【第六章 ハナミズキは幸福な永遠を受け取る】
藤乃と天魁の出会いの真実を聞いた翌日、藤乃はどんな顔をすればいいのかわからなかった。おかげで寝不足ぎみだ。
「おはよう、藤乃」
「あ、あの、おはようございます」
天魁はいつもと変わらない様子で声をかけてきたが、藤乃の返事はあまりにも不自然だった。天魁は小さく笑って藤乃の頭を撫でた。
「君が気を遣う必要も、気負う必要もない、いつも通りで構わない」
「はい、仰せの通りに」
言葉ではかしこまったものの、声音は気恥ずかしさが乗っていた。自分でもずるいとは思いながらも、藤乃は天魁の言葉に甘えることにした。
「だがまあ、隠す必要もないということだな。手加減もなしでいく」
天魁のその宣言通り、明らかに藤乃の名前を呼ぶ回数が増えたし、触れる回数も増えた。藤乃が愛おしいと隠さない様子に、さすがに志摩が怪訝な顔をした。
「何かありましたか」
志摩に事情を説明すると、深くて長いため息が帰ってきた。天魁に向けて、呆れた様子で遠慮なく言い放った。
「私には口が裂けても言うなとか言っておいて、自分から話したんですか。何してるんですか」
「まあ、そういう流れだったからな」
「流されるな」
志摩は呆れを通り越して、天魁を睨みつけている。天魁は聞こえていないかのように、それらを華麗に流した。
「わあ、あにさまとあねさまが、らぶらぶましましだあ」
「本当だ、あつあつましましだね」
当然、市と綾にもその変化は見抜かれるわけで、恥ずかしくなって藤乃はぶんぶんと首を振る。
「ち、違いますよ」
「えーでもねえ」
「そうだよねー」
市と綾の視線が、藤乃の後ろにいる天魁に注がれる。天魁は、藤乃の頭を撫でて、髪をとかして、もてあそんでいる。双子と藤乃が話している間、ずっとだ。
「天魁様、おやめくださいませ」
「なんだ、嫌だったか」
「い、やではありませんけれど……」
「ならいいじゃないか」
藤乃は問答に負けて、また天魁の手に遊ばれてしまうことになった。市と綾は藤乃と天魁を交互に見て、それからお互いに顔を見合わせて大きく頷いた。
「やっぱり、らぶらぶだね」
「やっぱり、あつあつだね」
楽しそうな笑みで言われて、その上この状況では、もう否定しづらくなってしまった。
それをどこか楽しんでいる自分自身もいて、藤乃はどんどん自分が変わっていくと気づいた。
――嫌では、ないのよね
「藤乃さんへのお手紙です」
「わたし宛ですか」
居間で天魁とくつろいでいるときに、志摩から手紙を受け取って、藤乃は不思議に思った。天魁への手紙が届くことはあっても、藤乃宛のものは今まで来たことがない。
「え……」
差出人を見て、藤乃は思わず声を零した。そこには第二皇子、征弥の名があった。なんだかとても嫌な予感がする。
「俺が開けるか」
「いえ、自分で見ます」
藤乃が手紙を開けてみれば、婚約者として帝都に戻ってこいと簡素に書かれていた。
「どういうことでしょう」
「婚約破棄をして、追い出しておいて戻ってこい? ふざけているな。ただ……」
天魁は手紙を覗き込んで憤っていたが、言葉を途中で止めた。
「帝都で第二皇子に関する不穏な噂があると、常盤から報告があったんだ」
藤乃がはじめてカフェに行ったときのことだと察した。確か、天魁への急ぎの報告があると話していた。第二皇子のことを話しているとは思ってもいなかった。
「少し調べる必要があるな。帝都に行ってくる」
天魁は言うや早いか、外出の準備を始めた。時々、帝都に行くと言っていたから、慣れているのだろうけど、なんだか胸騒ぎがした。藤乃は座ったまま天魁の服の裾を引いた。
「わたしも一緒に――」
言いかけて、藤乃が帝都にいることが知られたらまずい。そう気づいて続きを言えなくなってしまった。
「変化をすれば、藤乃も連れていける。俺自身、もともと変化をするつもりではあったからな」
そう言って、天魁は人差し指を動かして狐火を出現させた。藤乃の周りを揺らめく陽炎が包み込む。熱さは感じなくて、むしろ心地よい温かさがある。天魁も同じように陽炎の中に身を置くと、その姿はまったくの別人に変化した。
「わっ、すごいです……!」
「君も変わっているぞ。ほら」
これを見越して志摩が姿見を居間に持ってきた。その前に藤乃が立つ。鏡の中にいるのは、藤乃ではなかった。髪は肩までのボブカットになり、顔そのものも別人になっている。服装は袴にブーツで女学生の装いだ。
天魁は、その女学生の付き人といった簡素な服装になっている。もちろん、顔も別人だが、よく見ると紺碧の瞳の気配は残っている。
「よし、行くぞ」
「はい」
藤乃と天魁は、馬車で帝都の手前まで行き、そこからは歩いて向かった。見慣れない馬車があると、目ざとい者には怪しまれてしまう。
「どこを調べればいいのでしょう」
「噂を探るには、人の多いところだ。例えばこことかな」
天魁が指し示したのは、レストランだった。洋食を提供する、帝都でも有名な店だった。確かにここならたくさんの人がいるだろう。
「前に一緒に行こうと言っていたが、なんだかんだと行けていなかった。帝都と妖都の差はあるが、まあせっかくだしな」
天魁は咳払いをしてから、声音を変えて藤乃に手を差し出した。
「さあ、参りましょう。お嬢様」
藤乃がお嬢様で、天魁はその付き人。ここからはそういう言動をしなければならない。天魁はさすがのなりきり方だ。
「ええ。天魁さ――」
天魁の人差し指が、藤乃の唇に触れる。驚いて目を見開く藤乃に、天魁は内緒話をするように声をひそめる。
「お嬢様が付き人をそんな風に呼んではなりませんよ、魁里《かいり》と呼んでください」
「ばれないための偽名ですね。わかりました」
「いや、本名だ」
けろりとそんなことを言うから、藤乃は思わず天魁を見上げた。
「長になるときには、名前に『天』の字を使うことになっている。だからしばらく呼ばれていない。まあ、偽名のように都合よく使ってくれ」
「よろしいのですか。お呼びしても」
「藤乃になら構わない」
天魁はまた親指で撫でるように藤乃の頬に触れた。周りに怪しまれないため、顔が赤くならないよう気を引き締めた。意識して声音を変えて天魁を見上げる。
「行きますよ、魁里」
「はい。お嬢様」
ちょうど昼時ということもあってか、レストランの中は、人が溢れかえっていた。メニューを持ってきた店員も忙しさに疲弊しているように見えた。
ライスカレー、ビフテキ、ポークカツレツ、オムレツライスなど、洋食の名前がずらりと並ぶ。ただ来店しただけなら楽しめるのだが、今日は第二皇子のことを調べるために来ているのだ。
「お嬢様は何になさいますか」
天魁は付き人の口調を崩さないままに聞いてきた。藤乃は気になっていたメニューをあげる。
「ビフテキにしようかしら」
「かしこまりました」
天魁は、店員を呼ぶとビフテキを二つ注文した。二人は料理が来るまで周囲の会話に耳を集中させる。ざわざわとした店内だが、他の席に座る客の会話はある程度聞こえる。
「ねえ、第二皇子様の話、聞きました?」
さっそく、第二皇子の噂話が聞こえてきた。ここに入って正解だったようだ。藤乃と天魁は顔を見合わせて頷き合った。静かに会話に耳を傾ける。
「新しい婚約者の方、香澄様でしたっけ、雨を降らすことができる加護と言っていたけれど、嘘だったらしいですよ」
「まあ、そうなの?」
「雨が降らない日がしばらく続いたときがあったでしょう? そのときに香澄様に雨を降らせて帝都の助けになるようにと、皇から命があったのですって。でも、できなくて、嘘だったと白状したそうです」
藤乃は声を堪えるのに必死だった。香澄の加護が嘘だったなんて、知らなかった。第二皇子の隣で笑顔を浮かべていたというのに、それは嘘で得たものだったのか。
「あら? でもわたくし洋館でのパーティーで雨を降らせているのを見たわよ」
藤乃は慌ててメニューで顔を隠した。あのとき洋館にした夫人だったとは、巡り合わせに驚くが気づかれては大変だ。
「お嬢様、大丈夫ですよ」
天魁にお嬢様と呼ばれて、藤乃は今、顔も別人だから気づかれることはないと思い出した。もう一度、夫人たちの会話に意識を向ける。
「それが、洋館の二階に仕掛けを作って、水を落としていたそうです」
「まあ、なんてこと」
「それで第二皇子様は、元の婚約者の藤乃様を連れ戻そうとしているとの噂ですの」
藤乃はつい肩を揺らした。噂だとしても、もうそんな話が広まっているらしい。もしや、公式に発表する日も近いのだろうか。藤乃はまだ何も返事をしていないというのに。
「藤乃様は本当の加護をお持ちですものね。でも、婚約破棄をして妖都に追いやったのに、新しい婚約者が嘘つきだったからって連れ戻すのね……」
「ええ。皇子様とはいえ、いくらなんでも、ねえ?」
その客たちが帰ったあとも別の客が同じような話をしているのが聞こえた。どうやら今の帝都はこの話題で持ち切りらしい。嘘をついた香澄もそうだが、それを見抜けずに本当に
加護を持つ者を妖都に追放した第二皇子の評判もかなり悪い。
「ふんっ、いい気味だな」
第二皇子の悪評に、天魁はどこか満足げな様子だった。
その後、提供されたビフテキは柔らかく、顔がほころぶ美味しさだった。しかし、食べている間も周囲に耳を傾けるから、もっと味わって食べられるときにもう一度来たいと思った。
「さて、どうするか」
レストランを出て、天魁が尋ねた。わざわざ変化をして帝都に出てきたが、先ほどのレストランでだいたいの状況は把握できた。
「他に寄りたいところはありますか、お嬢様」
まだお嬢様と付き人を続けるらしい。ならば、藤乃もそれに倣う。
「魁里、わたしはお母様にお会いしたいわ」
「いや、それは」
「この姿ならわからないでしょう。離れたところから見るだけでいいの」
天魁は考え込んだが、やがて頷いてくれた。もう付き人の口調も外れた。
「侯爵家に行くのは、避けたほうがいい。関係ない者が近づくと怪しまれるだろうからな。どこかいそうな場所に心当たりはあるか」
「この時間なら、デパートにいるかもしれません」
ティータイムは情報交換の場になるから、所作と作法を覚えなさいと、和菓子や洋菓子を用意され、叩き込まれた。そのお菓子は母が自ら選んでいたと聞いたことがある。
侯爵夫人としての付き合いがあり、家のことを取り仕切り、藤乃へ所作や作法などを教える。母は、毎日どれほどのことをしていたのだろう、と今更ながらに思う。
――いえ、離れたから、考える余裕ができたのね
皇子の婚約者として指導をされる日々では、自分のことで精いっぱいで周りのことはよく見えていなかった。
デパートに到着し、お菓子の売り場に母の姿を見つけた。よく考えれば藤乃への指導はもう必要ないのだから、母はお菓子を買いに来ない可能性のほうが高かった。でも、母はここにいた。ただ、習慣化しているだけかもしれないが。
「よかった、お母様。お元気そうで」
少し距離を空けて、母の姿を見守った。第二皇子が藤乃を呼び戻そうとしていることで、迷惑をかけていないか心配だったが、変わらない姿を見てほっとした。
ふと、母がこちらにやってくる。そして、そのまま藤乃に話しかけた。
「何か探しているのですか」
母のことを見過ぎたら不自然だと思って、いろいろなところを見ていたら、何かを探していると思われたらしい。藤乃はできるだけ声音を変えて、平常心で答えた。
「美味しいおはぎを探しています」
「それなら、あちらにありますよ」
「ありがとうございます」
それだけの会話で、母は踵を返した。藤乃はとっさに呼び止めてしまった。
「あのっ」
母は振り返って首を傾げて返答とした。藤乃も教え込まれた、令嬢としての所作そのものだ。
「朝霧侯爵夫人ですよね」
付き人らしく少し後ろに控えている天魁が小声で、何をしている、とたしなめた。必要以上に話すなと言いたいのはわかっている。
でも、藤乃はどうしても聞きたかった。
「ええ、そうですよ」
「第二皇子様の件、どうお考えですか」
一定だった母の顔色がわずかに変化した。それが戸惑いなのか、憤りなのか、わからない。
「第二皇子様のお考えは私などが意見を口にするものではございません」
「そう、ですよね。すみません……」
「ですが、一人の母としては娘には幸せになってもらいたいと思っています」
凛とした声で母はそう口にした。藤乃の目を見てまっすぐに。
「それでは、私はこれで失礼します」
母は後ろにいる天魁に一礼すると、そのまま去っていった。
――え、どうして、今
藤乃は混乱のあまりその場に立ち尽くした。
「お嬢様、行きましょう」
天魁の声も聞こえているけれど、頭に入ってこない。天魁はぐっと顔を近づけて藤乃の耳元で囁いた。
「藤乃、少し目立っている。離れるぞ」
藤乃が頷くのも待たずに、天魁は手を引いてデパートをあとにした。
デパートから離れて、藤乃はようやく口を開いた。
「……母にばれていたかもしれません」
華族の社交の場ではたくさんの人と話をする。そして最後にはその場にいる位の一番高い者に礼をすることになっている。
今の藤乃と天魁は、女学生とその付き人のはずだ。なのに母は天魁に礼をした。天魁を位の高い相手と見ていたのだ。
藤乃は自分の考えを天魁に話した。天魁は険しい表情になった。
「理由はわからないが、確かに母君にはばれているようだな。あれは、確信を持っている目だった」
なんとも言い難い気持ちのまま、馬車で妖都まで帰った。
屋敷に戻ると、天魁は第二皇子からの手紙をもう一度手に取った。
「母君も言っていた、幸せになってほしいと。ならば、これに応えるべきだろう」
「……」
「帝都での噂を聞く限り、君にとって悪いことを言われない状況だろう。むしろ歓迎される」
天魁は明らかに作り笑いとわかる顔で告げた。
「よかったな、君の本来の居場所に戻れるぞ」
藤乃は何も言えない。ただ、雫が頬を伝って落ちていく。その感覚で、泣いていると気づいた。自分で気づかないうちに泣くなんて、はじめてのことだった。
「そう、ですね」
藤乃はかろうじて、それだけを返して屋敷から飛び出した。
*
空気を呼んで顔を出さずに聞いていたらしい志摩が、天魁に言い捨てた。
「馬鹿ですか」
「ああ、馬鹿だな」
天魁はぐっと親指と人差し指で眉間を押さえた。ひどい頭痛を感じてそうしたが、ただ気分が最悪なだけだと気づいてため息をついた。
「だが、帝都に返すのが正しいはずだ。今なら藤乃が白い目で見られることもない」
「そうですね」
「もう感情を押さえつけた人形の顔をしていない。息苦しい思いをすることもない」
「そうですね」
志摩はただただ、肯定の相槌だけを返してくる。それが余計に天魁の感情を荒立てた。
「わかっている。わかっているが、あの顔はだめだろう……。離したくなくなる」
零れ出た本音に、今度は志摩は何も言わなかった。代わりに藤乃が飛び出した玄関を見つめた。
「追いかけなくていいんですか」
「今はそっとしたほうがいいだろう。志摩、気づかれないように、何もないか見守っていろ」
「わかりましたよ」
なんだかんだと言いつつも、志摩は天魁のため動く。天魁はどっと疲れた体を居間に投げ出した。
*
藤乃は、妖都をあてどなく歩く。
天魁の言うことは正しい。人である藤乃は帝都に戻らなくてはならない。そして今がそのときだ。天魁に迷惑をかけたくはない。
「でも、一緒にいたい……」
こんなにも藤乃のことを大切に想ってくれる天魁の隣にいたい。彼のおかげで、藤乃は完璧でなくても許されると知った。好きなものを好きと言うことを知った。毎日、生き生きと過ごせているのは、天魁のおかげだ。
こんなに想っても、寿命が違うのだから、一緒には生きられない。それは絶対に越えられない壁なのだ。
――本当に?
藤乃の頭にははあることが浮かんだ。いろいろと考えるよりも早く、つま先を診療所へ向けた。
少し息を切らしながら診療所の扉を叩くと、朗らかに千世が顔を出した。
「あらあら、どうしたの。藤乃ちゃん」
「千世さんに相談があります」
「もちろんどうぞ」
突然の訪問にもかかわらず、千世は快く中に招き入れてくれた。そして、窓の外へ向けて何かを追い払うような仕草をした。
何があるのかと窓の外を見れば、志摩がいて、気まずそうに立ち去っていった。おそらく天魁の指示だろう。過保護が過ぎると思うけれど、それすらも嬉しく思えてしまう。
「今日はどうしたの」
藤乃は、第二皇子の手紙のことから今日の出来事を話した。その間、千世は余計な言葉を挟むことなく耳を傾けていた。
お茶を淹れてくれて、それで喉を潤しながら全部を話し終えた。
「ねえ、藤乃ちゃんは、どうしてわたしに会いに来てくれたの」
「相談してっていう言葉に甘えて来てしまいました」
藤乃の言葉を聞いて、千世はにっこりと嬉しそうに微笑んだ。
「甘え方を覚えてえらいわ。……でもそれだけじゃないでしょう?」
千世は、すっと目を細めて問いを重ねた。おそらく千世は気がついている。藤乃が何を求めてここに来たのかを。藤乃はどうしても欲しいものがあった。
一つ、深呼吸をしてから、藤乃は凛とした声を発した。
「千世さん、お願いがあります」
診療所を出ると、志摩が待っていてそのまま屋敷の道を歩いた。千世と何を話していたのかは志摩には聞かれなかった。
屋敷に戻ると、天魁に執務室へと呼ばれた。第二皇子への手紙の返事を書くから、その相談だという。藤乃は扉の近くに立ったまま、ソファに腰掛ける天魁を見つめる。
「第二皇子への挨拶と、皇への挨拶も入れるべきか。藤乃宛に来ているから、俺が返すのはよくないだろう。どう思う」
藤乃は問いかけに応じない。
「藤乃」
天魁に名を呼ばれても、答えない。
痺れを切らした天魁が藤乃を抱きかかえて、自分の座っていたソファの前のテーブルに座らせた。天魁はテーブルに両手をついて、逃がさないとでもいうように閉じ込めた。
「どうしたい。君が幸せになれるように」
「わたしは――天魁様と生きたいです」
藤乃は懐から小瓶を取り出す。そこには赤紫色の液体が満ちている。
「千世さんにもらいました。人魚の血です」
人魚の血は不老不死になるという伝承がある。しかし、実際には妖の寿命になるということらしい。人から見ればそれは人の寿命を超えて生きる不老不死そのものに見えただろう。
人である藤乃が、妖の天魁と一緒に生きるのはこれしかない。
蓋を開けて、一気に口の中へ流し込む。
「おい! やめろ!」
天魁の鋭い声がしたかと思えば、乱暴に後頭部を掴まれて、下を向かされた。間髪入れずに、そのまま天魁の唇で、藤乃の唇が塞がれた。
驚きのあまり口をわずかに開けたまま固まり、藤乃も人魚の血も天魁にされるがままの状態だった。思わず閉じた瞼を押し開けると、これまでにない至近距離で、射抜くような紺碧の瞳と目が合った。体ごと支配されるような感覚に、藤乃は天魁の服を縋るように握りしめる。
「……っ」
ようやく解放されて、藤乃は何度も肩で息をする。時間は、ほんの少しの間だったはずだった。でもとてつもなく長く感じた。
離れた天魁の唇の端に赤紫色が見えて、その妖艶さに見てはいけないものを見ているような気がした。
「甘い……?」
天魁が不思議そうに呟いた。
藤乃もわずかに口の中に残った血の味を確かめた。
「甘い……」
「これ、血じゃなくてぶどうジュースだな。……まったく、千世さんめ」
からかわれたらしいと天魁は小瓶を睨みつけた。一方、藤乃は放心状態だった。唯一の方法だと思ったのに、人魚の血ではなかった。
「そんな……」
「君は、なんて馬鹿なことを――」
「もうこれしか方法はないと思ったのです!」
天魁の言葉を遮って、藤乃は声を荒らげた。こんな風に声を出したのははじめてのことだ。でも、もう止まれなかった。
「天魁様と一緒にいたいです」
「だが、俺は君の幸せのために」
「わたしは天魁様の隣で、幸せになりたいのです」
藤乃の言葉に、天魁の目が大きく見開かれた。そして、テーブルに座ったままの藤乃を見上げて言った。
「人魚の血を飲む必要はない」
ともにいることを拒否されたのだと、藤乃の目頭が勝手に熱くなる。だが、続いた言葉にこぼれそうになった涙が引いた。
「俺の妖珠を渡せば、君はここで生きられる」
「ですが、それはタブーだと……」
「そうだ。妖珠を人に渡せばその人は妖に近くなる。寿命は妖と同じになるし、加護の力は妖力として強まる。タブーなのは、人を妖の世界に引き込むからだ」
天魁は試すような視線を藤乃に向ける。
「俺は、自らの意志で俺のもとに堕ちてきた者を離してやるつもりはない。……いいのか」
洋館で出会ったときのように、天魁は手を差し出した。
藤乃の座るテーブルから椅子に座る天魁まで、踊り場から飛び降りたときとは比べ物にならない、ほんの少しの高さだ。だが、それは人生が大きく変わる高さ。
「……」
藤乃は黙り込んで大きく息を吸って、そして吐いた。
迷ったわけではない。その事実を噛みしめ、受け入れただけだ。
「仰せの通りに、魁里様」
愛おしい妖の本当の名を呼んで、藤乃は天魁の腕の中に堕ちた。
「俺は言ったからな、離すつもりはないと。覚悟しろ」
「はい、ずっとお傍に」
藤乃は花が咲くような、満点の笑顔で頷いた。
ソファを囲む花畑のように、ハナミズキの花が咲き誇っている。ハナミズキの花言葉は『幸福』『永遠』そして、『わたしの想いを受け取って』。
翌日、藤乃と天魁は妖珠加工師である榛名の工房を訪れた。天魁の妖珠を藤乃のために加工してもらうためだ。
「天魁様の妖珠を加工できる日が来るなんて、感慨深いですね」
榛名は、パッと見はつり目で冷たい印象だが、笑うと可愛らしい女性だ。赤みの強い黒髪が肩まであり、綺麗に内側にカールしている。そして、耳には志摩や常盤と同じピアスがついているのが見えた。
天魁が人である藤乃へ妖珠を渡すという話をしたのだが、榛名はそう驚きはしなかった。
「珍しいこともあるものですね」
それだけ言って、どういう形がいいのかという現実的な話に切り替わった。さすが、志摩の幼馴染なだけある。
「藤乃さんは人なんで、妖珠が直接触れると影響が強すぎるかもしれません。千世さんみたいな舌ピアスとか絶対だめです」
千世のピアスのことを言うときだけ語気が強い気がする。もしかしたら、どの形にするかでかなり意見を戦わせたのかもしれない。藤乃としても、舌にピアスを付けるつもりはもちろんない。
「私の考えとしては簪がいいんじゃないかな、と思いますね。髪に付けるのなら、影響も少なくて徐々に妖に近づいていくって感じになるかと」
「ああ、任せる」
天魁は榛名の話を一通り聞いて、簪にすることを了承した。藤乃は自分の髪に簪を付ける姿を想像して、嬉しくなった。付けている間、ずっと天魁を傍に感じることができる。
「天魁様、志摩から聞いていますよ。ようやく妖珠の交換相手を見つけて、力も安定するだろうから安心だって」
「それに関しては心配をかけた、すまない」
妖力が強すぎる問題について、志摩から榛名にも共有されていたらしい。
「というか、十年くらい拗らせてたって」
「あいつ、いらないことまで……」
天魁はこの場にいない志摩へ毒づいた。帰ったらまた軽口の言い合いが繰り広げられるのだろうな、と想像できた。
「うんと大切にしないといけませんよ。こんなに可愛くて強い子、そうそういませんから」
「言われなくてもわかっている」
天魁は榛名の激励に、力強い声音で答えた。藤乃にも視線を向けて、頭を撫でた。充分、大切にしてもらっている。
「藤乃さん」
「はいっ」
唐突に榛名に名前を呼ばれて、藤乃はぴんと姿勢を伸ばして答えた。
「天魁様を、どうかよろしくお願いします」
「はい。お任せください。ずっとお傍にいます」
天魁は任せるとかは普通逆じゃないのかと、ぶつぶつ呟いていたが、嬉しそうに張り切るな藤乃を見て、天魁はまあいいかと笑った。
後日、榛名の手によって完成した簪を、藤乃は丁寧に身につけた。とんぼ玉を固定するのと同じように水晶のように輝く妖珠があり、細く上品なチェーンがしゃらりと揺れる。藤乃のまとめた髪に、天魁の妖珠がしっかりと存在している。
「ずっと、身につけておいてくれ」
「はい、もちろんでございます」
心を込めて頷いてから、藤乃ははたととても大事なことに気がついた。
「わたしから天魁様にお渡しできるものがありません」
妖珠は、本来お互いに交換するものなのに、藤乃は妖珠を持っていない。これでは交換にならないのでは、と途端に不安になる。
天魁は慌てることなく、藤乃の手を取った。そして、まるで物語の一部のように手の甲にそっと口付けを落とした。
「藤乃の、この先の“人”生をすべてもらったのだから、充分だ」
「天魁様……」
「君を俺のすべてを持って幸せにする。だから、俺から離れるな」
「はい。仰せの通りに」
藤乃と天魁の出会いの真実を聞いた翌日、藤乃はどんな顔をすればいいのかわからなかった。おかげで寝不足ぎみだ。
「おはよう、藤乃」
「あ、あの、おはようございます」
天魁はいつもと変わらない様子で声をかけてきたが、藤乃の返事はあまりにも不自然だった。天魁は小さく笑って藤乃の頭を撫でた。
「君が気を遣う必要も、気負う必要もない、いつも通りで構わない」
「はい、仰せの通りに」
言葉ではかしこまったものの、声音は気恥ずかしさが乗っていた。自分でもずるいとは思いながらも、藤乃は天魁の言葉に甘えることにした。
「だがまあ、隠す必要もないということだな。手加減もなしでいく」
天魁のその宣言通り、明らかに藤乃の名前を呼ぶ回数が増えたし、触れる回数も増えた。藤乃が愛おしいと隠さない様子に、さすがに志摩が怪訝な顔をした。
「何かありましたか」
志摩に事情を説明すると、深くて長いため息が帰ってきた。天魁に向けて、呆れた様子で遠慮なく言い放った。
「私には口が裂けても言うなとか言っておいて、自分から話したんですか。何してるんですか」
「まあ、そういう流れだったからな」
「流されるな」
志摩は呆れを通り越して、天魁を睨みつけている。天魁は聞こえていないかのように、それらを華麗に流した。
「わあ、あにさまとあねさまが、らぶらぶましましだあ」
「本当だ、あつあつましましだね」
当然、市と綾にもその変化は見抜かれるわけで、恥ずかしくなって藤乃はぶんぶんと首を振る。
「ち、違いますよ」
「えーでもねえ」
「そうだよねー」
市と綾の視線が、藤乃の後ろにいる天魁に注がれる。天魁は、藤乃の頭を撫でて、髪をとかして、もてあそんでいる。双子と藤乃が話している間、ずっとだ。
「天魁様、おやめくださいませ」
「なんだ、嫌だったか」
「い、やではありませんけれど……」
「ならいいじゃないか」
藤乃は問答に負けて、また天魁の手に遊ばれてしまうことになった。市と綾は藤乃と天魁を交互に見て、それからお互いに顔を見合わせて大きく頷いた。
「やっぱり、らぶらぶだね」
「やっぱり、あつあつだね」
楽しそうな笑みで言われて、その上この状況では、もう否定しづらくなってしまった。
それをどこか楽しんでいる自分自身もいて、藤乃はどんどん自分が変わっていくと気づいた。
――嫌では、ないのよね
「藤乃さんへのお手紙です」
「わたし宛ですか」
居間で天魁とくつろいでいるときに、志摩から手紙を受け取って、藤乃は不思議に思った。天魁への手紙が届くことはあっても、藤乃宛のものは今まで来たことがない。
「え……」
差出人を見て、藤乃は思わず声を零した。そこには第二皇子、征弥の名があった。なんだかとても嫌な予感がする。
「俺が開けるか」
「いえ、自分で見ます」
藤乃が手紙を開けてみれば、婚約者として帝都に戻ってこいと簡素に書かれていた。
「どういうことでしょう」
「婚約破棄をして、追い出しておいて戻ってこい? ふざけているな。ただ……」
天魁は手紙を覗き込んで憤っていたが、言葉を途中で止めた。
「帝都で第二皇子に関する不穏な噂があると、常盤から報告があったんだ」
藤乃がはじめてカフェに行ったときのことだと察した。確か、天魁への急ぎの報告があると話していた。第二皇子のことを話しているとは思ってもいなかった。
「少し調べる必要があるな。帝都に行ってくる」
天魁は言うや早いか、外出の準備を始めた。時々、帝都に行くと言っていたから、慣れているのだろうけど、なんだか胸騒ぎがした。藤乃は座ったまま天魁の服の裾を引いた。
「わたしも一緒に――」
言いかけて、藤乃が帝都にいることが知られたらまずい。そう気づいて続きを言えなくなってしまった。
「変化をすれば、藤乃も連れていける。俺自身、もともと変化をするつもりではあったからな」
そう言って、天魁は人差し指を動かして狐火を出現させた。藤乃の周りを揺らめく陽炎が包み込む。熱さは感じなくて、むしろ心地よい温かさがある。天魁も同じように陽炎の中に身を置くと、その姿はまったくの別人に変化した。
「わっ、すごいです……!」
「君も変わっているぞ。ほら」
これを見越して志摩が姿見を居間に持ってきた。その前に藤乃が立つ。鏡の中にいるのは、藤乃ではなかった。髪は肩までのボブカットになり、顔そのものも別人になっている。服装は袴にブーツで女学生の装いだ。
天魁は、その女学生の付き人といった簡素な服装になっている。もちろん、顔も別人だが、よく見ると紺碧の瞳の気配は残っている。
「よし、行くぞ」
「はい」
藤乃と天魁は、馬車で帝都の手前まで行き、そこからは歩いて向かった。見慣れない馬車があると、目ざとい者には怪しまれてしまう。
「どこを調べればいいのでしょう」
「噂を探るには、人の多いところだ。例えばこことかな」
天魁が指し示したのは、レストランだった。洋食を提供する、帝都でも有名な店だった。確かにここならたくさんの人がいるだろう。
「前に一緒に行こうと言っていたが、なんだかんだと行けていなかった。帝都と妖都の差はあるが、まあせっかくだしな」
天魁は咳払いをしてから、声音を変えて藤乃に手を差し出した。
「さあ、参りましょう。お嬢様」
藤乃がお嬢様で、天魁はその付き人。ここからはそういう言動をしなければならない。天魁はさすがのなりきり方だ。
「ええ。天魁さ――」
天魁の人差し指が、藤乃の唇に触れる。驚いて目を見開く藤乃に、天魁は内緒話をするように声をひそめる。
「お嬢様が付き人をそんな風に呼んではなりませんよ、魁里《かいり》と呼んでください」
「ばれないための偽名ですね。わかりました」
「いや、本名だ」
けろりとそんなことを言うから、藤乃は思わず天魁を見上げた。
「長になるときには、名前に『天』の字を使うことになっている。だからしばらく呼ばれていない。まあ、偽名のように都合よく使ってくれ」
「よろしいのですか。お呼びしても」
「藤乃になら構わない」
天魁はまた親指で撫でるように藤乃の頬に触れた。周りに怪しまれないため、顔が赤くならないよう気を引き締めた。意識して声音を変えて天魁を見上げる。
「行きますよ、魁里」
「はい。お嬢様」
ちょうど昼時ということもあってか、レストランの中は、人が溢れかえっていた。メニューを持ってきた店員も忙しさに疲弊しているように見えた。
ライスカレー、ビフテキ、ポークカツレツ、オムレツライスなど、洋食の名前がずらりと並ぶ。ただ来店しただけなら楽しめるのだが、今日は第二皇子のことを調べるために来ているのだ。
「お嬢様は何になさいますか」
天魁は付き人の口調を崩さないままに聞いてきた。藤乃は気になっていたメニューをあげる。
「ビフテキにしようかしら」
「かしこまりました」
天魁は、店員を呼ぶとビフテキを二つ注文した。二人は料理が来るまで周囲の会話に耳を集中させる。ざわざわとした店内だが、他の席に座る客の会話はある程度聞こえる。
「ねえ、第二皇子様の話、聞きました?」
さっそく、第二皇子の噂話が聞こえてきた。ここに入って正解だったようだ。藤乃と天魁は顔を見合わせて頷き合った。静かに会話に耳を傾ける。
「新しい婚約者の方、香澄様でしたっけ、雨を降らすことができる加護と言っていたけれど、嘘だったらしいですよ」
「まあ、そうなの?」
「雨が降らない日がしばらく続いたときがあったでしょう? そのときに香澄様に雨を降らせて帝都の助けになるようにと、皇から命があったのですって。でも、できなくて、嘘だったと白状したそうです」
藤乃は声を堪えるのに必死だった。香澄の加護が嘘だったなんて、知らなかった。第二皇子の隣で笑顔を浮かべていたというのに、それは嘘で得たものだったのか。
「あら? でもわたくし洋館でのパーティーで雨を降らせているのを見たわよ」
藤乃は慌ててメニューで顔を隠した。あのとき洋館にした夫人だったとは、巡り合わせに驚くが気づかれては大変だ。
「お嬢様、大丈夫ですよ」
天魁にお嬢様と呼ばれて、藤乃は今、顔も別人だから気づかれることはないと思い出した。もう一度、夫人たちの会話に意識を向ける。
「それが、洋館の二階に仕掛けを作って、水を落としていたそうです」
「まあ、なんてこと」
「それで第二皇子様は、元の婚約者の藤乃様を連れ戻そうとしているとの噂ですの」
藤乃はつい肩を揺らした。噂だとしても、もうそんな話が広まっているらしい。もしや、公式に発表する日も近いのだろうか。藤乃はまだ何も返事をしていないというのに。
「藤乃様は本当の加護をお持ちですものね。でも、婚約破棄をして妖都に追いやったのに、新しい婚約者が嘘つきだったからって連れ戻すのね……」
「ええ。皇子様とはいえ、いくらなんでも、ねえ?」
その客たちが帰ったあとも別の客が同じような話をしているのが聞こえた。どうやら今の帝都はこの話題で持ち切りらしい。嘘をついた香澄もそうだが、それを見抜けずに本当に
加護を持つ者を妖都に追放した第二皇子の評判もかなり悪い。
「ふんっ、いい気味だな」
第二皇子の悪評に、天魁はどこか満足げな様子だった。
その後、提供されたビフテキは柔らかく、顔がほころぶ美味しさだった。しかし、食べている間も周囲に耳を傾けるから、もっと味わって食べられるときにもう一度来たいと思った。
「さて、どうするか」
レストランを出て、天魁が尋ねた。わざわざ変化をして帝都に出てきたが、先ほどのレストランでだいたいの状況は把握できた。
「他に寄りたいところはありますか、お嬢様」
まだお嬢様と付き人を続けるらしい。ならば、藤乃もそれに倣う。
「魁里、わたしはお母様にお会いしたいわ」
「いや、それは」
「この姿ならわからないでしょう。離れたところから見るだけでいいの」
天魁は考え込んだが、やがて頷いてくれた。もう付き人の口調も外れた。
「侯爵家に行くのは、避けたほうがいい。関係ない者が近づくと怪しまれるだろうからな。どこかいそうな場所に心当たりはあるか」
「この時間なら、デパートにいるかもしれません」
ティータイムは情報交換の場になるから、所作と作法を覚えなさいと、和菓子や洋菓子を用意され、叩き込まれた。そのお菓子は母が自ら選んでいたと聞いたことがある。
侯爵夫人としての付き合いがあり、家のことを取り仕切り、藤乃へ所作や作法などを教える。母は、毎日どれほどのことをしていたのだろう、と今更ながらに思う。
――いえ、離れたから、考える余裕ができたのね
皇子の婚約者として指導をされる日々では、自分のことで精いっぱいで周りのことはよく見えていなかった。
デパートに到着し、お菓子の売り場に母の姿を見つけた。よく考えれば藤乃への指導はもう必要ないのだから、母はお菓子を買いに来ない可能性のほうが高かった。でも、母はここにいた。ただ、習慣化しているだけかもしれないが。
「よかった、お母様。お元気そうで」
少し距離を空けて、母の姿を見守った。第二皇子が藤乃を呼び戻そうとしていることで、迷惑をかけていないか心配だったが、変わらない姿を見てほっとした。
ふと、母がこちらにやってくる。そして、そのまま藤乃に話しかけた。
「何か探しているのですか」
母のことを見過ぎたら不自然だと思って、いろいろなところを見ていたら、何かを探していると思われたらしい。藤乃はできるだけ声音を変えて、平常心で答えた。
「美味しいおはぎを探しています」
「それなら、あちらにありますよ」
「ありがとうございます」
それだけの会話で、母は踵を返した。藤乃はとっさに呼び止めてしまった。
「あのっ」
母は振り返って首を傾げて返答とした。藤乃も教え込まれた、令嬢としての所作そのものだ。
「朝霧侯爵夫人ですよね」
付き人らしく少し後ろに控えている天魁が小声で、何をしている、とたしなめた。必要以上に話すなと言いたいのはわかっている。
でも、藤乃はどうしても聞きたかった。
「ええ、そうですよ」
「第二皇子様の件、どうお考えですか」
一定だった母の顔色がわずかに変化した。それが戸惑いなのか、憤りなのか、わからない。
「第二皇子様のお考えは私などが意見を口にするものではございません」
「そう、ですよね。すみません……」
「ですが、一人の母としては娘には幸せになってもらいたいと思っています」
凛とした声で母はそう口にした。藤乃の目を見てまっすぐに。
「それでは、私はこれで失礼します」
母は後ろにいる天魁に一礼すると、そのまま去っていった。
――え、どうして、今
藤乃は混乱のあまりその場に立ち尽くした。
「お嬢様、行きましょう」
天魁の声も聞こえているけれど、頭に入ってこない。天魁はぐっと顔を近づけて藤乃の耳元で囁いた。
「藤乃、少し目立っている。離れるぞ」
藤乃が頷くのも待たずに、天魁は手を引いてデパートをあとにした。
デパートから離れて、藤乃はようやく口を開いた。
「……母にばれていたかもしれません」
華族の社交の場ではたくさんの人と話をする。そして最後にはその場にいる位の一番高い者に礼をすることになっている。
今の藤乃と天魁は、女学生とその付き人のはずだ。なのに母は天魁に礼をした。天魁を位の高い相手と見ていたのだ。
藤乃は自分の考えを天魁に話した。天魁は険しい表情になった。
「理由はわからないが、確かに母君にはばれているようだな。あれは、確信を持っている目だった」
なんとも言い難い気持ちのまま、馬車で妖都まで帰った。
屋敷に戻ると、天魁は第二皇子からの手紙をもう一度手に取った。
「母君も言っていた、幸せになってほしいと。ならば、これに応えるべきだろう」
「……」
「帝都での噂を聞く限り、君にとって悪いことを言われない状況だろう。むしろ歓迎される」
天魁は明らかに作り笑いとわかる顔で告げた。
「よかったな、君の本来の居場所に戻れるぞ」
藤乃は何も言えない。ただ、雫が頬を伝って落ちていく。その感覚で、泣いていると気づいた。自分で気づかないうちに泣くなんて、はじめてのことだった。
「そう、ですね」
藤乃はかろうじて、それだけを返して屋敷から飛び出した。
*
空気を呼んで顔を出さずに聞いていたらしい志摩が、天魁に言い捨てた。
「馬鹿ですか」
「ああ、馬鹿だな」
天魁はぐっと親指と人差し指で眉間を押さえた。ひどい頭痛を感じてそうしたが、ただ気分が最悪なだけだと気づいてため息をついた。
「だが、帝都に返すのが正しいはずだ。今なら藤乃が白い目で見られることもない」
「そうですね」
「もう感情を押さえつけた人形の顔をしていない。息苦しい思いをすることもない」
「そうですね」
志摩はただただ、肯定の相槌だけを返してくる。それが余計に天魁の感情を荒立てた。
「わかっている。わかっているが、あの顔はだめだろう……。離したくなくなる」
零れ出た本音に、今度は志摩は何も言わなかった。代わりに藤乃が飛び出した玄関を見つめた。
「追いかけなくていいんですか」
「今はそっとしたほうがいいだろう。志摩、気づかれないように、何もないか見守っていろ」
「わかりましたよ」
なんだかんだと言いつつも、志摩は天魁のため動く。天魁はどっと疲れた体を居間に投げ出した。
*
藤乃は、妖都をあてどなく歩く。
天魁の言うことは正しい。人である藤乃は帝都に戻らなくてはならない。そして今がそのときだ。天魁に迷惑をかけたくはない。
「でも、一緒にいたい……」
こんなにも藤乃のことを大切に想ってくれる天魁の隣にいたい。彼のおかげで、藤乃は完璧でなくても許されると知った。好きなものを好きと言うことを知った。毎日、生き生きと過ごせているのは、天魁のおかげだ。
こんなに想っても、寿命が違うのだから、一緒には生きられない。それは絶対に越えられない壁なのだ。
――本当に?
藤乃の頭にははあることが浮かんだ。いろいろと考えるよりも早く、つま先を診療所へ向けた。
少し息を切らしながら診療所の扉を叩くと、朗らかに千世が顔を出した。
「あらあら、どうしたの。藤乃ちゃん」
「千世さんに相談があります」
「もちろんどうぞ」
突然の訪問にもかかわらず、千世は快く中に招き入れてくれた。そして、窓の外へ向けて何かを追い払うような仕草をした。
何があるのかと窓の外を見れば、志摩がいて、気まずそうに立ち去っていった。おそらく天魁の指示だろう。過保護が過ぎると思うけれど、それすらも嬉しく思えてしまう。
「今日はどうしたの」
藤乃は、第二皇子の手紙のことから今日の出来事を話した。その間、千世は余計な言葉を挟むことなく耳を傾けていた。
お茶を淹れてくれて、それで喉を潤しながら全部を話し終えた。
「ねえ、藤乃ちゃんは、どうしてわたしに会いに来てくれたの」
「相談してっていう言葉に甘えて来てしまいました」
藤乃の言葉を聞いて、千世はにっこりと嬉しそうに微笑んだ。
「甘え方を覚えてえらいわ。……でもそれだけじゃないでしょう?」
千世は、すっと目を細めて問いを重ねた。おそらく千世は気がついている。藤乃が何を求めてここに来たのかを。藤乃はどうしても欲しいものがあった。
一つ、深呼吸をしてから、藤乃は凛とした声を発した。
「千世さん、お願いがあります」
診療所を出ると、志摩が待っていてそのまま屋敷の道を歩いた。千世と何を話していたのかは志摩には聞かれなかった。
屋敷に戻ると、天魁に執務室へと呼ばれた。第二皇子への手紙の返事を書くから、その相談だという。藤乃は扉の近くに立ったまま、ソファに腰掛ける天魁を見つめる。
「第二皇子への挨拶と、皇への挨拶も入れるべきか。藤乃宛に来ているから、俺が返すのはよくないだろう。どう思う」
藤乃は問いかけに応じない。
「藤乃」
天魁に名を呼ばれても、答えない。
痺れを切らした天魁が藤乃を抱きかかえて、自分の座っていたソファの前のテーブルに座らせた。天魁はテーブルに両手をついて、逃がさないとでもいうように閉じ込めた。
「どうしたい。君が幸せになれるように」
「わたしは――天魁様と生きたいです」
藤乃は懐から小瓶を取り出す。そこには赤紫色の液体が満ちている。
「千世さんにもらいました。人魚の血です」
人魚の血は不老不死になるという伝承がある。しかし、実際には妖の寿命になるということらしい。人から見ればそれは人の寿命を超えて生きる不老不死そのものに見えただろう。
人である藤乃が、妖の天魁と一緒に生きるのはこれしかない。
蓋を開けて、一気に口の中へ流し込む。
「おい! やめろ!」
天魁の鋭い声がしたかと思えば、乱暴に後頭部を掴まれて、下を向かされた。間髪入れずに、そのまま天魁の唇で、藤乃の唇が塞がれた。
驚きのあまり口をわずかに開けたまま固まり、藤乃も人魚の血も天魁にされるがままの状態だった。思わず閉じた瞼を押し開けると、これまでにない至近距離で、射抜くような紺碧の瞳と目が合った。体ごと支配されるような感覚に、藤乃は天魁の服を縋るように握りしめる。
「……っ」
ようやく解放されて、藤乃は何度も肩で息をする。時間は、ほんの少しの間だったはずだった。でもとてつもなく長く感じた。
離れた天魁の唇の端に赤紫色が見えて、その妖艶さに見てはいけないものを見ているような気がした。
「甘い……?」
天魁が不思議そうに呟いた。
藤乃もわずかに口の中に残った血の味を確かめた。
「甘い……」
「これ、血じゃなくてぶどうジュースだな。……まったく、千世さんめ」
からかわれたらしいと天魁は小瓶を睨みつけた。一方、藤乃は放心状態だった。唯一の方法だと思ったのに、人魚の血ではなかった。
「そんな……」
「君は、なんて馬鹿なことを――」
「もうこれしか方法はないと思ったのです!」
天魁の言葉を遮って、藤乃は声を荒らげた。こんな風に声を出したのははじめてのことだ。でも、もう止まれなかった。
「天魁様と一緒にいたいです」
「だが、俺は君の幸せのために」
「わたしは天魁様の隣で、幸せになりたいのです」
藤乃の言葉に、天魁の目が大きく見開かれた。そして、テーブルに座ったままの藤乃を見上げて言った。
「人魚の血を飲む必要はない」
ともにいることを拒否されたのだと、藤乃の目頭が勝手に熱くなる。だが、続いた言葉にこぼれそうになった涙が引いた。
「俺の妖珠を渡せば、君はここで生きられる」
「ですが、それはタブーだと……」
「そうだ。妖珠を人に渡せばその人は妖に近くなる。寿命は妖と同じになるし、加護の力は妖力として強まる。タブーなのは、人を妖の世界に引き込むからだ」
天魁は試すような視線を藤乃に向ける。
「俺は、自らの意志で俺のもとに堕ちてきた者を離してやるつもりはない。……いいのか」
洋館で出会ったときのように、天魁は手を差し出した。
藤乃の座るテーブルから椅子に座る天魁まで、踊り場から飛び降りたときとは比べ物にならない、ほんの少しの高さだ。だが、それは人生が大きく変わる高さ。
「……」
藤乃は黙り込んで大きく息を吸って、そして吐いた。
迷ったわけではない。その事実を噛みしめ、受け入れただけだ。
「仰せの通りに、魁里様」
愛おしい妖の本当の名を呼んで、藤乃は天魁の腕の中に堕ちた。
「俺は言ったからな、離すつもりはないと。覚悟しろ」
「はい、ずっとお傍に」
藤乃は花が咲くような、満点の笑顔で頷いた。
ソファを囲む花畑のように、ハナミズキの花が咲き誇っている。ハナミズキの花言葉は『幸福』『永遠』そして、『わたしの想いを受け取って』。
翌日、藤乃と天魁は妖珠加工師である榛名の工房を訪れた。天魁の妖珠を藤乃のために加工してもらうためだ。
「天魁様の妖珠を加工できる日が来るなんて、感慨深いですね」
榛名は、パッと見はつり目で冷たい印象だが、笑うと可愛らしい女性だ。赤みの強い黒髪が肩まであり、綺麗に内側にカールしている。そして、耳には志摩や常盤と同じピアスがついているのが見えた。
天魁が人である藤乃へ妖珠を渡すという話をしたのだが、榛名はそう驚きはしなかった。
「珍しいこともあるものですね」
それだけ言って、どういう形がいいのかという現実的な話に切り替わった。さすが、志摩の幼馴染なだけある。
「藤乃さんは人なんで、妖珠が直接触れると影響が強すぎるかもしれません。千世さんみたいな舌ピアスとか絶対だめです」
千世のピアスのことを言うときだけ語気が強い気がする。もしかしたら、どの形にするかでかなり意見を戦わせたのかもしれない。藤乃としても、舌にピアスを付けるつもりはもちろんない。
「私の考えとしては簪がいいんじゃないかな、と思いますね。髪に付けるのなら、影響も少なくて徐々に妖に近づいていくって感じになるかと」
「ああ、任せる」
天魁は榛名の話を一通り聞いて、簪にすることを了承した。藤乃は自分の髪に簪を付ける姿を想像して、嬉しくなった。付けている間、ずっと天魁を傍に感じることができる。
「天魁様、志摩から聞いていますよ。ようやく妖珠の交換相手を見つけて、力も安定するだろうから安心だって」
「それに関しては心配をかけた、すまない」
妖力が強すぎる問題について、志摩から榛名にも共有されていたらしい。
「というか、十年くらい拗らせてたって」
「あいつ、いらないことまで……」
天魁はこの場にいない志摩へ毒づいた。帰ったらまた軽口の言い合いが繰り広げられるのだろうな、と想像できた。
「うんと大切にしないといけませんよ。こんなに可愛くて強い子、そうそういませんから」
「言われなくてもわかっている」
天魁は榛名の激励に、力強い声音で答えた。藤乃にも視線を向けて、頭を撫でた。充分、大切にしてもらっている。
「藤乃さん」
「はいっ」
唐突に榛名に名前を呼ばれて、藤乃はぴんと姿勢を伸ばして答えた。
「天魁様を、どうかよろしくお願いします」
「はい。お任せください。ずっとお傍にいます」
天魁は任せるとかは普通逆じゃないのかと、ぶつぶつ呟いていたが、嬉しそうに張り切るな藤乃を見て、天魁はまあいいかと笑った。
後日、榛名の手によって完成した簪を、藤乃は丁寧に身につけた。とんぼ玉を固定するのと同じように水晶のように輝く妖珠があり、細く上品なチェーンがしゃらりと揺れる。藤乃のまとめた髪に、天魁の妖珠がしっかりと存在している。
「ずっと、身につけておいてくれ」
「はい、もちろんでございます」
心を込めて頷いてから、藤乃ははたととても大事なことに気がついた。
「わたしから天魁様にお渡しできるものがありません」
妖珠は、本来お互いに交換するものなのに、藤乃は妖珠を持っていない。これでは交換にならないのでは、と途端に不安になる。
天魁は慌てることなく、藤乃の手を取った。そして、まるで物語の一部のように手の甲にそっと口付けを落とした。
「藤乃の、この先の“人”生をすべてもらったのだから、充分だ」
「天魁様……」
「君を俺のすべてを持って幸せにする。だから、俺から離れるな」
「はい。仰せの通りに」



