『バンコクの屋台は微笑まない』~人生の唐辛子!



1. 限界突破のカオマンガイ

 一九九三年十月、雲の低い、どんよりとした湿気がまとわりつく日曜日だった。

 向井は、ヤワラー(中華街)の西端に位置するチャルンクルン通りの交差点に立っていた。

 信号の先には、一九三三年に国王ラーマ七世の命によって建てられた、タイ初の冷房付き近代劇場『サーラーチャルームクルン劇場』がひっそりと立っている。

 直線的なラインと機能性を重視したアール・デコ様式の重厚なコンクリート外壁は、南国の烈日と激しいスコールに晒され、何度も色を塗り替えられた末のくすんだ薄茶色に変色していた。

 かつてハリウッド映画やタイ映画の黄金期を上映した高貴な栄華の残像を、街の史跡として今に留めている。

 だが、今では往年の名画がスクリーンに掛かることはなく、旅行者向けにタイの伝統叙事詩「ラーマキエン」の仮面舞踊劇などを見せる劇場になっていた。

 しかし、赴任以来、ビジネスの数字ばかりを追ってきた向井には、目の前の建物がどれほど歴史ある建造物であるかなど、全く関心がなかった。

 ただの古びた灰色の塊にしか見えていなかった。

 オフィス街のシーロムやサートンとは違い、ここには休日の静けさなど微塵もなかった。

 チャルンクルン通りは、中華街特有の、巨大なバードケージにいるような喧騒に満ちている。

 渋滞を縫うように行き交う路線バスや、トゥクトゥクの排気音と、路地裏から漂うスパイスの香りが混ざり合い、旧市街としての濃密な面影をそのまま残していた。

 軒を連ねる古い低層の木造店舗には、例外なく金や朱色で書かれた潮州語(中国の方言)の屋号が掲げられている。

 だが、劇場の向かい側から細い路地へと一歩足を踏み入れると、路地の空気は少し張り詰める。

 商店のガラスケースの向こうに並んでいるのは、衣類でも食品でもない。

 金属の鈍い光を放つリボルバー、銃身の長い散弾銃、そして黒光りする自動拳銃。

 ここはタイ随一の銃専門店街、サームヨート地区だった。

 日曜日で数件の店のシャッターは下りていたが、開け放たれた間口からは、乾いたオイルの匂いと、微かに鼻を突く薬莢の硝煙、そして独特の金属臭が漂ってくる。

 奥のほうから、誰かが試射でもしてるのだろう、パンパンと乾いた音が漏れてくる。

 護身と利権が地続きにあるタイの生々しい実態が、ごく当たり前の日常の風景としてそこにあった。

 向井は無意識のうちにシャツのボタンを一つ外した。

 ポケットには、ナコンシータマラートのタン社長から預かった、一枚の直筆の紹介状が入っている。

「バンコクへ戻ったら、チャルームクルンの向かいにいるチア兄を訪ねろ。昔バンコクに住んでた頃の幼馴染みだ、可愛がってくれと書いておく」

 タン社長のぶっきらぼうな声を思い出しながら、向井は銃器店の並びにある、壁の塗装が剥げかけた古ぼけた雑居ビルの階段を上っていった。

 薄暗いコンクリートの通路を進むにつれ、表通りの喧騒が徐々に遠のいていく。


2. 百年の脂、本物の洗礼

 一歩一歩階段を上りながら、向井は自分がここへ来た理由を頭の中で整理していた。

 バンコクに赴任して以来、小綺麗なオフィス街とスクンビットの往復ばかりで、実はこの中華街のエリアには一度も足を踏み入れたことがなかった。

 このタン社長からの紹介状は、向井にとって中華街というところへ一歩踏み入れるきっかけとなった。

 それはもっとタイの深部を知りたいという単純な好奇心と、ひょっとしたらタン社長の古い人脈から、新しいビジネスのネタや食い込める市場への足がかりが見つかるかもしれないという、商社マンとしての小さな下心があったからだった。

 三階の重い鉄の扉を開けると、そこは輪転機のインクの匂いと、漢方の羅漢果(らかんか)を煎じたような甘苦い香りが混ざり合った空間だった。

 地元の有力中国語新聞社「泰東日報」のオフィス兼自宅。

 最新のコンピューターなどはどこにもなく、使い込まれた木製のデスクにはゲラ刷りの山と、インクで汚れた真鍮の文鎮が転がっている。

「おお、来たか。タンの“友人”のコボリだな……?」

 部屋の奥からしわがれた声が響いた。

 仕立ての良い麻のリネンシャツの袖をまくり、細い老眼鏡の奥から鋭い眼光を向けてきたのが、オーナーであり編集長の老齢のチア爺だった。

 その周囲には、同年代の、いかにも一筋縄ではいかない風貌をした老華僑たちが数人、茶会でも開くかのように集まって、大きなチーク材のテーブルを囲んで中国茶の杯を握っていた。

 地元の名士たちだろう、彼らが一斉に向井をじっと見つめる。

「まぁ、座れ。タンの爺さんを口説き落としたという、生意気な日本人がどんな面をしてるかと思えば、随分と青白いガキじゃないか。腹が減っては戦はできん。まずはこっちに来て一緒に食え」

 チア爺が顎で指したテーブルの中央には、向井がこれまで見たこともないような巨大な皿に盛られた、純白の肉塊が目に飛び込んできた。

 そこから立ち上る、圧倒的な鶏の脂の香りに、向井の胃袋が不意に鳴った。

 この劇場裏の路地で、実に操業百年を誇るという老舗から、チア爺が特別に仕込ませた“カオマンガイ”だった。

 大皿に山盛りにされた、驚くほど肉厚な鶏肉が乱雑に、そして美しく並んでいる。

 向井は、緊張の糸が切れぬまま席につかされたが、目の前のご馳走に頬が緩む。

「はい、ではご馳走になります!」

 向井は促されるままにスプーンとフォークを握り、鶏肉と脂米を口に運んだ。

 その瞬間、脳天を突くような衝撃が走る。

(何だ、これは……!)

 これまでスクンビットの洗練されたレストランや、オフィスの裏の屋台で食べていたカオマンガイとは、完全に次元が違っていた。

 丸ごと蒸し上げられた鶏のゼラチン質と濃厚な脂が、スープで炊かれた米の一粒一粒を包み込み、乳白色に輝いている。

 パサつきなど微塵もない肉厚の鶏肉を噛み締めると、弾力のある皮目からジューシーな肉汁が口内で溢れ出した。

 さらに驚くべきはこの店の秘伝のタレ(ナムチム)だった。

 濃厚なタオチィアオ(大豆味噌)のコクの中に、細かく刻まれた生の生姜の辛みと、鮮烈なプリック(唐辛子)の刺激が容赦なく襲いかかる。

 その味覚を圧倒するような辛みが、逆に鶏の脂の奥深い甘みを限界まで引き出していく。

 向井は言葉を失い、ただ無我夢中で両手と口を動かし、本物のカオマンガイの持つ絶対的な旨味に、ただ夢中になって食らいついた。


3. 銀幕に隠れた「もう一つのタイ」

「ははは! いい食いっぷりだ、コボリ! 日本人のなのに、この脂と辛さから逃げないのは気に入った」

 向井が美味そうにかき込むのを見て、老人たちの表情が緩み、豪快な笑い声へと変わった。

 チア爺が濃い目に淹れた、熱い鉄観音茶を向井の杯に注ぐ。

 ここから、向井への"尋問”が始まった。

 タン社長と知り合った正確な経緯、バンコクでの具体的な仕事内容、日本の家族構成から大学での専攻に至るまで、老人たちは茶をすすりながら根掘り葉掘り聞いてくる。

 向井が一つ一つ丁寧に答えるたび、彼らは満足そうに、時に潮州語で何かを言い合うと、顔を見合わせて頷いたりしていた。

 茶の渋みで口の中の脂を流し込みながら、今度は向井が彼らの話に耳を傾けた。

 話題は自然と、彼らの目の前にある「サーラーチャルームクルン劇場」の歴史へと移っていく。

「ムカイと言ったか。お前ら若い日本人は、あの劇場をただの古い建物だと思っているだろう」

 リネンシャツのボタンを外した一人の老人、プラサーン爺が、窓の外の茶色い街並みを指差した。

 向井にはその建物が、歴史ある建造物であることさえ全く関心がなかったのだと、己の無知を心の内で省みる。

「子供の頃、あの劇場は俺たちの世界そのものだった。三〇年代、ラーマ七世が建てた頃の華やかさは格別だったよ。だがな、四〇年代になってお前たちの先祖が進駐してきた時、あの劇場は一変した。楽しみだったハリウッド映画は全て禁止され、上映されるのは日本軍の宣伝映画ばかり。俺たちはここで、銃を構えた日本兵の映像を見せられて育ったんだよ」

 向井は背筋が伸びるのを感じた。

「その後、五〇年代から六〇年代の独裁軍政の時代、街に戒厳令が敷かれて夜間外出禁止令が出た時もな、あの劇場の裏口だけは開いていたんだ。当時は映画のフィルム自体が貴重な密輸品で、最大の娯楽利権だったからな。軍政の検閲や厳しい目を盗んで裏口からフィルムを融通し合い、その暗闇に紛れて、軍の最高幹部と俺たち華僑のボスが数十万バーツの現金を直接手渡して裏の利権を動かしていたのさ。お前たちが知っているタイは、ここ二十年やそこらの、外国資本のために綺麗に“舗装”された『見世物のタイ』に過ぎんよ」

 老人たちの中には、一九六〇年代に日系企業の進出初期、タイ人第一期の「優秀な技術研修生」として日本に渡った経験を持つ者もいた。

 ソムキッド爺は当時の東京の様子を振り返り、「あのアパートの狭さと寒さは狂っていたが、日本人の規律と美意識は本物だった」と、熱を込めてほめちぎった。

 しかし、向井はその話の裏にある事実に気づき、静かな衝撃を覚えた。

 彼らは日本を純粋にリスペクトし、かつての体験を懐かしんではいるが、現在、彼らの誰一人として日系商社や日本企業と直接の取引をしていなかった。

 彼らのビジネスは、徹底して身内の華僑社会の血縁と、その強固なネットワークの中だけで完結し、巨万の富を築いているのだ。

“敬意は払うが、身内の利権には一歩も入れない”

 その目に見えない、しかし絶対的な壁の存在を、向井は突きつけられていた。

 先ほどまで脳天を突き、自分を陶酔させていたカオマンガイの絶対的な美味さに反して、口の中に残る脂の余韻が、急にひどく苦い味に感じられた。


4. 賭けゴルフと華僑のベンツ

「日本の本社から俺のとこへやってくるお偉方は、いつも綺麗なスーツを着て、免税店の袋を持って、ゴルフに誘い、仕事の話をすぐにはしない……」

 チア爺が茶杯を弄びながら、面白そうに目を細めた。

 彼はこの新聞社の経営だけでなく、バンコク郊外で食料品と衣料品の製造工場もいくつか動かす現役の実業家でもあった。

 現場の泥臭い金の動きを誰よりも知っている。

「だがな、一九七〇年代のクーデターの朝、俺たちが真っ先にしたのは、オフィスの片付けじゃない。軍の通信将校の自宅の裏口に、ベンツ三台分の現金を現物で運び込むことだ。法律が一日でひっくり返る国で、書類の正しさに何の意味がある?」

 向井は反論しようとしたが、言葉が出なかった。

 チア爺の言葉には、激動の歴史を生き抜いてきた者だけが持つ、生の重みがあった。

「お前、数年前に高級ゴルフ場で有名になった、ある華僑の男の話を知っているか?」

 テーブルの隣に座る老人、チャチャワン爺が身を乗り出して言った。

「そいつは、一打数百万円という無茶な賭けゴルフをやってな、大負けしたんだ。その場で愛車のベンツのトランクを開けて、詰まっていた現金の束をベンツごと全部相手に渡して、自分はゴルフ場から、みすぼらしい流しのタクシーを拾ってバンコクへ帰っていったんだよ」

 向井は思わず眉をひそめた。

「なんか馬鹿げた話ですね、そんな人が本当にいるなんて……」

「そう思うだろう?」

 チャチャワン爺が向井の言葉を遮るように、チア爺の膝を叩いた。

「だがな、周りの人間は誰もそいつを馬鹿だなんて笑わなかった。むしろ、その翌日から、そいつの元には何億バーツもの新しいビジネスの話が集まったんだ。なぜか分かるか?」

 向井は答えに詰まった。

「人間というのはな、本当に困った時、将来の不確実な約束なんか信用しない。目の前にある確実な『現物』と、『どれだけ大損をしても、約束通りに自分のケツを拭く男か』という一点しか見ないんだ。大損ぶっこいてタクシーで帰るそいつの引き際を見て、誰もが『こいつは、負け戦になっても仲間を置いて逃げない男だ』と確信したのさ」

 チャチャワン爺は満足そうに茶を一口すすった。

「このアジアの泥臭い市場で最後に金を動かし、本当の利権を分けるのはな、書類の見栄えじゃない。『こいつとなら、一緒に転がり落ちても裏切られない』と、相手の腹に直接納得させる、身内の信頼なんだよ」


5. 銃弾の誘いと、三十年後の追憶

 話が最高潮に達し、老人たちの笑い声が部屋に響く中、リネンシャツの胸元からパイプを取り出し、煙草をその先に差して火を点けたタヴィサク爺が、窓の外の銃器街を見下ろしながら向井に言った。

「おい、日本の若造。そんなにタイのビジネスの裏を知りたいなら、下に降りて一発撃ってみるか? なんなら、お前に手頃なリボルバーを一丁、俺の名義で買って、お前の手元に持たせてやってもいいぞ。どうだ?一丁持っとくか?」

 本気とも冗談ともつかない、悪戯っぽく楽しげな笑みが恍惚な爺の顔に浮かぶ。

 周辺の店舗に並ぶ本物の銃器の記憶が、向井の脳裏に生々しく蘇った。

 もちろん、タヴィサク爺の言葉は否定的な意味ではない。

 もしここで「欲しい」と言えば、彼は本当に自分の名義を使って、身内に対する好意として銃を融通してくれるのだろう。

 向井は一瞬、その誘いの重さに戸惑った。

「ああ……いえ、私は商社マンですので、ペンと電卓があれば十分です」

 向井が引きつった笑顔でそう答えると、老人たちは一斉に「ははは! やっぱり日本の真面目な坊やだ!」と腹を抱えて爆笑した。

 向井は適当にあしらわれ、彼らの格好の酒の肴にされたのだった。

 その瞬間、向井は奇妙な緊張感とともに、「ここは本当に、自分の知っているタイなのか」という、認識の境界線が揺らいでいくような感覚を覚えた。

——三十余年経った今だからこそ、わかる。

 あの時、タヴィサクの突拍子もない誘いに「一丁くらい持っていても良かったかな」と、ふと思うことがある。

 もちろん、タイの法律上、外国人である自分が銃を所持することは完全に違法であり、断ったのは当然の判断だった。

 もし実際にあそこで銃を受け取り、自分のものにしていたら、その後の長いタイ生活の中で一体どんな災難やトラブルを引き起こしていたか分かったものではない。

 それでも、あの剥き出しの華僑社会の洗礼に直面した記憶は、今でも鮮烈に胸に残っている。


6. 潮州語の喧騒へ

 夕暮れ時、オフィスを去ろうとする向井の手に、チア編集長が新聞紙に包まれた古い中国茶の塊を無造作に握らせた。

「またいつでも飯を食べに来い。この辺りは美味いもんの宝庫だからな」

 チア爺は不敵に笑い、向井の肩をドンと叩いた。

「ただし、次は手ぶらで来るなよ」

 ビルの階段を静かに下りながら、向井はその言葉の意味を深く反芻していた。

 チアの言う「手ぶらで来るな」とは、日本のお菓子や高級な土産物を持ってこいという意味では決してない。

 次に来る時は、ただ話を聞くだけの客としてではなく、お前自身の持ち寄る情報や、商社マンとしての新しい仕掛けを持ってこいという、対等な関係を求める華僑社会独特の挨拶なのだ。

 劇場の外へ一歩踏み出すと、旧市街はすでに濃い夕闇に包まれていた。

 そこにあったのは、冷房の効いたシーロム通りの近代オフィス街や、自分が毎日こなしている日常のルーティンとは、全く異なる世界だった。

 四方から飛び交う、激しい潮州語の怒号のような喧騒。

 屋台のコンロから立ち上る、炒め物の黒い油煙と、焦げたニンニクの匂い。

 そして、先ほどまで開いていた銃器店が一斉にシャッターを下ろしていく、重苦しい金属音が街に響き渡る。

 向井は立ち止まり、これまで見てきた、経験してきたバンコクでの生活や日常の仕事とは、まったく別次元の“もう一つのタイの顔”を垣間見たような気がした。

 随分と後になって聞いた話だが、そのゴルフの賭けで負けて、大金と乗ってきたベンツごと失った人物というのが、まさにその“チア爺”だったと知った。

 向井は喧騒渦巻く中華街の雑踏の中へと、鳴かない小鳥のように静かに吸い込まれていった。