暁の檻で、極悪な愛からは逃げられない

      ◆

 パタパタと駆けていく涼子の背中を見つめながら、尋は密かにため息を吐いた。

「……所詮はお嬢様だな」

 ボソッと口の中で呟くと、すぐに目の前のことに意識を切り替える。
 足元には、歯を食いしばって痛みに耐える徒衆達が横たわっていた。ひと目で重傷だとわかる。パッと見たところ、重傷者が二人と、中傷者が五人。部屋の入り口に立っている者達も半分は何かしらの傷を負っていた。現場で応急処置が施されたのだろう。胴や腕など出血部分は、着物の袖と思われる布で雑だがしっかりと結ばれていた。

 横たわる者達は、時折呻きを漏らしては「すみません」と、悔しそうに唇を噛んでいる。尋は流れ出た血だまりの中に膝をつき、無理に目を開こうとする男の瞼をそっと撫でた。

「気にするな。今は自分のことだけを考えろ」

 尋は立ち上がると、集まっていた者達に状況を尋ねる。

「梅爺への連絡は」
「先程、若いのを行かせました。おそらく三十分ほどで到着するかと」

 チッと尋は舌打ちをした。遅い。

「手が空いている奴は、さらしをありったけ持って来い! 梅爺が来るまで止血を続けろ!」

 さらしを取りに駆けていく者と、部屋に入り手当てする者達ですぐに部屋の中はごった返す。尋は部屋を出て脇にある壁に背をあずけた。

「総代!」

 随分と若い声が、いつもより下の方から聞こえた。顔を向ければ、一家で最年少の一也がいた。その顔は心配と悔しさ半々といったところだ。

「あの、えっと……その……っ」

 一也は懸命に言葉を紡ごうとしていたが、口をハクハクさせるばかりだった。気持ちだけは何かしたいと思うのに、こんな状況に脚がすくんでしまったのだろう。部屋では「こで全部だ!」「足りない!」と荒々しい声が飛び交い、男達が入れ替わり立ち替わり出入りしてはバタバタとしていた。

「大丈夫だ」

 尋は微笑を浮かべながら、一也の小さな頭を撫でた。

「いつも通り、お前は食事の準備を頼む。落ち着けば皆腹が減ったと騒ぎ出すぞ」

 役割を与えられたことに安堵したのか、一也は愁眉を開くと「はい!」と言って炊事場へと戻っていった。しかし、一也の小さな背中が廊下の角を曲がると、尋の顔から微笑みは消える。

「尋、ズボンが……」

 一也と入れ替わるようにして、荊が尋の血で汚れたズボンを視線で示しながら声をかけてきた。もっと気にすることがあるだろうに。相変わらずこの過保護な側近は……。

「気にするな。それより荊……血が付いてるぞ」

 顔や首、白シャツの胸元に、飛沫をうけたように赤い血が飛んでいた。

「ご安心を。すべて私のものではありませんので」

「元より心配してない」と尋はおどけたように肩をすくめた。しかし、それも一瞬。スッと、部屋の中へと向ける視線が鋭利なものになる。

「これほどの被害は久しぶりだな」
「私がついていながら、申し訳ありません。あまりに突然のことで対応が遅れました」

 今や帝都では、表立って冬月一家に噛みつく者はいない。しかし、裏となると、まだいくばかりかは存在する。大抵はお馴染みの者達だが、その者達の動きはこちらでも常に把握しているし、既知の相手に荊がおくれを取るはずがない。

(ということは新手か……もしくは命知らずの馬鹿かだが……)

「しかし、こういう時のために彼女を買ったというのに……っ」

 荊は口惜しそうに目を眇め、床に横たわる部下を見つめていた。若い徒衆達のまとめ役の彼にとっては、弟を傷つけられた気持ちなのだろう気持ちはわかる。自分も、彼女には梅爺の代わりを期待していたのだし。

「それで、彼女はどちらに?」
「さあ? さっきチラッと逃げていくのが見え――」

 言いながら、視線を彼女がいた廊下へと戻した瞬間、尋と荊の間をビュンと白い山が横切った。二人して、なんだと白い山を目で追う。

「失礼します!」

 部屋へと駆け込んだ白い山は、ハキハキとした声で挨拶をすると、畳にぼてっと落ちた。否、白い山だと思っていたものは大量のシーツで、山の中からは涼子が現れる。
『いったい何をしているのか』と二人が目を丸くして呆気にとられている中、彼女は中傷者のところへ小走りで駆け寄り、シーツを渡していた。
 シーツはすでに裂かれていたようで、細長く整えられた白布はさらし代わりにはぴったりだった。中傷者に配り終えると、次は重傷者へと駆け寄り、躊躇いなく血が滲む畳に膝をついていた。

「……何を……」

 逃げたと思っていた。
 表の世界――普通に生きる者達が、このような場面に遭遇することなどないだろう。まだ彼女が治癒の力を使えたのなら話は別だが、治癒の力を持たない彼女は、このような怪我人を目にする機会もなかったはずだ。だから、凄惨な光景に畏れをなして逃げたと思った。

 元々、彼女に何か期待していたわけではない。だから、逃げようが怒りも湧かないし、責めるつもりもなかった。ただ、『どこにでもいる普通の女だな』と軽い落胆のようなものは覚えた。 
 それなのに、彼女は戻ってきた。手に大量のシーツを持って、極道者を助けるためにわざわざ。そして、血を厭うどころか躊躇いなく膝をついた。

 尋の目は、一瞬にして涼子に縫い留められた。こんな女がいるのかと。
 彼女は、重傷者の腕にできた細かい切り傷に手早く白布を巻いていた。その手さばきは実に慣れたものに見えた。両腕や足の傷に布を巻き終えると、彼女は最も出血量の多い腹部に目を向け、表情を曇らせる。

「出血は止まりましたか」
「いや、まだだ。押さえちゃいるが……」

 腹部を押さえていた布は血を吸いすぎて、布の意味を成していなかった。押さえると、じわっと血があふれ出るくらいには吸い込んでいる。

「では、布を渡しますので、上からどんどんと重ねて押さえ続けてください」

 言いながら、彼女は長い布を手早く畳んでは男に渡していく。最初は白がすぐに赤く染まったがそれを五回ほど続ければ、ようやく赤が滲むこともなくなる。彼女は部屋の押し入れから座布団を取り出して丸め、重傷者の足首の下に差し入れると足首に触れていた。 彼女のなだらかな眉が、ピクリと微動する。

「少し体温が低くなっています。傷口付近は温めないよう注意しながら、足首や首、脇など太い血管が通っている箇所を温めてください。体温を下げないようお願いします」
「お、おう!」

 治療を手伝っていた男はすぐさま立ち上がり、押し入れの中から布団を取り出して、二人の重傷者の足元に被せていた。
 彼女はもうひとりの重傷者にも同じように処置し、一度部屋を出て行くと、今度は手に湯たんぽを抱えて戻ってきた。そして、湯たんぽをそれぞれの重傷者の布団の中に入れると、休む暇なく、今度は中傷者の傷に巻かれた布の調子を見て回ったり、畳に染みた血を拭いて回ったりしていた。

 錆び臭さが充満する陰惨な部屋の中を、小柄な女があちらこちらと兎のように跳び回っていた。そうしていると、ちょうど玄関から「梅爺連れてきましたー!」と威勢の良い徒衆の声が飛んできた。
「もっと丁寧に運ばんかい」とブツブツと言いながら徒衆の背に担がれた梅爺が到着した。背中から降ろされた梅爺は怪我人達の状態を一瞥すると、「うむ」と満足げに頷く。そして、怪我人以外を部屋の外へと追い出すと、ピシャリと障子を閉めてしまった。
 その音が合図になったように、徒衆達は全身から力を抜いてはぁと脱力した。

「涼子さん、ありがとう」
「手伝ってくれて助かったよ」

 皆が口々に礼を言えば、彼女は胸の前で両手を横に振って「とんでもない」と謙遜する。

「この程度のことしかできませんし……でも、怪我された方々はもう大丈夫ですから。良かったです」

 涼子の言葉に、尋は僅かな違和感を覚えた。

「後は梅爺に任せよう。さあ、お前達は血を落としてこい。ここにいても邪魔なだけだからな」

 荊がつっけんどんに指示をすると、徒衆達は「はいよー」やら「へーい」やらと気の抜けた返事をしながら、ぞろぞろと離れへと消えていった。
 そして、最後尾にいた者の背中が見えなくなった――瞬間、涼子が飛びつくように荊に近付いたかと思うと、いきなり彼のシャツをガバと捲り上げたのだ。
 あまりにも予想外の彼女の行動に、尋も荊も目を白黒させる。

「――っな、何をするんです!?」
「怪我は!」

 怒りか羞恥か。顔を真っ赤にした荊が抗議の声を上げたのだが、それはすぐに彼女の切羽詰まった声にかき消された。

「痛いところはありませんか! 身体を強く打ったとかは!」

 なぜか彼女は、荊が怪我を、しかも重傷を負っているかのような反応を見せた。
 荊が怪我をしていないことなど、彼の血色の良い顔を見たらわかるだろう。シャツに血はついているが近くで見れば、身体から滲み出た血ではないとわかるはずだ。

 尋と荊の間に、『彼女は何を言っているのか』という妙な空気が流れる。
 しかし、彼女の顔はとても冗談で言っているとは思えない、切迫したものだった。彼女は本気で荊を心配していた。それは、重傷者の手当をしている時より焦って見えるほどだ。
 彼女には何かある。

「い、いえ……どちらもありませんが……」

 返答した荊は、気圧されたように脚を半歩さげていた。

「それでは病気などに罹られて――」
「おい」
「きゃっ!」

 荊のシャツを掴んでいた涼子の手を、尋は強引に引っ張りそのまま部屋横の壁に押し付けた。

「その質問はどういう意味だ」

 なぜ荊が怪我をしていると思い込んだのか。なぜ荊の体調を気にするのか。
 それに彼女は、先程も怪我した者達を大丈夫だと断定していた。推測でも希望でもなく、なぜかはっきりと断定していた。傍目には、駄目でも仕方ないと思われるほどの重傷者もいたというのに。
 不可解な言動が多すぎた。もしかして、今回の襲撃と何か関係があるのか。

「女、何を知っている」

 尋の瞳から温度が消え、鋭利な冷酷さが宿る。
 彼女は視線から逃げるように顔を背け、唇を噛んだ。

(ここで黙ることを選ぶか)

「お前の飼い主は誰だ」

 尋は逃がさないとでも言うように、もう片方の手で涼子の顎を掬い上げる。

「言え」

 尋の有無を言わさない眼光に、彼女は瞳を揺らしながら観念したように口を開いた。

「……っ死期が……見えるんです……」