完璧な人形令嬢の恋の堕ち方 ~あやかしの長は花嫁を離さない~

【第一章 白いスイートピーはほのかな喜びを知る】

 陽が傾いている。空の色は地平線から橙、桃色、紫色、青色へと徐々に美しく変化する。春先の帝都には街灯がぽつりぽつりと灯りはじめる。近代化を感じる光景と、きっと昔から何も変わらない空を窓越しに少女は見つめている。
朝霧(あさぎり)様。朝霧藤乃(ふじの)様」
 名を呼ばれて、少女――藤乃は振り返る。さらりと腰まである長い黒髪が揺れた。緋色を基調とし、色とりどりの花が散らされた着物を身に纏う。
 ここは、ダンスホールを備えた、つい最近できた洋館だ。参加者は和装の者と洋装の者が半分ずつくらいだろうか。一階のダンスフロアにいる者たちは、身なりがよく相応の位であることが見てわかる。目の前の夫人たちも同様で、高価な洋装を身につけているがまだ着慣れていないであろうこともよくわかる。
 藤乃は、少し顎を引いて口角は上げ過ぎないように微笑みを保ち、わずかに小首を傾げて夫人たちの返答に代える。侯爵令嬢としての所作は染み付いている。
「侯爵家のご令嬢ともなれば、身につけるものも一級品ですわね。藤乃様の美しさが一層引き立ちます」
「女学校を優秀な成績で卒業なさったとお聞きしましたよ」
「加えて、加護の御力をお持ちだなんて、精巧に作られた人形のような完璧さです。ねえ? 皆さん」
 帝都には、稀に存在する特殊な能力を持つ者がいる。その能力のことを加護と呼ぶのだ。藤乃は幼いころから花を生み出す能力があった。花を生み出すには、土に触れることが必要で、神社の土を押し固めた特別な御神体をお守り袋の中に入れて持ち歩いている。
「今日、拝見できると聞いております。楽しみですわ」
「それに藤乃様は第二皇子(みこ)様の婚約者で――」
「藤乃」
 夫人の声を遮るように、凛とした女性の声が藤乃の名前を呼んだ。
「無駄なことは話していないわね?」
「はい、お母様。仰せの通りに」
 藤乃は母の言葉にいつものように答えた。そして、夫人たちに一礼をしてから、さっさと歩き出している母の背中を追いかけた。
「……本当に言いなりの『人形令嬢』だこと」
 人形令嬢。華族の中で囁かれる、藤乃を形容する言葉だ。人形のように完璧な人という褒め意味と、家の言いなりの都合のいい人と揶揄する意味。夫人たちの陰口に耳を貸すことはない。事実そうなのだから。藤乃が一番よくわかっている。
――それが家のため、帝都のためだもの
「まあ、柾弥(まさや)様よ!」
「今日は洋装をお召しなのね、素敵だわ」
 女性たちの黄色い声とともに、第二皇子である征弥が二階から現れた。
 二階とダンスフロアを繋ぐ階段の途中に広い踊り場があり、バルコニーのようにダンスフロアを見下ろせる。征弥はそこに立ち、参加者たちの上から挨拶を口にした。
「皆、よく集まってくれた。今日はめでたい報告がある」
 藤乃は母に促されて階段を上っていく。今日は第二皇子の婚約者がお披露目される予定だ。夫人たちの推測通り、その婚約者が藤乃である。加護が発現してから、第二皇子の婚約者となるため厳しく育てられた。
だというのに、征弥ときちんと会うのは今日がはじめてだった。十八歳になり、女学校を卒業してからお披露目するからそれまでは会わず、婚約の件も伏せるという方針である。
「はじめまして、第二皇子様。朝霧藤乃でございます」
「ああ」
 征弥は一度藤乃に目をやったものの、すぐに一階へと視線を戻した。
 藤乃は母に言われた段取りを頭の中で思い返し、それを行動に移す。お守りを手のひらの中に握り、祈るように両手を組んだ。そして広い自然の中である花が咲く様子を思い描く。
「まあ、なんて美しい……」
ほのかな光とともに、藤乃の手の中に二輪の百合の花が生み出される。
百合の花言葉は、『純潔と無垢』である。この婚約発表に合うだろうと母の助言だった。
「これが加護の御力ですの」
「なんと清廉な姿だ」
 ダンスフロアから感嘆の声が上がり、藤乃は上手くいったことにほっと息をついた。そしてすぐに微笑みをたたえて、征弥へ差し出した。
「こちらを、婚約の祝いに――」
「待て」
 征弥が藤乃の言葉を止め、藤乃ではなく反対の方向へ、二階に向けて手を差し出す。すると、二階からワインレッドのドレスを身につけた少女が降りてきて、第二皇子の手を取った。
「……香澄(かすみ)さんが、どうしてここに」
 藤乃の口から、思わず疑問が零れ落ちた。
 彼女は朝霧香澄、藤乃の従妹にあたる人物だ。あまり交流がなく、数回会ったことがある程度だ。
「私は、この朝霧香澄と婚約することをここに宣言する」
 征弥の宣言に、ダンスフロアは異様にざわついた。第二皇子の婚約者は、藤乃である。それは公にされていなかったものの、華族の者の間では周知の事実だった。そのはずだった。
「香澄には加護がある。だから、加護がある者が第二皇子の婚約者であるという条件を満たしているのだ」
 征弥は、朗々とした声でそう続けた。
藤乃は何が何だかわからなくて、階段の下にいる母を振り返ったが母も驚愕の表情を浮かべて固まっている。
「見せてやるといい、香澄」
「はい、征弥様」
 その短いやり取りだけで、二人は何度も逢瀬を重ねて気持ちを確かめ合った仲なのだと理解した。二人の間に流れる空気は他の誰かが入り込む余地などないほど甘やかなものだ。
 香澄は、さっと可愛らしい傘を取り出すと征弥と二人でその中に収まった。
「……え、雨?」
 唐突に藤乃の頭上に雨が降り出した。ここは室内だというのに、雨粒がどんどん藤乃を濡らしていく。黒髪が頬にぴたりと張りついて気持ちが悪い。水に濡れたせいで、持っていたお守りの中の土が溢れ出て、真っ白な百合が汚れてしまった。
「わたくしは、雨を降らせる加護を持っております。この帝都に恵みの雨を与えることができます」
 香澄は凛とした声で、しかし健気さを忘れずに言うと、優雅な仕草で傘を閉じる。
 征弥は香澄の手を取ったまま、藤乃と参加者へ告げた。
「君との婚約は破棄する。……もともと正式なものでもなかったがな」
 藤乃は絶句した。
 会ったこともない征弥へ想いがあったわけではない。華族の婚約や結婚なんてそんなものだ。けれど、彼の婚約者となるために藤乃は生きてきたのだ。幼いころからすべての時間をそのためだけに使ってきた。表情も、発する言葉も、行動も、着るものも何もかも。
 ――わたしの、今までは、いったい
「惨めなお姿ね、藤乃さん」
 一階には聞こえないような小さな声で、香澄はそう言った。見れば雨が降ったのは踊り場だけで、ダンスフロアにいる者たちは濡れていない。ほっとするとともに、濡れ鼠になっているのは藤乃だけだと気がついた。
 藤乃を包んでいるのは、惨めさというよりも虚無感に近い。
「朝霧家と婚約することには変わりないのだから、問題ないだろう?」
そのとき、バンッと音を立てて、唐突に洋館の扉が開かれた。内から外へと風が吹き抜ける。その風にも一切動じない青く揺らめく炎が、いくつも空中に浮かんでいる。
「これは、狐火(きつねび)では……!?」
 黒い着物に青い帯を合わせ、黒の羽織を肩に引っ掛けた長身の男が炎を従えながら洋館に入ってきた。長い銀髪に紺碧の瞳は、彼が人ならざる者であることを示す。二十代ほどに見えるが、どこか貫禄のある雰囲気を纏っている。
(あやかし)がどうしてここに……」
「恐ろしいわ」
「とり憑かれでもしたらどうするんだ」
 人ならざる者を、妖と呼ぶ。
狐火と呼ばれる炎を操る狐の妖、尋常ならざる力を持つ鬼、空を駆ける天狗、血を飲めば不老不死になるという人魚、あらゆるものを凍てつかせる雪の怪、人にとり憑く猫又など。妖の恐ろしい話はいくらでも聞こえてくる。
妖は帝都の外れにある荘園で暮らしている。妖の持つ力は帝都にも影響力を持ち、帝都の君主である皇《すめらぎ》とは不可侵の誓いを結んでいる。皇の治める土地で、自治を持つ荘園を維持しているのは妖の住む地だけで、異質であり別格である。
 帝都の者は、決して彼らとは関わるなと言われて育つ。妖に会ったら戻って来られないとか、恐ろしい目に遭うとか、人でなくなるとか、そんな話をいくつも聞かされるのだから、関わりたいと思う人はまずいない。
 ――とても綺麗な御方
 だが、目の前にいる妖はそんな恐ろしい話の登場人物とは風貌は異なる。むしろ美しいと思う。
彼は、つかつかとダンスフロアの真ん中にやってきた。人々がさあっと避けて大きな円ができあがる。
「いらないというなら、その娘を俺の花嫁としてもらっても構わないな?」
 地の底から響くような低い声がフロアを駆けあがった。
 皇子は逡巡したものの、妖と波風を立てるのはよくないと香澄が小声で助言して返答を決めたらしい。
「いいだろう、くれてやる。侯爵夫人もそれで異論はないな」
「……はい。第二皇子様の仰せのままに」
 妖、そして皇子と母が話しているのが、自分のことだと頭では理解はしているものの実感が湧かない。ぽたりぽたりと、髪から雫が落ちていくのを無感情に見つめた。
 ――もう、どうでもいいもの
 彼はゆっくりと藤乃に向けて手を差し出した。
「俺のもとに、堕ちてこい」
口端をわずかに上げて自信に満ちた表情で、藤乃を見上げている。まっすぐに視線が合わさった。まるでどこか遠くの舞台を見ているかのような光景に見惚れる。彼の紺碧の瞳がとても綺麗で引き寄せられる心地がした。
「……仰せの通りに」
 藤乃は、差し出された手に応えるように踊り場から身を投げ出した。あちこちで悲鳴が上がっていたような気もするが、藤乃の耳には入らない。
「……っ」
 空中で狐火からの温かい風が藤乃の体を包み込んだ。一瞬にして雨に濡れた体も髪もすっかり乾いた。緋色の着物が風にたなびく。
 藤乃の体はそうなることが決まっていたかのように、すっぽりと彼の腕の中に収まった。優しいながらも絶対に落とさないという力強さで、横抱きに抱えられた。思ったよりも彼の顔が近くにあって、藤乃は息をのんだ。
「ん、いい子だ」
 甘さのある低い声が藤乃にだけ向けて降り注いだ。
 彼は、人差し指をくるりと動かすと狐火の一つがすっと上昇していき、煌々と輝き出し、そして音もなく爆ぜた。眩しくて思わず目を閉じたが、抱きかかえられたまま洋館の外に出たのはわかった。
「まさか、燃えて――」
 藤乃は慌てて彼の腕越しに振り返ったものの、洋館は燃えおらず、何も変わっていない。
「案ずるな、ただの目くらましだ」
 安心させるように微笑み、停まっていた馬車に乗り込んだ。そこでようやく腕の中から解放された。彼の座る隣に下ろされたから、距離は以前近いままだ。
「あの、妖様」
天魁(てんかい)だ。着くまでは少し時間がかかる。寝ているといい」
「はい、天魁様」
 そうは言ったものの、この状況ではとても寝られない。藤乃は頭を傾けて窓の外を見つめる。陽は沈み、街灯が煌々と輝く街を駆け抜けていく。
 はじめて加護を使ったのは夜だったように思う。
 十二、三年前のことで、あまり覚えてはない。誰かに生み出した花を渡して、喜んでもらえたような、そんな記憶がぼんやりと残っている。
 加護が発現したと聞き、すぐに第二皇子の婚約者の打診があったらしい。通常、皇子の婚約者は皇の血筋により近い公爵家から選ばれる。
「加護を持つ者ならば、その資格があると仰せだったわ。よかったわね、藤乃」
「おかあさま、うれしい?」
 幼い藤乃はほとんど理解をしていなかったが、母の嬉しそうな顔はよく覚えている。
「ええ、嬉しいわ。たくさん勉強をして、幅広い知識を身につけなければなりません。いいわね」
「はい、おかあさま」
 その日から、母による指導がはじまった。
「皇子様の婚約者にふさわしい所作を身につけましょうね。上品な微笑みを大切にね」
「はい、おかあさま。わたしがんばります」
 幼い藤乃には難しいこともたくさんあったが、がんばればその分褒めてもらえた。いい子だと、優秀であると、自慢の子だと。
 それが嬉しくて、もっともっとがんばった。
「食事も作れるようにならなくてはね、繕い物も当然よ」
「はい、仰せの通りに」
 誰よりも早起きをして、朝食を作り、母に食べてもらって評価を聞く。その後、反省点を思い返しながら一人で箸を進めるのが日課となった。
「お琴も弾けるようになりなさい、皇子様を楽しませるのよ」
「仰せの通りに」
 琴の演奏は弦を爪で弾く力加減も、弦を押さえる音色の調整も難しい。しかし、藤乃は物覚えがよいらしく、覚えればお手本通りに弾けた。しかし先生とは何か違う。心で音を奏でるのだという指導も、藤乃には正解がわからない。
「茶道や華道もできるわよね」
「……仰せの通りに」
 こちらも基本を覚えてしまえば、難なく手を動かすことができた。しかし、どちらもまだ足りていないと母の手配した師範から何度も指導を受ける。
 しかし、周囲からは何でもできる完璧な令嬢だと褒めそやされた。
「わたしは、まだまだ未熟です」
「そんな謙遜なさらないで、あなたは完璧なご令嬢ですもの」
「いえ……」
 本当に未熟と思っているのに、謙遜と取られ、評価はあがっていく。評価に見合う自分でいなければと努力を重ねた。
 女学校に通うようになってからは、よく話をする級友ができた。しかし、母に切り捨てられた。
「友人なんて必要ないわ、そんなものより加護を使いこなしなさい」
「はい……仰せの通りに」
 加護の力で花を生み出すことができるものの、土に触れていること、そしてかなりの気力を使うことがわかった。そして――
「自分自身の名前である、藤の花が一房しか出せないなんて恥ずかしいことよ。もっと修練が必要ね。藤は悪しきものから守る役目の花なのだから。帝都のために使うのよ」
「はい、お母様。仰せの通りに」
 いい子でいなきゃ、優秀であり続けなきゃ、そうでなければ……
 ――わたしはここにいることを、許されないのだから
 限界なんて、とっくに通り過ぎていた。でも染み付いた笑顔と余裕に見える所作はすべてを覆い隠せてしまった。
誰が言い出したのか、人形令嬢なんてぴったりで皮肉な言葉まで与えられた。すべては第二皇子の婚約者となるため。
「意味は、なかったけれど」
 馬車に揺られながら、藤乃は口の中だけで呟いた。
 思い返せば、藤乃を妖へやると皇子が言ったとき、母は頷いた。だが、その顔は鏡の中で嫌というほど見た、覆い隠す微笑みだった。
 ――ああ、お母様も第二皇子殿下の、帝都の、人形だったのね
 そう気づいて、もはや怒りも恨みも湧いてこなかった。
「着いたぞ」
 天魁に声をかけられて、泥のような思考から戻ってくる。寝てはいないことは明らかだったのに、話しかけずにいてくれたことがありがたい。
「手を」
 馬車から降りるときには手を差し出されて、自然にエスコートされた。藤乃は、いつものように微笑みを取り付けて礼を返した。
「ありがとうございます」
 帝都からかなり馬車を走らせた場所に、妖の住む荘園があるらしい。畑が広がり、中央には武家屋敷を思わせる屋敷が一つ建っている。大きく立派ではあるが、それ以外に家らしきものが見当たらない。妖たちは一体、どこに住んでいるのだろう。
「こっちだ」
 天魁に案内されるがままに、屋敷の前にやってきた。天魁は軒下に吊るされた提灯へ、狐火を操って明かりを灯した。すると、扉が勝手に開いた。
「ようこそ、妖都(ようと)へ」
 中に踏み入ると、そこは屋敷の中、などではなかった。屋敷の大きさの何十倍もある広さの、一つの街であった。中央にはしる通りの両脇には夜桜がずっと先のほうまで続いていて、ため息が出るほど美しい。通りには家々も並び、真っ赤な提灯が軒下に吊るされ、いくつかは空中を縦横無尽に飛んでいる。
 行き交うのは、人と同じような姿の者もいれば、獣の耳が生えていたり、宙に浮いて移動する者がいたり、明らかに人ならざる者の姿も見られる。
「なんということ……」
 あまりの状況に、心も体もついていけなくて、藤乃は強い眩暈に襲われた。


 藤乃はゆっくりと瞼を上げた。覚醒しきらない頭でも、習慣化した思考は働いた。
 ――起きて朝食を作らないと、お母様をお待たせしてしまうわ
 すぐに起き上がろうとしたが、なぜか動けない。
「えっ」
 そこでようやく気がついた。藤乃の体は天魁の腕にしっかりと抱きしめられているのだ。見上げると天魁の綺麗な顔がすぐ近くにあった。すやすやと眠る顔は少し幼く見える。
「えっと、わたし」
 混乱する中、藤乃は昨日のことを必死に思い出す。
屋敷に入ったら一つの街があり、あまりのことに眩暈がした。そして、天魁の屋敷に着くなり、言われるがまま風呂に入って、言われるがまま部屋に入って、寝てしまった。
 混乱の最中でも一応は自分で動いていたようだ。何かがあったわけではない。
「わっ、これは」
 抜け出そうと動くと、ふわふわの毛布、ではなく銀色の大きな尻尾に包まれた。尻尾は体温があり、誰かに触れた温かさなんて久しぶりで思わずそっと手を伸ばす。反射だろうか、ゆったりと応えるように揺れた。彼は狐の妖なのだろうか。
「ん、起きたのか」
 低く掠れた声が頭上から降ってきた。藤乃はハッとして再び起き上がろうと動く。
「すぐに朝食を用意いたします」
 きちんとそう伝えたはずなのに、腕を緩めるどころかさらに引き寄せられてしまった。
「あの」
「いい。二度寝するぞ」
「二度寝……?」
「なんだ、そのはじめて聞いたみたいな反応は」
 早く起きて朝食を用意して、母に評価をもらわないと、修練の時間がなくなってしまう。だから、これまで一度も二度寝なんてしたことがなかった。
「……そんなこと、していいのですか」
「していい。俺が許す」
「でも」
「もう少し寝ていろ、まだ少し顔色がよくない」
 天魁が親指で藤乃の頬を撫でるように触れる。
 婚約者のお披露目のために連日準備をしていたから、寝不足なのは確かだ。昨日のことを反芻し、雨に濡れた感覚を思い出して、思わず肩を震わせた。
「安心して眠れ、藤乃」
 天魁の大きな手のひらで、視界を覆われた。彼に対して名乗ったかしらという疑問は、温かな手にとって溶かされていく。
 次第に瞼が重くなり、うとうとしてきた。
 藤乃が天魁の腕の中で、穏やかな寝息を立てるのはすぐのことだった。

 二度寝から目覚めて、藤乃は天魁に居間へと案内された。いつの間にかふわふわの尻尾はなくなっている。どこから見ても、人と変わらない姿だ。
「よく眠れましたか。いきなりこのようなところに連れてこられて戸惑ったでしょう」
 赤みがかった黒い短髪にメガネをかけた男性が丁寧な物腰で話かけてきた。
「言いたいことも聞きたいこともあるでしょうが、まずはどうぞ」
 遅めの朝食が運ばれてきた。天魁はいらないと言ったから藤乃の分だけだ。
白ご飯に味噌汁、卵焼きと漬物で、素朴でありつつひとつひとつを丁寧に作っている味がした。
「お口に合いましたか」
「はい。美味しくいただいております」
 藤乃は一度箸を置いて、微笑みとともに一礼した。
「ご丁寧にどうも。遅ればせながら、私は志摩(しま)と申します。天魁……様の側近のようなものです。天魁様も味の感想とか言ってもらえると作り甲斐もあるんですがね」
 志摩の言葉は丁寧だが、どこか含みを持たせた言い方をしている。天魁はあしらうように答えた。
「美味いぞ」
「はいはい、どうも。食べているときに言ってください」
 軽口に対して軽口で返している。藤乃は隣で聞いていて気心知れたとはこういうのを言うのかと不思議な気持ちになった。
 朝食を食べ終えて、藤乃は改まって天魁に向き合った。
「侯爵家が娘、朝霧藤乃でございます。わたしは何をすればよろしいのでしょうか」
わざわざ帝都から連れてきたのは、何か意図があってのことだろう。加護を持つ、第二皇子の婚約者を連れてきたのだから、それなりの影響が……。
そこまで考えて、意味を持たないことに気がつく。公衆の面前で婚約破棄をされた令嬢など何の価値もない。
ではなぜ、藤乃をここへ連れてきたのか。妖のただの気まぐれだろうか。
「俺の花嫁になれ。この妖都の長のな」
「天魁様は、妖の長なのですか」
「ああ。それと俺は狐の妖だ。さっき尻尾に触れてわかっただろうがな」
 ばれていた。藤乃はいたたまれなくなって、体を小さくして頭を下げた。
「申し訳ございません」
「構わない」
 天魁は本当に気にしていない様子でさらりと返した。
 対照的に志摩は意外だといった声音で呟く。
「へえ、触らせたんですか」
 天魁は親指で志摩を指し示すとついでのように言った。
「ちなみにこいつは鬼だ。赤っぽい髪がいればだいたい鬼だ」
「ちょっと大雑把すぎますって」
 志摩の抗議を聞き流して、天魁は藤乃に問いかけた。
「それで、返答は? まあ、許可は取ったつもりだが」
 皇子と母が藤乃を妖にやると、そう言ったのだ。確かに許可は取っている。ならば従うまでだ。
「仰せの通りに、天魁様」
 天魁は少しため息をついたように見えた。藤乃の黒髪を一房掬い上げると、口端を上げて笑った。
「本当に人形のようだ。ならば着せ替え人形にでもなってもらおう」

 藤乃は屋敷の外に連れてこられた。改めて妖都を見回して感嘆の声が零れる。桜の通りを中心に、家や店が並んでいてとても活気がある。行き交う妖たちも、さまざまな種族が入り混じっていた。それぞれが自由に歩いている様子がとても輝いて見えた。
 屋敷の中のはずだが、陽の光が降り注いでいる。昨日の夜には星が輝いていた。どうやらここは外と変わりない環境のようだ。
「ほら、こっちだ」
 立ち止まっている藤乃に対して、前を歩く天魁が声をかけた。慌てて追いかけると、そこは服の店だった。和装も洋装も両方取り揃えているらしい。帝都でも近頃はこういう店が増えている。
「いらっしゃいませ。わっ、長。そちらは――人の子ですか!」
 店員は天魁を見て驚き、藤乃を見てさらに驚きの声を上げた。
 藤乃のほうも不思議に思って首を傾げた。目の前にいる店員はどう見ても藤乃より年下の少女だ。『人の子』なんて幼い子相手の言い方に違和感があった。
「長が人の子を連れ帰ったというのは本当だったんですね」
「もう噂がまわっているのか、早いな」
 天魁は肩をすくめて店員の言葉を受け流した。そして、藤乃の頭をぽんぽんと撫でて少し楽しそうに笑った。
 藤乃は近い距離感に落ち着かない気持ちになる。
「わたしは、子どもではございませんよ」
 一瞬、きょとんとした表情をした天魁だったが、合点がいったようでひとつ頷いた。
「そうか、寿命の違いを知らないのか」
「寿命、でございますか」
「妖の寿命は人の寿命のだいたい十倍ほどあると言われている。妖は進む時が十倍遅いということだ。俺はだいたい二百歳だ。お前は?」
 天魁は短く店員に問いかける。気を悪くするでもなく、少女の店員は答えた。
「百歳を過ぎたくらいです」
「!」
 今度は藤乃が驚く番だった。百歳や二百歳に比べれば、十八になったところの藤乃は、それはそれは子どもだろう。
「ご無礼をいたしました」
 藤乃は深々と頭を下げて、謝罪をする。
「いいや、謝ることではない。妖都に人の子が来ることは稀だ。迷い込むことはあってもすぐに帰すからな、知らなくて当然だろう」
「そう、なのですか」
「妖の中には千歳近くまで生きるものもいる。俺も若造だと言われることも多い」
 天魁は苦笑しながら、もう一度くしゃりと藤乃の頭を撫でた。髪が少し乱れたが、あたたかい手のひらを感じて、あまり嫌な気持ちにはならなかった。
 妖の年齢が十倍遅いのなら、二百歳なら人でいうと二十歳くらいということになるのだろう。少しだけ親近感を覚えた。
「さて、多少話が逸れたが、彼女に服を頼みたい」
「かしこまりました」
 店員は元気よく返事をした。
 天魁は藤乃に向き合うと、当然のように希望を問いかけてきた。
「和装と洋装、どちらがいい?」
「仰せの通りにいたします」
「君の好みを聞いているんだ」
「好み、ですか……?」
 服は侯爵令嬢、ひいては皇子の婚約者にふさわしいものを着るように言われ、そうしてきたから、好みなんて考えたことがない。藤乃が不思議そうに問い返すと、途端に天魁の顔が曇った。
「これは重症だな」
 それから、天魁は店員に指示を出して、着物をあれもこれもと並べた。出した着物を端から藤乃は着せられる。さながら着せ替え人形状態である。
「可愛らしいからなんでもお似合いで、着せるのが楽しいですね」
「ああ。――待て、これがいいのか?」
 何着目かで天魁が鏡の前に立つ藤乃に声をかけた。今、藤乃が着ているのは淡い紫色――藤色の着物だった。これが好きなのか、藤乃自身はあまりよくわからない。
「言い方を変えよう」
 藤乃の両手は、天魁の手にすっぽりと包まれ、至近距離で紺碧の瞳に見つめられる。口端を上げて笑う天魁は、耳心地のよい声で囁いた。
「君には、これが似合う」
「……っ」
 手元に、小さな花が生み出された。驚いて思わず手を広げると白いスイートピーと目が合った。
 感情が動いたときに、藤乃は無意識に花を生み出すことがあった。この場合は土に触れずとも花は咲く。母には心が乱れている証拠だと咎められた。
「も、申し訳ございません」
「なぜ謝る」
 天魁に、感情が動くと花が咲いてしまうことを説明した。花言葉が感情を示していることが多いとも。
「綺麗な花だ」
 天魁は咎めるどころか、綺麗だと言ってくれた。藤乃は不思議な気持ちだった。この人、ではなく妖は、藤乃の近くにいた人たちとは、なにもかもが違う。
 白いスイートピーの花言葉は、『ほのかな喜び』だ。
 ――わたしは、喜んでいるのかしら
「この花の色の洋服も用意してくれ」
「もちろんです」
 店員は、よし来たと言わんばかりに洋服もずらりと並べた。藤乃はたくさん着物を着て、少し疲れているものの、顔には出さず微笑んだままだ。
「洋服は動きやすいものも多い。ひとつ着てみるといい」
「はい、天魁様」
 天魁に促されて、スイートピーのように白くて、ふわりと広がるシルエットのワンピースに腕を通した。
「わっ……」
 洋服ははじめて着たのだが、着物よりも軽くて、足元も広く作られているから確かに動きやすい。
「これももらおう。他にもいくつか見繕っておいてくれ」
「かしこまりました」
 店員は、着物、ワンピースともに包むために奥へ入っていった。
 身一つでここに来た藤乃には、支払う方法がない。そもそも帝都と妖都では、仕組みが違うのかもしれない。
「天魁様、お代はどのようにすればよろしいでしょうか」
「必要ない。俺の花嫁なのだから、黙って受け取れ」
 さすがに黙って、というのはさすがに礼を欠く。藤乃は凛と姿勢を伸ばし、正しい微笑みとともに深々と一礼をした。
「ありがとうございます。天魁様」
 天魁は何かを言いかけたが、それを飲み込んで、藤乃の頬にそっと触れた。
「人形に言われても嬉しくはないが、まあ、いつか本心からのものをいただこう」
 見守るような笑顔は慣れなくて、藤乃は微笑みを張りつけたまま曖昧に頷いた。