【第七章 藤は決して離れない】
藤乃は第二皇子への手紙をしたためた。
帝都に婚約者として帰るのはお断りいたします。第二皇子様のご命令通り、妖都の長を支えて、友好関係を築き、帝都の反映を願っています。
そういった内容を丁寧に、格式を持って綴った。使う紙やペンにも気を遣い、失礼のないように最大限の気を配った。これで何か失礼があれば、天魁に迷惑をかけてしまうかもしれない。
「これでよかったんだな」
天魁は藤乃の手紙を隣で見ながら尋ねてきた。それはいろいろな意味を内包した問いだったと思う。けれど、彼の隣にいると決めたのだから、迷うことなど何もない。藤乃の髪にはしゃらりと音を立てる簪が揺れる。
「もちろんでございます」
手紙を帝都へ届けてほしいと志摩に頼んで、藤乃は立ち上がった。
「天魁様、明日の準備をしないといけませんよ」
「ああ、そうだな」
明日は、天魁と藤乃の婚儀が行われる予定だ。
妖都の奥には、かつての長が使っていた大きな屋敷が建っている。現在は講堂として開放されている。そこで婚儀をすることになったのだ。
「婚儀といっても、堅苦しいものでなく、妖都の長に相手ができたことを周知する場だ。帝都でのパーティーのようなものだ」
「わかりました」
「ただ、形としてはしっかりしている。特に衣装は特別なものを身につける決まりだ」
「特別なもの、ですか」
そんな会話と準備が進み、当日には何人もが手伝いに来てくれた。
志摩が料理を作り、小桃がスイーツを担当することになった。市と綾は支度を手伝ってくれるから、メイクが終わるのをすぐ近くで待っている。
メイクをしてくれるのは千世なのだが、来て早々に謝罪を口にした。
「二人とも、ごめんなさいね……」
天魁と藤乃は一瞬、何のことかわからなくて顔を見合わせたが、すぐに思い出した。あの赤紫色の小瓶のことを。
「わたし、寿命のためにはこれしかないって決死の覚悟だったのですよ」
藤乃は少し頬を膨らませて、千世に不満を伝えた。今となっては本気で不満を抱いているわけではない。
「藤乃ちゃん、怒らないで。メイクができないわ」
頬をそっと人差し指で突かれて、藤乃は膨らませた頬を戻す。
「もちろん、藤乃ちゃんの覚悟はわかっていたけれど、わたしが藤乃ちゃんを妖にしてしまっては、天魁様のお怒りを買ってしまうもの」
「当然だ、急に人魚の血といって飲んだから肝を冷やしたんだからな」
天魁も千世に対して文句を言った。確かに、あのぶどうジュースで一番驚いたのは天魁だろうとは思う。
「そうよね。堕とすなら、自分の手がいいわよね」
「そういう話では……いや、だがまあ、そうともいえる」
千世に苦言を呈していたはずの天魁が、なぜか納得したように頷いてしまった。
「天魁様……!」
恥ずかしくなって藤乃は天魁の腕を引っ張る。天魁はすまないと言ったものの、その顔は全然申し訳なさそうには見えない。
「はいはい、藤乃ちゃん。あんまり動かないでね」
藤乃はメイク中なこともあり、それ以降は大人しく椅子に座って鏡を見つめていた。婚儀のためのメイクは普段の印象とはまた違ったものになる。
「さあ、できたわ。とても綺麗よ」
「ありがとうございます。千世さん」
「どういたしまして。ほらほら、天魁様も着替えてきてちょうだい」
藤乃のメイクを興味深く横で見ていた天魁も、さすがに自身の準備のために別室に連れていかれた。
「市ちゃん、綾ちゃん、お願いします」
「任せて!」
「任せて!」
双子は藤乃の髪をコテで熱を加えつつ、まっすぐに整えた。今から着る衣装にはまっすぐな黒髪が合うのだからと、最初から決めていたらしい。
そして、市と綾、千世の三人がかりで衣装を身につけていく。
単衣と呼ばれる着物からはじまり、その上に幾重にも着物を重ねていく。五衣唐衣裳、いわゆる十二単《じゅうにひとえ》だ。伝統的な美しい装束を身に纏い、身も心も引き締まる思いだった。
簪は、帯につけることにした。この素晴らしい装束をさらに美しく見せてくれる。
「まあまあ、とても綺麗よ。藤乃ちゃん」
「あねさま綺麗……!」
「あねさま綺麗……!」
三人からの賞賛を受けて、藤乃はどこか気恥ずかしくて、でも嬉しくもあった。
「束帯はやりすぎじゃないか? 俺はいつもの着物でも別に」
着替えを終えた天魁もやってきた。束帯とは、男性の伝統的な装束で、天魁はよく黒い着物を着ているが、同じ黒の着物でも格式高い雰囲気がある。
「藤乃ちゃんが着るのだから、天魁様も合わせないと。ね?」
「あにさまもかっこいい!」
「あにさまもかっこいい!」
双子は天魁の周りをぴょんぴょんと飛びまわって嬉しそうにしている。天魁は、藤乃の十二単姿を見て、愛おしそうに目を細めた。
「とても綺麗だ、藤乃」
「ありがとうございます。天魁様もとても素敵です」
差し出された手に自分の手を乗せて、藤乃は会場へ歩き出した。
会場はたくさんの花で可愛らしく、飾り付けられていた。そこへ二人が入場しただけで、わあっと歓声が上がる。
「長―!」
「藤乃さん―!」
「天魁様―!」
「藤乃―!」
お世話になった妖や、天魁の家族などはあらかじめ席を用意した。天魁と雰囲気の似た女性と目が合い、彼女が天魁の妹で、市と綾の母だろう。会釈を受けて、藤乃も同じように返した。
――お母様……
この晴れ姿を母にも見て欲しかったとも思うが、妖都には基本的に人は入れない。それに、藤乃は母の言葉に背いて、ここにいることを選んだのだから、合わせる顔がない。
会場には、関係者の席以外は誰でもどこでも入っていいとした。そうしたら、会場を埋め尽くすたくさんの妖がやってきている。どうやら入りきらない者まで出てきているらしい。
「こんなに妖都の皆さんが集まるとは思いませんでした」
「皆、藤乃を一目見たくて集まったんだ。見せつけてやるといい」
「まあ。慕われているがあるのは天魁様でございましょう」
「どうだかな」
婚儀はつつがなく進んでいく。盃を交互に酌み交わして二人の間に契りを結ぶ。そして形式ながらに誓いの言葉を述べる。
「今日の佳き日に、婚儀をあげ、互いを深く愛し、ともにこの妖都を守っていくことを誓う」
「誓います」
そのあとは、妖珠の交換をするのが通例らしい。すでに二人の間で交換をしていても、婚儀で改めて交換することが多いのだという。
天魁と藤乃の場合は、特別に榛名に頼んで指輪を作ってもらった。妖珠はない、ただの指輪だ。それをこの婚儀では交換する。
互いの手を取り、相手の指へゆっくりと指輪を通していく。約束が形になったようで、幸せな気持ちで満たされる。
「ありがとうございます、天魁様」
「こちらこそ」
そこからは、食事が振る舞われるパーティーになる。あまりに多くの妖がやってきたため、講堂だけでなく、庭でも立食パーティーとして振る舞われることとなった。
藤乃は身軽な小袿になって、主催として天魁とともに話をしてまわる。
たくさんの妖と話して、藤乃は本当に天魁が慕われていること、その隣に立つ重みを感じた。彼に相応しくならなければと、決意を込めてぐっと両手を握る。
「藤乃」
天魁に呼ばれて振り返ると、唐突に額に口付けが落とされた。驚いて、握った手のひらがほどけてしまう。
「そんなに難しい顔をするな。覚える必要があることは、これから覚えればいい。今は、来た者たちに楽しんでもらえれば、それでいい」
「はい」
藤乃は変に入っていた力が抜けて、笑顔で頷いた。
皆に楽しんでもらおうと思い直したところで、天魁とのやり取りを見ていた女性からあっという間に囲まれた。
「ねえ、長とはいつもあんな感じなの?」
「藤乃さん、可愛らしいから当然じゃない。ねえ?」
「お二人はどこで出会ったのですか」
「妖珠はこの簪ですか? 素敵ですね~」
恋の話が好きなのは、人も妖も変わらないらしい。きっと、これも楽しんでもらう一つの形だ。藤乃は、目を輝かせて質問する彼女たちと話に花を咲かせた。
パーティーは夕方まで続いた。終わるころには、数え切れないほどの妖と言葉を交わしていた。
「今日は、ありがとうございました」
天魁の勧めで、最後は藤乃の言葉で締められた。会場は大きな拍手で包まれた。
ちなみに、夜は有志による宴が開催され、そちらも盛り上がったらしい。志摩、榛名、常盤の三人が取り仕切り、酒は千世が用意したと聞いた。
「天魁様は行かなくてよかったのですか」
「さすがに疲れた。それに藤乃と一緒の時間を過ごすほうがいい」
広い居間で、二人はぴったりと肩を寄せ合って座っている。藤乃は、天魁の肩にこてんと頭を預ける。藤乃もとても楽しくて、それゆえの疲労感がある。
「わたしもです、魁里様」
二人だけのときはたまにそう呼ぶことにしている。天魁がとても嬉しそうな顔をしてくれるから。
ある日、帝都から衝撃の声明が発表された。
第二皇子の婚約者が、妖都の長によって攫われた。婚約者を救出するため、再三警告をしたものの、応答がなかった。帝都は荘園への寛大な措置を見直し、侵攻する。
「どういうことですか……!?」
藤乃は思わず叫んでしまった。こんなでたらめな声明が出るなんて、あり得ないことだ。
天魁はすぐに指示を出し、常盤からの報告を受けた。
「第二皇子が単独で出した声明のようで、帝都でも大混乱となっております。一部が同調して、侵攻に賛成し、荘園を帝都の一部にするべきだと過激な声も聞かれます」
「そんな……」
藤乃は常盤の報告に言葉を失った。帝都がそんな状況にあるなんて、信じられない。
「さらに悪いことに、皇は外交で今は帝都を離れています」
「なんてことだ。父親である今の皇は弁えているのに、息子は馬鹿だな」
天魁が吐き捨てるように言った。藤乃は擁護するわけではないが、一応付け足した。
「ご長男である第一皇子は聡明な方です。ただ、その声がどこまで届くかは、わかりません……」
荘園の特別な立ち位置への疑惑や、妖への恐れが帝都に住む人々にはある。過激な第二皇子の言葉は強烈で、そんな人々の心にきっと届きやすいだろう。
「まずいな。こっちも相当だが」
突然侵攻すると宣言されて、妖たちが黙っているわけない。
しかも、先日の婚儀で天魁と藤乃の出会いの経緯をざっくりと話したから、第二皇子の発言はでたらめだと知っている者がほとんどだ。長と、長の御相手を貶めるなんて許せないと怒る妖もいる。市と綾もそうだ、朝から二人の口から出る文句が止まらない。
「こちらにもただ単に帝都が気に入らないという血の気が多いのも一定数いるがな」
どうやら、妖都では天魁が長になる前、当時の長に勝負を仕掛けた鬼や、その支持者などはその筆頭が扇動しているらしい。帝都への攻撃を主張してきた彼らにとっては、またとない好機に映るだろう。
志摩が苦い顔をして口を開いた。
「何度も天魁様に勝負を仕掛け、奇襲したり、闇討ちしたりもしたが、すべてあしらわれて諦めて大人しくなったというのに……まったく懲りないやつらです」
「そんなことまであったのですか」
藤乃が思っていた以上の戦いぶりに、心配の声が零れる。
「昔のことだ。気にするな」
妖の十年が昔というほど昔ではないことは、さすがに藤乃も理解している。だが、以前のことよりも、今の状況の心配をしたほうがいいのも確かだ。
千世が顔を強張らせて、天魁の屋敷を訪ねてきた。
「思ったよりも状況はよくないわね」
「そうか」
「街中では、帝都への攻撃に対して反対派と賛成派が対立して、小競り合いが起きているの。怪我人も増えているわ」
診療所にも、多くの妖たちが詰めかけていて、臨時の場所が必要になるくらいだという。千世の顔がさらに曇らせながら続けた。
「さらに悪いのが、天魁様や藤乃のために怒っていただけの妖や、妖都の平和を願う妖も、そのためなら戦うという空気になってきているわ。かなり危険よ」
実は小桃からも、スイーツの配達としてショートケーキと手紙が屋敷に届けられていた。
皆が楽しく、安心して暮らせる場所を、奪われるわけにはいかないからね。しばらくお店閉めることになりそう。だから、お詫びにこのケーキを。
そう書かれた手紙を読み返して、藤乃はぐっと唇を噛みしめた。婚儀の場で、天魁とともに妖都を守ると誓ったのに、藤乃は全然力になれていない。
「百鬼夜行だ!!」
屋敷の窓を震わせるほどの、複数人の大声が聞こえてきた。
百鬼夜行とは、深夜に妖たちが列をなして街を闊歩するという伝承だ。百鬼夜行に出会うと災いが起こるとされており、ものによっては命を落とすとまで言われている。
「そうだそうだ!」
「妖の恐ろしさを見せつけてやる!」
「帝都など、一晩でなくなるだろうさ!」
その声が大きな渦となって、まるで一つの獰猛な生き物のようだった。藤乃は身震いがして、両手で自分の体を抱きしめた。
「……これは、扇動する者を止めれば済む話ではないな」
天魁は覚悟を決めたように、立ち上がった。
「あいつらが妖都から出ないよう、俺が食い止める。ある程度、なぎ倒せばあの勢いは止まるだろうか」
「それはだめです」
藤乃がとっさに止めた。それはやってはいけない方法だからだ。
「天魁様が人の――帝都の味方だと、火に油を注ぐことになりかねません」
「それは一理あるが、力づくでもない限り、あれは止まらないだろう」
藤乃は大きく息を吸って、心を決めた。
「わたしが帝都に行きます。声明が取り下げられれば、皆さんも落ち着くはずです」
「わかった。俺もいこう」
藤乃はゆるゆると首を振った。それではきっとだめなのだ。
「天魁様は妖都をお守りください。いつ来るともわからない外の攻撃を防ぎつつ、皆さんを妖都の外に出さないようにするのです。天魁様にしかできません」
「しかし……」
「わたしも、妖都の皆さんを守りたいのです」
藤乃を歓迎してくれた、妖たちを守りたいと思うのは、紛れもない藤乃自身の意思だ。誰かに言われたからなどではない。何よりも藤乃を救ってくれた天魁を、今度は藤乃が助ける番だとも考えたのだ。
「確かに、藤乃のことを帝都は取り戻したいはずだ。俺が着いていくほうが危険が増すかもしれないな」
天魁がなおも迷っていたが、やがて藤乃の手をしっかりと握った。それは希望を託すような手だった。
「陽が落ちるまでには帰ってこい。帰らなければ、力づくでも迎えに行く」
「はい。行ってまいります」
藤乃ははやる気持ちを抑えつつ帝都に向かう。
今、藤色の着物を身に纏っている。天魁が似合うと言ってくれた、初めて見つけてくれた藤乃の「好き」なものだ。天魁が傍にいてくれるような気がして、心強い。
「どうするのがいいかしら」
帝都に到着した藤乃は考える。いきなり皇が暮らす館へ向かっていいのかを迷っていた。第二皇子の独断だというなら、皇のいない今、第一皇子に沈静化と声明の取り下げを頼むべきだろう。
そこまで考えがまとまって、皇の館がある中心地へ向かおうとしたが、衛兵に囲まれてしまった。
「朝霧藤乃様ですね、よくぞ恐ろしい妖都から逃げてこられました」
「え……?」
「さあ、こちらへ。第二皇子様から、藤乃様を保護するようにと申しつけられております」
「いえ、わたしは妖都の者として、第一皇子様への拝謁を願います」
第二皇子のもとへ連れていかれそうになり、藤乃は慌てて訂正をした。しかし、衛兵の態度は変わらない。
「ようと? なんですかそれは。きっとまだ混乱されているのですね。さあ、館にて征弥様がお待ちです」
「ですが、わたしは」
「第一皇子様も館におられます。拝謁も征弥様に頼めば早いでしょう」
藤乃はしぶしぶ車に乗り込んだ。どこか話の通じない衛兵に不安を覚えつつも、どちらにせよ館には向かわねばならないのだから。
――あれ、でも、それならば
藤乃は、はたと気がついた。第二皇子の暴走と言いながら、第一皇子はそれを取り下げていないのだ。皇がいないから、正式な発表はできないにしても、第一皇子自身の見解として発信はできるはず。しかし、それすらもしていない。
――まさか、第一皇子様も、同じお考えということ?
しかも、何か問題が起これば第二皇子の暴走と切り捨てられる逃げ道も残している。聡明だと思っていたけれど、それは帝都の中で見ればの話だったようだ。二人を相手に説得できるだろうか、不安が押し寄せる。
いや、妖都のために成功させなければならない。
「よく戻ってきてくれた。婚約者殿」
館の応接間に着くなり、第二皇子に出迎えられた。貼り付けたような笑顔で、藤乃の名前すら呼ぼうとしない。
「いいえ、わたしは第二皇子様の婚約者ではございません、手紙でもそうお伝えいたしました」
「あんな手紙は妖に書かされたものだろう、可哀想に」
同情するような声音でそう言ってみせた。そして、もうよいと衛兵たちを下がらせる。衛兵の姿が見えなくなると、途端に皇子の表情が抜け落ちた。
「戻ってきたとて、今更どうでもいいがな。侵攻の口実であれ、元婚約者でも殺すと評判が悪いから、自ら戻ってきたのは都合がいいか」
藤乃はその不気味さに後ずさりしそうになるのをぐっと堪えて、皇子へ声を発した。
「第二皇子様、どうか侵攻の声明を取り下げてください。荘園は危険ではありません」
「……」
「帝都との友好関係は、わたしがあちらへ行ったことで証明にもなるはずです。どうか、戈を収めてください。でなければ、双方憎み合い、傷付くものが増えるだけです」
「……」
皇子は藤乃へ視線を向けているものの、反応がなく、藤乃の声が届いている気がしなかった。藤乃は不安になり、もう一度呼びかける。
「あの、第二皇子様……」
「うるさいな! 第二、第二と、そればかり!」
突然、癇癪を起したように、皇子は声を荒らげた。藤乃の話はまったく聞いていなかったというのに、急にぺらぺらと饒舌に語り出した。
「兄は優秀と言われて、次の皇だという。私の方がよりよい血筋が繋げると加護を持つ者を婚約者にしたというのに、十八まで会わないなどと面倒なしきたりがあってうんざりした。だから、代替を探して、簡単に手に入った加護は偽物だった。……ふざけるな、まったく」
藤乃は絶句した。第二皇子の婚約者と言いながら、ただ、子を産む道具にしか思われていなかった。婚約者に選ばれたとき、嬉しそうにしていた母を思い出して、何とも言い難い気持ちが込み上げてきた。
いつの間にか、藤乃の手のひらには紫色の芍薬が生み出されていた。花言葉は『怒り』。
――今、わたしはこの人に怒っている
だが、それを表に出すわけにはいかない。藤乃は芍薬をそっと着物の袖の下に隠した。皇子は自分が話すことに夢中で、藤乃の行動は気に留めていない。
「父上は妖に寛容すぎる。あのような者たちに自治など与えるべきではない」
「帝都の一部にしようというのですか」
「一部? 何を言っているんだ。荘園など滅ぼしてしまえばいい。そうすれば、帝都の者たちは私に感謝するだろう。妖に怯えずに済むのだからな」
皇子の言う通りにはならないだろう。妖力を持つ妖たちに、人が敵うはずがない。侵攻を宣言されている今、妖たちは手加減などしない。
帝都には母がいる。かつてお世話になった人たちもたくさんいる。藤乃は、彼らを憎んでいるわけではない。
――絶対に止めないといけないわ。妖都も帝都もわたしが守らなければ
「お願いします。どうか、お考え直しくださいませ」
「まあ、加護は本物だし、顔も悪くはない。いくらでも使い道はあるか。おい」
皇子の呼びかけに、側近らしき男がやってきた。おもむろに藤乃に近づくと無言で藤乃の口元にハンカチを押し当てた。
「んんっ!」
抵抗するものの、ハンカチに何か染み込ませてあるのか、あっという間に藤乃の意識は遠ざかっていった。
次に目を覚ましたときには、知らない部屋のベッドの上にいた。とっさに簪を探すと、その手に握りしめていた。気を失う直前、これだけはと握りしめて、そのままだったらしい。
「よかったわ……えっ」
藤乃は、なぜかワインレッドのドレスを着させられている。よく見ると、これはお披露目の際に香澄が着ていたものだった。彼女が着ていたものをそのまま着せられているから、サイズが合っていない。
あのとき、藤乃が緋色の着物を着せられていたことからも、赤色が第二皇子の好みなのだと推測される。その気持ち悪さに、藤乃の肌が粟立った。
――早く、ここから出なくては
腕をさすりながら、藤乃は動きづらいドレスで立ち上がった。部屋の扉を開けようとするが、鍵がかかっている。
「あの! 誰かいらっしゃいませんか!」
扉を叩いて外に呼びかけるものの、返事はない。人の気配はあるのに、意図的に藤乃の声を聞かないようにしているようだ。
藤乃は壁にもたれかかり、ずるずるとしゃがみ込んでしまう。説得が無理なら、力づくでも止めなければならない。だが、誰かが傷つくことは絶対にだめだ。
――何か、考えないといけないわ。何か……
突然、ノックもなしに扉が開かれ、藤乃は大きく肩を震わせた。そこには第二皇子が立っていた。ずかずかと部屋の中に入ってきて、藤乃を見下ろした。
「案外似合うじゃないか。やはり女は着るもので変わる。これならば悪くない。着物は時代遅れだからな、洋装を身につけるといい」
和装も洋装も、どちらも素敵でどちらが劣るなどということはない。藤乃にとっても、どちらも好きだと言えるものだ。こうして、無理やり着せられたものでなければ。
「わたしの着物はどこですか」
簪は握りしめていたのだが、藤色の着物はこの部屋の中に見当たらない。あれは、天魁がくれた、大切なものだというのに。
「ああ。あんなものはいらないだろう。こちらで処分しておくから、安心するといい」
「いいえ、いらないものではございません」
藤乃がそう訴えると、皇子はあからさまに不機嫌な表情になった。
「すべてにおいて、私に従うのが婚約者の務めだろう。私がいらないと言ったものはいらない。例えば、ドレスにはそんな地味な簪は不要だ」
藤乃は血の気が引く思いがした。天魁の妖珠を奪われるわけにはいかない。彼を絶対に守らなければ。
「おいっ、何をしている」
藤乃は簪を自分の喉元に向けた。髪をまとめるため、簪の先は細くなっている。藤乃は喉に刺さるぎりぎりのところで止めて、皇子を睨み上げた。
「わたしの命よりも大事なこの簪を捨てるとおっしゃるのなら、このまま突き刺します」
「何を言っている、そんな簪ごときで……」
皇子は顔を引きつらせて、後ずさりをした。藤乃は簪を突き立てることも、皇子を睨みつけることも止めない。
「わかったわかった。そんなものよりも上等な簪を与えてやる。ドレスやティアラも欲しいのなら、欲しいだけくれてやる。それで満足か」
藤乃の行動をおかしな方向に解釈して、勝手にまくりたてている。何も答えずにいれば、皇子は乱暴に扉を開閉して、部屋から出ていた。
「はあ……」
藤乃はその場に脱力した。とっさに出た、あまりいい方法とは言えなかったが、それでも天魁の妖珠は守り抜くことができた。
部屋から出ることはできていないから、何も解決はしていないのだが。
藤乃は花を生み出して、外の衛兵の気を逸らせないかと考えた。だが、気を逸らせても、鍵がなければ出ることができない。
「どうすればいいの……」
思わず零れた弱音に、藤乃は頭を振って不安を追い出した。おそらく、第二皇子がまたここへやってくるだろう。彼に従わなかった藤乃を許すはずがない。従わせるため、策を講じて用意して戻ってくる。そのときが外に出られる唯一の瞬間だ。
藤乃は注意深く扉の向こうに耳を澄ませる。
「お待ちください!」
しばらく沈黙だけが続いていたところ、唐突に扉の向こうから焦ったような衛兵の声が聞こえてきた。それは藤乃ではなく、同じく扉の向こうにいる人へ向けられている。
その様子からして、第二皇子ではなさそうだ。
「ここには誰も近づいてはなりません。第二皇子様からそう言い付けられておりますゆえ」
「娘に会いに来ただけです。異議があるのなら、侯爵家へ申し入れなさい」
凛としたその声は、侯爵夫人、藤乃の母のものだった。衛兵が気圧されたのが、扉越しでもわかった。
やがて、部屋の扉が開かれた。母ともう一人、年若い使用人が入ってきた。初めて見る女性だったが、目が綺麗で印象的な人だ。
「藤乃」
「お母様……」
母の顔を見て、藤乃は抑え込んでいたものが溢れ出した。それでも、零れそうな涙をぐっと堪えて口を開いた。
「申し訳ございません。わたしは、お母様の言葉に逆らって天魁様を選びました……」
「何を言っているの。あなたは私の言葉に従ったじゃないの」
「えっ」
「自分でちゃんと妖様との幸せを選んだじゃない」
藤乃は少なからず混乱した。デパートで、変化をしても藤乃と気づかれたあのとき、母は娘の幸せを願っていると言った。それは、第二皇子の婚約者になれということではなかったのか。
今の会話では、まるで、天魁との幸せを望んでいるかのような……。
「どう、して」
母はずっと、藤乃に第二皇子の婚約者になるために指導をしてきたというのに。第二皇子の婚約者として戻れる機会を蹴って、その願いを裏切ってしまったのに。わからないことばかりだった。
母は藤乃の手を握ると、その場に座らせた。使用人もその後ろで腰を下ろした。
「昔のことから話しましょうか」
記憶を思い返すように、母の目が細められた。
「藤乃が初めて加護を使ったとき、あなたは疲れて倒れてしまったの。あのときは、ふと目を離した隙にあなたがいなくなってしまって、総出で探していたわ。そうしたら、少年が、家まで送り届けてくれたのよ」
変化をした天魁のことだとわかった。藤乃が天魁にキンセンカの花を渡して、そのあとの記憶はない。倒れてしまったことも、今聞いて初めて知った。
「彼は、藤乃を私の腕の中に渡すと言ったの。『この子は力を持ちました。この子に幸があらんことを、願っています』。そう言って、名前を聞く間もなく去っていったわ」
天魁が母と会い、そんなことを言っていたなんて、知らなかった。話してくれてもよかったのにと、天魁の顔を思い浮かべる。
「当時の藤乃より少し年上の、少年だったのに大人びた口調だったわ。彼が、あの妖様なのね」
母は確信を持った声を表情でそう言い切った。
「どうしてわかるのですか」
「……私も加護を持っていたことがあるのよ。今の藤乃の歳くらいだったかしら」
「えっ、そうだったのですか」
これも初めて聞く話だった。少し言い淀んでいたから、きっと母としてはあまり話したくないことなのだろう。
「ある日突然、手の中に氷が現れたわ。いきなりで、何もわからなくて、気がついたら凍傷になってしまっていた。恐ろしくて、それからそんな力はないと言い聞かせた」
今の母の手には、凍傷の痕は残っていない。でもそのときの痛みを想像すると苦しくなる。実際の痛みと何が起こったかわからない恐怖と、どちらもあっただろう。
「そうしたら、本当に加護はなくなったの。氷が現れたのはその一度だけ。夢だったんじゃないかと今も思うわ。けれど、藤乃が加護を発現させた以降、妖のことが認識できることに気付いたのよ」
母は両手を出して、それぞれに目線を送りながら説明を重ねた。
「藤乃を送り届けた少年と、婚約破棄の場に現れた妖。彼らは姿が違うけれど同じ妖だとわかったわ。他にも、何度かパーティーでも姿を見かけたわね。見分けは、どこかどうと説明するのは難しいけれど、しいて言うなら、目でしょうね」
藤乃は母の言うことは本当だと思った。藤乃も天魁が変化した姿は目にその面影が残ると知っている。母は、天魁があの日の妖だとわかっていたのだ。
「お母様……」
「皇子の婚約者になることで幸せになると思ったから、藤乃のためを思って厳しく指導したわ。皇の一族になるなら感情を表に出すことは、隙を与えることになって立場が危うくなるから」
母は、そこで言葉を切ると聞いたこともない声で続けた。
「だというのに、あんな形で婚約破棄なんて、許せないわ」
侯爵夫人として、いつでも凛として完璧な母が、第二皇子への怒りを露わにした。母が感情的に話しているのを、久しぶりに見た気がする。
「皇子よりも妖様のほうがよっぽど藤乃が幸せになれる。そう思ったから、あのとき妖都へ送り出したのよ。あのまま帝都にいたら針の筵《むしろ》だったでしょうし。……ただ、説明する暇がなかったことは悔やんでいるわ。ごめんなさい、藤乃」
母は藤乃に向かって頭を下げた。あのとき、母は第二皇子の言葉にただただ従ったわけではなかったのだ。黙って従う人形のような顔をして、藤乃のためにそれを選んでいた。
「でも、それでは、お母様が針の筵だったのではありませんか」
「あなたが幸せならそれでいいの。それを今こうして見せてもらえて、安心したわ」
もしかしたら、母とは会話が少なくなりすぎただけだったのかもしれない。もっと話したい。話せていないことがたくさんある。
「そろそろまずいぞ」
使用人の女性が扉の向こうに目線を向けた。見た目とギャップのある話し方が気にかかった。だが、それよりもずっと気になっていたことがある。彼女のその綺麗な青みがあかった瞳。
「もしかして、天魁様……?」
使用人の女性は、口端をあげる笑い方をした。それは天魁がよくするものとまったく同じだった。
「よくできました」
母は小さく微笑みながら、天魁と藤乃のやり取りを見つめていた。
「妖様に手伝ってもらって、藤乃の居場所を知ったのよ。強行突破しようとなさるから、説得して一緒に来ていただいたの」
「帝都に来てくださったのですか。でも妖都は……」
心配を口にすると、天魁は肩をすくめて笑った。これは少しいたずらをしているときの表情だ。姿が変わっても、仕草や表情が天魁そのものだ。
「志摩を俺の姿に変化させて託した。陽が沈むまで持ちこたえろとな」
志摩が頑張ってくれている。だというのに、藤乃はここへ来て、何もできていない。
「申し訳ございません、天魁様。第二皇子の説得に失敗しました。第一皇子に拝謁することもできませんでした」
「そう気を落とすな。この様子じゃ、そもそも話し合いにならなかったんだろう」
「はい……」
第二皇子へ、一度も、藤乃の言葉は届かなかった。
このままでは、帝都と妖都がぶつかってしまう。何とかしなくてはならないのに、どうすればいいのかわからない。
天魁は変化を解いて、藤乃の両手を包み込んだ。大きくて温かい天魁の手に、藤乃の心は落ち着きを取り戻していく。
「君の名前は母君からもらった、『藤乃』だろう。君にならできる」
藤乃はゆっくりと目を見開いた。天魁の言う意味を理解したからだ。そう、藤乃ならば、きっとそれができる。藤乃でなければできない、この状況を打開する手だ。
「どうして、それをご存知で……」
「俺も最近は花のことを調べるようになったからな、君の影響だな」
扉の向こうが何やら騒がしくなった。第二皇子がやってきたらしい。
「藤乃、何か考えがあるのね。侯爵令嬢の顔になりなさい、できるわね。皇子のことは私が何とかするわ」
天魁は、着物を藤乃に渡してきた。それは天魁にもらった藤色の着物だった。
「その似合わないドレスなんて着替えろ、ほら」
大切な着物を取り戻してきてくれた。藤乃はぎゅっと藤色の着物を抱きしめた。
「急ぐわよ」
天魁が律儀に壁を向いている間に、母に手伝ってもらいながらすばやく着物に着替えた。こちらのほうがしっくりくる。
「よく似合っているわ」
「当然だ」
母の言葉に、天魁が誇らしげに答える。母は天魁へ深々と頭を下げた。
「藤乃をよろしくお願いいたします、妖様」
「ああ、任せておけ。必ず幸せにする」
最後に帯を整え、着替えがすべて終わった途端、第二皇子は扉を開け放った。扉が開く直前、天魁は再び変化をして、使用人の姿になった。
藤乃は母に言われた通り、侯爵令嬢として作り上げた微笑みをした。母も同じように微笑みを浮かべて、皇子へ礼をした。
「娘は、帝都のために加護を使いたいと申しております。第二皇子様」
あたかも母が娘を説得したという口調で申し出る。従順な侯爵夫人の様子を見て、皇子は藤乃へ視線を移した。
母の目配せを受けて、藤乃はそれに応えた。
「わたしは、帝都のお役に立ちます」
「それでいい。花が出せるのだから、毒花で攻撃をするか、蔦でも使って妖を捕らえてみせろ」
無茶苦茶なことを言い放ち、そして藤乃をつま先から頭までを品定めするように視線を動かした。
「それができたら、無断で着替えたことを許してやってもいい」
使用人が拳を握りしめて前に出そうになったのを、藤乃と母で押し留めた。なかなかに息の合った動きだ。
館の外に出ると、陽が沈みかけているところだった。
荘園にやってくると、荘園の前、つまりは妖都の外に、妖が立ち並んでいた。帝都まで進んでいないことから、志摩がぎりぎりまで耐えてくれたとわかる。
それと対するように、帝都側では第二皇子の私兵が並ぶ。皇子はさすがに皇の許可なく軍を動かすことはできず、仕方なく私兵を連れてきていた。
第二皇子と私兵を背にして、藤乃は前に進み出た。いまだ使用人の姿をした天魁も一緒に。
妖たちが藤乃に気付き、戸惑った声が聞こえてきた。
「藤乃さん?」
「どうしてそちらに」
「まさか、帝都の……」
ふいに狐火が藤乃と使用人を包み込み、かつての目くらましのように大きく爆ぜた。
藤乃は抱きかかえられる感覚があった。恐怖はなく、藤乃はそれに身を任せる。
眩しい光が消え、地面に下ろされると、隣にはいつもの姿の天魁がいた。今の一瞬の間に、荘園の前まで移動したようだ。
「藤乃」
「はい、天魁様」
藤乃は、帝都に背を向けていたのを、くるりと体の向きを変えた。妖たちを背にしてお守りを握りしめる。とある花が咲き誇る様子を思い浮かべる。
「……っ」
ざあっと一気に花が生み出された。
荘園と帝都に境を作るように、巨大な藤棚が現れた。これまでとは比較にならない広範囲に、大量の美しい花々が咲き誇る。すべて、藤乃の力によって生み出された花たち。
「いったい、どういうこ――」
困惑と苛立ちを持った第二皇子の言葉を遮って、母が凛とした声をあげる。
「帝都のために、悪しきものを退ける『藤の花』を生み出したのね。よくやりました。加護とともに帝都に身を捧げるなんて立派な娘だわ」
母は声高に言って、皇子をはじめ私兵たちを納得させる。彼らを納得させれば、第一皇子そして、帝都の人々を納得させることに繋がる。
藤は悪しきものを退ける。それは人にとっても、妖にとっても。
人にとって、帝都を支配下におこうと攻撃しようとする妖は悪しきものだろう。
妖にとっても、妖都を滅ぼそうとする人は悪しきものだ。
「見事だ、藤乃」
この藤棚は、双方を守るための壁になる。
もちろん、害意を持たないものは通ることができる。いつか、母を妖都に招くこともできるだろう。
藤乃は第二皇子、ひいては帝都の人々へ微笑みを向ける。息苦しいと思った人形令嬢の仮面が、今は大切なものを守る武器になっている。
微笑みをそのままに、藤棚へと歩いていく。
「誇りに思うわ」
母が凛とした声で藤乃に呼びかけた。そのあとに口の動きだけで伝えた、その顔は人形ではなく、母の顔だった。
『幸せにね』
藤乃はしっかりと頷いて、母に一礼をした。
藤乃の体は、藤棚の中に吸い込まれ、帝都からは見えなくなった。
藤棚は中が回廊のように歩けるくらいの幅があった。藤乃は生み出すときに、できるかぎり広く、大きく、妖都のすべてを守れるようにと想像をした。その結果、こんなにもたくさんの藤を咲かせることができた。
藤乃が藤棚に入ると、天魁が待っていてくれた。
「他の皆さんは」
「先に妖都へ帰した。藤乃がこれだけのものを生み出して、妖都を守ったんだ。誰も文句はないさ」
俺が言わせないが、と天魁は口端を上げて笑った。藤乃はその気持ちが嬉しくて、微笑んだ。
「ありがとうございます」
「礼を言うのはこちらの方だ。見事にやり遂げてくれた。俺も、君を誇らしく思う」
藤乃と天魁は、しばらく静かに藤棚を見つめていた。
「こんなに美しい花は見たことがない」
天魁が藤の中で感嘆の声をあげる。風が吹くと、藤と天魁の銀色の髪が絡み合うようになびいて、すべてが藤色に染まっていくような錯覚を覚える。
「はい。こんなに美しいものは見たことがございません」
藤乃が答えると、紺碧の瞳が愛おしそうに細められた。永遠に続くように見える藤色の中にあっても、天魁のこの瞳は引けを取らない美しさだ。
そっと二人の距離が近づく。
数えきれない藤の花の中で、誰からも見えないその花園で、天魁は藤乃の頬に親指で撫でるように触れた。藤乃はその手に甘えるように顔を傾けた。
「藤乃」
天魁は大きな手のひらで藤乃の頬を包み込むと、囁くように名を呼んだ。藤乃は返事に代えて、じっと天魁を見上げる。
「目を閉じろ」
低く甘い声に、藤乃は人形ではない心からの笑みで答える。
「はい、仰せの通りに」
目を瞑ると、すぐに唇が触れあった。何度か離れて、触れてを繰り返す。そのたびに藤の甘い香りが喉に抜ける。一層強く風が吹き、揺れた藤の花びらが二人の頬を撫でる。
その感覚がくすぐったくて、藤乃と天魁は顔を見合わせて笑った。
「帰るぞ、藤乃」
「はい、魁里様」
どちらからともなく、二人は手を繋ぎ、藤棚を抜けて妖都へと歩き出した。
(了)
藤乃は第二皇子への手紙をしたためた。
帝都に婚約者として帰るのはお断りいたします。第二皇子様のご命令通り、妖都の長を支えて、友好関係を築き、帝都の反映を願っています。
そういった内容を丁寧に、格式を持って綴った。使う紙やペンにも気を遣い、失礼のないように最大限の気を配った。これで何か失礼があれば、天魁に迷惑をかけてしまうかもしれない。
「これでよかったんだな」
天魁は藤乃の手紙を隣で見ながら尋ねてきた。それはいろいろな意味を内包した問いだったと思う。けれど、彼の隣にいると決めたのだから、迷うことなど何もない。藤乃の髪にはしゃらりと音を立てる簪が揺れる。
「もちろんでございます」
手紙を帝都へ届けてほしいと志摩に頼んで、藤乃は立ち上がった。
「天魁様、明日の準備をしないといけませんよ」
「ああ、そうだな」
明日は、天魁と藤乃の婚儀が行われる予定だ。
妖都の奥には、かつての長が使っていた大きな屋敷が建っている。現在は講堂として開放されている。そこで婚儀をすることになったのだ。
「婚儀といっても、堅苦しいものでなく、妖都の長に相手ができたことを周知する場だ。帝都でのパーティーのようなものだ」
「わかりました」
「ただ、形としてはしっかりしている。特に衣装は特別なものを身につける決まりだ」
「特別なもの、ですか」
そんな会話と準備が進み、当日には何人もが手伝いに来てくれた。
志摩が料理を作り、小桃がスイーツを担当することになった。市と綾は支度を手伝ってくれるから、メイクが終わるのをすぐ近くで待っている。
メイクをしてくれるのは千世なのだが、来て早々に謝罪を口にした。
「二人とも、ごめんなさいね……」
天魁と藤乃は一瞬、何のことかわからなくて顔を見合わせたが、すぐに思い出した。あの赤紫色の小瓶のことを。
「わたし、寿命のためにはこれしかないって決死の覚悟だったのですよ」
藤乃は少し頬を膨らませて、千世に不満を伝えた。今となっては本気で不満を抱いているわけではない。
「藤乃ちゃん、怒らないで。メイクができないわ」
頬をそっと人差し指で突かれて、藤乃は膨らませた頬を戻す。
「もちろん、藤乃ちゃんの覚悟はわかっていたけれど、わたしが藤乃ちゃんを妖にしてしまっては、天魁様のお怒りを買ってしまうもの」
「当然だ、急に人魚の血といって飲んだから肝を冷やしたんだからな」
天魁も千世に対して文句を言った。確かに、あのぶどうジュースで一番驚いたのは天魁だろうとは思う。
「そうよね。堕とすなら、自分の手がいいわよね」
「そういう話では……いや、だがまあ、そうともいえる」
千世に苦言を呈していたはずの天魁が、なぜか納得したように頷いてしまった。
「天魁様……!」
恥ずかしくなって藤乃は天魁の腕を引っ張る。天魁はすまないと言ったものの、その顔は全然申し訳なさそうには見えない。
「はいはい、藤乃ちゃん。あんまり動かないでね」
藤乃はメイク中なこともあり、それ以降は大人しく椅子に座って鏡を見つめていた。婚儀のためのメイクは普段の印象とはまた違ったものになる。
「さあ、できたわ。とても綺麗よ」
「ありがとうございます。千世さん」
「どういたしまして。ほらほら、天魁様も着替えてきてちょうだい」
藤乃のメイクを興味深く横で見ていた天魁も、さすがに自身の準備のために別室に連れていかれた。
「市ちゃん、綾ちゃん、お願いします」
「任せて!」
「任せて!」
双子は藤乃の髪をコテで熱を加えつつ、まっすぐに整えた。今から着る衣装にはまっすぐな黒髪が合うのだからと、最初から決めていたらしい。
そして、市と綾、千世の三人がかりで衣装を身につけていく。
単衣と呼ばれる着物からはじまり、その上に幾重にも着物を重ねていく。五衣唐衣裳、いわゆる十二単《じゅうにひとえ》だ。伝統的な美しい装束を身に纏い、身も心も引き締まる思いだった。
簪は、帯につけることにした。この素晴らしい装束をさらに美しく見せてくれる。
「まあまあ、とても綺麗よ。藤乃ちゃん」
「あねさま綺麗……!」
「あねさま綺麗……!」
三人からの賞賛を受けて、藤乃はどこか気恥ずかしくて、でも嬉しくもあった。
「束帯はやりすぎじゃないか? 俺はいつもの着物でも別に」
着替えを終えた天魁もやってきた。束帯とは、男性の伝統的な装束で、天魁はよく黒い着物を着ているが、同じ黒の着物でも格式高い雰囲気がある。
「藤乃ちゃんが着るのだから、天魁様も合わせないと。ね?」
「あにさまもかっこいい!」
「あにさまもかっこいい!」
双子は天魁の周りをぴょんぴょんと飛びまわって嬉しそうにしている。天魁は、藤乃の十二単姿を見て、愛おしそうに目を細めた。
「とても綺麗だ、藤乃」
「ありがとうございます。天魁様もとても素敵です」
差し出された手に自分の手を乗せて、藤乃は会場へ歩き出した。
会場はたくさんの花で可愛らしく、飾り付けられていた。そこへ二人が入場しただけで、わあっと歓声が上がる。
「長―!」
「藤乃さん―!」
「天魁様―!」
「藤乃―!」
お世話になった妖や、天魁の家族などはあらかじめ席を用意した。天魁と雰囲気の似た女性と目が合い、彼女が天魁の妹で、市と綾の母だろう。会釈を受けて、藤乃も同じように返した。
――お母様……
この晴れ姿を母にも見て欲しかったとも思うが、妖都には基本的に人は入れない。それに、藤乃は母の言葉に背いて、ここにいることを選んだのだから、合わせる顔がない。
会場には、関係者の席以外は誰でもどこでも入っていいとした。そうしたら、会場を埋め尽くすたくさんの妖がやってきている。どうやら入りきらない者まで出てきているらしい。
「こんなに妖都の皆さんが集まるとは思いませんでした」
「皆、藤乃を一目見たくて集まったんだ。見せつけてやるといい」
「まあ。慕われているがあるのは天魁様でございましょう」
「どうだかな」
婚儀はつつがなく進んでいく。盃を交互に酌み交わして二人の間に契りを結ぶ。そして形式ながらに誓いの言葉を述べる。
「今日の佳き日に、婚儀をあげ、互いを深く愛し、ともにこの妖都を守っていくことを誓う」
「誓います」
そのあとは、妖珠の交換をするのが通例らしい。すでに二人の間で交換をしていても、婚儀で改めて交換することが多いのだという。
天魁と藤乃の場合は、特別に榛名に頼んで指輪を作ってもらった。妖珠はない、ただの指輪だ。それをこの婚儀では交換する。
互いの手を取り、相手の指へゆっくりと指輪を通していく。約束が形になったようで、幸せな気持ちで満たされる。
「ありがとうございます、天魁様」
「こちらこそ」
そこからは、食事が振る舞われるパーティーになる。あまりに多くの妖がやってきたため、講堂だけでなく、庭でも立食パーティーとして振る舞われることとなった。
藤乃は身軽な小袿になって、主催として天魁とともに話をしてまわる。
たくさんの妖と話して、藤乃は本当に天魁が慕われていること、その隣に立つ重みを感じた。彼に相応しくならなければと、決意を込めてぐっと両手を握る。
「藤乃」
天魁に呼ばれて振り返ると、唐突に額に口付けが落とされた。驚いて、握った手のひらがほどけてしまう。
「そんなに難しい顔をするな。覚える必要があることは、これから覚えればいい。今は、来た者たちに楽しんでもらえれば、それでいい」
「はい」
藤乃は変に入っていた力が抜けて、笑顔で頷いた。
皆に楽しんでもらおうと思い直したところで、天魁とのやり取りを見ていた女性からあっという間に囲まれた。
「ねえ、長とはいつもあんな感じなの?」
「藤乃さん、可愛らしいから当然じゃない。ねえ?」
「お二人はどこで出会ったのですか」
「妖珠はこの簪ですか? 素敵ですね~」
恋の話が好きなのは、人も妖も変わらないらしい。きっと、これも楽しんでもらう一つの形だ。藤乃は、目を輝かせて質問する彼女たちと話に花を咲かせた。
パーティーは夕方まで続いた。終わるころには、数え切れないほどの妖と言葉を交わしていた。
「今日は、ありがとうございました」
天魁の勧めで、最後は藤乃の言葉で締められた。会場は大きな拍手で包まれた。
ちなみに、夜は有志による宴が開催され、そちらも盛り上がったらしい。志摩、榛名、常盤の三人が取り仕切り、酒は千世が用意したと聞いた。
「天魁様は行かなくてよかったのですか」
「さすがに疲れた。それに藤乃と一緒の時間を過ごすほうがいい」
広い居間で、二人はぴったりと肩を寄せ合って座っている。藤乃は、天魁の肩にこてんと頭を預ける。藤乃もとても楽しくて、それゆえの疲労感がある。
「わたしもです、魁里様」
二人だけのときはたまにそう呼ぶことにしている。天魁がとても嬉しそうな顔をしてくれるから。
ある日、帝都から衝撃の声明が発表された。
第二皇子の婚約者が、妖都の長によって攫われた。婚約者を救出するため、再三警告をしたものの、応答がなかった。帝都は荘園への寛大な措置を見直し、侵攻する。
「どういうことですか……!?」
藤乃は思わず叫んでしまった。こんなでたらめな声明が出るなんて、あり得ないことだ。
天魁はすぐに指示を出し、常盤からの報告を受けた。
「第二皇子が単独で出した声明のようで、帝都でも大混乱となっております。一部が同調して、侵攻に賛成し、荘園を帝都の一部にするべきだと過激な声も聞かれます」
「そんな……」
藤乃は常盤の報告に言葉を失った。帝都がそんな状況にあるなんて、信じられない。
「さらに悪いことに、皇は外交で今は帝都を離れています」
「なんてことだ。父親である今の皇は弁えているのに、息子は馬鹿だな」
天魁が吐き捨てるように言った。藤乃は擁護するわけではないが、一応付け足した。
「ご長男である第一皇子は聡明な方です。ただ、その声がどこまで届くかは、わかりません……」
荘園の特別な立ち位置への疑惑や、妖への恐れが帝都に住む人々にはある。過激な第二皇子の言葉は強烈で、そんな人々の心にきっと届きやすいだろう。
「まずいな。こっちも相当だが」
突然侵攻すると宣言されて、妖たちが黙っているわけない。
しかも、先日の婚儀で天魁と藤乃の出会いの経緯をざっくりと話したから、第二皇子の発言はでたらめだと知っている者がほとんどだ。長と、長の御相手を貶めるなんて許せないと怒る妖もいる。市と綾もそうだ、朝から二人の口から出る文句が止まらない。
「こちらにもただ単に帝都が気に入らないという血の気が多いのも一定数いるがな」
どうやら、妖都では天魁が長になる前、当時の長に勝負を仕掛けた鬼や、その支持者などはその筆頭が扇動しているらしい。帝都への攻撃を主張してきた彼らにとっては、またとない好機に映るだろう。
志摩が苦い顔をして口を開いた。
「何度も天魁様に勝負を仕掛け、奇襲したり、闇討ちしたりもしたが、すべてあしらわれて諦めて大人しくなったというのに……まったく懲りないやつらです」
「そんなことまであったのですか」
藤乃が思っていた以上の戦いぶりに、心配の声が零れる。
「昔のことだ。気にするな」
妖の十年が昔というほど昔ではないことは、さすがに藤乃も理解している。だが、以前のことよりも、今の状況の心配をしたほうがいいのも確かだ。
千世が顔を強張らせて、天魁の屋敷を訪ねてきた。
「思ったよりも状況はよくないわね」
「そうか」
「街中では、帝都への攻撃に対して反対派と賛成派が対立して、小競り合いが起きているの。怪我人も増えているわ」
診療所にも、多くの妖たちが詰めかけていて、臨時の場所が必要になるくらいだという。千世の顔がさらに曇らせながら続けた。
「さらに悪いのが、天魁様や藤乃のために怒っていただけの妖や、妖都の平和を願う妖も、そのためなら戦うという空気になってきているわ。かなり危険よ」
実は小桃からも、スイーツの配達としてショートケーキと手紙が屋敷に届けられていた。
皆が楽しく、安心して暮らせる場所を、奪われるわけにはいかないからね。しばらくお店閉めることになりそう。だから、お詫びにこのケーキを。
そう書かれた手紙を読み返して、藤乃はぐっと唇を噛みしめた。婚儀の場で、天魁とともに妖都を守ると誓ったのに、藤乃は全然力になれていない。
「百鬼夜行だ!!」
屋敷の窓を震わせるほどの、複数人の大声が聞こえてきた。
百鬼夜行とは、深夜に妖たちが列をなして街を闊歩するという伝承だ。百鬼夜行に出会うと災いが起こるとされており、ものによっては命を落とすとまで言われている。
「そうだそうだ!」
「妖の恐ろしさを見せつけてやる!」
「帝都など、一晩でなくなるだろうさ!」
その声が大きな渦となって、まるで一つの獰猛な生き物のようだった。藤乃は身震いがして、両手で自分の体を抱きしめた。
「……これは、扇動する者を止めれば済む話ではないな」
天魁は覚悟を決めたように、立ち上がった。
「あいつらが妖都から出ないよう、俺が食い止める。ある程度、なぎ倒せばあの勢いは止まるだろうか」
「それはだめです」
藤乃がとっさに止めた。それはやってはいけない方法だからだ。
「天魁様が人の――帝都の味方だと、火に油を注ぐことになりかねません」
「それは一理あるが、力づくでもない限り、あれは止まらないだろう」
藤乃は大きく息を吸って、心を決めた。
「わたしが帝都に行きます。声明が取り下げられれば、皆さんも落ち着くはずです」
「わかった。俺もいこう」
藤乃はゆるゆると首を振った。それではきっとだめなのだ。
「天魁様は妖都をお守りください。いつ来るともわからない外の攻撃を防ぎつつ、皆さんを妖都の外に出さないようにするのです。天魁様にしかできません」
「しかし……」
「わたしも、妖都の皆さんを守りたいのです」
藤乃を歓迎してくれた、妖たちを守りたいと思うのは、紛れもない藤乃自身の意思だ。誰かに言われたからなどではない。何よりも藤乃を救ってくれた天魁を、今度は藤乃が助ける番だとも考えたのだ。
「確かに、藤乃のことを帝都は取り戻したいはずだ。俺が着いていくほうが危険が増すかもしれないな」
天魁がなおも迷っていたが、やがて藤乃の手をしっかりと握った。それは希望を託すような手だった。
「陽が落ちるまでには帰ってこい。帰らなければ、力づくでも迎えに行く」
「はい。行ってまいります」
藤乃ははやる気持ちを抑えつつ帝都に向かう。
今、藤色の着物を身に纏っている。天魁が似合うと言ってくれた、初めて見つけてくれた藤乃の「好き」なものだ。天魁が傍にいてくれるような気がして、心強い。
「どうするのがいいかしら」
帝都に到着した藤乃は考える。いきなり皇が暮らす館へ向かっていいのかを迷っていた。第二皇子の独断だというなら、皇のいない今、第一皇子に沈静化と声明の取り下げを頼むべきだろう。
そこまで考えがまとまって、皇の館がある中心地へ向かおうとしたが、衛兵に囲まれてしまった。
「朝霧藤乃様ですね、よくぞ恐ろしい妖都から逃げてこられました」
「え……?」
「さあ、こちらへ。第二皇子様から、藤乃様を保護するようにと申しつけられております」
「いえ、わたしは妖都の者として、第一皇子様への拝謁を願います」
第二皇子のもとへ連れていかれそうになり、藤乃は慌てて訂正をした。しかし、衛兵の態度は変わらない。
「ようと? なんですかそれは。きっとまだ混乱されているのですね。さあ、館にて征弥様がお待ちです」
「ですが、わたしは」
「第一皇子様も館におられます。拝謁も征弥様に頼めば早いでしょう」
藤乃はしぶしぶ車に乗り込んだ。どこか話の通じない衛兵に不安を覚えつつも、どちらにせよ館には向かわねばならないのだから。
――あれ、でも、それならば
藤乃は、はたと気がついた。第二皇子の暴走と言いながら、第一皇子はそれを取り下げていないのだ。皇がいないから、正式な発表はできないにしても、第一皇子自身の見解として発信はできるはず。しかし、それすらもしていない。
――まさか、第一皇子様も、同じお考えということ?
しかも、何か問題が起これば第二皇子の暴走と切り捨てられる逃げ道も残している。聡明だと思っていたけれど、それは帝都の中で見ればの話だったようだ。二人を相手に説得できるだろうか、不安が押し寄せる。
いや、妖都のために成功させなければならない。
「よく戻ってきてくれた。婚約者殿」
館の応接間に着くなり、第二皇子に出迎えられた。貼り付けたような笑顔で、藤乃の名前すら呼ぼうとしない。
「いいえ、わたしは第二皇子様の婚約者ではございません、手紙でもそうお伝えいたしました」
「あんな手紙は妖に書かされたものだろう、可哀想に」
同情するような声音でそう言ってみせた。そして、もうよいと衛兵たちを下がらせる。衛兵の姿が見えなくなると、途端に皇子の表情が抜け落ちた。
「戻ってきたとて、今更どうでもいいがな。侵攻の口実であれ、元婚約者でも殺すと評判が悪いから、自ら戻ってきたのは都合がいいか」
藤乃はその不気味さに後ずさりしそうになるのをぐっと堪えて、皇子へ声を発した。
「第二皇子様、どうか侵攻の声明を取り下げてください。荘園は危険ではありません」
「……」
「帝都との友好関係は、わたしがあちらへ行ったことで証明にもなるはずです。どうか、戈を収めてください。でなければ、双方憎み合い、傷付くものが増えるだけです」
「……」
皇子は藤乃へ視線を向けているものの、反応がなく、藤乃の声が届いている気がしなかった。藤乃は不安になり、もう一度呼びかける。
「あの、第二皇子様……」
「うるさいな! 第二、第二と、そればかり!」
突然、癇癪を起したように、皇子は声を荒らげた。藤乃の話はまったく聞いていなかったというのに、急にぺらぺらと饒舌に語り出した。
「兄は優秀と言われて、次の皇だという。私の方がよりよい血筋が繋げると加護を持つ者を婚約者にしたというのに、十八まで会わないなどと面倒なしきたりがあってうんざりした。だから、代替を探して、簡単に手に入った加護は偽物だった。……ふざけるな、まったく」
藤乃は絶句した。第二皇子の婚約者と言いながら、ただ、子を産む道具にしか思われていなかった。婚約者に選ばれたとき、嬉しそうにしていた母を思い出して、何とも言い難い気持ちが込み上げてきた。
いつの間にか、藤乃の手のひらには紫色の芍薬が生み出されていた。花言葉は『怒り』。
――今、わたしはこの人に怒っている
だが、それを表に出すわけにはいかない。藤乃は芍薬をそっと着物の袖の下に隠した。皇子は自分が話すことに夢中で、藤乃の行動は気に留めていない。
「父上は妖に寛容すぎる。あのような者たちに自治など与えるべきではない」
「帝都の一部にしようというのですか」
「一部? 何を言っているんだ。荘園など滅ぼしてしまえばいい。そうすれば、帝都の者たちは私に感謝するだろう。妖に怯えずに済むのだからな」
皇子の言う通りにはならないだろう。妖力を持つ妖たちに、人が敵うはずがない。侵攻を宣言されている今、妖たちは手加減などしない。
帝都には母がいる。かつてお世話になった人たちもたくさんいる。藤乃は、彼らを憎んでいるわけではない。
――絶対に止めないといけないわ。妖都も帝都もわたしが守らなければ
「お願いします。どうか、お考え直しくださいませ」
「まあ、加護は本物だし、顔も悪くはない。いくらでも使い道はあるか。おい」
皇子の呼びかけに、側近らしき男がやってきた。おもむろに藤乃に近づくと無言で藤乃の口元にハンカチを押し当てた。
「んんっ!」
抵抗するものの、ハンカチに何か染み込ませてあるのか、あっという間に藤乃の意識は遠ざかっていった。
次に目を覚ましたときには、知らない部屋のベッドの上にいた。とっさに簪を探すと、その手に握りしめていた。気を失う直前、これだけはと握りしめて、そのままだったらしい。
「よかったわ……えっ」
藤乃は、なぜかワインレッドのドレスを着させられている。よく見ると、これはお披露目の際に香澄が着ていたものだった。彼女が着ていたものをそのまま着せられているから、サイズが合っていない。
あのとき、藤乃が緋色の着物を着せられていたことからも、赤色が第二皇子の好みなのだと推測される。その気持ち悪さに、藤乃の肌が粟立った。
――早く、ここから出なくては
腕をさすりながら、藤乃は動きづらいドレスで立ち上がった。部屋の扉を開けようとするが、鍵がかかっている。
「あの! 誰かいらっしゃいませんか!」
扉を叩いて外に呼びかけるものの、返事はない。人の気配はあるのに、意図的に藤乃の声を聞かないようにしているようだ。
藤乃は壁にもたれかかり、ずるずるとしゃがみ込んでしまう。説得が無理なら、力づくでも止めなければならない。だが、誰かが傷つくことは絶対にだめだ。
――何か、考えないといけないわ。何か……
突然、ノックもなしに扉が開かれ、藤乃は大きく肩を震わせた。そこには第二皇子が立っていた。ずかずかと部屋の中に入ってきて、藤乃を見下ろした。
「案外似合うじゃないか。やはり女は着るもので変わる。これならば悪くない。着物は時代遅れだからな、洋装を身につけるといい」
和装も洋装も、どちらも素敵でどちらが劣るなどということはない。藤乃にとっても、どちらも好きだと言えるものだ。こうして、無理やり着せられたものでなければ。
「わたしの着物はどこですか」
簪は握りしめていたのだが、藤色の着物はこの部屋の中に見当たらない。あれは、天魁がくれた、大切なものだというのに。
「ああ。あんなものはいらないだろう。こちらで処分しておくから、安心するといい」
「いいえ、いらないものではございません」
藤乃がそう訴えると、皇子はあからさまに不機嫌な表情になった。
「すべてにおいて、私に従うのが婚約者の務めだろう。私がいらないと言ったものはいらない。例えば、ドレスにはそんな地味な簪は不要だ」
藤乃は血の気が引く思いがした。天魁の妖珠を奪われるわけにはいかない。彼を絶対に守らなければ。
「おいっ、何をしている」
藤乃は簪を自分の喉元に向けた。髪をまとめるため、簪の先は細くなっている。藤乃は喉に刺さるぎりぎりのところで止めて、皇子を睨み上げた。
「わたしの命よりも大事なこの簪を捨てるとおっしゃるのなら、このまま突き刺します」
「何を言っている、そんな簪ごときで……」
皇子は顔を引きつらせて、後ずさりをした。藤乃は簪を突き立てることも、皇子を睨みつけることも止めない。
「わかったわかった。そんなものよりも上等な簪を与えてやる。ドレスやティアラも欲しいのなら、欲しいだけくれてやる。それで満足か」
藤乃の行動をおかしな方向に解釈して、勝手にまくりたてている。何も答えずにいれば、皇子は乱暴に扉を開閉して、部屋から出ていた。
「はあ……」
藤乃はその場に脱力した。とっさに出た、あまりいい方法とは言えなかったが、それでも天魁の妖珠は守り抜くことができた。
部屋から出ることはできていないから、何も解決はしていないのだが。
藤乃は花を生み出して、外の衛兵の気を逸らせないかと考えた。だが、気を逸らせても、鍵がなければ出ることができない。
「どうすればいいの……」
思わず零れた弱音に、藤乃は頭を振って不安を追い出した。おそらく、第二皇子がまたここへやってくるだろう。彼に従わなかった藤乃を許すはずがない。従わせるため、策を講じて用意して戻ってくる。そのときが外に出られる唯一の瞬間だ。
藤乃は注意深く扉の向こうに耳を澄ませる。
「お待ちください!」
しばらく沈黙だけが続いていたところ、唐突に扉の向こうから焦ったような衛兵の声が聞こえてきた。それは藤乃ではなく、同じく扉の向こうにいる人へ向けられている。
その様子からして、第二皇子ではなさそうだ。
「ここには誰も近づいてはなりません。第二皇子様からそう言い付けられておりますゆえ」
「娘に会いに来ただけです。異議があるのなら、侯爵家へ申し入れなさい」
凛としたその声は、侯爵夫人、藤乃の母のものだった。衛兵が気圧されたのが、扉越しでもわかった。
やがて、部屋の扉が開かれた。母ともう一人、年若い使用人が入ってきた。初めて見る女性だったが、目が綺麗で印象的な人だ。
「藤乃」
「お母様……」
母の顔を見て、藤乃は抑え込んでいたものが溢れ出した。それでも、零れそうな涙をぐっと堪えて口を開いた。
「申し訳ございません。わたしは、お母様の言葉に逆らって天魁様を選びました……」
「何を言っているの。あなたは私の言葉に従ったじゃないの」
「えっ」
「自分でちゃんと妖様との幸せを選んだじゃない」
藤乃は少なからず混乱した。デパートで、変化をしても藤乃と気づかれたあのとき、母は娘の幸せを願っていると言った。それは、第二皇子の婚約者になれということではなかったのか。
今の会話では、まるで、天魁との幸せを望んでいるかのような……。
「どう、して」
母はずっと、藤乃に第二皇子の婚約者になるために指導をしてきたというのに。第二皇子の婚約者として戻れる機会を蹴って、その願いを裏切ってしまったのに。わからないことばかりだった。
母は藤乃の手を握ると、その場に座らせた。使用人もその後ろで腰を下ろした。
「昔のことから話しましょうか」
記憶を思い返すように、母の目が細められた。
「藤乃が初めて加護を使ったとき、あなたは疲れて倒れてしまったの。あのときは、ふと目を離した隙にあなたがいなくなってしまって、総出で探していたわ。そうしたら、少年が、家まで送り届けてくれたのよ」
変化をした天魁のことだとわかった。藤乃が天魁にキンセンカの花を渡して、そのあとの記憶はない。倒れてしまったことも、今聞いて初めて知った。
「彼は、藤乃を私の腕の中に渡すと言ったの。『この子は力を持ちました。この子に幸があらんことを、願っています』。そう言って、名前を聞く間もなく去っていったわ」
天魁が母と会い、そんなことを言っていたなんて、知らなかった。話してくれてもよかったのにと、天魁の顔を思い浮かべる。
「当時の藤乃より少し年上の、少年だったのに大人びた口調だったわ。彼が、あの妖様なのね」
母は確信を持った声を表情でそう言い切った。
「どうしてわかるのですか」
「……私も加護を持っていたことがあるのよ。今の藤乃の歳くらいだったかしら」
「えっ、そうだったのですか」
これも初めて聞く話だった。少し言い淀んでいたから、きっと母としてはあまり話したくないことなのだろう。
「ある日突然、手の中に氷が現れたわ。いきなりで、何もわからなくて、気がついたら凍傷になってしまっていた。恐ろしくて、それからそんな力はないと言い聞かせた」
今の母の手には、凍傷の痕は残っていない。でもそのときの痛みを想像すると苦しくなる。実際の痛みと何が起こったかわからない恐怖と、どちらもあっただろう。
「そうしたら、本当に加護はなくなったの。氷が現れたのはその一度だけ。夢だったんじゃないかと今も思うわ。けれど、藤乃が加護を発現させた以降、妖のことが認識できることに気付いたのよ」
母は両手を出して、それぞれに目線を送りながら説明を重ねた。
「藤乃を送り届けた少年と、婚約破棄の場に現れた妖。彼らは姿が違うけれど同じ妖だとわかったわ。他にも、何度かパーティーでも姿を見かけたわね。見分けは、どこかどうと説明するのは難しいけれど、しいて言うなら、目でしょうね」
藤乃は母の言うことは本当だと思った。藤乃も天魁が変化した姿は目にその面影が残ると知っている。母は、天魁があの日の妖だとわかっていたのだ。
「お母様……」
「皇子の婚約者になることで幸せになると思ったから、藤乃のためを思って厳しく指導したわ。皇の一族になるなら感情を表に出すことは、隙を与えることになって立場が危うくなるから」
母は、そこで言葉を切ると聞いたこともない声で続けた。
「だというのに、あんな形で婚約破棄なんて、許せないわ」
侯爵夫人として、いつでも凛として完璧な母が、第二皇子への怒りを露わにした。母が感情的に話しているのを、久しぶりに見た気がする。
「皇子よりも妖様のほうがよっぽど藤乃が幸せになれる。そう思ったから、あのとき妖都へ送り出したのよ。あのまま帝都にいたら針の筵《むしろ》だったでしょうし。……ただ、説明する暇がなかったことは悔やんでいるわ。ごめんなさい、藤乃」
母は藤乃に向かって頭を下げた。あのとき、母は第二皇子の言葉にただただ従ったわけではなかったのだ。黙って従う人形のような顔をして、藤乃のためにそれを選んでいた。
「でも、それでは、お母様が針の筵だったのではありませんか」
「あなたが幸せならそれでいいの。それを今こうして見せてもらえて、安心したわ」
もしかしたら、母とは会話が少なくなりすぎただけだったのかもしれない。もっと話したい。話せていないことがたくさんある。
「そろそろまずいぞ」
使用人の女性が扉の向こうに目線を向けた。見た目とギャップのある話し方が気にかかった。だが、それよりもずっと気になっていたことがある。彼女のその綺麗な青みがあかった瞳。
「もしかして、天魁様……?」
使用人の女性は、口端をあげる笑い方をした。それは天魁がよくするものとまったく同じだった。
「よくできました」
母は小さく微笑みながら、天魁と藤乃のやり取りを見つめていた。
「妖様に手伝ってもらって、藤乃の居場所を知ったのよ。強行突破しようとなさるから、説得して一緒に来ていただいたの」
「帝都に来てくださったのですか。でも妖都は……」
心配を口にすると、天魁は肩をすくめて笑った。これは少しいたずらをしているときの表情だ。姿が変わっても、仕草や表情が天魁そのものだ。
「志摩を俺の姿に変化させて託した。陽が沈むまで持ちこたえろとな」
志摩が頑張ってくれている。だというのに、藤乃はここへ来て、何もできていない。
「申し訳ございません、天魁様。第二皇子の説得に失敗しました。第一皇子に拝謁することもできませんでした」
「そう気を落とすな。この様子じゃ、そもそも話し合いにならなかったんだろう」
「はい……」
第二皇子へ、一度も、藤乃の言葉は届かなかった。
このままでは、帝都と妖都がぶつかってしまう。何とかしなくてはならないのに、どうすればいいのかわからない。
天魁は変化を解いて、藤乃の両手を包み込んだ。大きくて温かい天魁の手に、藤乃の心は落ち着きを取り戻していく。
「君の名前は母君からもらった、『藤乃』だろう。君にならできる」
藤乃はゆっくりと目を見開いた。天魁の言う意味を理解したからだ。そう、藤乃ならば、きっとそれができる。藤乃でなければできない、この状況を打開する手だ。
「どうして、それをご存知で……」
「俺も最近は花のことを調べるようになったからな、君の影響だな」
扉の向こうが何やら騒がしくなった。第二皇子がやってきたらしい。
「藤乃、何か考えがあるのね。侯爵令嬢の顔になりなさい、できるわね。皇子のことは私が何とかするわ」
天魁は、着物を藤乃に渡してきた。それは天魁にもらった藤色の着物だった。
「その似合わないドレスなんて着替えろ、ほら」
大切な着物を取り戻してきてくれた。藤乃はぎゅっと藤色の着物を抱きしめた。
「急ぐわよ」
天魁が律儀に壁を向いている間に、母に手伝ってもらいながらすばやく着物に着替えた。こちらのほうがしっくりくる。
「よく似合っているわ」
「当然だ」
母の言葉に、天魁が誇らしげに答える。母は天魁へ深々と頭を下げた。
「藤乃をよろしくお願いいたします、妖様」
「ああ、任せておけ。必ず幸せにする」
最後に帯を整え、着替えがすべて終わった途端、第二皇子は扉を開け放った。扉が開く直前、天魁は再び変化をして、使用人の姿になった。
藤乃は母に言われた通り、侯爵令嬢として作り上げた微笑みをした。母も同じように微笑みを浮かべて、皇子へ礼をした。
「娘は、帝都のために加護を使いたいと申しております。第二皇子様」
あたかも母が娘を説得したという口調で申し出る。従順な侯爵夫人の様子を見て、皇子は藤乃へ視線を移した。
母の目配せを受けて、藤乃はそれに応えた。
「わたしは、帝都のお役に立ちます」
「それでいい。花が出せるのだから、毒花で攻撃をするか、蔦でも使って妖を捕らえてみせろ」
無茶苦茶なことを言い放ち、そして藤乃をつま先から頭までを品定めするように視線を動かした。
「それができたら、無断で着替えたことを許してやってもいい」
使用人が拳を握りしめて前に出そうになったのを、藤乃と母で押し留めた。なかなかに息の合った動きだ。
館の外に出ると、陽が沈みかけているところだった。
荘園にやってくると、荘園の前、つまりは妖都の外に、妖が立ち並んでいた。帝都まで進んでいないことから、志摩がぎりぎりまで耐えてくれたとわかる。
それと対するように、帝都側では第二皇子の私兵が並ぶ。皇子はさすがに皇の許可なく軍を動かすことはできず、仕方なく私兵を連れてきていた。
第二皇子と私兵を背にして、藤乃は前に進み出た。いまだ使用人の姿をした天魁も一緒に。
妖たちが藤乃に気付き、戸惑った声が聞こえてきた。
「藤乃さん?」
「どうしてそちらに」
「まさか、帝都の……」
ふいに狐火が藤乃と使用人を包み込み、かつての目くらましのように大きく爆ぜた。
藤乃は抱きかかえられる感覚があった。恐怖はなく、藤乃はそれに身を任せる。
眩しい光が消え、地面に下ろされると、隣にはいつもの姿の天魁がいた。今の一瞬の間に、荘園の前まで移動したようだ。
「藤乃」
「はい、天魁様」
藤乃は、帝都に背を向けていたのを、くるりと体の向きを変えた。妖たちを背にしてお守りを握りしめる。とある花が咲き誇る様子を思い浮かべる。
「……っ」
ざあっと一気に花が生み出された。
荘園と帝都に境を作るように、巨大な藤棚が現れた。これまでとは比較にならない広範囲に、大量の美しい花々が咲き誇る。すべて、藤乃の力によって生み出された花たち。
「いったい、どういうこ――」
困惑と苛立ちを持った第二皇子の言葉を遮って、母が凛とした声をあげる。
「帝都のために、悪しきものを退ける『藤の花』を生み出したのね。よくやりました。加護とともに帝都に身を捧げるなんて立派な娘だわ」
母は声高に言って、皇子をはじめ私兵たちを納得させる。彼らを納得させれば、第一皇子そして、帝都の人々を納得させることに繋がる。
藤は悪しきものを退ける。それは人にとっても、妖にとっても。
人にとって、帝都を支配下におこうと攻撃しようとする妖は悪しきものだろう。
妖にとっても、妖都を滅ぼそうとする人は悪しきものだ。
「見事だ、藤乃」
この藤棚は、双方を守るための壁になる。
もちろん、害意を持たないものは通ることができる。いつか、母を妖都に招くこともできるだろう。
藤乃は第二皇子、ひいては帝都の人々へ微笑みを向ける。息苦しいと思った人形令嬢の仮面が、今は大切なものを守る武器になっている。
微笑みをそのままに、藤棚へと歩いていく。
「誇りに思うわ」
母が凛とした声で藤乃に呼びかけた。そのあとに口の動きだけで伝えた、その顔は人形ではなく、母の顔だった。
『幸せにね』
藤乃はしっかりと頷いて、母に一礼をした。
藤乃の体は、藤棚の中に吸い込まれ、帝都からは見えなくなった。
藤棚は中が回廊のように歩けるくらいの幅があった。藤乃は生み出すときに、できるかぎり広く、大きく、妖都のすべてを守れるようにと想像をした。その結果、こんなにもたくさんの藤を咲かせることができた。
藤乃が藤棚に入ると、天魁が待っていてくれた。
「他の皆さんは」
「先に妖都へ帰した。藤乃がこれだけのものを生み出して、妖都を守ったんだ。誰も文句はないさ」
俺が言わせないが、と天魁は口端を上げて笑った。藤乃はその気持ちが嬉しくて、微笑んだ。
「ありがとうございます」
「礼を言うのはこちらの方だ。見事にやり遂げてくれた。俺も、君を誇らしく思う」
藤乃と天魁は、しばらく静かに藤棚を見つめていた。
「こんなに美しい花は見たことがない」
天魁が藤の中で感嘆の声をあげる。風が吹くと、藤と天魁の銀色の髪が絡み合うようになびいて、すべてが藤色に染まっていくような錯覚を覚える。
「はい。こんなに美しいものは見たことがございません」
藤乃が答えると、紺碧の瞳が愛おしそうに細められた。永遠に続くように見える藤色の中にあっても、天魁のこの瞳は引けを取らない美しさだ。
そっと二人の距離が近づく。
数えきれない藤の花の中で、誰からも見えないその花園で、天魁は藤乃の頬に親指で撫でるように触れた。藤乃はその手に甘えるように顔を傾けた。
「藤乃」
天魁は大きな手のひらで藤乃の頬を包み込むと、囁くように名を呼んだ。藤乃は返事に代えて、じっと天魁を見上げる。
「目を閉じろ」
低く甘い声に、藤乃は人形ではない心からの笑みで答える。
「はい、仰せの通りに」
目を瞑ると、すぐに唇が触れあった。何度か離れて、触れてを繰り返す。そのたびに藤の甘い香りが喉に抜ける。一層強く風が吹き、揺れた藤の花びらが二人の頬を撫でる。
その感覚がくすぐったくて、藤乃と天魁は顔を見合わせて笑った。
「帰るぞ、藤乃」
「はい、魁里様」
どちらからともなく、二人は手を繋ぎ、藤棚を抜けて妖都へと歩き出した。
(了)



