【第三章 睡蓮は信頼の証】
藤乃が妖都へ来て数週間が経った。
天魁とともに朝食を食べることにも慣れてきた。ちなみに双子は昨日夜更かしをしたらしく、まだ起きてこない。
「手紙です」
志摩が天魁に手紙を差し出す。天魁はすぐに中身を確認して、苦いものを食べたかのような表情になった。今日の朝ごはんは洋風にトーストとオムレツ、ヨーグルトというメニューで苦いものはない。
「どうされたのですか」
「厄介なものが届いた」
天魁は藤乃に手紙を渡してきた。読んでもいいということなのだろう。藤乃はすばやく目を通して、天魁に視線を戻した。
「これは……」
「帝都の第二皇子からのパーティーの招待状だ。しかも、今夜のな。舐められたものだ」
パーティーの招待状は数週間から遅くとも一週間前には送るものだ。当日に送りつけるなんて、礼を欠いている。
それに、妖都と帝都がそこまで交流があるとは知らなかった。不可侵の協定があるはずなのに。
「妖都の方が、帝都のパーティーに行かれるのですか」
「ああ。不可侵といっても互いに攻撃や侵略をしないという意味で、交流を禁じているわけではない。まあ、近頃は希薄だからそう思う者も多いがな」
「そうなのですね」
藤乃は言いながら、招待状を天魁に返す。
「帝都の主要なパーティーには形式上、妖都の長にも招待状が届く。たまに出席するようにしている。そのときは変化をして、この姿では行くことはないな」
「では、もしかしたらわたしもパーティーでお会いしたことがあるかもしれませんね」
侯爵家の令嬢として、パーティーには強制的に出席させられていた。参加人数が多いため、一人一人の顔までは覚えていないが、その中に天魁もいたのかも、と思うと少し嬉しくなる。
「そうかもな」
天魁は親指で藤乃の頬に触れ、目を細めて微笑んだ。慈しむような色を帯びた目に、藤乃は逸らしたくても視線を逸らせなくなる。そんな藤乃の様子にまた微笑みを深めて、天魁はそっと指を離した。
そして、再び苦い表情を見せた。
「だがまあ、厄介だな」
藤乃が首を傾げると、天魁が自分の姿を見せるように両手を広げた。
「君を迎えに行ったとき、この姿のまま行ってしまった。変化するとややこしくなるだろう? 面倒だ。しかもパートナーを連れて、とある」
確かに招待状にはパートナー同伴での参加と明記されていた。パーティーではそういったパートナー同伴の指定があるものも多い。藤乃はその条件の場合はいつも出席を見送っていた。
「志摩を女性に変化させて連れていくか……」
天魁が冗談とも本気とも取れるような声音で言い、志摩がかなり嫌そうな顔になった。
「花嫁の方がいるのに、それはなしですね」
藤乃は、女性に変化するのは否定しないのか、と少し気になったものの心の中で留め置いた。
「……どうしても、仕方のないときに、女性に変化することはありましたが、もうしません」
「そ、うなのですね」
藤乃の考えていることが読まれたのかと思って、かなり驚いた。声も不自然に上ずってしまった。
「安心しろ、冗談だ。藤乃、パーティーに行くぞ」
「あ、はい。仰せの通りに」
戸惑いはありつつも、天魁の決めたことだ。いつものように答えた。
「服装はいかがいたしましょう。すぐに準備にかからねばなりませんよ」
志摩に問われて天魁が答えかけたが、藤乃に問いをまわしてきた。
「君はどう思う」
「第二皇子様は洋装を好んでいらっしゃいます。ですので、洋装で行くのがよろしいかと思います」
そこまで言ってから、藤乃は少し考え込んだ。そして、ですが、と前置きをして続ける。
「友好的なら、という条件付きでございますが」
天魁が藤乃の返答に満足げににやりと笑った。
「よくわかっているな。仲良しこよしをしにいくわけじゃない。向こうもそのつもりではないだろう、こんな挑発するような招待状」
礼を欠いた招待状を、天魁は手の甲でぺしぺしと嫌そうに叩いた。
「パートナーと言って君を引きずり出したい魂胆だろう。乗るのは癪だが、むしろ見せつけに行く。そのつもりでな」
「では、和装がよろしいかと存じます」
「志摩、支度を」
「はい」
藤乃の意見でパーティーの準備が動き出した。何とも言えない高揚感があって、藤乃は少しの間、両手をそっと握って気持ちを落ち着かせた。
「わたしも準備をしてまいります」
「藤乃さん、市と綾を起こして手伝わせてくださいね。そのための世話係ですから」
「わかりました」
これ以上二人を寝かしておくと、また今夜も夜更かしをしてしまうかもしれない。それに二人の腕は髪を整えるのに必要だ。
藤乃は早足で部屋に戻った。
*
天魁は、部屋に戻っていく藤乃の後ろ姿を見守った。その目には隠さない愛おしさが溢れ出ていた。本人の前ではあまり出さないようにと心掛けているものの、だんだんと抑えていける気がしなくなってきたのも確かだ。
「少しずつ、表情が戻ってきているな。志摩の女装の話でも、素直に驚いた顔をしていたし」
「そのためにわざわざその話題を振ったのでしょう。というか、『女装』はさすがに語弊があります」
以前、どうしても女性のパートナーが必要な場面があり、面倒事は避けたかったから、志摩を女性に変化させたのだ。それを見た志摩の幼馴染は大爆笑だったらしい。しばらく話のネタにされたとか。
二度とやらないと突っぱねられたから、もちろんやるつもりはなかったが、その話のおかげで藤乃のあの顔を引き出せた。
「まあ、まだ時間はかかりそうだが」
「どうするつもりですか」
「何がだ」
「こんなに長く人の子を留め置いていることを、です。しかも花嫁などと甘言まで言って」
志摩が小言を言ってくる。とはいえ、本来ならすぐに帰す人の子を留め置いているのは異例のことだ。
「人形の仮面が剥がれてくれれば、安心して帰せるのだが」
「……ずっと見守ってきた相手が手の届くところにいて、冷静さを欠かないようにしてくださいよ」
天魁は他人から突かれると痛いところを言われて、苦笑いを浮かべた。自戒をしているのに、志摩からそう見えているなら、相当だろう。
「わかっている。それ、口が裂けても藤乃には言うな」
「はいはい」
呆れ半分のような返事が返ってきて不服だから、天魁はさっさと支度に取り掛かれと急いて指示を出した。
*
大急ぎで支度を終えた藤乃と天魁は、馬車に乗り込んで帝都の中心地へ向かう。
藤乃は天魁に似合うと言われた藤色の着物を身に纏っている。髪は双子に任せて、マガレイトという髪型になった。三つ編みを作り、くるりと輪を作る流行りの髪型だそうだ。着物に合わせたリボンも付けてもらった。
天魁も、長い銀髪を高くまとめあげていて、凛々しい顔がよく見える。紺色の着物に黒の帯を合わせて、堅苦しくないものの正装に近い装いを纏っている。
「緊張しているのか」
「いえ」
藤乃は首を振ったが、本当は緊張していた。馬車の中でぐっと両手を握りしめる。定例のパーティーと招待状には書かれていたが、実際のところは第二皇子の婚約発表の場だと推測される。先日、藤乃の目の前で香澄との婚約を発表したものの、天魁が現れて話題はそちらで持ち切りだったことは明らかだ。
だから、こんなにぎりぎりに天魁へ招待状を送り、来ない不義理を責めるか、急いで来たゆえの不十分な準備を笑うか。ともかく天魁を下げたうえで、婚約発表をしたいのだとわかる。
――わたしが足を引っ張るわけにはいかないもの、完璧でなければ
「藤乃」
「は、はい。どうなさいましたか」
天魁に呼ばれて、自然と俯いていた顔をぱっと上げる。天魁の口端を上げた自信に満ちた笑顔と目が合った。
「俺がついている。何も心配はいらない」
「はい」
緊張していることはばれているし、その理由までお見通しのようだ。藤乃は情けないような、でもどこか安心する気もして素直に頷いた。
「終わったら、ご褒美にレストランに行こう。志摩の料理もいいが、たまには外食も悪くないぞ」
天魁が藤乃の頭を、髪型が崩れない程度にそっと撫でた。藤乃は自然と口元を緩めて返事をした。
「仰せの通りに」
洋館に到着すると、すでにダンスの音楽が漏れ聞こえてきた。開始時間には間に合ったはずだが、どうやら時間も遅く伝えられていたようだ。
ほとほと呆れるが、一旦はこの曲が終わるまで待ってから入るのが正しい選択だろう。
「入るぞ」
「天魁様、今は入らないほうがよろしいのでは」
「普通はな。だが、今の俺たちにはそのほうが、都合がいい」
天魁が扉に手をかけたから、藤乃は慌てて隣に立つ。
「挨拶を終えたら、君は音楽を再開させるんだ。いいな」
「は、はい」
意図はわからないが、藤乃は頷いた。
天魁が洋館の扉をバンと音を立てて開いた。案の定、中ではダンスの最中だった。藤乃が婚約破棄をされたのはほんの数週間前のことだが、そのときとは立つ場所が逆になっている。
藤乃は天魁の腕に手を添えて、一緒に歩き出す。すかさず好奇の視線が刺さる。
「妖と藤乃様よ、欠席なさるのではなかったの」
「遅れてくるなんてね」
「でも意外と素敵な御方じゃない? あの妖様」
そんな声まで聞こえてきて、藤乃は呆れのため息が出そうなのを抑え込んだ。恐ろしいと言っていたくせにと。
天魁は自信に満ちた顔で、第二皇子に挨拶を述べた。
「招待に感謝する、第二皇子殿。それと婚約おめでとう」
天魁が懐から出したのは招待状で、指先で弾いて皇子へ向けて飛ばした。そして笑顔のまま、鋭い視線で向こうの非礼を指摘してみせた。
「時間について確認してくれる側近を探したほうがいいかと」
言い終えた天魁から目配せを受けて、藤乃は声を上げる。
「音楽を止めてしまって申し訳ございません。どうぞ続けてくださいませ」
藤乃の言葉を受けて、音楽がはじまりダンスも再開された。藤乃と天魁もその輪の中に入る。皇子は何か言いたげではあったが、これ以上天魁が目立つことを避けたいのか何も言ってこなかった。
藤乃は天魁の意図を理解した。
「ダンスが始まれば、話しかけられることもありませんね」
「ああ。一曲踊ったら帰るぞ。無礼な招待だが、義理は果たした」
「はい」
天魁のリードもあり、着物であっても藤乃は難なくダンスをこなす。くるりとターンをして、きちんと元の位置まで戻ってきて再び天魁の手を取る。
「さすがだな」
「講師の方に一通り教わりました」
ぴくりと天魁の眉が動いた。
「それは男か」
「ええ、はい」
男女のダンスの講義だったのだから当然だ。背の高い女性の講師が代理をすることもあるらしいが、変な癖がつくからと母が審査をした男性講師が講義にあたった。要点を押さえて教える講師で、かなり短時間で完了したのを覚えている。
「わっ」
急に、ぐっと腰を引き寄せられて思わず声が出てしまった。ダンスの動きとは違うそれに、動きづらくて藤乃は声をかけた。
「天魁様、あの」
「妬けるな」
少し苛つきも滲ませた甘い声に、藤乃の肩が勝手に震えた。反射的に引き抜こうとした手を、しっかりと掴まれてどうすることもできない。
こうして距離が近いと、かなり見上げないと天魁の顔は見えない。だから、藤乃はせめてもとわざと目線を上げずにいた。
「……もう、会うこともございません」
「それもそうだな。藤乃のダンスを引き出せるのも、こんな顔を見られるのも、俺だけだ」
ふいに額に口付けが落とされる。途端に顔が赤くなった自覚があるものの、ダンス中であいにく手は塞がっている。
ダンスの最中でも、夫人たちは周りをよく見ている。ひそひそと話す声が聞こえてきた。
「藤乃様は雰囲気が変わったかしら」
「あんな表情ははじめて見ましたわ」
「人形らしくなくて、侯爵夫人はお怒りかしら」
とてつもなく長く感じた一曲分を踊り終えて、天魁と藤乃は洋館を出た。追いかけるようにして出てきた母に声をかけられた。
「藤乃。そちらはどうなの」
「はい、お母様。楽しく過ごしております」
定型文のように答えたが、口にしてからそれが本心であると気づく。
「帝都と荘園の友好関係のため、妖様の言うことをよく聞くように」
どうやら帝都では『そういうこと』になっているらしい。婚約破棄のことも、きっと荘園との友好のために致し方ないことだと語られて、皇子の非は明るみには出ない。そういうものだ。
「はい、お母様。仰せの通りに」
藤乃の返答を聞いた母は、天魁のことをじっと見つめる。品定めをするのとは違う、不思議な視線だった。
「侯爵夫人、娘のことは心配するな」
「ええ、仰せのままに」
母は、それ以上は何も言わず、天魁に一礼すると洋館に戻っていった。
パーティー参加の翌日に天魁が約束通りレストランを予約してくれた。藤乃はそれを朝から楽しみにしていた。
しかし、藤乃は今ベッドの上にいた。脈打つたびに頭が痛み、体は熱いのに寒い。視界がぼんやりとしている。
「けっこう熱があるわ。疲れが出たのね、安静にすること。いいわね」
屋敷まで千世が診察に来てくれた。薬も処方し、サイドテーブルに水と一緒に置いた。
「人の子用に作ってあるから、安心して。飲める?」
「はい……」
藤乃は水を含んで、錠剤と一緒に飲み込んだ。千世を呼んでくれた、天魁自身が部屋の中でじっと藤乃の様子を見守っている。
寝るときに着る浴衣は、じんわりと汗を吸い込んでいて着心地が悪い。そんな姿を見られるのもまた恥ずかしくて、藤乃は布団を深く被った。
「藤乃ちゃん、着替えましょうか。ほら、天魁様は出てって。市ちゃんと綾ちゃんは手伝って」
「ああ」
天魁は低い声で返事をすると、部屋をあとにした。入れ替わりで市と綾がやってくる。
千世に支えられながら、藤乃は体を起こす。異様に体が重く、支えてもらってようやく起き上がれるくらいだ。着替えすら一人でできないなんて、情けなくて小さな声で謝罪をする。
「ご迷惑をおかけして、すみません」
すると、千世は驚いた声を上げた。
「迷惑だなんてとんでもないわ。私はこれが仕事だし、藤乃ちゃんに頼ってもらえて嬉しいわよ」
「そうです」
「そうです」
市も綾も揃って同意を示した。
千世が指先を動かすと、桶の水がぷかぷかと空中に浮かぶ。そして動きを止めて双子をちらりと見た。
「ねえねえ、双子ちゃんたち小さな狐火は出せる? まだ難しいかしら」
「できるもん」
「出せるもん」
二人は腰に手を当てて堂々と言い返した。それを見て千世はにっこりと笑った。
「今から藤乃ちゃんの体を拭くけれど、このままの水じゃ冷たいから、狐火であたためてくれる?」
「わかった!」
「わかった!」
看病の仕事が与えられて、市と綾は張り切って返事をした。二人は向かい合ってお互いの両手を合わせて、目を閉じた。集中しているのが傍から見てもよくわかる。
「せーのっ」
「せーのっ」
そっと両手が離れるとその間に小さな狐火が生まれた。すかさず千世は大きな水の塊を狐火の真上に移動させる。ほのかに温まった水が薄く引き伸ばされて、汗ばんだ藤乃の肌をさらっていく。
「ありがとうございます。千世さん、市ちゃん、綾ちゃん」
新しい浴衣に着替えた藤乃は三人に礼を伝える。早くも薬が効いてきたのか、先ほどよりも少し体が楽になってきた。
市と綾は狐火を出して妖力を使ったからか、つかれたーとベッドで伸びている。
「藤乃ちゃんはもっと甘えてくれていいのよ。私たちにも、天魁様にもね」
布団を口元まで被り、藤乃はゆるゆると首を振った。
「甘え方なんて、わからないです」
「うーん、妖珠を交換してるとかがあると、わかりやすくていいんだけどねえ」
「千世さんは、誰と交換しているのですか」
「旦那よ。妖珠はここに」
そう言って、千世は口を開けて自分の舌を見せた。そこには水晶のように輝く球体が存在感を放っている。舌に付けるピアスのようだ。千世は見せながら、ふふっと小さく笑った。
その妖艶さに藤乃は自分の胸がドキドキするのがわかった。朗らかな千世の別の一面を垣間見た気がした。
「ここに付けていると、いつも相手の存在を感じられるから気に入っているのよ。榛名には微妙な顔されたけど、あの子に言われても説得力ないわよね~」
「榛名さんって、志摩さんの幼馴染の方ですか。妖珠の加工師だという」
「そうそう」
どうして榛名が言うと説得力がない、なのかわからなくて藤乃は首を傾げる。
「志摩と榛名、それから常盤って子と、三人が幼馴染なのよ。皆、鬼の妖ね。それで、三人の中で妖珠を交換しているのよ」
千世は水の球体を三つ作って指で動かしながら説明をした。つまり、志摩の妖珠は榛名、榛名の妖珠は常盤、常盤の妖珠は志摩、がそれぞれ持っているということらしい。
てっきり、志摩と榛名の二人が交換しているものと勘違いしていた。
「ほんと、面白い子たち」
「信頼できる相手が二人もいるってことですよね。素敵なことだと思います」
「ふふ、そうね。藤乃ちゃんにも、心から信頼できる相手が見つかりますように」
千世は藤乃の額に手拭いを置き、祈りを込めるように指先で持ってきた水でそっと触れた。ひんやりとした感覚が広がって気持ちいい。
「じゃあ、そろそろ天魁様に代わるわね」
*
着替えるからと追い出された天魁は、涼しい顔をしながらも藤乃が心配で扉の前から動かずにいた。たまに聞こえてくる声で、藤乃の症状が少しましになったことがわかり安堵した。パーティーで気を張っていたのだろう。少し無理をさせてしまった。
「天魁、何をしているんですか」
志摩に呆れたように声をかけられた。志摩は他の者がいるときには『天魁様』と呼ぶがそうでないときは、様を付けずに呼ぶ。時々、藤乃の前でも外れているが、特に言及もしていない。天魁にとってはどちらでも構わないことだ。
「追い出されたからな、ここで様子を窺っている。千世さんの薬のおかげでよくなった」
「じゃあ、仕事に戻ってください。執務室に書類が溜まったままでしょうが」
天魁は執務室の山積みの書類を思い出して、志摩の言葉を聞かなかったことにする。
「おい、今お前の話をしているようだ」
妖珠の話の中で、志摩の三人で交換をしている話題になったらしい。自分のことと聞いて、志摩も耳を傾ける。
「まあ、珍しいでしょうからね」
「自分の妖珠を預けている相手が、自分のものを持っていないのは、不安にならないのか」
天魁から志摩へ、そういう話を直接聞いたことがなかった。そういうものかと思っていたからだが、千世の話を聞いて確かに不思議だとも思った。
「よく言われますけどね。信用しているので問題ありません」
そう断言した志摩の耳にはピアスが光る。思わず天魁は苦笑する。
「それにしてもピアスってなあ」
妖珠を交換する相手は、一度決めたら一生涯、というわけではない。兄弟や姉妹で交換していて、結婚相手が決まったらその人と交換し直すことも多々ある。そういった背景から、兄弟姉妹はブレスレット、ネックレスにすることが多い。市と綾もブレスレットを選んでいる。
対照的に、体に直接付けるピアスなどはあなただけだと示す、生涯を誓う相手にすることが多い。千世もその例だろう、場所は少数派だとしても。
「お前らの誰かが婚約とか結婚になったらどうする気なんだ」
「どうも何も、普通にしたらいいんじゃないですか」
「妖珠は?」
「私たちで持ったままですけど。あとの二人も同意見ですよ」
当然のように互いの妖珠を他の者に渡す気はないらしい。いかにも常識人みたいな顔をして、我を通すところは嫌いではない。
天魁は思わず笑ったが、志摩は何を笑われているのかわかっていないようだ。
「天魁様、看病交代よ。テーブルの上の薬、飲むように伝えておいてちょうだい」
部屋から千世が顔を出し、交代を言われた。入っていいということだろう。
仕事は後でだと志摩に言い残して、天魁は早く藤乃の顔を見たくて部屋に入った。
*
千世が、伸びたまま寝そうになっていた市と綾を回収しつつ、部屋を出た。入れ替わりで天魁が入ってきた。先ほどよりもましになったとはいえ、まだ頭がぼーっとする。
「藤乃」
「はい、天魁様」
藤乃は起き上がろうとするが、天魁に止められた。素直に従って、藤乃は布団をかぶり直す。
「しんどくないか」
「大丈夫です」
反射的にそう答えてから、千世の甘えてもいいという言葉を反芻して、藤乃は言い直した。
「……いえ、その、少し辛いです」
大丈夫だと答えたときよりも、安心したような表情で、天魁は藤乃の頭を撫でた。
「俺がそばにいる。安心しろ」
天魁は藤乃の額にある手拭いを外すと、ぐっと顔を近づけてきた。思わず目を瞑ると、こつんと額に軽く何かが当たった感覚があった。そっと目を開けると至近距離に天魁の顔があって、慌ててもう一度目を瞑った。額と額で熱をみているようだが、余計に熱くなりそうだ。
「まだ熱はあるな」
手拭いを濡らし直して、藤乃の額に置いた。ひんやりとした感覚があり、さっき千世にしてもらった冷たさを、自分の熱が吸収してしまったことに驚いた。熱はまだ引かないようだ。
「薬は飲めるか。千世さんからこれも飲むようにと伝言だが」
サイドテーブルには、さっきの錠剤とは違い、いかにも苦そうな液体が入った小さなコップが置いてある。藤乃はその苦さを想像して顔をしかめる。
その顔を天魁に見られてしまい、天魁はどこか嬉しそうに親指で藤乃の頬を撫でるように触れた。
「無理なら、口移しで飲ませるが?」
「じ、自分で飲めます」
体を起こそうとしたら、何も言わずに天魁が背中に手を添えて支えてくれた。片手だけで体を預けられるくらいの安心感がある。もう一方の手から渡された薬を、藤乃は一気に飲み干した。想像した通り、苦い。
「にが……」
「よし、いい子だ。水も飲め」
続けて渡された水も飲み干して、藤乃は再びベッドに体を預けた。
いつの間にか、手のひらには睡蓮の花が生み出されていた。睡蓮の花言葉は『信頼』だ。天魁は睡蓮を見て、綺麗だと微笑んだ。
しばらくすると、水の中に沈んでいくようなゆったりとした眠気に襲われた。意識が徐々に薄れていくのが不安で、藤乃は天魁を呼ぶ。
「天魁様……」
「大丈夫だ、ここにいる」
藤乃の不安がわかるかのように、天魁は藤乃の手を握ってくれた。
天魁は藤乃が穏やかな寝息を立てるまで、ずっとそうしていた。眠った藤乃が手を離してくれず、困ったものだと全然困っていない顔で呟いた。
それから藤乃は丸一日と少し寝て、熱は下がりすっかり回復した。さらにもう一日、念のため安静にするようにと言われ、元気になった自覚はあるものの、大人しく藤乃はベッドの上で過ごした。
その後、夜にも関わらず千世が診察に来てくれて、もう治ったから大丈夫とお墨付きをもらった。藤乃は執務室にいる天魁に会いに行く。
ノックする前に、扉が開いて天魁が出てきた。
「もういいのか」
「はい。千世さんからも大丈夫だと言っていただきました」
「そうか、よかった」
ほっとしたように天魁は笑った。おそらくかなり心配をかけてしまったのだろう。藤乃はもう一つ伝えるべきことがあって、ここにやってきたのだ。
「天魁様、レストランをキャンセルさせてしまい、申し訳ございませんでした」
パーティーの翌日に行く予定だったレストランを、藤乃の体調不良のせいで流してしまったことが残念で、申し訳なく思っていた。
「構わない。またいつでも行けばいい」
そう言った天魁は、少し考えてからもう一度口を開いた。
「代わりに今から出掛けないか」
「今からですか。もう夜も更けておりますが……」
「夜更かしをしよう。やったことがないから、嫌か?」
いたずらっ子のような笑顔で、天魁がそう提案してきた。確かに夜更かしなんて、今までしたことがない。そんなことは許されなかったからだ。
でも、藤乃は嫌かという問いに首を振った。
「いえ、仰せの通りに」
自然と笑みを浮かべたら、ぽんと黄色い花が生み出された。黄梅と呼ばれるが、ジャスミンの一種だ。何輪も咲いていて小さな花束のようになっている。
「この花の花言葉は?」
天魁の問いに、その答えが自分の気持ちを言うことと同義のため、少し気恥ずかしかった。でもこれは藤乃の本心だ。
「黄梅の花言葉は『期待』でございます」
「期待に応えてみせよう」
天魁は藤乃の手を取ると、夜の妖都へ繰り出した。
夜に妖都を歩くのははじめてここに来たとき以来だ。そのときは混乱していてほとんど覚えていない。
「わあ……」
夜の妖都は、赤い提灯があちこちに灯り、あるいは浮いていて幻想的な雰囲気だ。桜も自ら発光しているかのようにほのかに光を帯びている。
夜にも関わらず、店がいくつも開いている。藤乃が幼かった頃、まだ加護が発現する前、母と一緒に行った縁日を思い出す。目の前に広がる非日常な光景に心が弾んだ。
「何か食べるか」
天魁の言うように、並んでいるのは食べ歩きができる店が多い。種類も多くて目移りしてしまう。
「何か、食べたいものはあるか」
「仰せの――」
いつものように言いかけて、藤乃は言葉を止める。天魁は『藤乃が』何を食べたいかと聞いてくれている。言う通りにするのでも、正解をだそうとするでもない、好みを聞いている。それがようやくわかってきた。
藤乃は店をくるりと見回して、ある一つに目が留まった。
「天魁様」
「なんだ」
いざ、言葉にしようとすると、慣れていなくてどうも緊張してしまう。自分のことを話すのがこんなに難しいなんて、知らなかった。
天魁は急かすことなく、藤乃の言葉を待ってくれた。
「わたし、カステーラを食べてみたい、です」
「わかった」
天魁は藤乃の手を引いて、カステーラを売る店にやってきた。二つと言ったから天魁も一緒に食べるのだろう。
「ほら」
手渡されたのは、丸いカステーラがいくつも串に刺さったものだった。カステーラも縁日仕様になるようだ。
「ありがとうございます」
ほんのり砂糖がまぶされたカステーラを一口食べると、甘さが口の中いっぱいに広がり、なんとも幸せな味がする。
「美味しいです」
「それはよかった。向こうにはラムネもあるが、どうだ」
「ぜひ」
カステーラを片手に持ったまま、藤乃と天魁はラムネも買いに向かう。二本のラムネ瓶がぶつかってカランと甲高い音が響いた。
「どうやって開けるのですか」
「こうして、上からまっすぐに押すと……ほら、ビー玉が落ちてきた」
天魁は自分の分と藤乃の分を手早く開けて、渡してくれた。しゅわしゅわと上がっていく炭酸の泡が綺麗で、提灯の明かりで透かして見た。
飲んでみると、しゅわしゅわとした炭酸と柑橘の爽やかさが喉を通っていく。傾けるたびにカラカラと軽やかな音を立てるビー玉も何とも可愛らしい。
「どうだ、はじめての夜更かしは」
「楽しいです。でも、なんだか、いけないことをしているような気持ちになります」
正直に答えれば、天魁はにやりと楽しそうな笑みを浮かべた。
「なら、もっといけないことをするぞ」
カステーラもラムネもお腹の中に収めて、両手が開いた藤乃を天魁は縁日のさらに先へと連れていく。
「そこには串カツがある。そっちには型抜き、向こうには射的なんかもある。さあ、どれから行く?」
「迷ってしまいます」
藤乃がそう答えたとき、ドンと大きな音があたりに響く。一瞬身構えた天魁だったが、すぐに脱力した。
「どうやら俺が来ていることに気付かれたらしい。花火師が気を利かせたのだろう」
頭上を見上げれば、空を覆うほどの大輪の花火が咲いた。次々に上がる花火は美しくて、藤乃は目を奪われた。体に直接響くような音も新鮮だ。
「夜にはこんなに素敵なものがあることを、知らなかったなんて……」
「知れてよかったな」
「はい」
花火の音が大きくて、天魁と話す距離も自然と近くなる。それもまた、いけないことをしているような気持ちになった。
藤乃が妖都へ来て数週間が経った。
天魁とともに朝食を食べることにも慣れてきた。ちなみに双子は昨日夜更かしをしたらしく、まだ起きてこない。
「手紙です」
志摩が天魁に手紙を差し出す。天魁はすぐに中身を確認して、苦いものを食べたかのような表情になった。今日の朝ごはんは洋風にトーストとオムレツ、ヨーグルトというメニューで苦いものはない。
「どうされたのですか」
「厄介なものが届いた」
天魁は藤乃に手紙を渡してきた。読んでもいいということなのだろう。藤乃はすばやく目を通して、天魁に視線を戻した。
「これは……」
「帝都の第二皇子からのパーティーの招待状だ。しかも、今夜のな。舐められたものだ」
パーティーの招待状は数週間から遅くとも一週間前には送るものだ。当日に送りつけるなんて、礼を欠いている。
それに、妖都と帝都がそこまで交流があるとは知らなかった。不可侵の協定があるはずなのに。
「妖都の方が、帝都のパーティーに行かれるのですか」
「ああ。不可侵といっても互いに攻撃や侵略をしないという意味で、交流を禁じているわけではない。まあ、近頃は希薄だからそう思う者も多いがな」
「そうなのですね」
藤乃は言いながら、招待状を天魁に返す。
「帝都の主要なパーティーには形式上、妖都の長にも招待状が届く。たまに出席するようにしている。そのときは変化をして、この姿では行くことはないな」
「では、もしかしたらわたしもパーティーでお会いしたことがあるかもしれませんね」
侯爵家の令嬢として、パーティーには強制的に出席させられていた。参加人数が多いため、一人一人の顔までは覚えていないが、その中に天魁もいたのかも、と思うと少し嬉しくなる。
「そうかもな」
天魁は親指で藤乃の頬に触れ、目を細めて微笑んだ。慈しむような色を帯びた目に、藤乃は逸らしたくても視線を逸らせなくなる。そんな藤乃の様子にまた微笑みを深めて、天魁はそっと指を離した。
そして、再び苦い表情を見せた。
「だがまあ、厄介だな」
藤乃が首を傾げると、天魁が自分の姿を見せるように両手を広げた。
「君を迎えに行ったとき、この姿のまま行ってしまった。変化するとややこしくなるだろう? 面倒だ。しかもパートナーを連れて、とある」
確かに招待状にはパートナー同伴での参加と明記されていた。パーティーではそういったパートナー同伴の指定があるものも多い。藤乃はその条件の場合はいつも出席を見送っていた。
「志摩を女性に変化させて連れていくか……」
天魁が冗談とも本気とも取れるような声音で言い、志摩がかなり嫌そうな顔になった。
「花嫁の方がいるのに、それはなしですね」
藤乃は、女性に変化するのは否定しないのか、と少し気になったものの心の中で留め置いた。
「……どうしても、仕方のないときに、女性に変化することはありましたが、もうしません」
「そ、うなのですね」
藤乃の考えていることが読まれたのかと思って、かなり驚いた。声も不自然に上ずってしまった。
「安心しろ、冗談だ。藤乃、パーティーに行くぞ」
「あ、はい。仰せの通りに」
戸惑いはありつつも、天魁の決めたことだ。いつものように答えた。
「服装はいかがいたしましょう。すぐに準備にかからねばなりませんよ」
志摩に問われて天魁が答えかけたが、藤乃に問いをまわしてきた。
「君はどう思う」
「第二皇子様は洋装を好んでいらっしゃいます。ですので、洋装で行くのがよろしいかと思います」
そこまで言ってから、藤乃は少し考え込んだ。そして、ですが、と前置きをして続ける。
「友好的なら、という条件付きでございますが」
天魁が藤乃の返答に満足げににやりと笑った。
「よくわかっているな。仲良しこよしをしにいくわけじゃない。向こうもそのつもりではないだろう、こんな挑発するような招待状」
礼を欠いた招待状を、天魁は手の甲でぺしぺしと嫌そうに叩いた。
「パートナーと言って君を引きずり出したい魂胆だろう。乗るのは癪だが、むしろ見せつけに行く。そのつもりでな」
「では、和装がよろしいかと存じます」
「志摩、支度を」
「はい」
藤乃の意見でパーティーの準備が動き出した。何とも言えない高揚感があって、藤乃は少しの間、両手をそっと握って気持ちを落ち着かせた。
「わたしも準備をしてまいります」
「藤乃さん、市と綾を起こして手伝わせてくださいね。そのための世話係ですから」
「わかりました」
これ以上二人を寝かしておくと、また今夜も夜更かしをしてしまうかもしれない。それに二人の腕は髪を整えるのに必要だ。
藤乃は早足で部屋に戻った。
*
天魁は、部屋に戻っていく藤乃の後ろ姿を見守った。その目には隠さない愛おしさが溢れ出ていた。本人の前ではあまり出さないようにと心掛けているものの、だんだんと抑えていける気がしなくなってきたのも確かだ。
「少しずつ、表情が戻ってきているな。志摩の女装の話でも、素直に驚いた顔をしていたし」
「そのためにわざわざその話題を振ったのでしょう。というか、『女装』はさすがに語弊があります」
以前、どうしても女性のパートナーが必要な場面があり、面倒事は避けたかったから、志摩を女性に変化させたのだ。それを見た志摩の幼馴染は大爆笑だったらしい。しばらく話のネタにされたとか。
二度とやらないと突っぱねられたから、もちろんやるつもりはなかったが、その話のおかげで藤乃のあの顔を引き出せた。
「まあ、まだ時間はかかりそうだが」
「どうするつもりですか」
「何がだ」
「こんなに長く人の子を留め置いていることを、です。しかも花嫁などと甘言まで言って」
志摩が小言を言ってくる。とはいえ、本来ならすぐに帰す人の子を留め置いているのは異例のことだ。
「人形の仮面が剥がれてくれれば、安心して帰せるのだが」
「……ずっと見守ってきた相手が手の届くところにいて、冷静さを欠かないようにしてくださいよ」
天魁は他人から突かれると痛いところを言われて、苦笑いを浮かべた。自戒をしているのに、志摩からそう見えているなら、相当だろう。
「わかっている。それ、口が裂けても藤乃には言うな」
「はいはい」
呆れ半分のような返事が返ってきて不服だから、天魁はさっさと支度に取り掛かれと急いて指示を出した。
*
大急ぎで支度を終えた藤乃と天魁は、馬車に乗り込んで帝都の中心地へ向かう。
藤乃は天魁に似合うと言われた藤色の着物を身に纏っている。髪は双子に任せて、マガレイトという髪型になった。三つ編みを作り、くるりと輪を作る流行りの髪型だそうだ。着物に合わせたリボンも付けてもらった。
天魁も、長い銀髪を高くまとめあげていて、凛々しい顔がよく見える。紺色の着物に黒の帯を合わせて、堅苦しくないものの正装に近い装いを纏っている。
「緊張しているのか」
「いえ」
藤乃は首を振ったが、本当は緊張していた。馬車の中でぐっと両手を握りしめる。定例のパーティーと招待状には書かれていたが、実際のところは第二皇子の婚約発表の場だと推測される。先日、藤乃の目の前で香澄との婚約を発表したものの、天魁が現れて話題はそちらで持ち切りだったことは明らかだ。
だから、こんなにぎりぎりに天魁へ招待状を送り、来ない不義理を責めるか、急いで来たゆえの不十分な準備を笑うか。ともかく天魁を下げたうえで、婚約発表をしたいのだとわかる。
――わたしが足を引っ張るわけにはいかないもの、完璧でなければ
「藤乃」
「は、はい。どうなさいましたか」
天魁に呼ばれて、自然と俯いていた顔をぱっと上げる。天魁の口端を上げた自信に満ちた笑顔と目が合った。
「俺がついている。何も心配はいらない」
「はい」
緊張していることはばれているし、その理由までお見通しのようだ。藤乃は情けないような、でもどこか安心する気もして素直に頷いた。
「終わったら、ご褒美にレストランに行こう。志摩の料理もいいが、たまには外食も悪くないぞ」
天魁が藤乃の頭を、髪型が崩れない程度にそっと撫でた。藤乃は自然と口元を緩めて返事をした。
「仰せの通りに」
洋館に到着すると、すでにダンスの音楽が漏れ聞こえてきた。開始時間には間に合ったはずだが、どうやら時間も遅く伝えられていたようだ。
ほとほと呆れるが、一旦はこの曲が終わるまで待ってから入るのが正しい選択だろう。
「入るぞ」
「天魁様、今は入らないほうがよろしいのでは」
「普通はな。だが、今の俺たちにはそのほうが、都合がいい」
天魁が扉に手をかけたから、藤乃は慌てて隣に立つ。
「挨拶を終えたら、君は音楽を再開させるんだ。いいな」
「は、はい」
意図はわからないが、藤乃は頷いた。
天魁が洋館の扉をバンと音を立てて開いた。案の定、中ではダンスの最中だった。藤乃が婚約破棄をされたのはほんの数週間前のことだが、そのときとは立つ場所が逆になっている。
藤乃は天魁の腕に手を添えて、一緒に歩き出す。すかさず好奇の視線が刺さる。
「妖と藤乃様よ、欠席なさるのではなかったの」
「遅れてくるなんてね」
「でも意外と素敵な御方じゃない? あの妖様」
そんな声まで聞こえてきて、藤乃は呆れのため息が出そうなのを抑え込んだ。恐ろしいと言っていたくせにと。
天魁は自信に満ちた顔で、第二皇子に挨拶を述べた。
「招待に感謝する、第二皇子殿。それと婚約おめでとう」
天魁が懐から出したのは招待状で、指先で弾いて皇子へ向けて飛ばした。そして笑顔のまま、鋭い視線で向こうの非礼を指摘してみせた。
「時間について確認してくれる側近を探したほうがいいかと」
言い終えた天魁から目配せを受けて、藤乃は声を上げる。
「音楽を止めてしまって申し訳ございません。どうぞ続けてくださいませ」
藤乃の言葉を受けて、音楽がはじまりダンスも再開された。藤乃と天魁もその輪の中に入る。皇子は何か言いたげではあったが、これ以上天魁が目立つことを避けたいのか何も言ってこなかった。
藤乃は天魁の意図を理解した。
「ダンスが始まれば、話しかけられることもありませんね」
「ああ。一曲踊ったら帰るぞ。無礼な招待だが、義理は果たした」
「はい」
天魁のリードもあり、着物であっても藤乃は難なくダンスをこなす。くるりとターンをして、きちんと元の位置まで戻ってきて再び天魁の手を取る。
「さすがだな」
「講師の方に一通り教わりました」
ぴくりと天魁の眉が動いた。
「それは男か」
「ええ、はい」
男女のダンスの講義だったのだから当然だ。背の高い女性の講師が代理をすることもあるらしいが、変な癖がつくからと母が審査をした男性講師が講義にあたった。要点を押さえて教える講師で、かなり短時間で完了したのを覚えている。
「わっ」
急に、ぐっと腰を引き寄せられて思わず声が出てしまった。ダンスの動きとは違うそれに、動きづらくて藤乃は声をかけた。
「天魁様、あの」
「妬けるな」
少し苛つきも滲ませた甘い声に、藤乃の肩が勝手に震えた。反射的に引き抜こうとした手を、しっかりと掴まれてどうすることもできない。
こうして距離が近いと、かなり見上げないと天魁の顔は見えない。だから、藤乃はせめてもとわざと目線を上げずにいた。
「……もう、会うこともございません」
「それもそうだな。藤乃のダンスを引き出せるのも、こんな顔を見られるのも、俺だけだ」
ふいに額に口付けが落とされる。途端に顔が赤くなった自覚があるものの、ダンス中であいにく手は塞がっている。
ダンスの最中でも、夫人たちは周りをよく見ている。ひそひそと話す声が聞こえてきた。
「藤乃様は雰囲気が変わったかしら」
「あんな表情ははじめて見ましたわ」
「人形らしくなくて、侯爵夫人はお怒りかしら」
とてつもなく長く感じた一曲分を踊り終えて、天魁と藤乃は洋館を出た。追いかけるようにして出てきた母に声をかけられた。
「藤乃。そちらはどうなの」
「はい、お母様。楽しく過ごしております」
定型文のように答えたが、口にしてからそれが本心であると気づく。
「帝都と荘園の友好関係のため、妖様の言うことをよく聞くように」
どうやら帝都では『そういうこと』になっているらしい。婚約破棄のことも、きっと荘園との友好のために致し方ないことだと語られて、皇子の非は明るみには出ない。そういうものだ。
「はい、お母様。仰せの通りに」
藤乃の返答を聞いた母は、天魁のことをじっと見つめる。品定めをするのとは違う、不思議な視線だった。
「侯爵夫人、娘のことは心配するな」
「ええ、仰せのままに」
母は、それ以上は何も言わず、天魁に一礼すると洋館に戻っていった。
パーティー参加の翌日に天魁が約束通りレストランを予約してくれた。藤乃はそれを朝から楽しみにしていた。
しかし、藤乃は今ベッドの上にいた。脈打つたびに頭が痛み、体は熱いのに寒い。視界がぼんやりとしている。
「けっこう熱があるわ。疲れが出たのね、安静にすること。いいわね」
屋敷まで千世が診察に来てくれた。薬も処方し、サイドテーブルに水と一緒に置いた。
「人の子用に作ってあるから、安心して。飲める?」
「はい……」
藤乃は水を含んで、錠剤と一緒に飲み込んだ。千世を呼んでくれた、天魁自身が部屋の中でじっと藤乃の様子を見守っている。
寝るときに着る浴衣は、じんわりと汗を吸い込んでいて着心地が悪い。そんな姿を見られるのもまた恥ずかしくて、藤乃は布団を深く被った。
「藤乃ちゃん、着替えましょうか。ほら、天魁様は出てって。市ちゃんと綾ちゃんは手伝って」
「ああ」
天魁は低い声で返事をすると、部屋をあとにした。入れ替わりで市と綾がやってくる。
千世に支えられながら、藤乃は体を起こす。異様に体が重く、支えてもらってようやく起き上がれるくらいだ。着替えすら一人でできないなんて、情けなくて小さな声で謝罪をする。
「ご迷惑をおかけして、すみません」
すると、千世は驚いた声を上げた。
「迷惑だなんてとんでもないわ。私はこれが仕事だし、藤乃ちゃんに頼ってもらえて嬉しいわよ」
「そうです」
「そうです」
市も綾も揃って同意を示した。
千世が指先を動かすと、桶の水がぷかぷかと空中に浮かぶ。そして動きを止めて双子をちらりと見た。
「ねえねえ、双子ちゃんたち小さな狐火は出せる? まだ難しいかしら」
「できるもん」
「出せるもん」
二人は腰に手を当てて堂々と言い返した。それを見て千世はにっこりと笑った。
「今から藤乃ちゃんの体を拭くけれど、このままの水じゃ冷たいから、狐火であたためてくれる?」
「わかった!」
「わかった!」
看病の仕事が与えられて、市と綾は張り切って返事をした。二人は向かい合ってお互いの両手を合わせて、目を閉じた。集中しているのが傍から見てもよくわかる。
「せーのっ」
「せーのっ」
そっと両手が離れるとその間に小さな狐火が生まれた。すかさず千世は大きな水の塊を狐火の真上に移動させる。ほのかに温まった水が薄く引き伸ばされて、汗ばんだ藤乃の肌をさらっていく。
「ありがとうございます。千世さん、市ちゃん、綾ちゃん」
新しい浴衣に着替えた藤乃は三人に礼を伝える。早くも薬が効いてきたのか、先ほどよりも少し体が楽になってきた。
市と綾は狐火を出して妖力を使ったからか、つかれたーとベッドで伸びている。
「藤乃ちゃんはもっと甘えてくれていいのよ。私たちにも、天魁様にもね」
布団を口元まで被り、藤乃はゆるゆると首を振った。
「甘え方なんて、わからないです」
「うーん、妖珠を交換してるとかがあると、わかりやすくていいんだけどねえ」
「千世さんは、誰と交換しているのですか」
「旦那よ。妖珠はここに」
そう言って、千世は口を開けて自分の舌を見せた。そこには水晶のように輝く球体が存在感を放っている。舌に付けるピアスのようだ。千世は見せながら、ふふっと小さく笑った。
その妖艶さに藤乃は自分の胸がドキドキするのがわかった。朗らかな千世の別の一面を垣間見た気がした。
「ここに付けていると、いつも相手の存在を感じられるから気に入っているのよ。榛名には微妙な顔されたけど、あの子に言われても説得力ないわよね~」
「榛名さんって、志摩さんの幼馴染の方ですか。妖珠の加工師だという」
「そうそう」
どうして榛名が言うと説得力がない、なのかわからなくて藤乃は首を傾げる。
「志摩と榛名、それから常盤って子と、三人が幼馴染なのよ。皆、鬼の妖ね。それで、三人の中で妖珠を交換しているのよ」
千世は水の球体を三つ作って指で動かしながら説明をした。つまり、志摩の妖珠は榛名、榛名の妖珠は常盤、常盤の妖珠は志摩、がそれぞれ持っているということらしい。
てっきり、志摩と榛名の二人が交換しているものと勘違いしていた。
「ほんと、面白い子たち」
「信頼できる相手が二人もいるってことですよね。素敵なことだと思います」
「ふふ、そうね。藤乃ちゃんにも、心から信頼できる相手が見つかりますように」
千世は藤乃の額に手拭いを置き、祈りを込めるように指先で持ってきた水でそっと触れた。ひんやりとした感覚が広がって気持ちいい。
「じゃあ、そろそろ天魁様に代わるわね」
*
着替えるからと追い出された天魁は、涼しい顔をしながらも藤乃が心配で扉の前から動かずにいた。たまに聞こえてくる声で、藤乃の症状が少しましになったことがわかり安堵した。パーティーで気を張っていたのだろう。少し無理をさせてしまった。
「天魁、何をしているんですか」
志摩に呆れたように声をかけられた。志摩は他の者がいるときには『天魁様』と呼ぶがそうでないときは、様を付けずに呼ぶ。時々、藤乃の前でも外れているが、特に言及もしていない。天魁にとってはどちらでも構わないことだ。
「追い出されたからな、ここで様子を窺っている。千世さんの薬のおかげでよくなった」
「じゃあ、仕事に戻ってください。執務室に書類が溜まったままでしょうが」
天魁は執務室の山積みの書類を思い出して、志摩の言葉を聞かなかったことにする。
「おい、今お前の話をしているようだ」
妖珠の話の中で、志摩の三人で交換をしている話題になったらしい。自分のことと聞いて、志摩も耳を傾ける。
「まあ、珍しいでしょうからね」
「自分の妖珠を預けている相手が、自分のものを持っていないのは、不安にならないのか」
天魁から志摩へ、そういう話を直接聞いたことがなかった。そういうものかと思っていたからだが、千世の話を聞いて確かに不思議だとも思った。
「よく言われますけどね。信用しているので問題ありません」
そう断言した志摩の耳にはピアスが光る。思わず天魁は苦笑する。
「それにしてもピアスってなあ」
妖珠を交換する相手は、一度決めたら一生涯、というわけではない。兄弟や姉妹で交換していて、結婚相手が決まったらその人と交換し直すことも多々ある。そういった背景から、兄弟姉妹はブレスレット、ネックレスにすることが多い。市と綾もブレスレットを選んでいる。
対照的に、体に直接付けるピアスなどはあなただけだと示す、生涯を誓う相手にすることが多い。千世もその例だろう、場所は少数派だとしても。
「お前らの誰かが婚約とか結婚になったらどうする気なんだ」
「どうも何も、普通にしたらいいんじゃないですか」
「妖珠は?」
「私たちで持ったままですけど。あとの二人も同意見ですよ」
当然のように互いの妖珠を他の者に渡す気はないらしい。いかにも常識人みたいな顔をして、我を通すところは嫌いではない。
天魁は思わず笑ったが、志摩は何を笑われているのかわかっていないようだ。
「天魁様、看病交代よ。テーブルの上の薬、飲むように伝えておいてちょうだい」
部屋から千世が顔を出し、交代を言われた。入っていいということだろう。
仕事は後でだと志摩に言い残して、天魁は早く藤乃の顔を見たくて部屋に入った。
*
千世が、伸びたまま寝そうになっていた市と綾を回収しつつ、部屋を出た。入れ替わりで天魁が入ってきた。先ほどよりもましになったとはいえ、まだ頭がぼーっとする。
「藤乃」
「はい、天魁様」
藤乃は起き上がろうとするが、天魁に止められた。素直に従って、藤乃は布団をかぶり直す。
「しんどくないか」
「大丈夫です」
反射的にそう答えてから、千世の甘えてもいいという言葉を反芻して、藤乃は言い直した。
「……いえ、その、少し辛いです」
大丈夫だと答えたときよりも、安心したような表情で、天魁は藤乃の頭を撫でた。
「俺がそばにいる。安心しろ」
天魁は藤乃の額にある手拭いを外すと、ぐっと顔を近づけてきた。思わず目を瞑ると、こつんと額に軽く何かが当たった感覚があった。そっと目を開けると至近距離に天魁の顔があって、慌ててもう一度目を瞑った。額と額で熱をみているようだが、余計に熱くなりそうだ。
「まだ熱はあるな」
手拭いを濡らし直して、藤乃の額に置いた。ひんやりとした感覚があり、さっき千世にしてもらった冷たさを、自分の熱が吸収してしまったことに驚いた。熱はまだ引かないようだ。
「薬は飲めるか。千世さんからこれも飲むようにと伝言だが」
サイドテーブルには、さっきの錠剤とは違い、いかにも苦そうな液体が入った小さなコップが置いてある。藤乃はその苦さを想像して顔をしかめる。
その顔を天魁に見られてしまい、天魁はどこか嬉しそうに親指で藤乃の頬を撫でるように触れた。
「無理なら、口移しで飲ませるが?」
「じ、自分で飲めます」
体を起こそうとしたら、何も言わずに天魁が背中に手を添えて支えてくれた。片手だけで体を預けられるくらいの安心感がある。もう一方の手から渡された薬を、藤乃は一気に飲み干した。想像した通り、苦い。
「にが……」
「よし、いい子だ。水も飲め」
続けて渡された水も飲み干して、藤乃は再びベッドに体を預けた。
いつの間にか、手のひらには睡蓮の花が生み出されていた。睡蓮の花言葉は『信頼』だ。天魁は睡蓮を見て、綺麗だと微笑んだ。
しばらくすると、水の中に沈んでいくようなゆったりとした眠気に襲われた。意識が徐々に薄れていくのが不安で、藤乃は天魁を呼ぶ。
「天魁様……」
「大丈夫だ、ここにいる」
藤乃の不安がわかるかのように、天魁は藤乃の手を握ってくれた。
天魁は藤乃が穏やかな寝息を立てるまで、ずっとそうしていた。眠った藤乃が手を離してくれず、困ったものだと全然困っていない顔で呟いた。
それから藤乃は丸一日と少し寝て、熱は下がりすっかり回復した。さらにもう一日、念のため安静にするようにと言われ、元気になった自覚はあるものの、大人しく藤乃はベッドの上で過ごした。
その後、夜にも関わらず千世が診察に来てくれて、もう治ったから大丈夫とお墨付きをもらった。藤乃は執務室にいる天魁に会いに行く。
ノックする前に、扉が開いて天魁が出てきた。
「もういいのか」
「はい。千世さんからも大丈夫だと言っていただきました」
「そうか、よかった」
ほっとしたように天魁は笑った。おそらくかなり心配をかけてしまったのだろう。藤乃はもう一つ伝えるべきことがあって、ここにやってきたのだ。
「天魁様、レストランをキャンセルさせてしまい、申し訳ございませんでした」
パーティーの翌日に行く予定だったレストランを、藤乃の体調不良のせいで流してしまったことが残念で、申し訳なく思っていた。
「構わない。またいつでも行けばいい」
そう言った天魁は、少し考えてからもう一度口を開いた。
「代わりに今から出掛けないか」
「今からですか。もう夜も更けておりますが……」
「夜更かしをしよう。やったことがないから、嫌か?」
いたずらっ子のような笑顔で、天魁がそう提案してきた。確かに夜更かしなんて、今までしたことがない。そんなことは許されなかったからだ。
でも、藤乃は嫌かという問いに首を振った。
「いえ、仰せの通りに」
自然と笑みを浮かべたら、ぽんと黄色い花が生み出された。黄梅と呼ばれるが、ジャスミンの一種だ。何輪も咲いていて小さな花束のようになっている。
「この花の花言葉は?」
天魁の問いに、その答えが自分の気持ちを言うことと同義のため、少し気恥ずかしかった。でもこれは藤乃の本心だ。
「黄梅の花言葉は『期待』でございます」
「期待に応えてみせよう」
天魁は藤乃の手を取ると、夜の妖都へ繰り出した。
夜に妖都を歩くのははじめてここに来たとき以来だ。そのときは混乱していてほとんど覚えていない。
「わあ……」
夜の妖都は、赤い提灯があちこちに灯り、あるいは浮いていて幻想的な雰囲気だ。桜も自ら発光しているかのようにほのかに光を帯びている。
夜にも関わらず、店がいくつも開いている。藤乃が幼かった頃、まだ加護が発現する前、母と一緒に行った縁日を思い出す。目の前に広がる非日常な光景に心が弾んだ。
「何か食べるか」
天魁の言うように、並んでいるのは食べ歩きができる店が多い。種類も多くて目移りしてしまう。
「何か、食べたいものはあるか」
「仰せの――」
いつものように言いかけて、藤乃は言葉を止める。天魁は『藤乃が』何を食べたいかと聞いてくれている。言う通りにするのでも、正解をだそうとするでもない、好みを聞いている。それがようやくわかってきた。
藤乃は店をくるりと見回して、ある一つに目が留まった。
「天魁様」
「なんだ」
いざ、言葉にしようとすると、慣れていなくてどうも緊張してしまう。自分のことを話すのがこんなに難しいなんて、知らなかった。
天魁は急かすことなく、藤乃の言葉を待ってくれた。
「わたし、カステーラを食べてみたい、です」
「わかった」
天魁は藤乃の手を引いて、カステーラを売る店にやってきた。二つと言ったから天魁も一緒に食べるのだろう。
「ほら」
手渡されたのは、丸いカステーラがいくつも串に刺さったものだった。カステーラも縁日仕様になるようだ。
「ありがとうございます」
ほんのり砂糖がまぶされたカステーラを一口食べると、甘さが口の中いっぱいに広がり、なんとも幸せな味がする。
「美味しいです」
「それはよかった。向こうにはラムネもあるが、どうだ」
「ぜひ」
カステーラを片手に持ったまま、藤乃と天魁はラムネも買いに向かう。二本のラムネ瓶がぶつかってカランと甲高い音が響いた。
「どうやって開けるのですか」
「こうして、上からまっすぐに押すと……ほら、ビー玉が落ちてきた」
天魁は自分の分と藤乃の分を手早く開けて、渡してくれた。しゅわしゅわと上がっていく炭酸の泡が綺麗で、提灯の明かりで透かして見た。
飲んでみると、しゅわしゅわとした炭酸と柑橘の爽やかさが喉を通っていく。傾けるたびにカラカラと軽やかな音を立てるビー玉も何とも可愛らしい。
「どうだ、はじめての夜更かしは」
「楽しいです。でも、なんだか、いけないことをしているような気持ちになります」
正直に答えれば、天魁はにやりと楽しそうな笑みを浮かべた。
「なら、もっといけないことをするぞ」
カステーラもラムネもお腹の中に収めて、両手が開いた藤乃を天魁は縁日のさらに先へと連れていく。
「そこには串カツがある。そっちには型抜き、向こうには射的なんかもある。さあ、どれから行く?」
「迷ってしまいます」
藤乃がそう答えたとき、ドンと大きな音があたりに響く。一瞬身構えた天魁だったが、すぐに脱力した。
「どうやら俺が来ていることに気付かれたらしい。花火師が気を利かせたのだろう」
頭上を見上げれば、空を覆うほどの大輪の花火が咲いた。次々に上がる花火は美しくて、藤乃は目を奪われた。体に直接響くような音も新鮮だ。
「夜にはこんなに素敵なものがあることを、知らなかったなんて……」
「知れてよかったな」
「はい」
花火の音が大きくて、天魁と話す距離も自然と近くなる。それもまた、いけないことをしているような気持ちになった。



