の真ん中に積み上げている。

 そこへガソリンが撒かれ、火が放たれた。

 シュルシュルと不気味な音を立てて、真っ黒な有毒の煙が立ち上り、オフィスの窓ガラスを遮っていく。

 ガラス越しにも伝わってくる熱気と、遠くで響く民衆の怒号か、あるいは催涙剤(さいりゅうだん)の乾いた破裂音が聞こえてくる。

 向井はただ、恐怖に身をすくませるしかなかった。


3. マクドナルドへの決死隊

「おい、マックへ行くぞ!」

 古タイヤの煙を見つめたまま、佐藤が突然、執務机から車のキーをひったくった。

「は……? 佐藤さん、正気ですか! 外を見てください、暴徒がタイヤを燃やしてるんですよ! なんでこんな時にマクドナルドなんですか!」

 向井は思わず声を荒らげた。

 物見遊山で行くなら狂気の沙汰だ。

 しかし、佐藤は感情の消えた冷徹な目で向井を睨んで、一歩詰め寄った。

「バカ野郎。物見遊山でマックに行く日本人がどこにいる!」

 声色を変えた佐藤の声が、向井の脈拍を跳ね上げた。

「いいか向井、よく考えろ。ローカルのテレビもラジオも、タイ語ばかりでよくわかんねえ。タイ語のわからないお前はなおさらだろうが! だがな、スラウォン通りにあるマクドナルドはどうだ? あそこには今、西側のジャーナリスト、CNNの特派員、情報通のファラン(西洋人)が間違いなく屯してる。ハンバーガーだけじゃない、情報収集を兼ねて行くんだよ、わかったか?」

 当時はまだ、バンコクで「マクドナルド」と言えば、スラウォン通りのパッポン出口にある店舗くらいしか存在していなかった時代だ。

 他にも数店舗はあったのかもしれないが、佐藤の脳裏に真っ先に浮かんだのは、西洋諸国の情報が最も早く集まるであろう、あの店舗だったに違いない。

 佐藤の冷静なロジックに、向井は二の句が継げなかった。

 その時、オフィスのドアが勢いよく開き、息を切らした初老のタイ人男性が飛び込んできた。

 向井の運転手のサロートだった。

 自宅のあるエリアから命がけで、自分のバイクを飛ばして駆けつけてくれたのだ。

「サロートさん、なんで今頃来るんだよ!」

 向井が安堵と混乱から怒りをぶちまけようとした矢先、佐藤が割って入った。

「サロート! 車、動くよな?」

 アソーク通りにも暴徒のグループが集まり始めたころ、サロートの運転で、佐藤、向井、タロー君が乗り込んだ社用車はスクムヴィット通りを西へと走り出した。

 車はラチャダムリ通りを左折、さらにラマ4世通りを右折し、スラウォン通りへと滑り込む。

 夜になればアジア随一の歓楽街として、妖しいネオンを放つパッポン通りの入り口に、目指すマクドナルドはあった。

 だが、今は夜の華やかさなど微塵もなく、真昼の乾いた熱気の中、割れたガラスの破片がシャリシャリとタイヤの下で不気味な音を立てる戦場そのものだった。

 辿り着いたマクドナルドの店内は、異様な空間と化していた。

 冷房の効いた店内の床には、昨夜から徹夜を続けたような、埃まみれの西洋人記者たちが座り込み、ハンバーガーを乱暴に貪りながら、ポータブル無線機やノートに目を落としている。

 英語、フランス語、ドイツ語が狂ったように飛び交い、緊迫した顔でデモ隊の動向を議論していた。

「スチンダー首相の命令で……軍が民衆に向けて、実弾を発砲し始めたそうだ」

 佐藤が、傍らにいたロイターの記者らしき男の会話を盗み聞きし、向井の耳元で囁いた。

「事実かどうかはわからない。だけど、ラチャダムヌン通りは完全に血の海らしい。かなりやばい状況だな」
 
 佐藤は手際よく注文した、オフィス全員分のハンバーガーとポテトフライが入った二つの大きな紙袋を向井とタロー君の胸に抱えさせ、「オフィスへ戻るぞ、急ごう!」と出口に向かった。


4. 消えたサロートと社用車

――タタタタン!

 マクドナルドの自動ドアを出た瞬間、乾いた、しかし重い破裂音がラチャダムリ方面から響いた。

 花火ではない。

 本物の銃声だ。

 直後、地を揺るがすような民衆の悲鳴が押し寄せてくる。

「サロート! 急げ、早く!」

 佐藤が叫んだ。

 しかし、さっきまで店舗の入り口の目の前にハザードランプを点けて停まっていたはずの向井のクレシーダとサロートが、影も形もなくなっていた。

「嘘だろ……俺たち置いていかれたのか!?」

 向井の脳裏に、最悪の絶望がよぎる。

 サロートが、命の危険を感じて自分たちを置いて車ごと逃げ出したのではないか。

 向井はこの映画のような緊迫感と、現実を前に心臓が口から飛び出そうだった。

「佐藤さん、反対側です!」

 タロー君が、反対車線の斜めに倒れ掛かった街路樹に隠れるように止まっている、向井のクレシーダを指差した。

 道路の反対側、いつでもUターンしてラマ4世通りへ逃げられるよう、サロートがあらかじめ車両の向きを変えて停車位置を移動させていたのだ。

 運転席のサロートは半狂乱の形相で「こっちです!早く、早く!」と激しく手を振っている。

「あの爺め、驚かせやがって!」

 佐藤が毒づきながら走り出す。

 向井もマックの袋を必死に抱えたまま、古タイヤの刺激臭に満ちた黒煙の中、道路を真横に突っ切って走った。

 足がもつれそうになりながらも、サロートが内側から開けた後部座席のドアへと滑り込む。

 バタン! とドアが閉まるのと同時に、サロートはクラッチを繋ぎ、タイヤを激しく軋ませて急発進した。

 車窓を、破壊され、へし折られた信号機が横たわる交差点がいくつも通り過ぎていく。

 車はオフィスへと這う這うの体で帰還した。

 デスクにしがみつき、冷めきったマクドナルドのハンバーガーを口に押し込んだが、向井はその味を全く覚えていなかった。

 ただ、湿ったポテトフライが喉に張り付いて、嫌な不快感だけが残った。


5. 流血の残響

 この一九九二年五月の「暗黒の五月事件」は、その後もしばらくバンコクを無法地帯へと変えていた。

 軍部を率いるスチンダー首相と、民衆の圧倒的な支持を得て軍事政権の打倒を迫るジャムロン氏の対立は激化し、街の至る所で銃声と煙が止むことはなかった。

 最終的にラーマ9世国王(前国王)の介入によって事態が収束へと向かうまで、バンコクは完全に機能不全に陥った。

(大変なところへ、来てしまった……)

 デスクの上にぽつんと置かれた、油の染みたマクドナルドの紙袋を見つめながら、向井は小さく溜息をついた。

 きらびやかな海外駐在員生活のイメージは、赴任早々、古タイヤの黒煙と銃声にあっけなく塗り替えられてしまった。

 言葉もわからず、政治の仕組みもわからない。

 そんな異国の地で、自分はこれから本当にやっていけるのだろうか。

 クーラーの冷気だけが虚しく響くオフィスの一室で、向井の胸には、言葉にできない地味で重い不安が、じわりと広がっていた。

 「パワナーさんはまだ来ないのか……」

 この期に及んで未だにオロオロしている竹本に、向井は一発ビンタをくらわしてやろうかと、その時、本気でそう思った……。