『バンコクの屋台は微笑まない』~人生の唐辛子!



1. 鉄路の果て

 一九九三年十一月。

 乾期に入ったばかりのタイ西部カンチャナブリは、雨季の名残を閉じ込めた熱帯の緑が放つ、むせるような湿気に満ちていた。

 時折、山の間から吹き抜ける乾いた風だけが、季節の変わり目を告げていた。

 総合商社・日洋物産のバンコク支店に赴任して一年半。

 二十五歳の向井は、本社の食糧部役員が来タイする際の下見を兼ねて、この地に出張して来ていた。

 新規の「さとうきび」大量買い付けプロジェクトの現地視察。

 午前中に広大な農地をめぐり、泥にまみれた大型トラクターの稼働状況を確認した向井は、社用車を走らせて泰緬鉄道の終着駅、ナムトック駅へとたどり着いていた。

 正午を少し回ったところだった。

 今夜、カンチャナブリ市内に新しくオープンした「フェリックス・ホテル」で、地元の農業組合のボスたちとの夕食会が控えている。

 それが今回、向井にとって最後のミッションだった。

「時間はたっぷりあるな」
 
 向井は時計を確認し、密かな計画に口元を緩めた。
 
 退屈な車の後部座席に揺られて引き返すのではなく、あの“死の鉄路”と呼ばれた泰緬鉄道に乗って市内へ戻る。

 それが、視察後にそのまま市内に戻らずに、この辺鄙な終着駅に立ち寄った理由だった。

「サロートさん、ここで昼食にしましょう。それからクウェー川鉄橋駅までの切符を一枚買ってきてください。私は鉄道で戻ります」

 向井が古びた駅舎を指差すと、運転手のサロートは「はぁ?」と浅黒い顔を露骨に曇らせた。

 車なら舗装された幹線道路でわずか四十分の距離だ。

 それを、エアコンもないタイ国鉄の三等列車に揺られて二時間かけて戻るという。

 効率を最優先するはずの商社マンの奇行がサロートには理解できなかったが、ただ小さく返事をして駅舎の切符売り場へと向かった。

 所要時間が二時間と言えど、実際、タイ国鉄のことだ、遅延は日常茶飯事で三時間はみたほうがよい。
 
 車窓にはサトウキビ畑が延々と続くだけで、これといった見どころもないことも承知している。

 それでも向井がこの列車への乗車にこだわったのは、駐在員仲間から聞いていた「アルヒル桟道橋」を、自らの目で確かめてみたいという強い好奇心があったからだ。

 切り立った絶壁の岩肌すれすれを、木組みの桟道の上に敷かれたレールを歩くように走るという、スリル満点のハイライトを彼は純粋に楽しみにしていた。

 泰緬鉄道は第二次世界大戦中、日本軍がビルマ(現在のミャンマー)への物資補給ルートを確保するために建設した、全長四百キロを超える鉄道。

 機械をほとんど使わず、連合軍の捕虜や東南アジア各地から集められた数十万人の労務者による強制労働。

「枕木一本に死者一人」と揶揄されるほどの、血塗られた鉄路。

 向井は古いハリウッド映画『戦場にかける橋』の舞台になったということくらいは頭に入っていたが、そこで描かれる日本軍の残虐さも、どこか現実味のない一方的な自虐感として冷ややかに受け止めているに過ぎなかった。

 悲劇の歴史に深く思いを馳せるわけでも、真摯な探求心があるわけでもない。

 彼にとってそれは、週末のゴルフやバンコクの夜遊びの延長線上にある、スリルと異国情緒を味わうための、単なる物見遊山だった。

 ナムトック駅の低いプラットホームには、午後一時ちょうどに出発する予定の、上り列車がその煤けた巨体を横たえていた。

 先頭に連結されているのは、フランスのアルストム製ディーゼル機関車。

 客車はすべて、塗装が褪せてくすんだ色の日本製の三等車両だ。

 座席は硬い木製で、背もたれはほぼ直角。

 天井で数機の扇風機が頼りなく回っているだけで、乗客は窓を限界まで全開にして熱気を逃がす。

 平日のホームに人影はまばらだった。

 駅前の赤土の道路脇に、トタン屋根の古びた屋台が数軒、真昼の陽炎に揺れていた。

 向井はハンカチで額の汗を拭いながら、ひときわ年季の入った一軒の店の前で足を止めた。 

 薄暗い店先にぼんやりと座っているのは、一人の白髪の老人だった。

 客を呼び込もうという商売っ気は微塵もない。

 ただ、静かに煙草を吹かしながら遠い山の緑を見つめている。

「向井さん、ここは『ジャングル料理屋(アーハーン・パー)』ですね」

 後ろからついてきたサロートが、消えかけた店の看板を読んだ。

「ジャングル料理……?」

 聞き慣れない言葉に向井は眉をひそめた。

 しかし、この赤土の駅前には、飯屋といえるのはその店しかなかった。

「ま、いいか。たまにはローカル料理もいいかもしれないな」

 都会の屋台メシに少し飽きていた向井は、軽い気持ちでその薄暗い店へと足を踏入れた。

 店先に居た白髪の老人は、入ってきた向井たちに一度だけ目をやったが、すぐにまた何事もなかったかのように視線を戻してしまった。

 店内の片隅に置かれた[SANYO]のラジカセからは、人生の哀愁を歌う、タイの演歌(ルーク・トゥン)が流れていた。

 民族楽器の伴奏に、日本の昭和初期のような演歌の、乾いた歌声が店内の淀んだ熱気に溶け込んでいた。

 まもなく厨房から、小柄な老女が手書きの木札のようなメニューを持って現れた。

 薄くなった髪を鮮やかな紫色に染めている。

「ハロー!オールメニュー、スパイシー・ナ!(料理は全部辛いよ!)」

 彼女は不敵に笑う。

「オーケー!マイペンライ・クラップ(大丈夫です)」

 向井は知った風なタイ語で軽く受け流し、手書きのメニューを受け取った。

 しかし、そこに並ぶタイ文字の羅列はただの記号に過ぎなかった。

 外国人向けのレストランにあるような英語表記も写真も、ここにはない。

 向井は少し怯んだ。

「サロートさん、注文はすべて任せます。美味しそうなのを適当に頼んでください、ああ、それとあまり辛くないものを…ね!」

 サロートがタイ語で身振りを加えて注文を済ますと、彼女は満足そうに厨房の奥へと消えていった。

 竹の柱にかけられた[SHARP]の古い扇風機が「グゥーン、グゥーン」と低いモーター音を響かせながら首を振っている。

 ほどなくして、厨房の奥から大きな声が飛んできた。

「あんた、ぼーっとしてないで、早くお客さんにお水を出してあげなさい!」

 その声に弾かれたように、煙草を吹かしていた白髪の老人が、のそりと重い腰を上げた。

(なるほど、どこも同じか。店の実権はあの気の強そうな婆さんが握っていて、この爺さんはただの居候みたいなものだな)

 向井は、タイの田舎にありがちな、妻の尻に敷かれて呑気に生きている老人の姿を勝手に想像し、一人クスリと笑った。

 しかし、その時の向井には知る由もなかった。

 目の前で力なく佇むその老人が、かつてこの地で繰り広げられた、あの悲惨な戦争の歴史をその身に刻んだ「生き証人」その人であることを。


2. 猪肉のゲーン・パーとウシガエル

「向井さん、ここは普通のタイ料理とは違いますよ。山で獲れた野生の肉を使うんです。大丈夫ですか?」
 
 サロートは、白髪の老人が出してきた水を避けるように、自ら冷蔵庫からペプシのガラス瓶を二本取り出し、長いストローを差して向井の前に差し出した。

 ココナッツミルクの効いた甘酸っぱいトムヤム・スープしか知らない向井にとって“ジャングル料理”という響きは単なる好奇心の対象だった。

 それがどういう代物かは、想像すらできずに……。

 やがて、白髪の老人が左の片脚を引き摺るような不自然な足取りで、食器と料理をガタガタと竹のテーブルに並べた。

 料理が入った小鍋から立ち上る異様な香りに、向井は思わず顔をしかめた。

「これは、いったい……?」

 日本の綺麗なスライス肉の「牡丹鍋」を思い描いていた、彼の浅はかな予測は一瞬で叩き潰された。

 目の前に鎮座する「ゲーン・パー(森のカレー)」は、泥のように赤茶色に濁っていた。

 スープの表面には大量の緑の唐辛子の粒と生姜の細切りが浮き、強烈なハーブと土の匂いを放っている。

 具材としてゴロゴロと転がっているのは、野生のイノシシ肉のぶつ切り。

 皮付きの肉からは、家畜ではない獣特有の硬い剛毛が、容赦なく突き出ていた。

 “や、野生すぎる…”

 向井は絶句した。

 さらに隣の小鍋を見て、目を疑った。

 雨上がりの田畑に潜むウシガエルを、真っ赤な唐辛子や強烈な匂いのハーブとともに茹で上げたスープ『トム・ウンアーン』という田舎料理だった。

 灰色に変色したカエルの肉が、ほぼ原形のままスープの表面でぬらりと光っている。

 泥臭さをねじ伏せるための凄まじい苦みのあるスパイスの香気が、容赦なく鼻腔を突いた。

(サロートめ、カエルのスープなんて一言も言わなかったぞ……!)

 心の中で運転手への恨み節が吹き出す。

 当のサロートは手慣れた手つきでカエルの身を口に運び、スプーンの上で器用に骨を外しながら、悦に入り美味そうに食べている。

 タイ東北地方出身の彼にとっては最高の故郷のご馳走なのだ。

 当然、向井はそちらには触れなかった。

 完全な拒否反応だった。

 だが、ここでゲーン・パーにすら手を付けなければ、百戦錬磨の商社マンとしての度量を見くびられる。

 向井は意を決して、赤茶色のスープをスプーンですくい、猪の肉ごと口に運んだ。

「っ……!?」

 その瞬間、口内で小さな爆発が起きた。

 噛み締めた瞬間、家畜の豚肉とは明らかに違う、生々しい獣肉の硬い繊維質が歯を激しく押し返した。

 そして、それを追うようにして襲いかかってきたのは、脳の血管が千切れるかと思うほどの、容赦のない「絶対的辛さ」だった。

 唐辛子の辛味と、タマリンドの酸味がダイレクトに口腔の粘膜を破壊する。
 
 喉が焼け付くような辛さに悶え、ペプシを半分ほど喉に流し込んだが、炭酸の刺激が傷口をさらに激しく痛めつけるだけだった。

 テーブルに両手をつき、スプーンを握りしめたままプルプルと震え、大量の汗を噴き出す。

 涙がボロボロと溢れて、耳の奥がキーンと唸る。

 胃袋に到達した猪の肉が、そこでも最後の抵抗をするように激しく痙攣を誘発する。

 向井はこの完璧なまでの敗北に、そのプライドを完全に粉砕された。

 ラジカセのルークトゥンが、向井の敗北を嘲笑うかのように、妙に明るいテンポで流れて来た。

 その無様な姿を、先ほどまで煙草を吸っていた“老店主”は、ただ静かに微笑みながら見つめていた。

 見かねたサロートが厨房へ短く何か叫ぶと、“紫夫人”が出来立てのタイ風卵焼き(カイ・ジィアオ)を運んできた。

「あんたにはこっちの方がいいかもね」と、少し哀れみの表情を浮かべて不敵に笑う。

 この日本の若造には荷が重すぎると見抜かれていたのだ。

 向井はテーブルのケチャップをたっぷりかけ、貪るように口へ放り込んだ。

 多めの油でサクサクに揚げ焼きされた卵の甘みが、胃袋を優しく包囲していく。

 タイに赴任して以来、向井は仕事帰りには路地裏の屋台を巡り、地元の激辛料理を制覇した気になっていた。

 だが、そんな浅はかな慢心は、この最果てのジャングルが放つ野生の激情と、一皿の卵焼きによって、木端微塵に打ち砕かれた。

 流石にこの本物の野生料理にだけは、完敗だった。



3. 「経済戦争」という名の無血の進駐

「……カライカ?ニッポンジン!」

 卵焼きを平らげ、ようやく息を整えた向井に向かって、それまで使い物にならないと思われていた老店主が、急にドスの利いた日本語で問いかけてきた。

 その鋭い語り口に、向井は本能的に背筋を伸ばした。

 老店主は、手元からタバコを一本抜き、向井の前に差し出した。

 ウシガエルを堪能中のサロートは、左手で遠慮 の合図を送る。

 向井は禁煙中だったが、この張り詰めた空気の中で断る気にはなれず、黙ってそれを受け取って口に咥えた。

 老店主が使い古されたライターを差し出し、カチリと火を点ける。

「ふぅー……」

 深く煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

 胃の底の火種が、紫煙とともに引き抜かれていく気がした。

 いつの間にか、ラジカセのルークトゥンは物悲しい曲調へと変わっていた。

 二人の間に、静かな対話が始まった。

 この白髪の老店主は、ダムロンと名乗った。

 一九四〇年代、わずか二十歳の若さで、この泰緬鉄道の過酷極まる建設現場に、地元の労務者として強制的に日本軍に駆り出された生き残りだった。

 泥沼のジャングル、銃を構えた日本兵の「急げ、速くやれ!もたもたするな!」という怒号。

 蔓延するコレラ、マラリア、そして極限の飢えによって、昨日まで隣にいた仲間たちがボロ雑巾のように次々と倒れていく。

 ダムロンは、手の甲で額にある歪んだ古いあざを無意識に掻いた。

 日本兵の銃床で殴られた跡だという。

 彼は、動かなくなった仲間たちの死体を、この手で赤土に埋め続けてきた男だった。

 先ほど卵焼きを持ってきた夫人もまた、同じ現場で雑役婦として地獄を生き抜いた。

 戦争が終わったあと、二人はこの終着駅の片隅で、生き延びるために小さなトタン屋根の屋台を始めた。

 それから五十年間、ここでジャングル料理を出し続けてきたのだ。

「俺たちの一人息子はな、バンコクの大学を出て、今は日本の会社で働いている。もう、この不便な田舎には二度と戻ってこないと、正月にも顔を見せんよ」

 ダムロンは寂しげに呟き、深くため息をついた。

 ルークトゥンの哀歌が、その言葉と不気味にシンクロする。

 ダムロンは、ゆっくりと向井の対面の椅子に腰をかけると、発車を待つバンコク行きの列車へと視線を向けた。

「日本人というのはな、昔も今も変わらない。一度やると決めたら、目的のためには手段を選ばない。大本営の命令、工期厳守のためなら、現場の人間がどれだけ死のうが知ったことじゃない。あの時代の軍服を着たお前たちの先祖はまさにそうだった。……そして、今の日本の“カイシャ”というのも、ワシには全く同じに見えるがな……」

 当時の日本軍の狂気と、現代の日本企業の不条理。

 目的のために人間を使い潰す組織の仕組みは、昔も今も何一つ変わっていない。

 向井は煙草を灰皿に押し付けた。

「だがな……」

 ダムロンは微かな笑みを浮かべ、店の前に停められている一台のピックアップトラックを指差した。

 その荷台には、これ見よがしに[TOYOTA]のロゴが白く染め抜かれていた。

「日本はあの戦争には負けた。本当に無様で、酷い負け方だったな。俺たちの仲間を何万人も死に追いやって、最後は飢え死にしながら去っていった。……でもな、若造。今やこんな田舎の未舗装の道路にも、お前たちの国の車が我が物顔で走り回り、家庭に入れば、日本の電化製品や雑貨で溢れかえっている。お前たちが持ち込む『金』と『技術』の前に、今のタイ人はみんな、ありがたがって平伏しているんだ」

 ダムロン氏は別の煙草に火を点け、ゆっくりと白い煙を吐き出した。

「経済戦争では、お前たちの圧勝さ。しかも、一発の銃弾も使わずに、この国を全部、裏側からひっくり返したんだからな」

 ダムロン氏の静かな語りが、向井の胸の奥深くに重く突き刺さった。

(俺たちが今やっていることは、あの時代、軍服を着て『大東亜共栄圏』という名の幻覚を掲げ、現地人をジャングルで酷使して死に追いやった先祖たちと、一体何が違うのだろうか)

 彼らは銃と軍刀でこの国を蹂躙した。

 そして今の自分たちは、仕立ての良いスーツを着て、契約書と電卓という「新しい武器」を携え、経済協力という名の下で、この国を裏側から侵略しているに過ぎないのではないか。

 本社の役員が来れば、この凄惨な歴史の地をただの「観光ルート」として淡々と案内し、頭の中では「さとうきび」の買い付け価格をいかに安く叩くかという計算ばかりしている。

 向井は静かに立ち上がり、二人の老夫婦に向かって深く一礼した。


4. 濁流を見つめて

 ダムロンは何も言わず、カウンターの奥から、自家製の山のハーブと怪しげな木の根を漬け込んだ、琥珀色の地酒(ヤードーン)が注がれたショットグラスを差し出した。

「まぁ、これを一杯飲んでから行くがよい……」

 グラスからは、漢方薬のようなツンとした薬臭さと、鼻を刺すような酸っぱい発酵臭が立ち上っていた。

 向井はそれを受け取り、一息に煽る。

「くーっ……!」

 喉から胃袋にかけて、再びカッと熱い炎が走る。

 度数の高いアルコールが容赦なく喉を焼いてしていく。

 午後一時ちょうど。

 ナムトック駅の静かなホームに「ピーッ」と短い汽笛が響いた。

 連結器がガチャンと重い金属音を響かせると、列車は音もなくするりと動き出した。

 ヤードーンの灼熱感を胃に残したまま、向井は完全に開け放たれた窓際の席に腰を下ろした。

 だが、緩やかなカーブと列車の心地よい振動、そして例のヤードーンのきついアルコールのおかげで、向井はその地点ですやすやと眠りに落ちていた。

 やげて、列車は速度を落とし始め、何度も鋭く警笛を鳴らす音で、向井は目が覚めた。

 走る列車の右窓からは、クウェー川の深緑色のゆったりとした流れが眼下に見下ろせる。

 列車が「タムクラセー駅」を過ぎたところで、景色の緊張感は最高潮に達した。

 左側は、当時の捕虜や労務者たちが岩盤を爆破して作った、生々しい岩肌の絶壁が窓すれすれに迫る。

 列車は、木組みだけで支えられた、高さ数十メートルの桟道橋に敷かれたレールを歩くような超低速で進む。

 崩落すればひとたまりもない。

(この枕木の一本一本が、あのダムロンが埋めてきた仲間たちの死体の上に敷かれているのだ)

 ギシギシと悲鳴を上げる木組みの振動が、向井の足の裏を通じて身体に直接伝わってくる。

 向井は冷や汗をかきながら、窓枠を震える手で強く掴み続けるしかなかった。

 夕刻の光が西の空を赤く染め始める頃、列車はようやく終着のクウェー河鉄橋駅へと滑り込んだ。

 駅の駐車場には、運転席のサロートが待ちくたびれたようにシートを倒して寝ていた。

 向井がドアを叩く彼は飛び起きて、バツの悪そうな顔で後部座席のロックを解除した。

「遅くなってすまない、サロートさん。……ホテルへ行きましょう」

 向井のトーンの変化に気づいたのか、サロートは何も言わず、エンジンのキーを回した。

 今夜の夕食会の会場である「フェリックス・ホテル」は、クウェー川の流れが大きく湾曲した絶景の地に建てられていた。

 冷房の効いたあの宴会場へと向かうと、そこにはすでに、現地の利権を握るタイ人農協幹部たちが、日本の“カイシャ”がもたらす「金」を期待して、満面の笑みで待ち構えていた……。



5. パパイヤを刻む音(エピローグ)

 随分と後になって、人づてに聞いた話だが——

 あのナムトック駅のジャングル料理屋の老店主、ダムロン氏は、かつて大戦中、その真面目さゆえに日本軍の憲兵隊の雑用係を無理やりさせられていたのだという。

 戦後、日本軍が撤退すると、彼は同胞のタイ人たちから「裏切り者」と激しい罵声を浴びせられ、生まれ故郷での居場所を失った。

 そうして、この鉄道の終着駅の最果てに隠れ住むようにして、それから五十年もの間、あのジャングル料理を出し続けていたのだ。

 そして夫人に先立たれたのち、ダムロン氏は誰に看取られることもなく、ひっそりとこの世を去ったという。

 歴史の濁流に消えていった、彼もまた名もない犠牲者の一人だった。

  *

 西陽が差し込むコンドミニアムのキッチン。

 向井は我に返り、手元の包丁に目を落とした。

 手元の状況は何一つ変化はない。

 緑色の若いパパイヤの千切りには、未だに酷く苦労している。

 不器用な包丁の音だけが、静かな部屋に響いていた。

 思えば、バンコクへの到着初日、スクムヴィット通りの激しい渋滞と喧騒の中で口にした、あのソムタム屋台の容赦ない、涙が出るほどの辛さがすべての始まりだった。

 あの日から今日まで、向井はこの国の“酸い”も“甘い”も、常にその一皿一皿の料理の記憶とともに見出してきたのだ。

 そして三十余年が経った今でも、向井の胸の奥には、あのナムトック駅で喉を焼いたヤードーンの熱さが、淡い記憶とともに残り続けている。

 ふと思い立ち、向井は調理の手を止め、濡れた手をタオルで拭うと、スマートフォンの画面を開いた。

 地図アプリを起動し、記憶の糸をたどりながらカンチャナブリのナムトック駅周辺の赤土の道路を指先でなぞっていく。

 拡大していく衛生写真のなかに、一軒の小さな飯屋のマーカーを見つけた。

 トタン屋根の形は、あの日の記憶のままだ。

 レビューには英語やタイ語、数件の日本語で「本物のゲーン・パーが食べられる店」と書かれている。

 向井は、もう一度、あのジャングル料理屋に行ってみたくなった。

 あの料理の圧倒的な辛さに完全敗北した、あの場所へ。

 画面を閉じると、キッチンに再び包丁の音が戻った。

 不思議なことに、さっきまであれほど手こずっていたパパイヤを切るリズムが、今少しだけ良くなった気がした。

 包丁を動かす手元に合わせるように、彼はあの薄暗い店内で流れていたルークトゥンのメロディを、静かに口ずさみ始めていた。

「よし、来月の連休に、行ってみよう……」

(シーズン1・完)