【第二章 シロナツギクは楽しむ心を持つ】
藤乃が妖都へ来て、数日が経った。流れのままに藤乃は天魁の屋敷で過ごしている。藤乃のための部屋も与えられ、恐縮しつつも行くところがないので頷くしかない。
居間で一緒に志摩に用意してもらったお茶を飲んでいると、誰かが勢いよく入ってきた。
「勝負だ、あにさま!」
「勝負だ、あにさま!」
よく似た幼い狐の少女二人が同時に声を張り上げた。金色の髪の中から同じ色の狐の耳がピンと立っており、同じく金色のふわふわの尻尾が大きく揺れる。
畳を蹴り上げると、高い跳躍を見せ、そのまま天魁に突進した。
「えっ、あの」
藤乃は、どうしたらと志摩を見上げるが、少しも焦った様子もなく首を振った。
「大丈夫ですよ」
勢いよく飛んでいった二人は、天魁の一薙ぎでぽーんと弾き飛ばされてしまった。そして、空中でくるりと一回転して、軽やかに着地した。
「今のはいったい……」
志摩は教授が解説をするかのように、人差し指を立てた。
「妖都では、血筋などは関係なく、一番強い者が長になります」
「天魁様が一番お強いから、長なのですね」
「その通りです。長に勝てばいつでも交代可能なので、彼女らはこうして勝負を仕掛けているんです」
理屈はわかったが、勝てばいいとはいえこんな風に突然勝負を仕掛けてくるのは天魁が困るのではないか。
「いいのですか」
藤乃の疑問には、天魁が答えた。
「こいつらの鍛錬になるからいい。一日一度までとしているがな」
畳の上で悔しそうに転がっている二人を見て、藤乃は質問を重ねた。
「彼女たちは?」
「姪だ。ほら、挨拶しろ」
ぴょんと軽やかに立ち上がると、二人はにんまりと可愛らしい笑みを浮かべた。
「市だよ」
「綾だよ」
黄色の着物を着た子が市、橙色が綾と名乗った。
「双子だよー」
「双子だよー」
またしても息の合った声でそう教えてくれた。たぶん、誰が見ても双子だとわかるくらいにはそっくりだ。
「また負けたー、せっかく妖都の入り口まで来たのに」
「ねえー、家から遠いのに」
そういえば、天魁の屋敷は妖都の入り口に近いところに建っている。表の荘園からはじめて入ったときも、屋敷が近かったからすぐに休めたのだった。
「天魁様の屋敷が入り口にあるのも、強いからなんですよ」
志摩は少し誇らしげに続けた。
「有事の際に、妖都と皆を守るためとここに屋敷を構えることにしたんです。ね、天魁様?」
「まあ、有事があるかどうかもわからないがな。あと、わざとらしく様付けするな、気持ち悪い」
志摩が肩をすくめて天魁からの文句を受け流した。
長ならば、都の一番奥に位置しそうなものを、最前線にいるという。その考えを素直にすごいと思った。
「いつか市たちが勝ってやるんだからね」
「守ってやるんだからね!」
市と綾はそう凄んでいるが、傍から見ても可愛らしい宣言にしか見えない。
「はいはい。藤乃、世話係にこいつらをつける、俺も志摩も男だからこんなのでも同性がいたほうがいいだろう」
天魁は二人の言葉をさらりと流してから、藤乃に改めて双子を紹介した。藤乃のために呼んでくれたようだ。
「よろしくね、あねさま」
「よろしくね、あねさま」
市と綾は藤乃を挟んで座り込んだ。
「あねさま、ですか」
慣れない呼び名に藤乃は思わず聞き返した。すると、当然と言わんばかりの返事が返ってきた。
「あにさまが、あにさまだから」
「あねさまは、あねさまだよ」
志摩がこっそり二人の言葉に補足をした。
「天魁様は市と綾にとっては伯父にあたるので、おじさまと呼びかけて、それはさすがにと二人の母君があにさまに訂正させたそうです」
その光景を想像して、少しおかしかった。そんな話は聞こえていないのか、市と綾は、藤乃の両脇で金色のふわふわの尻尾を揺らす。もふもふに自然と心が安らいでいく。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
二人がにっこりと笑って、藤乃の手を片方ずつ取った。
「じゃあ、さっそく」
「遊ぼうー!」
藤乃は困惑しつつも、微笑みを崩さないように聞き返した。
「遊ぶのですか。でも、わたし修練をしないと」
この前も感情的に花を出してしまった。修練をして、乱れないようにしなければならない。
「えーなんでー」
「遊ぼうよー」
藤乃の両手をぶんぶんと振って駄々をこねられてしまう。左右に振られて藤乃の黒髪が大きく揺れる。
天魁が市と綾の手を離させたことで、藤乃は揺れから解放された。
「こいつらの相手をしてやってくれ」
天魁からもそう頼まれて、藤乃は頷いた。
「はい、仰せの通りに」
藤乃が遊んでくれるとわかり、市と綾はぱあっと顔を輝かせた。
「じゃあ、椅子取りしようよ」
「おもしろいよ」
音楽や歌に合わせて椅子の周りをまわり、音が止まった瞬間に椅子を取りあう遊びだ。人数より一つ少なくしてどんどん勝ち上がっていくのだ。そういう遊びがあると知ってはいるが、友人がいなかったからやったことはない。
「ここでは座布団ですね」
志摩が訂正するように口を挟んだ。
天魁の屋敷は武家屋敷のような和風建築で、この居間も畳に座布団が置かれ、脚の短い卓が中央に座している。一方、寝室はベッドがあって洋風の内装だったり、天魁の執務室もテーブルとソファがあったりするらしい。和洋折衷は自由な雰囲気があっていい。
「だめだ」
天魁が一蹴した。
なんでえと双子が同時に頬を膨らませて天魁を見る。
「お前らと椅子取りなんかしたら、藤乃が吹き飛ぶだろうが」
藤乃は、さっきの勝負だと言って突進した二人を思い出して、自分に向かってくるところを想像した。とても避けられる気がしない。
さすがに二人も納得したようで、すぐに切り替えた。
「じゃあ、かるたしよ」
「かるたならだいじょうぶ!」
それならまあ、と天魁も頷いた。
「最近の子ども用のものはないぞ。昔もらった百人一首はあったか」
「あり!」
「よい!」
天魁が二人のことを子どもと言っていた。しかし、服屋の店員のこともあって、見た目では年齢はわからない。
「二人は何歳ですか」
「五十歳くらい!」
「五十歳くらい!」
藤乃の倍以上ではあるが、人なら五、六歳だろうか。言動も可愛らしくて幼い雰囲気がある。
「彼女らはまだまだ子どもですよ。妖の基準でも。言うと怒りますけど」
「そうなのですね」
志摩が小声で教えてくれた。子どもと言われて怒るのはなんとも子どもらしい。
そういえば志摩は何歳なのだろうかと気になって顔を見つめ返す。天魁と同じくらいに見えるが、やはり見た目はあまり参考にならないだろう。
「私は二百五十くらいですよ」
察したらしく教えてくれた。天魁に仕えているけれど、年上なのか。強い者が長になるなら年齢も関係ないのだろう。
「ほらほら。あねさまも座って」
「はやくはやく」
いつの間にか、天魁も志摩も座布団に座り直している。目の前にはかるたが散らばっている。
「藤乃、座れ」
まるで家族の団らんのような光景で、自分がそこに入ることに躊躇いを覚える。
「いえ、わたしは……」
「じゃあ、俺の膝の上に座るか」
「えっ」
天魁はにやりと楽しげな笑みを浮かべて、ぽんぽんと自分の膝を叩いた。冗談なのだろうが、どこか本気の気配も感じて藤乃はどぎまぎしてしまう。
「わあ、らぶらぶだあ」
「ちがうよ、あつあつだよ」
市と綾が最近覚えたのか、使い慣れていない言葉でそれぞれ口にするから、さらに藤乃は恥ずかしくなってくる。
「その、仰せの通りに」
「膝の上か?」
「座布団です……!」
藤乃はすとんと座布団に腰を下ろした。
百人一首は教養として叩き込まれて知っているが、かるたとしてやったことはない。下の句が書かれた札を取るらしい。読み手は志摩が務めることになった。
「ひさかたの~ 光のどけき春の日に~」
朗々とした声で志摩が読み上げる。
「はいっ」
市が体ごと飛び出すように札を取った。この勢いでは椅子取りでなくても、飛ばされるような気がする。
「ほいっ」
続けて綾も勢いよく札に飛び込んだ。
「静かに取れないのか」
胡座をかいている天魁が、呆れ気味に言った。本人は座ってはいるものの、札を取る気はあまりないらしい。
「藤乃を見てみろ」
二人分の視線が藤乃に注がれる。まっすぐに見つめられて少し居心地の悪さを感じて微笑みのままそっと視線を外す。
「ほんとだ、綺麗」
「あねさま、綺麗」
何もしていないのに、綺麗と言われて不思議に思ったが、どうやら座る姿勢のことを言っているのだとわかった。
「お腹の下あたりに力を込めて、上から糸でつられているみたいにすると、いいですよ」
藤乃はかつて母から言われたことを思い出して、そのまま伝えた。二人はこう? と言いながら素直に藤乃の真似をした。
「次いきますよ。かくとだに~ えやはいぶきのさしも草~」
志摩が次の句を読み上げた。たまたまその札が藤乃の近くにあった。藤乃は指で弾くようにして札を取った。カランと音がして畳の上に札が跳ねた。
「お手本のような取り方だな、やったことがあるのか」
「いえ、こうするのがよいと聞いたことがあっただけでございます」
天魁に感心したように聞かれたが、藤乃は静かに首を振った。謙遜ではないのだが、こういうときにそう取られて困ることがしばしばあった。まるで藤乃が嘘をついているのではないかと疑われるのだ。
「そうか」
天魁はひとつ頷くだけでそれ以上は聞いてこなかった。無意識に構えていた藤乃は、ほっと息をついた。
「あねさま、取れた!」
「すごいすごい!」
市と綾に、両側から頭を撫でられた。いい子いい子と子ども相手にするような仕草だったが、ふわふわの尻尾も手の動きと一緒に揺れるのを見て、自然と口元が緩んで笑顔になる。
すると、藤乃の手のひらに真っ赤な花びらが五枚ある花が生み出された。この花はモミジアオイ。花言葉は『穏やか』『温和』だ。
――わたしが二人に癒されたということかしら
「わあ、お花だ」
「かわいい」
突然現れた花に興味津々の二人押しのけて、天魁は花を持った藤乃の手ごと掬い取った。
「俺より先に、双子に気を許すのか」
すっと目を細めて天魁は市と綾に視線を向けた。向けられた方は、じりじりと後ろに下がっていく。
「威嚇するな、天魁」
志摩が天魁の後ろからパシンと頭を叩いた。音の割には痛くはないらしく、天魁は不満そうに鼻をならした。
さっきまで藤乃の頭を撫でていた市と綾の手首に、お揃いのブレスレットがきらめくのが見えた。水晶のような石がついた華奢ながらも存在感のあるものだ。
「可愛いブレスレットですね」
「ああ、これはね妖珠《ようじゅ》っていうの」
「妖の、命の次に大事なものだよ」
藤乃は密かに息を飲んだ。さっき頭を撫でられたときに、何かに髪が引っかかりそうになっていたことを思い出したからだ。命の次に大事なものに触れていたかもしれないなんて、冷や汗が出てくる。
「妖珠は、己の妖力が形になったものです。命の次に大事と言われますが、これを自分以外の誰かに預ける慣わしがあるんですよ」
志摩が詳しく教えてくれるが、その説明に藤乃は首を傾げる。
「大事なものなのに、ですか」
「そうすることで、力を正しく使えるようになると言われています。ちなみに相手は、兄弟姉妹、恋人、夫婦、友人など、特に決まりはありません。交換して、身につけておくのが基本ですね」
人とは違う慣わしに、藤乃は興味を惹かれた。市と綾の二人のブレスレットを交互に見る。
「市ちゃんと綾ちゃんで、交換しているのですか」
「そうだよ、かわいいでしょー」
「榛名にブレスレットにしてもらったの」
見知らぬ名前が出てきて、すかさず志摩が補足してくれる。
「私の幼馴染です。妖珠を身につける形、指輪やピアス、ブレスレット、ネックレスなどに加工する妖珠加工師がおりまして、彼女がそうなんです。腕はいいですよ」
志摩の耳にはピアスがきらりと光っている。おそらくそれが交換した妖珠なのだろう。藤乃はちらりと天魁の様子を窺う。彼はアクセサリーを身につけてはいないように見える。
「あの、天魁様は」
目が合ってしまい、藤乃はそのまま問いかけた。
「俺は、交換はしていない」
「天魁様には相手がいないんですから、仕方ないですね」
「いなくても強いから必要ないだろうが」
志摩の含みのある言い方に対しても、真っ向から跳ね返した。確かに長になるほど強いのなら、交換する必要性はないのかもしれない。
ただ、どこかでほっとしている自分自身に気付き、藤乃は首を傾げた。
――いったい何に安堵しているのかしら
じっと天魁から見つめられていることに気がついた。しかもかなりの至近距離で。
「藤乃、出掛けるぞ」
「は、はい。どちらへ」
「デートだ」
さも当然のように言うと藤乃の手を取って立ち上がった。
「で、デートでございますか」
「花嫁なのだから、当たり前だろう」
いったいどこまで本気なのだろう。藤乃は疑問を抱えながらも、仰せの通りにと答えた。
藤乃に与えられた部屋は洋風の内装の部屋で、ベッドもあり、クローゼットもあり、小さなデスクもある。天魁に買ってもらった着物やワンピースは丁寧に閉まってある。
市と綾のすすめで、白いワンピースを着ていくことになった。洋靴も用意された。
「髪の毛は任せてー」
「かわいくするよー」
藤乃は鏡の前の椅子に座って二人に任せることにした。後ろで小さな二人が頑張ってくれているのが、鏡越しに見えて微笑ましい。
「あにさまとあねさまは、らぶらぶだよね」
「あつあつだってば」
またその言葉を言われて、藤乃は恥ずかしいのと天魁に申し訳なくて否定する。
「違いますよ」
すると、市と綾はきょとんとした顔をして手を止めた。
「だって、あにさまの尻尾を触ったんでしょ?」
「そうそう、志摩が言ってた」
それは確かにそうだが、寝ているときに触れただけで……。彼の腕の中ですやすやと眠ったことを思い出して、何とも言えない気持ちになる。
市と綾はそんな藤乃の様子に気づかずに続ける。
「尻尾はくすぐったいし、弱点だから、触らせないんだよ」
「うんうん、妖珠を交換するくらいの相手じゃないと」
「えっ……」
天魁は、藤乃が触れたことに気付いていて止めなかったし、その後も気にしなくていいと言っていた。だが、そのときに志摩が驚いていたのも思い出した。
鏡に映る自分の顔が赤く見えるのはきっと気のせいだ。
「はい、できたよ」
「かわいいよ」
いつの間にか、長い黒髪は三つ編みで肩からさらりと流され、大きなリボンが飾られている。いつも下ろしていたから、印象ががらりと変わる。
「ありがとうございます。市ちゃん、綾ちゃん」
「どういたしまして。あのね、あねさまのその呼び方ね」
市がそう切り出して、呼び方が不快だったかと藤乃は訂正しようとした。が、すぐに綾が続いた。
「すごくかわいくて好き、これからもそう呼んでね」
にこにこして見上げてくる二人こそ、可愛らしい。
「はい。仰せの通りに」
二人に手を引かれて、天魁のもとに戻ってきた。
「ワンピースもその髪型もよく似合っている。綺麗だ」
天魁の手のひらがリボン、三つ編みの髪、ワンピースの襟、そして腰元にまわった。ぐっと引き寄せられて、距離が近くなる。
「あの、天魁様」
「見せびらかすか。そこまで距離は遠くないから歩いていくぞ。靴は大丈夫か」
話す間もずっと二人の距離が近くて強引なのに、藤乃への気遣いはちゃんとあって、恥ずかしさを隠すように頷いた。
「問題ございません」
「よし、行くか」
天魁に連れられて、妖都の街を歩く。活気があって、妖たちがたくさん行き交っている。その視線がちらちらとこちらに注がれている気がする。ひそやかに話す声も聞こえてくる。
「長と人の子ですわ」
「美しいお姿」
「仲睦まじいご様子だ」
多くの視線に晒されるのは、第二皇子の婚約者のときもそうだったが、どこか雰囲気が異なる。ほとんどが天魁へ向けられたものであるから。そして、良くも悪くも人形令嬢と呼ばれないからだと、気がついた。
「注目の的だな」
「それは天魁様のほうではございませんか」
「いいや」
天魁は、ふいに藤乃の耳元に口を寄せた。
「君が綺麗だから皆が見惚れている」
耳に息がかかるくらいの距離で甘さのある言い方で囁かれて、藤乃は思わず両手で耳をふさいだ。
「……っ」
どう返すのが正解はわからなくて、言葉が出てこない。すごく困る。けれど、嫌ではなかった。
「ん、いい顔だな」
愉快そうに笑う天魁だったが、藤乃自身はどんな顔をしているかなんてわからない。自分で触れた耳が少し熱いのはわかったが。藤乃は意識的にいつもの微笑みに戻した。
少し歩いた先で到着したのは、劇場だった。
看板を見れば、人が語ったいろいろな伝承を脚色して上演しているのだとわかった。今日上演されるのは、鈴鹿御前の物語を脚色した演目らしい。
「鬼女の伝承で、実際に鬼の役者が演じるらしいぞ」
「そうなのですね」
椅子に並んで腰かけると、ほどなくして幕が上がった。
鈴鹿御前は、鈴鹿山に住む女盗賊であった。彼女を討伐にしにきた将軍と恋仲になり、ともに鬼を倒したり、天命を迎えてしまった鈴鹿御前を将軍が冥土まで迎えに行ったり、波乱万丈な物語だ。脚色により、恋物語としての側面が強くなっているようだ。
――すごい
目の前で繰り広げられる物語に、藤乃は息も忘れて夢中になった。
「どうだった」
「とても、素晴らしいものを見せていただきました」
「そうか。連れてきてよかった」
天魁は藤乃の頬に親指で触れて、楽しそうに笑った。彼は時折この触れ方をしてきて、気恥ずかしい。
客席を出て、階段を下りようとしたところで後ろから来た人と肩がぶつかってしまう。
「あっ」
「すみません」
落ちないようにと踏ん張った足に、少しの痛みが走る。わずかに体勢を崩して、階段から落ちる想像が瞬時に頭の中を占める。
しかし、想像通りにはならなかった。
「大丈夫か」
天魁の腕にしっかりと抱きとめられた。腕の力が強くて、藤乃の体がほんの少し床から浮いている。天魁の長い銀色の髪が藤乃の首筋にかかってくすぐったさを覚えて身をよじる。
天魁は、藤乃を降ろさないままに片膝をついた。そして膝の上に藤乃を座らせた。他の人の目がある中で、藤乃は羞恥を感じて声を上げる。
「て、天魁さま」
「君、我慢していたな」
そう言って、左足のかかとのあたりに視線が注がれる。
慣れない洋靴で歩いたことで靴擦れをしてしまったのだ。さっき踏ん張ったときに少し痛んだだけで大したことはない。だから別に言う必要もない。
「まったく……。気づかなかった俺も俺だが」
藤乃が言わなくて、天魁が気づけるはずがないのに、そのようなことを言う。
そして、藤乃の体はふわりと浮き上がり、視線がぐっと上がった。天魁に横抱きに抱えられたのだ。
「天魁様、大袈裟でございます、下ろしてください」
「歩けば痛むだろう」
「大丈夫です、から……」
至近距離で紺碧の瞳に見つめられて、藤乃は自然と押し黙ってしまう。歩いたら痛いのはきっとその通りだから。
「いい子だ。黙って運ばれておけ」
「……仰せの、通りに」
恥ずかしさを押さえこんで、藤乃は頷いた。
「人形の顔を崩せるのは気分がいいな」
からからと楽しそうに笑う天魁の顔を見上げる。観劇の前も藤乃の顔のことを言っていた。
――いったいわたしはどんな顔をしているの
抱きかかえられたまま、連れてこられたのは、診療所だった。
「千世さん、いるか」
天魁が声をかけると、中から女性が一人出てきた。ウェーブのかかった長い髪は少しみどりがかっていて、大人っぽい優しそうな顔が印象的だ。
「あらあら、天魁様が人の子を誘拐してきちゃったわ~」
頬に手を当てて困った様子、のふりをした仕草で出迎えられた。頭上で天魁がため息をつくのが聞こえた。
「千世さん……」
「はいはい。足ね、こっちに座らせてあげてちょうだい」
千世という女性は、藤乃のことを一目見ただけで、どこを痛めているのか見抜いた。藤乃は驚いて、目をぱちぱちさせる。
「藤乃、千世さんは優秀な薬師だ。任せれば問題ない」
「よろしくお願いします」
千世は、藤乃の靴擦れの具合を見ると、指先を動かしてミルクポットに入った水を操った。そして、藤乃のかかとにひやりと水が触れた。
「ちょっと痛いかもしれないけど、綺麗に洗うから我慢してね」
「はい」
その後もてきぱきと処置をして、藤乃のかかとの痛みはほとんど感じなくなった。
「ありがとうございます。千世様」
「もう、様なんて付けなくていいわよ~。私はただの人魚の妖よ。薬師をやってるから困ったら何でも相談してちょうだい、藤乃ちゃん」
人魚の妖だから、水を操ることができたのかと納得した。帝都では、人魚は歌で人を惑わせるとか、不老不死の血だとかの伝承が多く、不気味な印象があったが、目の前の千世は朗らかで安心する雰囲気を持っている。
「千世さん、妖都でのお支払いはどうしたらいいのか、教えていただけませんか」
何でも相談して、と言われたので藤乃は目下の問題を聞いてみた。天魁にも聞いたことがあるのだが、必要ないと教えてもらえなかった。
「ここの? それとも全般?」
「全部です」
千世はちらりと天魁を見てから、にんまりという表現が合いそうな笑顔をした。
「天魁様に全部出させればいいのよ。さっきは誘拐なんて冗談で言ったけど、どうせほとんど変わらない状態で連れてきたんでしょうし?」
千世のじとーっとした目に合わせて、水の球体がふよふよと天魁のほうへ飛んでいく。天魁はそれよりも一回り大きな狐火を出して、くるりと飲み込んでしまった。水が火を飲み込んでしまうなんて、自然の摂理ではない妖の強さがそこにあるのが見えた。
「あら、強引だこと」
「ふんっ」
天魁は少し拗ねたように顔をそむけた。その様子を見ておかしそうに千世が笑う。姉が弟をからかうような雰囲気があった。
「だから、藤乃ちゃんは何も気にしなくていいのよ」
「ですが」
何も返さないのというのは気が引ける。藤乃は小さな鞄からお守りを取り出した。どこに行くにも持っていくのが癖になっているのだ。
「千世さんは、花はお好きですか」
「ええ。好きよ」
藤乃は祈るような形でお守りを握り、その花が広い自然の中で咲く様子を思い描く。込めるのは感謝の気持ちだ。
藤乃の手のひらには釣鐘のような形をした小さな花が生み出された。
「風鈴草になります。花言葉は『感謝』です。感謝の気持ちにこれを」
「まあまあ、なんて素敵なの。ありがとう藤乃ちゃん。大事にするわ」
千世に喜んでもらえて藤乃は嬉しくなった。藤乃からの感謝の気持ちのはずなのに、千世から感謝をされた。花を生み出すことは皇子の婚約者になるための、修練でしかなかった日々からすれば、喜ばれ、感謝されることが新鮮であった。
「ありがとうございます。また、来てもいいですか」
「もちろん。怪我なんてしてなくても、いつでも大歓迎よ」
優しげに手を振る千世に見送られて、藤乃と天魁は家路についた。
「なんだ、これは」
屋敷に帰ると、玄関先に琴がどどんと置かれていた。藤乃が師範から習っていたものと似た形である。
「おかえりなさい、天魁様、藤乃さん」
志摩が奥から出てきた。そして二人の視線が注がれている琴の説明をした。
「妹君からいただきました。子どもたちが世話になっているからとのことです。よければ花嫁殿にと」
「わたしにでございますか」
きょろきょろと屋敷の中を見るが、天魁の妹らしき妖はいない。
「妹君は先ほど帰られました。入れ違いでしたね」
「そうですか」
藤乃は琴へもう一度視線を戻す。とても上質なものであり、手入れも行き届いている。大事にされてきたとわかる品だ。
「もうすぐ付喪神になる代物じゃないか」
同じように琴を覗き込んでいた天魁が、感心の声を上げた。
付喪神とは、百年在り続けた物が命を得て妖となる伝承のこと。長い間大切に使われた物がそうなると言われている。目の前の琴がそうだという。
「だからこそ、弾き手の方に渡したいとお考えだそうです。妹君は、近頃はお弾きにならないとおっしゃっていました」
「そうか。居間に運んでおけ」
「はい」
天魁の指示で、志摩が琴をひょいと片手で持ち上げた。というより、指一本で持ち上げている。鬼の尋常ならざる力は本当らしい。
「あねさま、帰ってきた」
「おかえり、あねさまー」
市と綾が順番に顔を出した。彼女らの母は帰ったと言っていたが、二人は残ったらしい。
「おい、なんでいる。あいつと一緒に帰ったのではないのか」
「行って帰ってするの面倒だから」
「ここに住むことにした!」
「かかさまもいいって」
「いつでも勝負仕掛けられるよ」
市と綾は交互に話して説明した。天魁は片手で顔を覆ったが、文句を言う相手はすでに帰ってしまっている。
「仕方ないか、世話係なら常駐したほうがいいしな」
「やったー」
「やったー」
そんなやり取りを見ながら居間に入ると、志摩が琴を丁寧に置いているところだった。
「藤乃、弾いてみてくれ」
天魁からそう言われ、志摩と市、綾からも期待の視線を注がれる。琴を習得したのは、婚約者を楽しませるためだ。想定していた相手とは違うものの、同じことだ。
「仰せの通りに」
藤乃は、琴の前に座って大きく深呼吸をした。
何度も練習を重ねた一曲を披露する。指の動きはしっかり体に入っているし、音も綺麗に出ている。
――あっ
完璧に演奏できていたというのに、最後の最後でミスをしてしまった。さあっと血の気が引いていく。失敗なんてしては、失望されてしまう。顔を上げるのがこわい。
「見事だ」
「……え」
天魁の声に、藤乃は弾かれるように顔を上げた。失敗したというのに、どうして責めないのか。
「わたし、今、失敗してしまいました。申し訳ございません……」
耐えられなくて自分からそう告げた。しかし、それでも天魁の態度は変わらない。
「俺は妹のように細かいことはわからない。見事な演奏であったし、重ねた時間がわかる手だった」
天魁は促すように市と綾を見た。
「すごかった!」
「かっこよかった!」
二人はそれぞれ目を輝かせて言い、志摩も拍手を送ってくれた。
まっすぐに褒められて、藤乃の中にほのかに自信が灯る。いや、戻ってきた。
「もう一曲、聴いていただけますか」
「もちろん」
肩の力を抜けて、さっきよりももっと音が響くのがわかる。音色が格段に違う。師範が言った心で音を奏でることが少しわかったかもしれない。今度はミスもしなかった。
「楽しませてもらったぞ、藤乃」
「ありがとうございます」
ふわりと花が生み出された。ナツシロギクという小ぶりな菊の花だ。花言葉は『楽しむ心』だ。
藤乃自身もわかっていた。今、とても楽しかったと。
藤乃が妖都へ来て、数日が経った。流れのままに藤乃は天魁の屋敷で過ごしている。藤乃のための部屋も与えられ、恐縮しつつも行くところがないので頷くしかない。
居間で一緒に志摩に用意してもらったお茶を飲んでいると、誰かが勢いよく入ってきた。
「勝負だ、あにさま!」
「勝負だ、あにさま!」
よく似た幼い狐の少女二人が同時に声を張り上げた。金色の髪の中から同じ色の狐の耳がピンと立っており、同じく金色のふわふわの尻尾が大きく揺れる。
畳を蹴り上げると、高い跳躍を見せ、そのまま天魁に突進した。
「えっ、あの」
藤乃は、どうしたらと志摩を見上げるが、少しも焦った様子もなく首を振った。
「大丈夫ですよ」
勢いよく飛んでいった二人は、天魁の一薙ぎでぽーんと弾き飛ばされてしまった。そして、空中でくるりと一回転して、軽やかに着地した。
「今のはいったい……」
志摩は教授が解説をするかのように、人差し指を立てた。
「妖都では、血筋などは関係なく、一番強い者が長になります」
「天魁様が一番お強いから、長なのですね」
「その通りです。長に勝てばいつでも交代可能なので、彼女らはこうして勝負を仕掛けているんです」
理屈はわかったが、勝てばいいとはいえこんな風に突然勝負を仕掛けてくるのは天魁が困るのではないか。
「いいのですか」
藤乃の疑問には、天魁が答えた。
「こいつらの鍛錬になるからいい。一日一度までとしているがな」
畳の上で悔しそうに転がっている二人を見て、藤乃は質問を重ねた。
「彼女たちは?」
「姪だ。ほら、挨拶しろ」
ぴょんと軽やかに立ち上がると、二人はにんまりと可愛らしい笑みを浮かべた。
「市だよ」
「綾だよ」
黄色の着物を着た子が市、橙色が綾と名乗った。
「双子だよー」
「双子だよー」
またしても息の合った声でそう教えてくれた。たぶん、誰が見ても双子だとわかるくらいにはそっくりだ。
「また負けたー、せっかく妖都の入り口まで来たのに」
「ねえー、家から遠いのに」
そういえば、天魁の屋敷は妖都の入り口に近いところに建っている。表の荘園からはじめて入ったときも、屋敷が近かったからすぐに休めたのだった。
「天魁様の屋敷が入り口にあるのも、強いからなんですよ」
志摩は少し誇らしげに続けた。
「有事の際に、妖都と皆を守るためとここに屋敷を構えることにしたんです。ね、天魁様?」
「まあ、有事があるかどうかもわからないがな。あと、わざとらしく様付けするな、気持ち悪い」
志摩が肩をすくめて天魁からの文句を受け流した。
長ならば、都の一番奥に位置しそうなものを、最前線にいるという。その考えを素直にすごいと思った。
「いつか市たちが勝ってやるんだからね」
「守ってやるんだからね!」
市と綾はそう凄んでいるが、傍から見ても可愛らしい宣言にしか見えない。
「はいはい。藤乃、世話係にこいつらをつける、俺も志摩も男だからこんなのでも同性がいたほうがいいだろう」
天魁は二人の言葉をさらりと流してから、藤乃に改めて双子を紹介した。藤乃のために呼んでくれたようだ。
「よろしくね、あねさま」
「よろしくね、あねさま」
市と綾は藤乃を挟んで座り込んだ。
「あねさま、ですか」
慣れない呼び名に藤乃は思わず聞き返した。すると、当然と言わんばかりの返事が返ってきた。
「あにさまが、あにさまだから」
「あねさまは、あねさまだよ」
志摩がこっそり二人の言葉に補足をした。
「天魁様は市と綾にとっては伯父にあたるので、おじさまと呼びかけて、それはさすがにと二人の母君があにさまに訂正させたそうです」
その光景を想像して、少しおかしかった。そんな話は聞こえていないのか、市と綾は、藤乃の両脇で金色のふわふわの尻尾を揺らす。もふもふに自然と心が安らいでいく。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
二人がにっこりと笑って、藤乃の手を片方ずつ取った。
「じゃあ、さっそく」
「遊ぼうー!」
藤乃は困惑しつつも、微笑みを崩さないように聞き返した。
「遊ぶのですか。でも、わたし修練をしないと」
この前も感情的に花を出してしまった。修練をして、乱れないようにしなければならない。
「えーなんでー」
「遊ぼうよー」
藤乃の両手をぶんぶんと振って駄々をこねられてしまう。左右に振られて藤乃の黒髪が大きく揺れる。
天魁が市と綾の手を離させたことで、藤乃は揺れから解放された。
「こいつらの相手をしてやってくれ」
天魁からもそう頼まれて、藤乃は頷いた。
「はい、仰せの通りに」
藤乃が遊んでくれるとわかり、市と綾はぱあっと顔を輝かせた。
「じゃあ、椅子取りしようよ」
「おもしろいよ」
音楽や歌に合わせて椅子の周りをまわり、音が止まった瞬間に椅子を取りあう遊びだ。人数より一つ少なくしてどんどん勝ち上がっていくのだ。そういう遊びがあると知ってはいるが、友人がいなかったからやったことはない。
「ここでは座布団ですね」
志摩が訂正するように口を挟んだ。
天魁の屋敷は武家屋敷のような和風建築で、この居間も畳に座布団が置かれ、脚の短い卓が中央に座している。一方、寝室はベッドがあって洋風の内装だったり、天魁の執務室もテーブルとソファがあったりするらしい。和洋折衷は自由な雰囲気があっていい。
「だめだ」
天魁が一蹴した。
なんでえと双子が同時に頬を膨らませて天魁を見る。
「お前らと椅子取りなんかしたら、藤乃が吹き飛ぶだろうが」
藤乃は、さっきの勝負だと言って突進した二人を思い出して、自分に向かってくるところを想像した。とても避けられる気がしない。
さすがに二人も納得したようで、すぐに切り替えた。
「じゃあ、かるたしよ」
「かるたならだいじょうぶ!」
それならまあ、と天魁も頷いた。
「最近の子ども用のものはないぞ。昔もらった百人一首はあったか」
「あり!」
「よい!」
天魁が二人のことを子どもと言っていた。しかし、服屋の店員のこともあって、見た目では年齢はわからない。
「二人は何歳ですか」
「五十歳くらい!」
「五十歳くらい!」
藤乃の倍以上ではあるが、人なら五、六歳だろうか。言動も可愛らしくて幼い雰囲気がある。
「彼女らはまだまだ子どもですよ。妖の基準でも。言うと怒りますけど」
「そうなのですね」
志摩が小声で教えてくれた。子どもと言われて怒るのはなんとも子どもらしい。
そういえば志摩は何歳なのだろうかと気になって顔を見つめ返す。天魁と同じくらいに見えるが、やはり見た目はあまり参考にならないだろう。
「私は二百五十くらいですよ」
察したらしく教えてくれた。天魁に仕えているけれど、年上なのか。強い者が長になるなら年齢も関係ないのだろう。
「ほらほら。あねさまも座って」
「はやくはやく」
いつの間にか、天魁も志摩も座布団に座り直している。目の前にはかるたが散らばっている。
「藤乃、座れ」
まるで家族の団らんのような光景で、自分がそこに入ることに躊躇いを覚える。
「いえ、わたしは……」
「じゃあ、俺の膝の上に座るか」
「えっ」
天魁はにやりと楽しげな笑みを浮かべて、ぽんぽんと自分の膝を叩いた。冗談なのだろうが、どこか本気の気配も感じて藤乃はどぎまぎしてしまう。
「わあ、らぶらぶだあ」
「ちがうよ、あつあつだよ」
市と綾が最近覚えたのか、使い慣れていない言葉でそれぞれ口にするから、さらに藤乃は恥ずかしくなってくる。
「その、仰せの通りに」
「膝の上か?」
「座布団です……!」
藤乃はすとんと座布団に腰を下ろした。
百人一首は教養として叩き込まれて知っているが、かるたとしてやったことはない。下の句が書かれた札を取るらしい。読み手は志摩が務めることになった。
「ひさかたの~ 光のどけき春の日に~」
朗々とした声で志摩が読み上げる。
「はいっ」
市が体ごと飛び出すように札を取った。この勢いでは椅子取りでなくても、飛ばされるような気がする。
「ほいっ」
続けて綾も勢いよく札に飛び込んだ。
「静かに取れないのか」
胡座をかいている天魁が、呆れ気味に言った。本人は座ってはいるものの、札を取る気はあまりないらしい。
「藤乃を見てみろ」
二人分の視線が藤乃に注がれる。まっすぐに見つめられて少し居心地の悪さを感じて微笑みのままそっと視線を外す。
「ほんとだ、綺麗」
「あねさま、綺麗」
何もしていないのに、綺麗と言われて不思議に思ったが、どうやら座る姿勢のことを言っているのだとわかった。
「お腹の下あたりに力を込めて、上から糸でつられているみたいにすると、いいですよ」
藤乃はかつて母から言われたことを思い出して、そのまま伝えた。二人はこう? と言いながら素直に藤乃の真似をした。
「次いきますよ。かくとだに~ えやはいぶきのさしも草~」
志摩が次の句を読み上げた。たまたまその札が藤乃の近くにあった。藤乃は指で弾くようにして札を取った。カランと音がして畳の上に札が跳ねた。
「お手本のような取り方だな、やったことがあるのか」
「いえ、こうするのがよいと聞いたことがあっただけでございます」
天魁に感心したように聞かれたが、藤乃は静かに首を振った。謙遜ではないのだが、こういうときにそう取られて困ることがしばしばあった。まるで藤乃が嘘をついているのではないかと疑われるのだ。
「そうか」
天魁はひとつ頷くだけでそれ以上は聞いてこなかった。無意識に構えていた藤乃は、ほっと息をついた。
「あねさま、取れた!」
「すごいすごい!」
市と綾に、両側から頭を撫でられた。いい子いい子と子ども相手にするような仕草だったが、ふわふわの尻尾も手の動きと一緒に揺れるのを見て、自然と口元が緩んで笑顔になる。
すると、藤乃の手のひらに真っ赤な花びらが五枚ある花が生み出された。この花はモミジアオイ。花言葉は『穏やか』『温和』だ。
――わたしが二人に癒されたということかしら
「わあ、お花だ」
「かわいい」
突然現れた花に興味津々の二人押しのけて、天魁は花を持った藤乃の手ごと掬い取った。
「俺より先に、双子に気を許すのか」
すっと目を細めて天魁は市と綾に視線を向けた。向けられた方は、じりじりと後ろに下がっていく。
「威嚇するな、天魁」
志摩が天魁の後ろからパシンと頭を叩いた。音の割には痛くはないらしく、天魁は不満そうに鼻をならした。
さっきまで藤乃の頭を撫でていた市と綾の手首に、お揃いのブレスレットがきらめくのが見えた。水晶のような石がついた華奢ながらも存在感のあるものだ。
「可愛いブレスレットですね」
「ああ、これはね妖珠《ようじゅ》っていうの」
「妖の、命の次に大事なものだよ」
藤乃は密かに息を飲んだ。さっき頭を撫でられたときに、何かに髪が引っかかりそうになっていたことを思い出したからだ。命の次に大事なものに触れていたかもしれないなんて、冷や汗が出てくる。
「妖珠は、己の妖力が形になったものです。命の次に大事と言われますが、これを自分以外の誰かに預ける慣わしがあるんですよ」
志摩が詳しく教えてくれるが、その説明に藤乃は首を傾げる。
「大事なものなのに、ですか」
「そうすることで、力を正しく使えるようになると言われています。ちなみに相手は、兄弟姉妹、恋人、夫婦、友人など、特に決まりはありません。交換して、身につけておくのが基本ですね」
人とは違う慣わしに、藤乃は興味を惹かれた。市と綾の二人のブレスレットを交互に見る。
「市ちゃんと綾ちゃんで、交換しているのですか」
「そうだよ、かわいいでしょー」
「榛名にブレスレットにしてもらったの」
見知らぬ名前が出てきて、すかさず志摩が補足してくれる。
「私の幼馴染です。妖珠を身につける形、指輪やピアス、ブレスレット、ネックレスなどに加工する妖珠加工師がおりまして、彼女がそうなんです。腕はいいですよ」
志摩の耳にはピアスがきらりと光っている。おそらくそれが交換した妖珠なのだろう。藤乃はちらりと天魁の様子を窺う。彼はアクセサリーを身につけてはいないように見える。
「あの、天魁様は」
目が合ってしまい、藤乃はそのまま問いかけた。
「俺は、交換はしていない」
「天魁様には相手がいないんですから、仕方ないですね」
「いなくても強いから必要ないだろうが」
志摩の含みのある言い方に対しても、真っ向から跳ね返した。確かに長になるほど強いのなら、交換する必要性はないのかもしれない。
ただ、どこかでほっとしている自分自身に気付き、藤乃は首を傾げた。
――いったい何に安堵しているのかしら
じっと天魁から見つめられていることに気がついた。しかもかなりの至近距離で。
「藤乃、出掛けるぞ」
「は、はい。どちらへ」
「デートだ」
さも当然のように言うと藤乃の手を取って立ち上がった。
「で、デートでございますか」
「花嫁なのだから、当たり前だろう」
いったいどこまで本気なのだろう。藤乃は疑問を抱えながらも、仰せの通りにと答えた。
藤乃に与えられた部屋は洋風の内装の部屋で、ベッドもあり、クローゼットもあり、小さなデスクもある。天魁に買ってもらった着物やワンピースは丁寧に閉まってある。
市と綾のすすめで、白いワンピースを着ていくことになった。洋靴も用意された。
「髪の毛は任せてー」
「かわいくするよー」
藤乃は鏡の前の椅子に座って二人に任せることにした。後ろで小さな二人が頑張ってくれているのが、鏡越しに見えて微笑ましい。
「あにさまとあねさまは、らぶらぶだよね」
「あつあつだってば」
またその言葉を言われて、藤乃は恥ずかしいのと天魁に申し訳なくて否定する。
「違いますよ」
すると、市と綾はきょとんとした顔をして手を止めた。
「だって、あにさまの尻尾を触ったんでしょ?」
「そうそう、志摩が言ってた」
それは確かにそうだが、寝ているときに触れただけで……。彼の腕の中ですやすやと眠ったことを思い出して、何とも言えない気持ちになる。
市と綾はそんな藤乃の様子に気づかずに続ける。
「尻尾はくすぐったいし、弱点だから、触らせないんだよ」
「うんうん、妖珠を交換するくらいの相手じゃないと」
「えっ……」
天魁は、藤乃が触れたことに気付いていて止めなかったし、その後も気にしなくていいと言っていた。だが、そのときに志摩が驚いていたのも思い出した。
鏡に映る自分の顔が赤く見えるのはきっと気のせいだ。
「はい、できたよ」
「かわいいよ」
いつの間にか、長い黒髪は三つ編みで肩からさらりと流され、大きなリボンが飾られている。いつも下ろしていたから、印象ががらりと変わる。
「ありがとうございます。市ちゃん、綾ちゃん」
「どういたしまして。あのね、あねさまのその呼び方ね」
市がそう切り出して、呼び方が不快だったかと藤乃は訂正しようとした。が、すぐに綾が続いた。
「すごくかわいくて好き、これからもそう呼んでね」
にこにこして見上げてくる二人こそ、可愛らしい。
「はい。仰せの通りに」
二人に手を引かれて、天魁のもとに戻ってきた。
「ワンピースもその髪型もよく似合っている。綺麗だ」
天魁の手のひらがリボン、三つ編みの髪、ワンピースの襟、そして腰元にまわった。ぐっと引き寄せられて、距離が近くなる。
「あの、天魁様」
「見せびらかすか。そこまで距離は遠くないから歩いていくぞ。靴は大丈夫か」
話す間もずっと二人の距離が近くて強引なのに、藤乃への気遣いはちゃんとあって、恥ずかしさを隠すように頷いた。
「問題ございません」
「よし、行くか」
天魁に連れられて、妖都の街を歩く。活気があって、妖たちがたくさん行き交っている。その視線がちらちらとこちらに注がれている気がする。ひそやかに話す声も聞こえてくる。
「長と人の子ですわ」
「美しいお姿」
「仲睦まじいご様子だ」
多くの視線に晒されるのは、第二皇子の婚約者のときもそうだったが、どこか雰囲気が異なる。ほとんどが天魁へ向けられたものであるから。そして、良くも悪くも人形令嬢と呼ばれないからだと、気がついた。
「注目の的だな」
「それは天魁様のほうではございませんか」
「いいや」
天魁は、ふいに藤乃の耳元に口を寄せた。
「君が綺麗だから皆が見惚れている」
耳に息がかかるくらいの距離で甘さのある言い方で囁かれて、藤乃は思わず両手で耳をふさいだ。
「……っ」
どう返すのが正解はわからなくて、言葉が出てこない。すごく困る。けれど、嫌ではなかった。
「ん、いい顔だな」
愉快そうに笑う天魁だったが、藤乃自身はどんな顔をしているかなんてわからない。自分で触れた耳が少し熱いのはわかったが。藤乃は意識的にいつもの微笑みに戻した。
少し歩いた先で到着したのは、劇場だった。
看板を見れば、人が語ったいろいろな伝承を脚色して上演しているのだとわかった。今日上演されるのは、鈴鹿御前の物語を脚色した演目らしい。
「鬼女の伝承で、実際に鬼の役者が演じるらしいぞ」
「そうなのですね」
椅子に並んで腰かけると、ほどなくして幕が上がった。
鈴鹿御前は、鈴鹿山に住む女盗賊であった。彼女を討伐にしにきた将軍と恋仲になり、ともに鬼を倒したり、天命を迎えてしまった鈴鹿御前を将軍が冥土まで迎えに行ったり、波乱万丈な物語だ。脚色により、恋物語としての側面が強くなっているようだ。
――すごい
目の前で繰り広げられる物語に、藤乃は息も忘れて夢中になった。
「どうだった」
「とても、素晴らしいものを見せていただきました」
「そうか。連れてきてよかった」
天魁は藤乃の頬に親指で触れて、楽しそうに笑った。彼は時折この触れ方をしてきて、気恥ずかしい。
客席を出て、階段を下りようとしたところで後ろから来た人と肩がぶつかってしまう。
「あっ」
「すみません」
落ちないようにと踏ん張った足に、少しの痛みが走る。わずかに体勢を崩して、階段から落ちる想像が瞬時に頭の中を占める。
しかし、想像通りにはならなかった。
「大丈夫か」
天魁の腕にしっかりと抱きとめられた。腕の力が強くて、藤乃の体がほんの少し床から浮いている。天魁の長い銀色の髪が藤乃の首筋にかかってくすぐったさを覚えて身をよじる。
天魁は、藤乃を降ろさないままに片膝をついた。そして膝の上に藤乃を座らせた。他の人の目がある中で、藤乃は羞恥を感じて声を上げる。
「て、天魁さま」
「君、我慢していたな」
そう言って、左足のかかとのあたりに視線が注がれる。
慣れない洋靴で歩いたことで靴擦れをしてしまったのだ。さっき踏ん張ったときに少し痛んだだけで大したことはない。だから別に言う必要もない。
「まったく……。気づかなかった俺も俺だが」
藤乃が言わなくて、天魁が気づけるはずがないのに、そのようなことを言う。
そして、藤乃の体はふわりと浮き上がり、視線がぐっと上がった。天魁に横抱きに抱えられたのだ。
「天魁様、大袈裟でございます、下ろしてください」
「歩けば痛むだろう」
「大丈夫です、から……」
至近距離で紺碧の瞳に見つめられて、藤乃は自然と押し黙ってしまう。歩いたら痛いのはきっとその通りだから。
「いい子だ。黙って運ばれておけ」
「……仰せの、通りに」
恥ずかしさを押さえこんで、藤乃は頷いた。
「人形の顔を崩せるのは気分がいいな」
からからと楽しそうに笑う天魁の顔を見上げる。観劇の前も藤乃の顔のことを言っていた。
――いったいわたしはどんな顔をしているの
抱きかかえられたまま、連れてこられたのは、診療所だった。
「千世さん、いるか」
天魁が声をかけると、中から女性が一人出てきた。ウェーブのかかった長い髪は少しみどりがかっていて、大人っぽい優しそうな顔が印象的だ。
「あらあら、天魁様が人の子を誘拐してきちゃったわ~」
頬に手を当てて困った様子、のふりをした仕草で出迎えられた。頭上で天魁がため息をつくのが聞こえた。
「千世さん……」
「はいはい。足ね、こっちに座らせてあげてちょうだい」
千世という女性は、藤乃のことを一目見ただけで、どこを痛めているのか見抜いた。藤乃は驚いて、目をぱちぱちさせる。
「藤乃、千世さんは優秀な薬師だ。任せれば問題ない」
「よろしくお願いします」
千世は、藤乃の靴擦れの具合を見ると、指先を動かしてミルクポットに入った水を操った。そして、藤乃のかかとにひやりと水が触れた。
「ちょっと痛いかもしれないけど、綺麗に洗うから我慢してね」
「はい」
その後もてきぱきと処置をして、藤乃のかかとの痛みはほとんど感じなくなった。
「ありがとうございます。千世様」
「もう、様なんて付けなくていいわよ~。私はただの人魚の妖よ。薬師をやってるから困ったら何でも相談してちょうだい、藤乃ちゃん」
人魚の妖だから、水を操ることができたのかと納得した。帝都では、人魚は歌で人を惑わせるとか、不老不死の血だとかの伝承が多く、不気味な印象があったが、目の前の千世は朗らかで安心する雰囲気を持っている。
「千世さん、妖都でのお支払いはどうしたらいいのか、教えていただけませんか」
何でも相談して、と言われたので藤乃は目下の問題を聞いてみた。天魁にも聞いたことがあるのだが、必要ないと教えてもらえなかった。
「ここの? それとも全般?」
「全部です」
千世はちらりと天魁を見てから、にんまりという表現が合いそうな笑顔をした。
「天魁様に全部出させればいいのよ。さっきは誘拐なんて冗談で言ったけど、どうせほとんど変わらない状態で連れてきたんでしょうし?」
千世のじとーっとした目に合わせて、水の球体がふよふよと天魁のほうへ飛んでいく。天魁はそれよりも一回り大きな狐火を出して、くるりと飲み込んでしまった。水が火を飲み込んでしまうなんて、自然の摂理ではない妖の強さがそこにあるのが見えた。
「あら、強引だこと」
「ふんっ」
天魁は少し拗ねたように顔をそむけた。その様子を見ておかしそうに千世が笑う。姉が弟をからかうような雰囲気があった。
「だから、藤乃ちゃんは何も気にしなくていいのよ」
「ですが」
何も返さないのというのは気が引ける。藤乃は小さな鞄からお守りを取り出した。どこに行くにも持っていくのが癖になっているのだ。
「千世さんは、花はお好きですか」
「ええ。好きよ」
藤乃は祈るような形でお守りを握り、その花が広い自然の中で咲く様子を思い描く。込めるのは感謝の気持ちだ。
藤乃の手のひらには釣鐘のような形をした小さな花が生み出された。
「風鈴草になります。花言葉は『感謝』です。感謝の気持ちにこれを」
「まあまあ、なんて素敵なの。ありがとう藤乃ちゃん。大事にするわ」
千世に喜んでもらえて藤乃は嬉しくなった。藤乃からの感謝の気持ちのはずなのに、千世から感謝をされた。花を生み出すことは皇子の婚約者になるための、修練でしかなかった日々からすれば、喜ばれ、感謝されることが新鮮であった。
「ありがとうございます。また、来てもいいですか」
「もちろん。怪我なんてしてなくても、いつでも大歓迎よ」
優しげに手を振る千世に見送られて、藤乃と天魁は家路についた。
「なんだ、これは」
屋敷に帰ると、玄関先に琴がどどんと置かれていた。藤乃が師範から習っていたものと似た形である。
「おかえりなさい、天魁様、藤乃さん」
志摩が奥から出てきた。そして二人の視線が注がれている琴の説明をした。
「妹君からいただきました。子どもたちが世話になっているからとのことです。よければ花嫁殿にと」
「わたしにでございますか」
きょろきょろと屋敷の中を見るが、天魁の妹らしき妖はいない。
「妹君は先ほど帰られました。入れ違いでしたね」
「そうですか」
藤乃は琴へもう一度視線を戻す。とても上質なものであり、手入れも行き届いている。大事にされてきたとわかる品だ。
「もうすぐ付喪神になる代物じゃないか」
同じように琴を覗き込んでいた天魁が、感心の声を上げた。
付喪神とは、百年在り続けた物が命を得て妖となる伝承のこと。長い間大切に使われた物がそうなると言われている。目の前の琴がそうだという。
「だからこそ、弾き手の方に渡したいとお考えだそうです。妹君は、近頃はお弾きにならないとおっしゃっていました」
「そうか。居間に運んでおけ」
「はい」
天魁の指示で、志摩が琴をひょいと片手で持ち上げた。というより、指一本で持ち上げている。鬼の尋常ならざる力は本当らしい。
「あねさま、帰ってきた」
「おかえり、あねさまー」
市と綾が順番に顔を出した。彼女らの母は帰ったと言っていたが、二人は残ったらしい。
「おい、なんでいる。あいつと一緒に帰ったのではないのか」
「行って帰ってするの面倒だから」
「ここに住むことにした!」
「かかさまもいいって」
「いつでも勝負仕掛けられるよ」
市と綾は交互に話して説明した。天魁は片手で顔を覆ったが、文句を言う相手はすでに帰ってしまっている。
「仕方ないか、世話係なら常駐したほうがいいしな」
「やったー」
「やったー」
そんなやり取りを見ながら居間に入ると、志摩が琴を丁寧に置いているところだった。
「藤乃、弾いてみてくれ」
天魁からそう言われ、志摩と市、綾からも期待の視線を注がれる。琴を習得したのは、婚約者を楽しませるためだ。想定していた相手とは違うものの、同じことだ。
「仰せの通りに」
藤乃は、琴の前に座って大きく深呼吸をした。
何度も練習を重ねた一曲を披露する。指の動きはしっかり体に入っているし、音も綺麗に出ている。
――あっ
完璧に演奏できていたというのに、最後の最後でミスをしてしまった。さあっと血の気が引いていく。失敗なんてしては、失望されてしまう。顔を上げるのがこわい。
「見事だ」
「……え」
天魁の声に、藤乃は弾かれるように顔を上げた。失敗したというのに、どうして責めないのか。
「わたし、今、失敗してしまいました。申し訳ございません……」
耐えられなくて自分からそう告げた。しかし、それでも天魁の態度は変わらない。
「俺は妹のように細かいことはわからない。見事な演奏であったし、重ねた時間がわかる手だった」
天魁は促すように市と綾を見た。
「すごかった!」
「かっこよかった!」
二人はそれぞれ目を輝かせて言い、志摩も拍手を送ってくれた。
まっすぐに褒められて、藤乃の中にほのかに自信が灯る。いや、戻ってきた。
「もう一曲、聴いていただけますか」
「もちろん」
肩の力を抜けて、さっきよりももっと音が響くのがわかる。音色が格段に違う。師範が言った心で音を奏でることが少しわかったかもしれない。今度はミスもしなかった。
「楽しませてもらったぞ、藤乃」
「ありがとうございます」
ふわりと花が生み出された。ナツシロギクという小ぶりな菊の花だ。花言葉は『楽しむ心』だ。
藤乃自身もわかっていた。今、とても楽しかったと。



