『バンコクの屋台は微笑まない』~人生の唐辛子!



 ソムタムの一件で、タイの混沌(カオス)にはそれなりに耐性がついたと思っていた。

 だが、世界は広い。

 いや、我が家の裏手にある市場の路地裏は、さらに深かった。

 アキレス腱の手術を終え、ようやく引きずる足で歩けるようになった暑季の始まり。

 数ヶ月放置された頭をどうにかすべく、俺はおぞましくも「ビューティーサロン」の看板を掲げた場末の床屋のドアを開けた。

 いつもなら、そこにオーナーのコイさんが鎮座しているはずだった。

 昭和のエロ漫画『がきデカ』の主人公・こまわり君をそのまま巨大化させて中年女性にしたような風貌。

 施術中、耳元に「ふー、ふー」と吹き付けられる荒い鼻息。

 あのゾクッとする恐怖のルーティンさえ、今の俺には「日常への復帰」の象徴に思えた。

 だが、店内は無人だった。

 壁のテレビからは、高校の映画研究部が1日で撮ったようなチープ極まりないタイのドラマが大音量で流れている。

「おーい……」

 うめきながら家庭用キッチンほどの狭いバックヤードを覗き込むと、スマホのショート動画を見ながらケラケラと爆笑している2人の中年女(?)がいた。

 真ん中には赤ん坊。

 ―おい、客だぞ。

「あああ! カットね。はいはい」

 女の1人が、抱いていた赤ん坊をプラスチックの床にゴトッと無造作に寝かせた。

 ぬいぐるみじゃねえんだぞ。

「コイさんは?」

「彼女? 足骨折してあんたと一緒、なかに鉄入れてんのよ。だから、今日は彼女が担当ね」

 促された先には、もう1人の女(?)――「こまわり君」セカンドシーズン、あるいは「巨大化・化粧過剰版クレヨンしんちゃん」が待っていた。

 骨太な体躯にギラつく夜のネオン街仕様のメイク。

 とにかく涼しくしてくれ、とだけ伝えて縫い目がほつれた、古いレザーの椅子に深く腰掛けた。

 ここから、俺の感性のスピードメーターは一気にレッドゾーンへと振り切れる。

 首元にフワリとクロスが掛けられる――はずだった。

「……ッ!?」

 お前、胸当てすぎ、肩に乗せすぎやて!

 クロスをかけるフリをして、“しんちゃん”は胸を俺の肩にこれでもかと押し当て、両手で俺の頸筋をすぅーっと愛撫するように撫で上げてきた。

(確か“彼女”と言ったよな? しかしなんだこのごつごつした肌の質感は……?)

 むにゅー、とした容赦のない肉の感触。

 自分のタイプとかそういう次元ではない。

 本能が「目を合わせるな」と警報を鳴らしていた。

 俺は前方の鏡の一点を見つめ、一切の視線をシャットアウトするポーズをとった。

 バリカンが起動し、ブーーーンと頭皮を滑る。

 調子が出てきたしんちゃんのポジショニングは、完全にバグっていた。

 彼女が右側に回ると、俺の右腕に。

 左側に回ると、俺の左腕に。

 豊満すぎる下腹部の肉が、ぽてっ、ぽてっと、いちいちディープに密着してくる。

 右に左にポジションを変える髪切屋はいるが、こいつは明らかに動きすぎだ。

(ちょっとお前……たいがいにせーよ)

 鏡の中のクレヨンしんちゃんは真顔だ。

 服装は、なぜか上下エンジ色の、昭和のヤンキーが着るようなアディダスのジャージ。

 生地がパツパツに張り詰め、全身に「豚まん」を何個も詰め込んだようなボディラインが強調されている。

 沈黙に耐えかねたのか、しんちゃんが急に奇妙な日本語を喋り出した。

「アリガトマース!」 (ありがとうございます?)

「アイッテマース!」(愛してます?)

 やばい、こいつあかん奴かも。

 この状況を打破するには、ひたすら髪を切り終わるまで笑いと「ぷにゅー・むにゅー攻撃」をこらえるしかない。

 精神崩壊間近の10分間。

「はい、では頭洗いましょー、こっち来てー」

 ようやく散髪が終わり、しんちゃんが俺の両手をガシッと力強く握りしめた。

 力感がやはり、完全に男のそれだ。

 足の痛い俺がうまく踏ん張れないのを察して、彼女は殺意を覚えるくらいの笑顔で囁いた。

「私の胸に掴まっていいよぉ」

 脳内のリミッターが壊れ、逆に謎の好感が芽生えそうになる。

(私の胸…?なんでやねん!)

 丁重に辞退してシャンプー台の椅子になだれ込んだ。

 すると、しんちゃんはすかさず「足のマッサージしますねー」と俺の足を揉み始めた。

 ええから! 離せ! なんなんだお前は!

 そこへ、救世主のようにさっきの「赤ん坊を床に寝かせた女」がすーっと現れ、シャンプーを代わってくれた。

 泡で頭を転がされながら、俺は小声で囁いた。

「ねえ……あの彼女、ちょっと個性的だね」

 女は、シャンプーの手を止めずに平然と言った。

「ああ、彼女? 男ですよ」

「……は?」

 じゃあ、さっきから俺の腕に波状攻撃を仕切っていた、あの「ぼてぼて、ぷにゅぷにゅ」とした不思議な肉塊の感触は何だったんだ。

 起き上がった俺の前に、しんちゃんが真剣な面持ちでスッと立ちはだかった。

「いいんです。私、今は女として生きてます。あなたのような日本人の恋人がほしいんです」

 急に左足がズキズキと痛み出した。

 逃げるべきか。

 それとも、大人の男を演出して「ふーむ、君の生き方は美しい、がんばりたまえ」とクソみたいなセリフを吐くべきか。

 俺の葛藤を置き去りにして、しんちゃんは真顔でトドメを刺してきた。

「私、生まれたときから女性ホルモンが多くて……。男性器はまだ切除してないけど、生理現象以外、まったく機能してないの……」

 そんな真顔で言わんでええやん! 散髪代と一緒に開示する情報量を超えている。

 ショートコントのような、あるいは『世にも奇妙な物語』のトワイライトゾーンに入り込んでしまったような、不思議な30分間。

 他人の濃密な人生のストーリーを強制的に垣間見せられたような、シュールな満足感があった。

 気づけば俺は、財布からチップを多めに手渡し、妙にスッキリした頭で笑っていた。

「じゃ、また来るよ」

 そう言い残して店を出ようとした時、ふと床を見た。

 プラスチックの床に無造作に転がされていた、あの女の赤ん坊。

「……あの子、誰の子?」

 シャンプーしてくれた女が笑った。

「私としんちゃんの子。夫婦で酔った勢いでできちゃったのよ」

……機能しとるやないかい。

 俺は心の中で激しく突っ込みながら、エンジ色のジャージ姿で手を振る「しんちゃん」に背を向け、まだ少し痛む足を引きずりながら家路についた。

 次回、彼(彼女)ともう少し、人生について語り合ってみるのも悪くない。

 タイの泥濘|《ぬかるみ》の世界は、シーズン2に向けてさらに深くなっていく。

(終わり)