【第五章 白い菊は真実を語る】
小桃と友だちになってから一週間ほどが過ぎ、カフェでおしゃべりをして、帰りにはスイーツを買って屋敷に戻るということを何度もしていた。
市と綾は、毎回喜んで食べてくれる。ちなみに、天魁に強めに飛ばされたときは打ち身にはなっていたものの、数日で治ったらしい。
今日もスイーツをお土産に帰ってきたのだが、志摩が何やら微妙な顔をしてケーキの箱を見つめている。
「志摩さん、ケーキお嫌いですか」
「いえ、そんなことは」
志摩は慌てて顔の前で手を振るが、天魁がそれをじとーっと不満そうな顔で見た。そして、対照的に藤乃へにこにこと笑みを浮かべた。
「藤乃、志摩の分は俺が食べるから、一緒に食べるか」
「ですが……」
志摩は嫌いではないと言っているのに、いいのだろうかと藤乃は天魁と志摩を交互に見つめる。
「藤乃さんのお気遣いを無下にしたいわけではなくてですね……」
志摩が弁明するのを、天魁は黙って聞いていた。藤乃もそれに倣う。
「そのご友人は本当に信用できる妖なのかと、疑問を持っていまして」
「えっ……」
志摩の言葉に藤乃は息を飲んだ。小桃とは話していて楽しいし、何も不自然なところは見当たらないが、なにせ藤乃にとってはじめての友だちだ。おかしなところがあっても気付いていないだけかもしれない。
「こんなに天魁様の香りがしているのに近づいてくるなんて、長を標的にするため、藤乃さんが狙われているのではないかと」
「か、香りですか……?」
藤乃は自分の髪や腕に顔を近づけてみるが、香りなんてわからない。天魁を見れば、今度は天魁が気まずそうな表情で目を逸らした。
「は? 藤乃さんに言っていないんですか。馬鹿ですか」
「馬鹿とはなんだ」
言い返したものの、志摩のしらけた視線に天魁は渋々口を開いた。
「妖都で人の子がいると目立つから、俺が藤乃に触れて、狐に似た香りになるようにしていた。まあ、俺が人の子を連れてきたと噂になっているから、あまり意味はないがな」
天魁が藤乃によく触れていたのはそういう理由だったのかと驚いた。志摩から、意味がなくても言うべきでしょう、と苦言を呈されていたが、天魁はわざとらしくそっぽを向いた。
「義務として触れていると思われては心外だ。触れたくてそうしただけなんだからな」
「じゃあ、香りを移したのも後付けの言い訳でしょうが」
藤乃は天魁の言葉に、少しばかり混乱する。必要があるから触れていたのではなく、天魁自身が触れたいから触れたのだという。じわじわと藤乃の顔に熱が集まってくる。嬉しいと思ってしまうのは、いけないことだろうか。
「話が逸れたが、その友人が藤乃を利用して俺を狙っている可能性があると?」
「そのようなことはないと思いますが……」
小桃との会話の中で、天魁が出たことはないし、藤乃が住んでいるところや状況については聞いてこない。ただただ、美味しいお菓子のことや、可愛い髪型のこと、カフェでの仕事のことを話しているだけだ。
「俺も会ったことはないから、わからないな」
天魁にもそう言われてしまって、藤乃は肩を落とす。小桃はそんな子ではないと思うけれど、どう示したらいいかわからない。
天魁は安心させるように藤乃の頭を撫でて、からりと笑った。
「だから、ここに呼べばいいんじゃないか」
「よろしいのですか」
天魁を狙っているという可能性のことを話していたのに、その天魁の屋敷に呼ぶだなんて。
「何を言っているんですか。もし狙い通りだったらどうするんです」
「別にどうもしない。俺が負けるわけがない」
「それはまあ、そうですけど」
天魁の主張に、志摩は納得せざるを得なかった。強さを理解しているからこその発言で、藤乃は感嘆のため息をついた。
そして、あれよあれよと招待する日付が決まり、準備が進められた。
せっかく招待するのならと、藤乃はお菓子を作ることにした。いつもカフェで食べているから、こちらからも贈りたいと思ったのだ。
「あねさま、エプロンかわいい~」
「似合ってる~」
着物が汚れないように、フリルのついた可愛らしいエプロンを身につけている。天魁が用意してくれたもので、市と綾のための小さなものもある。
「なにをつくるの?」
「なにをつくるの?」
キッチンのテーブルに並んだ材料を見て、市と綾は同時に首を傾げた。並ぶのは、牛乳、卵、砂糖、そしてバニラエッセンスだ。
「プディングを作ります」
途端に、双子の顔が輝いた。二人は藤乃がカフェから持ち帰るスイーツの中でもプディングに目がないのだ。
「ここでつくれるの!」
「いつでも食べられる!」
期待に満ちた眼差しに、藤乃はたじろぎながらもぐっと拳を握った。
「作るのは初めてですけれど、頑張ります。市ちゃんも綾ちゃんも、一緒に頑張りましょうね」
「うん!」
「うん!」
まずは、レシピとにらめっこしながら、牛乳と砂糖を正確に計量する。ボウルに卵を割り入れるのは、市にお願いした。
「ううー、えいっ、えいっ」
普通にやると力が強くて卵を粉砕してしまうから、弱い力を意識してそっと割るのが難しいのだという。そうとは知らなかった藤乃は、代わると言ったのだが。
「いい! 市がやるもん」
鬼であり、力の強い志摩が料理を得意としているのはすごいことなのだな、と卵を割るのに苦労する市を見て思った。
次は、その卵をよくかき混ぜる。これは綾に任せた。泡立ててはいけないらしいので、こちらも力加減には気をつけていた。
「綾、できるよ。大丈夫」
藤乃はその間に牛乳を火にかける。砂糖を加えて、ゆっくりとかき混ぜながら溶かしていく。温まった牛乳を、卵のボウルに少しずつ加えていく。
「ゆっくり、でもしっかり混ぜてください」
「あねさまー、これ全部入れちゃって」
「ガッと混ぜたほうが早くない?」
少しずつしか進まない作業に、早くも飽きてきた二人が口を尖らせる。藤乃は可愛い仕草には流されずに諭した。
「だめです。お菓子は正確な計量と、丁寧な作業が大切だと小桃が言っていました。頑張りましょう」
「はーい」
「はーい」
二人は小さな拳を上げて、応えてくれた。
牛乳をすべて混ぜ終わったら、バニラエッセンスを加えて、茶こしで何度か濾す。用意したガラスの器にそっと注ぐ。ここまで来ると、プディングの形になってきて、二人の気分も乗ってきた。
「甘いにおい~」
「おいしそう~」
鍋にお湯を張り、器を慎重に並べていく。弱火でじっくりと蒸せば完成だ。
表面を少し触ると、弾力があり、プディングができあがったことがわかる。
「完成です!」
市と綾が大きく拍手をしてくれる。一刻も早く食べたいと顔に書いてあるが、粗熱を取ってから、冷蔵庫で冷やす必要がある。
藤乃はプディングを冷やしている間に、小桃を迎えに行くことにした。待ち合わせはいつものカフェの前だ。
「小桃、お待たせ」
「ううん、全然待ってないよ。藤乃の家に遊びに行けるなんて楽しみ。そういえば、今日は着物じゃん、可愛い」
エプロンの下には、淡い青色の着物を身に纏っていたのだ。これも天魁に選んでもらったもので、藤乃自身も気に入っている。
いつものように話しながら、天魁の屋敷へと歩いていく。妖都の入り口に近づくにつれて、小桃の顔がだんだんと強張ってきた。
「着いたよ」
そして、天魁の屋敷に到着して中に入ろうとしたら、小桃が玄関先で立ち尽くしてしまった。もしかして、志摩の言う通りなのかと、藤乃の中に不安がよぎる。
「長のお屋敷!? え、ちょっと待って、えっ」
混乱した様子で、小桃は畳みかける。
「藤乃が、噂の人の子!? 人の姿になるのがすっごい上手い狐なんだなーって思ってたんだけど! うっそ、待って、あたし場違いすぎない? 帰ったほうがよくない? 帰るわ」
一人で一気にしゃべると、小桃はそのまま踵を返して歩き出した。右手と右足が同時に出ていて、あまりの混乱ぶりに藤乃は小さく笑ってしまった。
「小桃、待って。大丈夫だから」
「でも、そこに長がいらっしゃるし……」
いつの間にか天魁と志摩が屋敷の中から、こちらの様子を窺っていた。
「鈍感なだけだったな。志摩、納得したか」
「あれを見ればさすがに。どうぞ、ゆっくりしていってください」
志摩が丁寧に頭を下げて、出迎えた。疑いは晴れたようで何よりだ。いまだに慌てている小桃の手を引いて、屋敷の中へ連れて入った。
部屋のほうが落ち着くだろうと、志摩は冷やしてあったプディングと紅茶を届けてくれた。ここまで来て、ようやく小桃は落ち着きを取り戻した。
「もう、ほんとにびっくりしたんだから。先に言っといてよー」
「ごめんなさい。街を歩くと人の子って言われるから、すぐにわかるものなのかと思っていたの」
「それ、隣に長がいたからじゃなの?」
そう問われて、藤乃は人の子と言われたときのことを思い出す。はじめて服屋に行ったときも、夜更かしをしたときも、他のときも、確かに天魁と一緒に歩いているときだったように思う。
「そうかも」
「ほらあ! 長が人の子を気に入っているって噂は聞いたことはあったけどさ、まさか友だちになった子がそうだとは思わないじゃん」
「嫌になった……?」
騙していたつもりはないが、小桃にとってはいきなり妖ではないと言われたのだから、気分を害したかもしれない。
「まさか! 藤乃は藤乃だし」
今までと何も変わらない笑顔で言われて、藤乃はほうっと長い息をついた。はじめての友だちが小桃でよかった。
「てかさ、そういうことなら、すっごく気になるんだけどさ」
一度言葉を切って、小桃は内緒話のように声を抑えて聞いてきた。
「もしかして、いいなって思う相手って長のこと!?」
小桃と妖珠を交換する相手、のことを話したときに、思わず天魁を思い浮かべたことを言っているのだとわかった。声に出したわけじゃなかったのに、小桃にはそう思う相手がいると見抜かれてしまったのだ。
藤乃がどう答えようか迷っていると、小桃は急に眉をひそめた。
「あれ、でも、人の子に妖珠を渡すのはタブーじゃなかったっけ……? いやでも、詳しくはあたしもわからないや」
「そうなのね……」
人の子が妖都に長くいること自体が珍しいと言っていた。妖珠を渡すなんてこと、起こり得ない。順番に考えればわかることだと、藤乃は自分を納得させた。
「ねえ、長とはどうやって出会ったの? 聞かせてよ」
藤乃は、婚約破棄をされてからのことをかいつまんで話した。小桃は見たこともない第二皇子へ怒りを露わにした。
「はあ? なにそれ、意味わかんないんだけど。そんなやつこっちからお断りだよ、ねえ?」
藤乃はどう答えていいかわからず、曖昧に頷いた。ただ、小桃が自分のことのように怒ってくれることは嬉しかった。
「そこで長が連れてきたんだ。じゃあ、出会って二か月くらいってことかー」
「そうなの。でも、もしかしたら、会ったことがあるのかもしれないの」
「どういうこと?」
小桃がこてんと首を傾げた。自分でも不思議なことを言っているのはわかっている。けれど、一度生じた疑問はなかなか消えない。
「小桃のことを話したら、『はじめての友だち』って言われたの。それに、花の加護のこともはじめから知っていたみたいだったし……」
「うーん、噂で聞いたとか?」
「……そうかも。ごめんなさい、変なことを言ってしまって」
真剣に考える小桃を見て、頭が冷えた気がした。藤乃の気にしすぎなだけだ、きっと。
「もし気になるなら、直接聞いてみたら?」
「うーん……」
「聞きづらいなら、お酒の力に頼ってみるとか?」
「お酒?」
藤乃はまだ年齢的にお酒を飲めない。小桃は藤乃の勘違いを察してすぐに言葉を続けた。
「恋人とか旦那さんは酔うと本音を話してくれるって、お客さんが話しているのと聞いたことがあるんだ」
「そうなのね」
藤乃はそれだけ呟いて、小さく頷いた。
そして、テーブルに置いたままになっているプディングに目をやった。
「おしゃべりに夢中で食べていなかったわ。どうぞ、召し上がれ」
「やった、じゃあ遠慮なく」
小桃はスプーンを手に取って、大きくすくいあげると口の中に運んだ。すぐに口元がにんまりと孤を描く。
「すっごく美味しい! 藤乃、天才じゃん」
「ありがとう」
藤乃も一緒にプディングを食べて、顔をほころばせた。たくさん作ったから、あとで天魁にも食べてもらいたい。
「今、長のこと考えたでしょ」
「えっ」
「藤乃、けっこう顔に出るんだね」
小桃ににやにやとしながら言われたが、藤乃はゆるく首を振った。
これまでの藤乃は、いつでも正しい微笑みをすることが普通だったが、今ではそれが息苦しかったのだとようやく気づけた。
「もしそうなら、それはきっと天魁様のおかげ」
「そっか」
小桃が楽しそうに答えた次の瞬間、部屋の扉がバーンと勢いよく開かれた。そこには、仁王立ちしている市と綾がいた。
「市もプディング食べるの!」
「綾もプディング食べるの!」
お客さんが来るからあとで食べようねと言っていたのだが、待ちきれなかったらしい。そして、二人の後ろにはなぜか千世もいる。
「プディングがあるからって二人にお誘いされたけど、お邪魔じゃないかしら?」
千世は頬に手を当てて、少し困ったように微笑んだ。
藤乃と小桃は顔を見合わせ、二人で頷き合った。
「女子会じゃん! 最高だよ」
「皆で食べましょう」
プディングを持ってこようと思ったら、すでに双子が人数分を揃えて持ってきていた。藤乃は三人が座れる場所を用意する。
「あらあら、私、女子なんて歳かしら」
そう言う千世を市と綾が手を引いて部屋の中に招き入れる。
皆がプディングを美味しそうに食べてくれて、藤乃は嬉しくなった。自分が作ったもので喜んでもらえるなんて、少し前には信じられないことだった。
「あたしがよく洋服を買うのはこのお店で、アクセサリーならここがいいよ」
小桃が普段身につけているものの買い物話をしていて、特に市と綾が興味津々で聞いている。
「千世さんはどこで買い物をすることが多いですか」
「そうねえ、わたしはよく帝都に行くわね。服や小物は可愛いものがあるし、美味しいお酒もあるし」
「帝都にですか」
藤乃は驚いて聞き返す。天魁もパーティーにはたまに顔を出すと言っていたが、日常の買い物にも行くことがあるのか。
「けっこう帝都に妖もいるのよ。年齢が上になるほど、慣れてきて人に近い姿を保てるのよ」
千世の言葉に、自然と視線が市と綾に集まる。まだ幼い二人は耳も尻尾も存在感がある。この姿で帝都にいたらさすがに目立ってしまう。
「これからだもん」
「これからだもん」
視線の意味に気がついて、二人は口を尖らせた。その拗ね方も幼さが前面に出ている可愛さだ。千世も小さく笑っている。
「ふふっ。でもね洋装なんてなかった時代には一緒に暮らしていたこともあったのよ。近代化と言われるようになって、次第に妖の住める場所は少なくなっていって、今の妖都の形になったわ」
以前の時代を知らない藤乃にとっては妖も一緒に暮らしていた頃のことは想像もできない。けれど、きっと素敵なのだろうとも思う。
「てか、はじめましてだけど、千世さんって帝都に買いに行くほどお酒好きなんだ。ふわふわな感じだから意外だった」
小桃が千世に対してそう言うと、千世はにっこりと笑って口を開けた。舌のピアスを見て、小桃はさらに驚いていた。その反応を見て、千世は楽しそうに笑っていた。
「ふふっ、新鮮な反応が可愛いわね~」
藤乃は先ほどから話題にお酒が出るたびに、小桃との会話が頭の中をちらついていた。藤乃は意を決して千世に尋ねる。
「あの、天魁様にお酒を贈りたいのですが、おすすめなものはありますか」
「あらあら、いいわね。プディングのお礼に持ってきてあげるわよ」
「そんな、これだけですし、悪いです」
千世は少し考えてから、ぴんと人差し指を立てた。
「じゃあ、前みたいにお花をもらえたら嬉しいわ。診療室にお花があるといいのよね」
「もちろんです」
話を聞いていた小桃が元気よく手を上げた。
「はい! あたしも欲しい! 桃の花がいいな。あ、でも藤乃の得意なやつでもあり。やっぱり藤の花が得意なの?」
名前からそう推測して小桃は言ったのだろう。だが、藤乃は眉を下げて首を横に振った。
「残念ながら、藤の花は一房しか出せないの」
「そうなんだ」
今度は双子が手を上げて主張をした。この流れなら言うことは同じだろう。
「市も」
「綾も」
「お花たくさんほしい!」
「花束作れるくらい!」
今日はプディング作りも手伝ってくれたから、双子の希望から聞いていくことにする。千世と小桃もそれでいいよと了承してくれた。
「どんな花がいいですか」
「じゃあ、すずらん!」
「じゃあ、すずらん!」
こういうときに二人の声がぴたりと一致するのを見ると、素直に感動を覚える。
二人の希望の鈴蘭の花言葉は『幸福が訪れる』だ。お守りを祈るように握りしめて、皆に幸福が訪れるように、たくさんの鈴蘭が咲き誇る様子を思い浮かべる。
――わっ
これまでと同じようにしたのに、力が溢れ出してくるのを感じた。藤乃自身でも止められないほどに。
突然のことに、皆の悲鳴が響き渡る。
「わーー!」
「きゃーー」
「あらあらまあまあ」
「わわわっ」
鈴蘭の花が大量に生み出されて、大洪水のように藤乃たちを飲み込んでいった。あっという間に部屋が鈴蘭の海のようになってしまった。むせ返るような花の香りに包まれる。
「どうした!」
悲鳴を聞きつけて、天魁が藤乃の部屋の扉を開けた。すると、逃げ場を見つけた鈴蘭がわあっと部屋の外に流れ出た。
「……ここは花畑ですか」
驚きと呆れの混ざったような志摩の声が聞こえた。
天魁と志摩が埋もれている藤乃たちを救出した。藤乃は天魁に軽々と持ち上げられた。そして、髪に付いた花びらをそっと摘まみ上げると、ふっと息で飛ばした。一連の動きに見惚れていた藤乃は、はっとして頭を下げた。
「申し訳ございません」
藤乃はこうなった経緯を天魁と志摩に説明した。
「市も綾も欲張りすぎた」
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
怒られた二人はしゅんとして謝った。いくらたくさんと希望されたからといって、実際に花を溢れさせたのは藤乃だ。
「わたしのせいで、本当に申し訳ございません」
「力が強まったのか」
「はい。理由はわかりませんが……」
天魁は顎に手を当てて考え込んだ。そして、推測だがと前置きをしてから話し出した。
「加護と呼ばれる君の力は、精神状態に比例すると言われている。感情の乱れを抑えた帝都での厳格な生活よりも、妖都での自由な生活で精神が安定したのだろう」
藤乃は自分の手をじっと見つめた。見た目には変化はないが、確かに藤乃に内側には明確に変化があった。感じたことを表に出すこと、今まで許されなかったたくさんのことに触れた。それらが藤乃の加護を強いものに変えたという。
「いい傾向だな」
自分のことのように嬉しそうに笑う天魁へ、藤乃は問いかけた。
「あの、天魁様」
「なんだ」
「どうして、天魁様はわたしの加護についてお詳しいのですか」
藤乃自身が知らなかった、わからなかったことを、どうして天魁が知っているのか、不思議だった。
「まあ、長く生きているからな」
さらりとそう返ってきた。だが、藤乃は見逃さなかった。天魁の表情の中に、焦りのようなものが覗いていた。
志摩が鈴蘭で埋まった部屋を見てからある提案をした。
「この鈴蘭の花は、妖都の皆に配るのがいいんじゃないでしょうか。天魁様の花嫁殿からの贈り物と言えば、きっと喜ぶでしょう」
「市が花束を作ってからにしてね!」
「綾が花束を作ってからにしてね!」
二人が楽しそうに鈴蘭を両手に抱え始めた。そんな様子を見て、天魁は苦笑した。
「お前たち、懲りていないのか」
えへへ、と笑う二人にその場がほっこりと和んだ。
数日後、プディングと花のお礼だと千世からお酒が屋敷に届けられた。ガラス瓶に黄金色のお酒がたっぷりと満ちている。それを持って、夜に藤乃は天魁の部屋を訪れた。
「千世さんからいただきました。飲みませんか」
「ああ、喜んで」
天魁は口端を上げて了承した。部屋を出て、藤乃の目の前に立った。藤乃は天魁を見上げて、どこに行くのかと首を傾げた。
「執務室にしよう。俺の部屋でもいいが、酔ったら安全を保障できないからな」
天魁は冗談なのか本気なのかよくわからない声音でそう言って、藤乃の頭を撫でた。藤乃は顔の熱を振り切るように黙ってこくこくと何度も頷き、執務室へ歩き出した天魁のあとに続いた。
執務室は、洋風の内装である。窓の近くに仕事をするためのデスクが置いてある。以前見たときにはここに山積みの書類があったが、今は綺麗に片付いている。手前にはテーブルとソファがあり、仕事の合間にはここで休憩をするのだと聞いた。
「座っていてくれ」
天魁は藤乃をソファに座らせると、グラスを二つ持って向かいのソファに腰掛けた。藤乃はグラスの一つにお酒を注ぐ。グラスを口元に運ぶ所作が綺麗で、藤乃はそっと見つめていた。
「ん、美味しいな。千世さん、なかなかいいものを持ってきたな」
「よかったです」
「君も少し飲むか?」
「いえ、まだ十八なので」
藤乃は首を横に振った。親戚の集まりでは付き合いだと十代でも飲む者もいたが、お酒は二十歳を越えてからと決まりができてからはそういうことも少なくなった。天魁は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに納得の表情を浮かべた。
「そうだったな。君がここにいることに慣れて、つい君がまだ飲めない歳なことを失念していた。すまない」
天魁は申し訳なさそうに言い、おもむろにソファから立ち上がった。戻ってきた天魁の手にはラムネの瓶があり、カランと涼やかな音を立てた。
「一人で飲むのは味気ないからな、これで付き合ってくれるか?」
「喜んで、仰せの通りに」
先ほどの天魁の返事を真似て、藤乃は頷いた。グラスに注がれるラムネは、よりしゅわしゅわとした泡が見えて、夜の妖都で飲んだものとは趣が異なる。確かに見た目だけなら、お酒のように見えて天魁と一緒に楽しめるだろう。
「では、いただきます」
カツンとグラス同士を合わせて、乾杯した。執務室にゆったりとした心地いい時間が流れる。
天魁のお酒が進んでいくうちに、少しずつ天魁の表情や仕草がゆるんでいくのがわかった。いつもより雰囲気が柔らかくて、甘くて目が合うたびに、藤乃はどこか緊張してしまう。
「あの、天魁様」
「ん、なんだ」
少し掠れた低い声で返事をされて、藤乃は目を逸らせないままに口を開いた。
「……天魁様の昔の話を聞かせていただけませんか」
以前、藤乃と会ったことがあるのかと聞きたかったのに、最後の一歩の勇気が出なくて、そんなことを聞いた。でも、天魁の昔話も聞きたいのは本当のことだ。彼のことをもっと知りたい。
天魁はくるくるとグラスをまわして、考える仕草をした。グラスに少し残ったお酒が揺れるのを藤乃はぼんやりと見つめる。
「そうだな。俺が長になったのは、十年と少し前のことだった」
藤乃にすればかなり前のことと感じるが、天魁を含めた妖たちにとってはごく最近の出来事なのではないか。なんとなく、天魁はずっと前から長なのだと思い込んでいた。
「俺は、元々は長になるつもりなどなかった」
「そうだったのですか」
藤乃はさらに驚いた。妖力が強い天魁は望んで長になったと思っていた。藤乃の反応に、天魁は小さく笑った。
「その日、妖都では長に勝負を仕掛けた妖がいたんだ。勝てば長になるというのは聞いただろう?」
藤乃がこくんと頷くと、天魁は話を続けた。
「妖都には大きな広場があってな、そこを通りがかったら勝負をしていた。鬼同士だったと思う。勝負をする二人を囲むように観客がたくさんいた。しばらく観戦したが、拮抗していて時間がかかりそうだったから、留まるか迷ったんだ」
当時を思い出すように天魁は目を細める。グラスにあるお酒をぐっと一気に飲み干した。
「そのとき、逸れた攻撃……確か投げられた街灯か何かだった。それが見ていた子どもに当たりそうになった」
「……っ」
藤乃はその様子を想像して、肩を震わせた。力の強い鬼同士の戦いで、その攻撃が当たればどうなるか、考えるだけで恐ろしい。
「俺は、とっさに子どもを庇いながら狐火で弾き飛ばした」
「その子は無事だったのですね」
想像の中の子どもが怪我をしたかったことで、藤乃はほっと息をついた。しかし、天魁の顔は曇っている。
「ああ、子どもは無事だった。だが、その狐火によって勝負をしていた双方を倒してしまったんだ」
「え……」
藤乃は思わず言葉を失った。力が拮抗していた二人の鬼をたった一度の狐火で倒してしまうなんて、天魁の強さがありありと伝わってきた。
「一番強いものが長になる。そういう決まりだ。だから、長は俺に決まってしまった」
「天魁様は、それをお望みではなかったのですね……」
天魁は自虐的な笑みで、『決まってしまった』と言った。本人が望んでいなかったことなど明らかだ。
「ああ。しかもそのあと、真剣勝負をぶち壊したと関係者なのか、観戦していた者か、その両方か、ともかく数十人がかりで襲われてな。……ただ、それで自分が強いことを知った。その人数を相手にして、俺が負ったのは腕の切り傷一つだった」
藤乃は、異様に渇く喉を潤すためにラムネを流し込んだ。息をするのも忘れて天魁の話に耳を傾ける。いくら酔っているからとはいえ、藤乃がこんな話を聞いてもいいのか、今更ながら不安になってくる。
「とはいえ、さすがに疲れて彼らを撒くために、夜の帝都に逃げ込んだ。――そのときだ。君と出会ったのは」
「えっ……」
藤乃ははじめ、何を言われたのか理解できなかった。勇気が出なくて聞けなかったその答えを突然出されて、かなり混乱した。
そんな藤乃を、天魁は慈しむように微笑んで見つめた。
「幼い君は、怪我をした俺に近づいてきて、大丈夫? と手に触れて声をかけた。そして、その小さな手から、鮮やかな黄色の花が生み出されるのを見た。後々調べて、それはキンセンカだと知った」
黄色のキンセンカの花言葉は『慈愛』だ。また、キンセンカは切り傷や火傷の応急処置としても使われる薬草の側面もある。
そこまで言われて、藤乃はだんだんと自分の中の記憶が鮮明になってきた。
「そのとき、はじめて力を使ったのだろう。混乱していたから、『綺麗な花だ、ありがとう』とゆっくり伝えれば落ち着いていった」
天魁は身を乗り出して、テーブル越しに親指で藤乃の頬に触れた。彼のよくやる触れ方だ。だが、もっと前にもそうされたことがある。藤乃の記憶の中から呼び起こされた。はじめて加護の力を使った夜のことを。
「ですが、天魁様のお姿とは、違いました……」
記憶の中にあるのは、五、六歳の藤乃よりも少し年上くらいの少年だったはすだ。目の前にいる天魁とは姿が違う。だが、その答えを聞く前にあれは天魁だったと藤乃の心が主張する。
「ああ。帝都に逃げ込んだときに変化で姿を変えたからな」
藤乃は深呼吸を繰り返して、徐々に天魁の話を飲み込もうとする。一方、天魁は独り言のように言葉を紡いでいく。
「……長になりたいと勝負を仕掛けた鬼は、帝都を攻撃し、支配下に置くことを主張していた。それでは、この優しい子が巻き込まれてしまう。それを防げるのなら、俺が長になる意味はあると思った」
天魁は、藤乃を強い眼差しでまっすぐに見つめ、宣誓をするように言った。
「長になるつもりはなかった。だが、なると決めたのは俺の意志だ」
天魁は空になったグラスに、自らお酒をついですぐに傾けてまた空にした。藤乃のグラスも空になっていて、天魁はラムネの瓶を新たに開けて注いだ。藤乃は促されてようやく口をつけた。
「ついでに話せば、君たちが加護と呼ぶ力は、妖に由来する」
口に含んだラムネを、藤乃は慌てて飲み込んだ。そんな話ははじめて聞いた。もう驚くことはないと思ったのに、まだ続くようだ。
「その昔は、妖は普通に人と暮らしていた。力を持つ人は祖先のどこかに妖がいるのだろう。妖の血が流れていても、力は眠ったままの人のほうが圧倒的に多い。だが、君は俺と出会い、触れたことで開化したんだろう」
「そう、だったのですか……」
藤乃は自分の手のひらをじっと見つめる。妖の血が流れていることにはピンと来ないが、天魁と出会って力が開化したことはなんとなく、そのときの記憶からも理解できた。
「俺のせいで、君の力が開化した。時代によってはその力は忌避されることもあった。だから、ずっと見守っていた」
天魁はまた、親指で藤乃の頬を撫でるように触れた。もしかして、藤乃の気づかないうちに何度も天魁に会っているのかもしれない。変化をしていたのだろうから、記憶を探してもきっと見つからない。
「今の帝都では力のことは『加護』と呼ばれ、貴重なものとされ、第二皇子の婚約者となった。幸せになることが約束されたも同然だったから、それでよかった。……よかった、はずだったんだ」
酔った天魁は、感情のままに言葉を吐き出しているように見える。これ以上聞いてしまったら、後戻りができない。そんな予感が藤乃の胸を締め付けるが、お酒で唇を濡らす天魁から目が離せない。
「見守るだけのつもりだった。君の人生に入るつもりはなかったんだ。だが、幸せになるはずの場で、婚約破棄をされて雨に濡れている君の姿を見て、居ても立っても居られなかった」
テーブルががたんと音を立てた。天魁が大きく身を乗り出して、両手で包み込むように藤乃の頬に触れた。グラスがコトリと倒れ、わずかに残ったラムネがテーブルの上を滑っていく。
「俺は、君が幸せであれば、それでいい」
くらくらするくらいに甘くて、それでいてまっすぐな言葉を正面から受け取って、藤乃は涙が出そうになった。
天魁に堕ちてこいと手を差し出された日から、いや本当はもっとずっと前から、藤乃が大切にされる理由が身に染みてわかった。
「あっ……」
藤乃の手から大輪の白い菊が生み出された。その花言葉は『真実』である。それを受け入れるには、藤乃はなんの準備もできていなかった。自分から知りたいと願っておきながら、なんて勝手なのだろう。
そっと、天魁の手のひらが藤乃から離れていった。いまだに触れられているかのように、頬が熱かった。
「わたし、部屋に戻ります。天魁様も、たくさんお飲みになったので、早めにおやすみください」
「藤乃」
呼び止められて、無視するわけにはいかず、藤乃はゆっくりと振り返った。
「俺はザルだ」
「え……」
藤乃は、何度目かわからないが、驚きで言葉をなくした。
ザル、とはお酒に強くて大量に飲んでも酔わない者のことを、調理道具のざるに例えて言う、そのザルのことだろうか。天魁のいつもと変わらない笑みを見て、藤乃はそれが正しいと理解した。
――では、さっきまでの天魁様は、まったく酔ってなどいない……?
藤乃は天魁から目を逸らせなかった。
「花嫁殿が、なにやら可愛らしい作戦を立てているようだったから、乗ってみたんだ」
「あの、申し訳――」
「謝ることはない。伏せていたことが多いのは俺のほうだ。むしろいい機会をくれた。君が聞きたかったことは聞けたか」
天魁の問いかけに、藤乃は俯くように頷いた。
「ならいい。さっきも言ったが、俺は君が幸せであればいい」
愛おしさを一切隠そうともしない顔で、天魁は藤乃を見つめた。
「おやすみ、藤乃」
小桃と友だちになってから一週間ほどが過ぎ、カフェでおしゃべりをして、帰りにはスイーツを買って屋敷に戻るということを何度もしていた。
市と綾は、毎回喜んで食べてくれる。ちなみに、天魁に強めに飛ばされたときは打ち身にはなっていたものの、数日で治ったらしい。
今日もスイーツをお土産に帰ってきたのだが、志摩が何やら微妙な顔をしてケーキの箱を見つめている。
「志摩さん、ケーキお嫌いですか」
「いえ、そんなことは」
志摩は慌てて顔の前で手を振るが、天魁がそれをじとーっと不満そうな顔で見た。そして、対照的に藤乃へにこにこと笑みを浮かべた。
「藤乃、志摩の分は俺が食べるから、一緒に食べるか」
「ですが……」
志摩は嫌いではないと言っているのに、いいのだろうかと藤乃は天魁と志摩を交互に見つめる。
「藤乃さんのお気遣いを無下にしたいわけではなくてですね……」
志摩が弁明するのを、天魁は黙って聞いていた。藤乃もそれに倣う。
「そのご友人は本当に信用できる妖なのかと、疑問を持っていまして」
「えっ……」
志摩の言葉に藤乃は息を飲んだ。小桃とは話していて楽しいし、何も不自然なところは見当たらないが、なにせ藤乃にとってはじめての友だちだ。おかしなところがあっても気付いていないだけかもしれない。
「こんなに天魁様の香りがしているのに近づいてくるなんて、長を標的にするため、藤乃さんが狙われているのではないかと」
「か、香りですか……?」
藤乃は自分の髪や腕に顔を近づけてみるが、香りなんてわからない。天魁を見れば、今度は天魁が気まずそうな表情で目を逸らした。
「は? 藤乃さんに言っていないんですか。馬鹿ですか」
「馬鹿とはなんだ」
言い返したものの、志摩のしらけた視線に天魁は渋々口を開いた。
「妖都で人の子がいると目立つから、俺が藤乃に触れて、狐に似た香りになるようにしていた。まあ、俺が人の子を連れてきたと噂になっているから、あまり意味はないがな」
天魁が藤乃によく触れていたのはそういう理由だったのかと驚いた。志摩から、意味がなくても言うべきでしょう、と苦言を呈されていたが、天魁はわざとらしくそっぽを向いた。
「義務として触れていると思われては心外だ。触れたくてそうしただけなんだからな」
「じゃあ、香りを移したのも後付けの言い訳でしょうが」
藤乃は天魁の言葉に、少しばかり混乱する。必要があるから触れていたのではなく、天魁自身が触れたいから触れたのだという。じわじわと藤乃の顔に熱が集まってくる。嬉しいと思ってしまうのは、いけないことだろうか。
「話が逸れたが、その友人が藤乃を利用して俺を狙っている可能性があると?」
「そのようなことはないと思いますが……」
小桃との会話の中で、天魁が出たことはないし、藤乃が住んでいるところや状況については聞いてこない。ただただ、美味しいお菓子のことや、可愛い髪型のこと、カフェでの仕事のことを話しているだけだ。
「俺も会ったことはないから、わからないな」
天魁にもそう言われてしまって、藤乃は肩を落とす。小桃はそんな子ではないと思うけれど、どう示したらいいかわからない。
天魁は安心させるように藤乃の頭を撫でて、からりと笑った。
「だから、ここに呼べばいいんじゃないか」
「よろしいのですか」
天魁を狙っているという可能性のことを話していたのに、その天魁の屋敷に呼ぶだなんて。
「何を言っているんですか。もし狙い通りだったらどうするんです」
「別にどうもしない。俺が負けるわけがない」
「それはまあ、そうですけど」
天魁の主張に、志摩は納得せざるを得なかった。強さを理解しているからこその発言で、藤乃は感嘆のため息をついた。
そして、あれよあれよと招待する日付が決まり、準備が進められた。
せっかく招待するのならと、藤乃はお菓子を作ることにした。いつもカフェで食べているから、こちらからも贈りたいと思ったのだ。
「あねさま、エプロンかわいい~」
「似合ってる~」
着物が汚れないように、フリルのついた可愛らしいエプロンを身につけている。天魁が用意してくれたもので、市と綾のための小さなものもある。
「なにをつくるの?」
「なにをつくるの?」
キッチンのテーブルに並んだ材料を見て、市と綾は同時に首を傾げた。並ぶのは、牛乳、卵、砂糖、そしてバニラエッセンスだ。
「プディングを作ります」
途端に、双子の顔が輝いた。二人は藤乃がカフェから持ち帰るスイーツの中でもプディングに目がないのだ。
「ここでつくれるの!」
「いつでも食べられる!」
期待に満ちた眼差しに、藤乃はたじろぎながらもぐっと拳を握った。
「作るのは初めてですけれど、頑張ります。市ちゃんも綾ちゃんも、一緒に頑張りましょうね」
「うん!」
「うん!」
まずは、レシピとにらめっこしながら、牛乳と砂糖を正確に計量する。ボウルに卵を割り入れるのは、市にお願いした。
「ううー、えいっ、えいっ」
普通にやると力が強くて卵を粉砕してしまうから、弱い力を意識してそっと割るのが難しいのだという。そうとは知らなかった藤乃は、代わると言ったのだが。
「いい! 市がやるもん」
鬼であり、力の強い志摩が料理を得意としているのはすごいことなのだな、と卵を割るのに苦労する市を見て思った。
次は、その卵をよくかき混ぜる。これは綾に任せた。泡立ててはいけないらしいので、こちらも力加減には気をつけていた。
「綾、できるよ。大丈夫」
藤乃はその間に牛乳を火にかける。砂糖を加えて、ゆっくりとかき混ぜながら溶かしていく。温まった牛乳を、卵のボウルに少しずつ加えていく。
「ゆっくり、でもしっかり混ぜてください」
「あねさまー、これ全部入れちゃって」
「ガッと混ぜたほうが早くない?」
少しずつしか進まない作業に、早くも飽きてきた二人が口を尖らせる。藤乃は可愛い仕草には流されずに諭した。
「だめです。お菓子は正確な計量と、丁寧な作業が大切だと小桃が言っていました。頑張りましょう」
「はーい」
「はーい」
二人は小さな拳を上げて、応えてくれた。
牛乳をすべて混ぜ終わったら、バニラエッセンスを加えて、茶こしで何度か濾す。用意したガラスの器にそっと注ぐ。ここまで来ると、プディングの形になってきて、二人の気分も乗ってきた。
「甘いにおい~」
「おいしそう~」
鍋にお湯を張り、器を慎重に並べていく。弱火でじっくりと蒸せば完成だ。
表面を少し触ると、弾力があり、プディングができあがったことがわかる。
「完成です!」
市と綾が大きく拍手をしてくれる。一刻も早く食べたいと顔に書いてあるが、粗熱を取ってから、冷蔵庫で冷やす必要がある。
藤乃はプディングを冷やしている間に、小桃を迎えに行くことにした。待ち合わせはいつものカフェの前だ。
「小桃、お待たせ」
「ううん、全然待ってないよ。藤乃の家に遊びに行けるなんて楽しみ。そういえば、今日は着物じゃん、可愛い」
エプロンの下には、淡い青色の着物を身に纏っていたのだ。これも天魁に選んでもらったもので、藤乃自身も気に入っている。
いつものように話しながら、天魁の屋敷へと歩いていく。妖都の入り口に近づくにつれて、小桃の顔がだんだんと強張ってきた。
「着いたよ」
そして、天魁の屋敷に到着して中に入ろうとしたら、小桃が玄関先で立ち尽くしてしまった。もしかして、志摩の言う通りなのかと、藤乃の中に不安がよぎる。
「長のお屋敷!? え、ちょっと待って、えっ」
混乱した様子で、小桃は畳みかける。
「藤乃が、噂の人の子!? 人の姿になるのがすっごい上手い狐なんだなーって思ってたんだけど! うっそ、待って、あたし場違いすぎない? 帰ったほうがよくない? 帰るわ」
一人で一気にしゃべると、小桃はそのまま踵を返して歩き出した。右手と右足が同時に出ていて、あまりの混乱ぶりに藤乃は小さく笑ってしまった。
「小桃、待って。大丈夫だから」
「でも、そこに長がいらっしゃるし……」
いつの間にか天魁と志摩が屋敷の中から、こちらの様子を窺っていた。
「鈍感なだけだったな。志摩、納得したか」
「あれを見ればさすがに。どうぞ、ゆっくりしていってください」
志摩が丁寧に頭を下げて、出迎えた。疑いは晴れたようで何よりだ。いまだに慌てている小桃の手を引いて、屋敷の中へ連れて入った。
部屋のほうが落ち着くだろうと、志摩は冷やしてあったプディングと紅茶を届けてくれた。ここまで来て、ようやく小桃は落ち着きを取り戻した。
「もう、ほんとにびっくりしたんだから。先に言っといてよー」
「ごめんなさい。街を歩くと人の子って言われるから、すぐにわかるものなのかと思っていたの」
「それ、隣に長がいたからじゃなの?」
そう問われて、藤乃は人の子と言われたときのことを思い出す。はじめて服屋に行ったときも、夜更かしをしたときも、他のときも、確かに天魁と一緒に歩いているときだったように思う。
「そうかも」
「ほらあ! 長が人の子を気に入っているって噂は聞いたことはあったけどさ、まさか友だちになった子がそうだとは思わないじゃん」
「嫌になった……?」
騙していたつもりはないが、小桃にとってはいきなり妖ではないと言われたのだから、気分を害したかもしれない。
「まさか! 藤乃は藤乃だし」
今までと何も変わらない笑顔で言われて、藤乃はほうっと長い息をついた。はじめての友だちが小桃でよかった。
「てかさ、そういうことなら、すっごく気になるんだけどさ」
一度言葉を切って、小桃は内緒話のように声を抑えて聞いてきた。
「もしかして、いいなって思う相手って長のこと!?」
小桃と妖珠を交換する相手、のことを話したときに、思わず天魁を思い浮かべたことを言っているのだとわかった。声に出したわけじゃなかったのに、小桃にはそう思う相手がいると見抜かれてしまったのだ。
藤乃がどう答えようか迷っていると、小桃は急に眉をひそめた。
「あれ、でも、人の子に妖珠を渡すのはタブーじゃなかったっけ……? いやでも、詳しくはあたしもわからないや」
「そうなのね……」
人の子が妖都に長くいること自体が珍しいと言っていた。妖珠を渡すなんてこと、起こり得ない。順番に考えればわかることだと、藤乃は自分を納得させた。
「ねえ、長とはどうやって出会ったの? 聞かせてよ」
藤乃は、婚約破棄をされてからのことをかいつまんで話した。小桃は見たこともない第二皇子へ怒りを露わにした。
「はあ? なにそれ、意味わかんないんだけど。そんなやつこっちからお断りだよ、ねえ?」
藤乃はどう答えていいかわからず、曖昧に頷いた。ただ、小桃が自分のことのように怒ってくれることは嬉しかった。
「そこで長が連れてきたんだ。じゃあ、出会って二か月くらいってことかー」
「そうなの。でも、もしかしたら、会ったことがあるのかもしれないの」
「どういうこと?」
小桃がこてんと首を傾げた。自分でも不思議なことを言っているのはわかっている。けれど、一度生じた疑問はなかなか消えない。
「小桃のことを話したら、『はじめての友だち』って言われたの。それに、花の加護のこともはじめから知っていたみたいだったし……」
「うーん、噂で聞いたとか?」
「……そうかも。ごめんなさい、変なことを言ってしまって」
真剣に考える小桃を見て、頭が冷えた気がした。藤乃の気にしすぎなだけだ、きっと。
「もし気になるなら、直接聞いてみたら?」
「うーん……」
「聞きづらいなら、お酒の力に頼ってみるとか?」
「お酒?」
藤乃はまだ年齢的にお酒を飲めない。小桃は藤乃の勘違いを察してすぐに言葉を続けた。
「恋人とか旦那さんは酔うと本音を話してくれるって、お客さんが話しているのと聞いたことがあるんだ」
「そうなのね」
藤乃はそれだけ呟いて、小さく頷いた。
そして、テーブルに置いたままになっているプディングに目をやった。
「おしゃべりに夢中で食べていなかったわ。どうぞ、召し上がれ」
「やった、じゃあ遠慮なく」
小桃はスプーンを手に取って、大きくすくいあげると口の中に運んだ。すぐに口元がにんまりと孤を描く。
「すっごく美味しい! 藤乃、天才じゃん」
「ありがとう」
藤乃も一緒にプディングを食べて、顔をほころばせた。たくさん作ったから、あとで天魁にも食べてもらいたい。
「今、長のこと考えたでしょ」
「えっ」
「藤乃、けっこう顔に出るんだね」
小桃ににやにやとしながら言われたが、藤乃はゆるく首を振った。
これまでの藤乃は、いつでも正しい微笑みをすることが普通だったが、今ではそれが息苦しかったのだとようやく気づけた。
「もしそうなら、それはきっと天魁様のおかげ」
「そっか」
小桃が楽しそうに答えた次の瞬間、部屋の扉がバーンと勢いよく開かれた。そこには、仁王立ちしている市と綾がいた。
「市もプディング食べるの!」
「綾もプディング食べるの!」
お客さんが来るからあとで食べようねと言っていたのだが、待ちきれなかったらしい。そして、二人の後ろにはなぜか千世もいる。
「プディングがあるからって二人にお誘いされたけど、お邪魔じゃないかしら?」
千世は頬に手を当てて、少し困ったように微笑んだ。
藤乃と小桃は顔を見合わせ、二人で頷き合った。
「女子会じゃん! 最高だよ」
「皆で食べましょう」
プディングを持ってこようと思ったら、すでに双子が人数分を揃えて持ってきていた。藤乃は三人が座れる場所を用意する。
「あらあら、私、女子なんて歳かしら」
そう言う千世を市と綾が手を引いて部屋の中に招き入れる。
皆がプディングを美味しそうに食べてくれて、藤乃は嬉しくなった。自分が作ったもので喜んでもらえるなんて、少し前には信じられないことだった。
「あたしがよく洋服を買うのはこのお店で、アクセサリーならここがいいよ」
小桃が普段身につけているものの買い物話をしていて、特に市と綾が興味津々で聞いている。
「千世さんはどこで買い物をすることが多いですか」
「そうねえ、わたしはよく帝都に行くわね。服や小物は可愛いものがあるし、美味しいお酒もあるし」
「帝都にですか」
藤乃は驚いて聞き返す。天魁もパーティーにはたまに顔を出すと言っていたが、日常の買い物にも行くことがあるのか。
「けっこう帝都に妖もいるのよ。年齢が上になるほど、慣れてきて人に近い姿を保てるのよ」
千世の言葉に、自然と視線が市と綾に集まる。まだ幼い二人は耳も尻尾も存在感がある。この姿で帝都にいたらさすがに目立ってしまう。
「これからだもん」
「これからだもん」
視線の意味に気がついて、二人は口を尖らせた。その拗ね方も幼さが前面に出ている可愛さだ。千世も小さく笑っている。
「ふふっ。でもね洋装なんてなかった時代には一緒に暮らしていたこともあったのよ。近代化と言われるようになって、次第に妖の住める場所は少なくなっていって、今の妖都の形になったわ」
以前の時代を知らない藤乃にとっては妖も一緒に暮らしていた頃のことは想像もできない。けれど、きっと素敵なのだろうとも思う。
「てか、はじめましてだけど、千世さんって帝都に買いに行くほどお酒好きなんだ。ふわふわな感じだから意外だった」
小桃が千世に対してそう言うと、千世はにっこりと笑って口を開けた。舌のピアスを見て、小桃はさらに驚いていた。その反応を見て、千世は楽しそうに笑っていた。
「ふふっ、新鮮な反応が可愛いわね~」
藤乃は先ほどから話題にお酒が出るたびに、小桃との会話が頭の中をちらついていた。藤乃は意を決して千世に尋ねる。
「あの、天魁様にお酒を贈りたいのですが、おすすめなものはありますか」
「あらあら、いいわね。プディングのお礼に持ってきてあげるわよ」
「そんな、これだけですし、悪いです」
千世は少し考えてから、ぴんと人差し指を立てた。
「じゃあ、前みたいにお花をもらえたら嬉しいわ。診療室にお花があるといいのよね」
「もちろんです」
話を聞いていた小桃が元気よく手を上げた。
「はい! あたしも欲しい! 桃の花がいいな。あ、でも藤乃の得意なやつでもあり。やっぱり藤の花が得意なの?」
名前からそう推測して小桃は言ったのだろう。だが、藤乃は眉を下げて首を横に振った。
「残念ながら、藤の花は一房しか出せないの」
「そうなんだ」
今度は双子が手を上げて主張をした。この流れなら言うことは同じだろう。
「市も」
「綾も」
「お花たくさんほしい!」
「花束作れるくらい!」
今日はプディング作りも手伝ってくれたから、双子の希望から聞いていくことにする。千世と小桃もそれでいいよと了承してくれた。
「どんな花がいいですか」
「じゃあ、すずらん!」
「じゃあ、すずらん!」
こういうときに二人の声がぴたりと一致するのを見ると、素直に感動を覚える。
二人の希望の鈴蘭の花言葉は『幸福が訪れる』だ。お守りを祈るように握りしめて、皆に幸福が訪れるように、たくさんの鈴蘭が咲き誇る様子を思い浮かべる。
――わっ
これまでと同じようにしたのに、力が溢れ出してくるのを感じた。藤乃自身でも止められないほどに。
突然のことに、皆の悲鳴が響き渡る。
「わーー!」
「きゃーー」
「あらあらまあまあ」
「わわわっ」
鈴蘭の花が大量に生み出されて、大洪水のように藤乃たちを飲み込んでいった。あっという間に部屋が鈴蘭の海のようになってしまった。むせ返るような花の香りに包まれる。
「どうした!」
悲鳴を聞きつけて、天魁が藤乃の部屋の扉を開けた。すると、逃げ場を見つけた鈴蘭がわあっと部屋の外に流れ出た。
「……ここは花畑ですか」
驚きと呆れの混ざったような志摩の声が聞こえた。
天魁と志摩が埋もれている藤乃たちを救出した。藤乃は天魁に軽々と持ち上げられた。そして、髪に付いた花びらをそっと摘まみ上げると、ふっと息で飛ばした。一連の動きに見惚れていた藤乃は、はっとして頭を下げた。
「申し訳ございません」
藤乃はこうなった経緯を天魁と志摩に説明した。
「市も綾も欲張りすぎた」
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
怒られた二人はしゅんとして謝った。いくらたくさんと希望されたからといって、実際に花を溢れさせたのは藤乃だ。
「わたしのせいで、本当に申し訳ございません」
「力が強まったのか」
「はい。理由はわかりませんが……」
天魁は顎に手を当てて考え込んだ。そして、推測だがと前置きをしてから話し出した。
「加護と呼ばれる君の力は、精神状態に比例すると言われている。感情の乱れを抑えた帝都での厳格な生活よりも、妖都での自由な生活で精神が安定したのだろう」
藤乃は自分の手をじっと見つめた。見た目には変化はないが、確かに藤乃に内側には明確に変化があった。感じたことを表に出すこと、今まで許されなかったたくさんのことに触れた。それらが藤乃の加護を強いものに変えたという。
「いい傾向だな」
自分のことのように嬉しそうに笑う天魁へ、藤乃は問いかけた。
「あの、天魁様」
「なんだ」
「どうして、天魁様はわたしの加護についてお詳しいのですか」
藤乃自身が知らなかった、わからなかったことを、どうして天魁が知っているのか、不思議だった。
「まあ、長く生きているからな」
さらりとそう返ってきた。だが、藤乃は見逃さなかった。天魁の表情の中に、焦りのようなものが覗いていた。
志摩が鈴蘭で埋まった部屋を見てからある提案をした。
「この鈴蘭の花は、妖都の皆に配るのがいいんじゃないでしょうか。天魁様の花嫁殿からの贈り物と言えば、きっと喜ぶでしょう」
「市が花束を作ってからにしてね!」
「綾が花束を作ってからにしてね!」
二人が楽しそうに鈴蘭を両手に抱え始めた。そんな様子を見て、天魁は苦笑した。
「お前たち、懲りていないのか」
えへへ、と笑う二人にその場がほっこりと和んだ。
数日後、プディングと花のお礼だと千世からお酒が屋敷に届けられた。ガラス瓶に黄金色のお酒がたっぷりと満ちている。それを持って、夜に藤乃は天魁の部屋を訪れた。
「千世さんからいただきました。飲みませんか」
「ああ、喜んで」
天魁は口端を上げて了承した。部屋を出て、藤乃の目の前に立った。藤乃は天魁を見上げて、どこに行くのかと首を傾げた。
「執務室にしよう。俺の部屋でもいいが、酔ったら安全を保障できないからな」
天魁は冗談なのか本気なのかよくわからない声音でそう言って、藤乃の頭を撫でた。藤乃は顔の熱を振り切るように黙ってこくこくと何度も頷き、執務室へ歩き出した天魁のあとに続いた。
執務室は、洋風の内装である。窓の近くに仕事をするためのデスクが置いてある。以前見たときにはここに山積みの書類があったが、今は綺麗に片付いている。手前にはテーブルとソファがあり、仕事の合間にはここで休憩をするのだと聞いた。
「座っていてくれ」
天魁は藤乃をソファに座らせると、グラスを二つ持って向かいのソファに腰掛けた。藤乃はグラスの一つにお酒を注ぐ。グラスを口元に運ぶ所作が綺麗で、藤乃はそっと見つめていた。
「ん、美味しいな。千世さん、なかなかいいものを持ってきたな」
「よかったです」
「君も少し飲むか?」
「いえ、まだ十八なので」
藤乃は首を横に振った。親戚の集まりでは付き合いだと十代でも飲む者もいたが、お酒は二十歳を越えてからと決まりができてからはそういうことも少なくなった。天魁は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに納得の表情を浮かべた。
「そうだったな。君がここにいることに慣れて、つい君がまだ飲めない歳なことを失念していた。すまない」
天魁は申し訳なさそうに言い、おもむろにソファから立ち上がった。戻ってきた天魁の手にはラムネの瓶があり、カランと涼やかな音を立てた。
「一人で飲むのは味気ないからな、これで付き合ってくれるか?」
「喜んで、仰せの通りに」
先ほどの天魁の返事を真似て、藤乃は頷いた。グラスに注がれるラムネは、よりしゅわしゅわとした泡が見えて、夜の妖都で飲んだものとは趣が異なる。確かに見た目だけなら、お酒のように見えて天魁と一緒に楽しめるだろう。
「では、いただきます」
カツンとグラス同士を合わせて、乾杯した。執務室にゆったりとした心地いい時間が流れる。
天魁のお酒が進んでいくうちに、少しずつ天魁の表情や仕草がゆるんでいくのがわかった。いつもより雰囲気が柔らかくて、甘くて目が合うたびに、藤乃はどこか緊張してしまう。
「あの、天魁様」
「ん、なんだ」
少し掠れた低い声で返事をされて、藤乃は目を逸らせないままに口を開いた。
「……天魁様の昔の話を聞かせていただけませんか」
以前、藤乃と会ったことがあるのかと聞きたかったのに、最後の一歩の勇気が出なくて、そんなことを聞いた。でも、天魁の昔話も聞きたいのは本当のことだ。彼のことをもっと知りたい。
天魁はくるくるとグラスをまわして、考える仕草をした。グラスに少し残ったお酒が揺れるのを藤乃はぼんやりと見つめる。
「そうだな。俺が長になったのは、十年と少し前のことだった」
藤乃にすればかなり前のことと感じるが、天魁を含めた妖たちにとってはごく最近の出来事なのではないか。なんとなく、天魁はずっと前から長なのだと思い込んでいた。
「俺は、元々は長になるつもりなどなかった」
「そうだったのですか」
藤乃はさらに驚いた。妖力が強い天魁は望んで長になったと思っていた。藤乃の反応に、天魁は小さく笑った。
「その日、妖都では長に勝負を仕掛けた妖がいたんだ。勝てば長になるというのは聞いただろう?」
藤乃がこくんと頷くと、天魁は話を続けた。
「妖都には大きな広場があってな、そこを通りがかったら勝負をしていた。鬼同士だったと思う。勝負をする二人を囲むように観客がたくさんいた。しばらく観戦したが、拮抗していて時間がかかりそうだったから、留まるか迷ったんだ」
当時を思い出すように天魁は目を細める。グラスにあるお酒をぐっと一気に飲み干した。
「そのとき、逸れた攻撃……確か投げられた街灯か何かだった。それが見ていた子どもに当たりそうになった」
「……っ」
藤乃はその様子を想像して、肩を震わせた。力の強い鬼同士の戦いで、その攻撃が当たればどうなるか、考えるだけで恐ろしい。
「俺は、とっさに子どもを庇いながら狐火で弾き飛ばした」
「その子は無事だったのですね」
想像の中の子どもが怪我をしたかったことで、藤乃はほっと息をついた。しかし、天魁の顔は曇っている。
「ああ、子どもは無事だった。だが、その狐火によって勝負をしていた双方を倒してしまったんだ」
「え……」
藤乃は思わず言葉を失った。力が拮抗していた二人の鬼をたった一度の狐火で倒してしまうなんて、天魁の強さがありありと伝わってきた。
「一番強いものが長になる。そういう決まりだ。だから、長は俺に決まってしまった」
「天魁様は、それをお望みではなかったのですね……」
天魁は自虐的な笑みで、『決まってしまった』と言った。本人が望んでいなかったことなど明らかだ。
「ああ。しかもそのあと、真剣勝負をぶち壊したと関係者なのか、観戦していた者か、その両方か、ともかく数十人がかりで襲われてな。……ただ、それで自分が強いことを知った。その人数を相手にして、俺が負ったのは腕の切り傷一つだった」
藤乃は、異様に渇く喉を潤すためにラムネを流し込んだ。息をするのも忘れて天魁の話に耳を傾ける。いくら酔っているからとはいえ、藤乃がこんな話を聞いてもいいのか、今更ながら不安になってくる。
「とはいえ、さすがに疲れて彼らを撒くために、夜の帝都に逃げ込んだ。――そのときだ。君と出会ったのは」
「えっ……」
藤乃ははじめ、何を言われたのか理解できなかった。勇気が出なくて聞けなかったその答えを突然出されて、かなり混乱した。
そんな藤乃を、天魁は慈しむように微笑んで見つめた。
「幼い君は、怪我をした俺に近づいてきて、大丈夫? と手に触れて声をかけた。そして、その小さな手から、鮮やかな黄色の花が生み出されるのを見た。後々調べて、それはキンセンカだと知った」
黄色のキンセンカの花言葉は『慈愛』だ。また、キンセンカは切り傷や火傷の応急処置としても使われる薬草の側面もある。
そこまで言われて、藤乃はだんだんと自分の中の記憶が鮮明になってきた。
「そのとき、はじめて力を使ったのだろう。混乱していたから、『綺麗な花だ、ありがとう』とゆっくり伝えれば落ち着いていった」
天魁は身を乗り出して、テーブル越しに親指で藤乃の頬に触れた。彼のよくやる触れ方だ。だが、もっと前にもそうされたことがある。藤乃の記憶の中から呼び起こされた。はじめて加護の力を使った夜のことを。
「ですが、天魁様のお姿とは、違いました……」
記憶の中にあるのは、五、六歳の藤乃よりも少し年上くらいの少年だったはすだ。目の前にいる天魁とは姿が違う。だが、その答えを聞く前にあれは天魁だったと藤乃の心が主張する。
「ああ。帝都に逃げ込んだときに変化で姿を変えたからな」
藤乃は深呼吸を繰り返して、徐々に天魁の話を飲み込もうとする。一方、天魁は独り言のように言葉を紡いでいく。
「……長になりたいと勝負を仕掛けた鬼は、帝都を攻撃し、支配下に置くことを主張していた。それでは、この優しい子が巻き込まれてしまう。それを防げるのなら、俺が長になる意味はあると思った」
天魁は、藤乃を強い眼差しでまっすぐに見つめ、宣誓をするように言った。
「長になるつもりはなかった。だが、なると決めたのは俺の意志だ」
天魁は空になったグラスに、自らお酒をついですぐに傾けてまた空にした。藤乃のグラスも空になっていて、天魁はラムネの瓶を新たに開けて注いだ。藤乃は促されてようやく口をつけた。
「ついでに話せば、君たちが加護と呼ぶ力は、妖に由来する」
口に含んだラムネを、藤乃は慌てて飲み込んだ。そんな話ははじめて聞いた。もう驚くことはないと思ったのに、まだ続くようだ。
「その昔は、妖は普通に人と暮らしていた。力を持つ人は祖先のどこかに妖がいるのだろう。妖の血が流れていても、力は眠ったままの人のほうが圧倒的に多い。だが、君は俺と出会い、触れたことで開化したんだろう」
「そう、だったのですか……」
藤乃は自分の手のひらをじっと見つめる。妖の血が流れていることにはピンと来ないが、天魁と出会って力が開化したことはなんとなく、そのときの記憶からも理解できた。
「俺のせいで、君の力が開化した。時代によってはその力は忌避されることもあった。だから、ずっと見守っていた」
天魁はまた、親指で藤乃の頬を撫でるように触れた。もしかして、藤乃の気づかないうちに何度も天魁に会っているのかもしれない。変化をしていたのだろうから、記憶を探してもきっと見つからない。
「今の帝都では力のことは『加護』と呼ばれ、貴重なものとされ、第二皇子の婚約者となった。幸せになることが約束されたも同然だったから、それでよかった。……よかった、はずだったんだ」
酔った天魁は、感情のままに言葉を吐き出しているように見える。これ以上聞いてしまったら、後戻りができない。そんな予感が藤乃の胸を締め付けるが、お酒で唇を濡らす天魁から目が離せない。
「見守るだけのつもりだった。君の人生に入るつもりはなかったんだ。だが、幸せになるはずの場で、婚約破棄をされて雨に濡れている君の姿を見て、居ても立っても居られなかった」
テーブルががたんと音を立てた。天魁が大きく身を乗り出して、両手で包み込むように藤乃の頬に触れた。グラスがコトリと倒れ、わずかに残ったラムネがテーブルの上を滑っていく。
「俺は、君が幸せであれば、それでいい」
くらくらするくらいに甘くて、それでいてまっすぐな言葉を正面から受け取って、藤乃は涙が出そうになった。
天魁に堕ちてこいと手を差し出された日から、いや本当はもっとずっと前から、藤乃が大切にされる理由が身に染みてわかった。
「あっ……」
藤乃の手から大輪の白い菊が生み出された。その花言葉は『真実』である。それを受け入れるには、藤乃はなんの準備もできていなかった。自分から知りたいと願っておきながら、なんて勝手なのだろう。
そっと、天魁の手のひらが藤乃から離れていった。いまだに触れられているかのように、頬が熱かった。
「わたし、部屋に戻ります。天魁様も、たくさんお飲みになったので、早めにおやすみください」
「藤乃」
呼び止められて、無視するわけにはいかず、藤乃はゆっくりと振り返った。
「俺はザルだ」
「え……」
藤乃は、何度目かわからないが、驚きで言葉をなくした。
ザル、とはお酒に強くて大量に飲んでも酔わない者のことを、調理道具のざるに例えて言う、そのザルのことだろうか。天魁のいつもと変わらない笑みを見て、藤乃はそれが正しいと理解した。
――では、さっきまでの天魁様は、まったく酔ってなどいない……?
藤乃は天魁から目を逸らせなかった。
「花嫁殿が、なにやら可愛らしい作戦を立てているようだったから、乗ってみたんだ」
「あの、申し訳――」
「謝ることはない。伏せていたことが多いのは俺のほうだ。むしろいい機会をくれた。君が聞きたかったことは聞けたか」
天魁の問いかけに、藤乃は俯くように頷いた。
「ならいい。さっきも言ったが、俺は君が幸せであればいい」
愛おしさを一切隠そうともしない顔で、天魁は藤乃を見つめた。
「おやすみ、藤乃」



