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冬月一家の屋敷は、一般的に大きいと言われる楸家よりももっと大きかった。
寺院のようにいくつもの和風家屋が渡り廊下で繋がり、いくつもの中庭があった。裏には灯籠や松の木が掛かる池もあり、冬月一家というものがどれだけの権力を持っているのかわかるようだった。
尋や荊の他にも、一家に所属する徒衆と呼ばれる三十名近くもの男達が住んでいるらしく、この広大さにも納得がいく。最初に尋に連れて来られた部屋や、荊に案内してもらった場所は共有部である母屋であり、渡り廊下の先にあるそれぞれの家屋は、尋や荊、徒衆の私的空間になっているということだった。
しかし、涼子はそこには立ち入れない。
『共有部以外は不用意に立ち入らないように。あなたは冬月一家の者ではなく、ただの女中なのですから』
と、案内を受けている最中、荊に冷めた顔で念を押された。彼の瞳が小さく三白眼ということもあって、向けられた視線は鋭く、涼子は肩をすぼめて小さく「はい」と頷いた。
(大損をさせてしまったのだし、受け入れられなくて当然よね)
案内を受けている間、荊の『冬月一家の者ではない』という言葉が、どこか虚しく耳の奥で鳴り響いていた。
それからの日々は、涼子にとって予想外の連続だった。
皆、涼子が闇オークションで買われた者だと知っていた。尋か荊が説明したのだろう。
おかげで、楸一族なのに治癒の力がないということまで知られており、はじめは一家の金を無駄にした女と誹りを受けるのだろうとびくびくしていたのだが、不思議なことに驚くほどにすんなりと受け入れられていた。
「本当、涼子さんが来てくれて助かったよー」
「お役に立てているのなら良かったです」
炊事場で、涼子は少年――一也から皮をむき終わったじゃがいもを受け取りながら、微笑みを返す。焦げ茶色の短髪に、目尻が跳ね上がった猫のような目は実に生意気という印象なのだが、接してみるととても素直な少年だった。
彼は十歳という若さだが、立派に冬月一家の一員である。こんなに若い子がなぜ極道になどと思ったが、人それぞれ事情があるのだろうと詳しくは聞かなかった。
女中になって早五日、少しずつだが冬月一家のこともわかってきた。
先日、涼子を案内してくれた荊は狐山荊と言い、尋の側近兼徒衆のまとめ役なのだとか。大人っぽく見えたから三十くらいかと思ったが、意外にもまだ二十七で、尋は予想通り二十五だった。
徒衆には、下は十歳から上は五十歳程度までいるようで、一也が最年少のようだ。五十歳までいると聞いていたが、屋敷で見るのは比較的若い者達ばかりで、理由を聞けば、年嵩の徒衆は帝都以外の場所を任されていたりするのだとか。てっきり帝都だけと思っていたが、もしかすると冬月一家は、自分が想像するよりもずっと大きいのかもしれない。
家事は徒衆の若手が担っており、涼子が来るまでは五人のみで回していたようだ。
家事班と言われる一也含む五人には、涼子が女中として入ったことを一番喜ばれた。やはり五人で回すのは大変だったのだろう。一万圓をポンと払えるのだから、女中くらい雇えばいいのにと思ったが、極道家で働きたいという女もいないだろう。自分のように、背に腹は代えられない事情がある者くらいしか。
「涼子さんが掃除してくれるようになって、母屋がパッと明るくなった感じがするし、洗濯物もしわしわにならなくなったし、食事だってたくさん色があって綺麗だし美味しいもん」
「でも、掃除と言いましても部屋や玄関に花を飾るくらいですし、洗濯も普通に干しているだけでして。料理も実に庶民的なものばかりで、これといって自慢できるようなこともなく……」
「美味しい料理作れて他の家事も完璧なんて充分自慢していいよ。総代なんて、この前朝からおかわりしてたし」
「え、総代がですか」
いつも配膳を済ませたら一度炊事場に戻り片付けを済ませ、それから食事を炊事場でひとりで摂るから、尋の様子など知らなかった。
「そうだよ。食事なんて生きるための作業でしかないとか言う人がだよ? いきなり『これはまだあるか』とか訊かれた時は、うっかりお盆を落としそうになったよ」
彼がおかわりを求める姿というのがちょっと想像できないが、素直に嬉しい。
「こんなことでお役に立てるのなら、喜んでたくさん作ります」
「ありがとう、涼子さん」
掃除する箇所や洗濯物の量、料理の量が多いということ以外、涼子にとっては以前の生活と何もかわりなかった。むしろ、料理を捨てられることもなく、部屋を荒らされることもなく、いきなり体当たりされることもない今のほうが、心穏やかに暮らせていた。
(極道の屋敷で心が穏やかってのも、どうかと思うけど……)
しかし、実際に屋敷の中は穏やかなものだった。徒衆の人達は皆とても親切で、廊下ですれ違えば挨拶してくれるし、その時に料理の感想も言ってくれたりする。
ただ、尋がいるとやはり少し空気が違った。
掃除をしていると、時に尋の姿を見ることがあった。この間は、渡り廊下の向こう側を二、三人の徒衆を従えて歩いていた。何か指示を出していたのか、彼が口を動かす度に徒衆の空気が引き締まるのが、遠目にも伝わってきた。
帝都には荒くれ者もいたが、冬月一家はそういった粗暴な者達とは違い、とても規律が行き届いているように感じる。
(一也君もとっても素直で良い子だし)
チラと目を向ければ視線に気付いたのか、ニコッと人懐こい笑顔を返してくれた。
「ん゛っ……一也君が息子だったら良いのに……」
「さすがに息子は無理があるよ、涼子さん」
「じゃあ、弟はどうでしょう」
「やぶさかでないね」
澄まして言う一也と目が合えば、二人してぷっと吹き出してしまった。こうしていると、本当にどこにでもいる少年と変わりなかった。あははと笑う声は楽しげで、まるで公園で雑談しているかのように錯覚してしまう。
「され、それじゃあ次は小松菜を――って、ん?」
涼子は目尻に滲んだ涙を拭い、料理を再開させようとしたのだが、そこでなんだかガヤガヤとした声が聞こえるのに気付いた。
次の瞬間――。
「早く運び込め!」
荒々しい男達の声が炊事場まで響いた。直後、床板が割れるのではと思うくらいの、ドタドタとした多くの荒々しい足音が聞こえてきた。「こっちが先だ!」「梅爺を呼べ!」と叫ぶ達の声は怒声に近く、切羽詰まった緊張感が滲んでいる。
「な、何があったのでしょうか」
涼子は不安に駆られ、炊事場から顔を出した。
すると、その横をびゅんと一也が駆け抜けていった。
「えっ!? 一也君!」
一也は焦ったように、涼子の声に振り返りもせず駆けていく。その様子にただごとではないと、涼子も一也の後を追った。
「総代は!?」
「今、狐山さんが呼びに……!」
騒がしい声は玄関ではなく、なぜか屋敷裏の方から聞こえてくる。声に近付くにつれ、握った掌に汗が滲む。そして、屋敷裏に近い部屋の入り口で、男達が群がっているのが見えた。
「――っ!」
涼子はその男達の姿に思わず息をのんだ。
彼らは和装洋装と様々な格好をしていたが、一様に袖や背中には赤が滲んでいた。
血だ。
今まで生きてきて見たことがい量の血に、涼子は頭がくらりとしてその場でへたり込んでしまった。脚が震えていた。男達の合間から部屋の中が見えたが、寝かされている者達は、全身赤かった。水漏れしたようにじわじわと畳に血が広がっていた。
感情の昂ぶりに身体が勝手に反応して、涙がこみ上げてくる。嗚咽が漏れそうになった口を、慌てて両手で強く塞ぐ。
そこへ、離れから大股でやってきた尋が部屋へと入っていくのが見えた。後ろをついて入った荊の頬や胸元にも、少なくない量の血が飛び散っていた。
忘れていた。
極道は、本来とても恐ろしい場所なのだ。平和な場所でも穏やかな場所でもなく、人世の闇を生きる者達の世界だ。
自分の両手を見つめる。自分に治癒の力があれば良かったのに。
「……私……役立たずだわ……っ」
涼子はよろよろと立ち上がると、踵を返してその場を離れた。
その姿を、尋が部屋の中から横目で見つめていたことに、涼子は気付かなかった。
冬月一家の屋敷は、一般的に大きいと言われる楸家よりももっと大きかった。
寺院のようにいくつもの和風家屋が渡り廊下で繋がり、いくつもの中庭があった。裏には灯籠や松の木が掛かる池もあり、冬月一家というものがどれだけの権力を持っているのかわかるようだった。
尋や荊の他にも、一家に所属する徒衆と呼ばれる三十名近くもの男達が住んでいるらしく、この広大さにも納得がいく。最初に尋に連れて来られた部屋や、荊に案内してもらった場所は共有部である母屋であり、渡り廊下の先にあるそれぞれの家屋は、尋や荊、徒衆の私的空間になっているということだった。
しかし、涼子はそこには立ち入れない。
『共有部以外は不用意に立ち入らないように。あなたは冬月一家の者ではなく、ただの女中なのですから』
と、案内を受けている最中、荊に冷めた顔で念を押された。彼の瞳が小さく三白眼ということもあって、向けられた視線は鋭く、涼子は肩をすぼめて小さく「はい」と頷いた。
(大損をさせてしまったのだし、受け入れられなくて当然よね)
案内を受けている間、荊の『冬月一家の者ではない』という言葉が、どこか虚しく耳の奥で鳴り響いていた。
それからの日々は、涼子にとって予想外の連続だった。
皆、涼子が闇オークションで買われた者だと知っていた。尋か荊が説明したのだろう。
おかげで、楸一族なのに治癒の力がないということまで知られており、はじめは一家の金を無駄にした女と誹りを受けるのだろうとびくびくしていたのだが、不思議なことに驚くほどにすんなりと受け入れられていた。
「本当、涼子さんが来てくれて助かったよー」
「お役に立てているのなら良かったです」
炊事場で、涼子は少年――一也から皮をむき終わったじゃがいもを受け取りながら、微笑みを返す。焦げ茶色の短髪に、目尻が跳ね上がった猫のような目は実に生意気という印象なのだが、接してみるととても素直な少年だった。
彼は十歳という若さだが、立派に冬月一家の一員である。こんなに若い子がなぜ極道になどと思ったが、人それぞれ事情があるのだろうと詳しくは聞かなかった。
女中になって早五日、少しずつだが冬月一家のこともわかってきた。
先日、涼子を案内してくれた荊は狐山荊と言い、尋の側近兼徒衆のまとめ役なのだとか。大人っぽく見えたから三十くらいかと思ったが、意外にもまだ二十七で、尋は予想通り二十五だった。
徒衆には、下は十歳から上は五十歳程度までいるようで、一也が最年少のようだ。五十歳までいると聞いていたが、屋敷で見るのは比較的若い者達ばかりで、理由を聞けば、年嵩の徒衆は帝都以外の場所を任されていたりするのだとか。てっきり帝都だけと思っていたが、もしかすると冬月一家は、自分が想像するよりもずっと大きいのかもしれない。
家事は徒衆の若手が担っており、涼子が来るまでは五人のみで回していたようだ。
家事班と言われる一也含む五人には、涼子が女中として入ったことを一番喜ばれた。やはり五人で回すのは大変だったのだろう。一万圓をポンと払えるのだから、女中くらい雇えばいいのにと思ったが、極道家で働きたいという女もいないだろう。自分のように、背に腹は代えられない事情がある者くらいしか。
「涼子さんが掃除してくれるようになって、母屋がパッと明るくなった感じがするし、洗濯物もしわしわにならなくなったし、食事だってたくさん色があって綺麗だし美味しいもん」
「でも、掃除と言いましても部屋や玄関に花を飾るくらいですし、洗濯も普通に干しているだけでして。料理も実に庶民的なものばかりで、これといって自慢できるようなこともなく……」
「美味しい料理作れて他の家事も完璧なんて充分自慢していいよ。総代なんて、この前朝からおかわりしてたし」
「え、総代がですか」
いつも配膳を済ませたら一度炊事場に戻り片付けを済ませ、それから食事を炊事場でひとりで摂るから、尋の様子など知らなかった。
「そうだよ。食事なんて生きるための作業でしかないとか言う人がだよ? いきなり『これはまだあるか』とか訊かれた時は、うっかりお盆を落としそうになったよ」
彼がおかわりを求める姿というのがちょっと想像できないが、素直に嬉しい。
「こんなことでお役に立てるのなら、喜んでたくさん作ります」
「ありがとう、涼子さん」
掃除する箇所や洗濯物の量、料理の量が多いということ以外、涼子にとっては以前の生活と何もかわりなかった。むしろ、料理を捨てられることもなく、部屋を荒らされることもなく、いきなり体当たりされることもない今のほうが、心穏やかに暮らせていた。
(極道の屋敷で心が穏やかってのも、どうかと思うけど……)
しかし、実際に屋敷の中は穏やかなものだった。徒衆の人達は皆とても親切で、廊下ですれ違えば挨拶してくれるし、その時に料理の感想も言ってくれたりする。
ただ、尋がいるとやはり少し空気が違った。
掃除をしていると、時に尋の姿を見ることがあった。この間は、渡り廊下の向こう側を二、三人の徒衆を従えて歩いていた。何か指示を出していたのか、彼が口を動かす度に徒衆の空気が引き締まるのが、遠目にも伝わってきた。
帝都には荒くれ者もいたが、冬月一家はそういった粗暴な者達とは違い、とても規律が行き届いているように感じる。
(一也君もとっても素直で良い子だし)
チラと目を向ければ視線に気付いたのか、ニコッと人懐こい笑顔を返してくれた。
「ん゛っ……一也君が息子だったら良いのに……」
「さすがに息子は無理があるよ、涼子さん」
「じゃあ、弟はどうでしょう」
「やぶさかでないね」
澄まして言う一也と目が合えば、二人してぷっと吹き出してしまった。こうしていると、本当にどこにでもいる少年と変わりなかった。あははと笑う声は楽しげで、まるで公園で雑談しているかのように錯覚してしまう。
「され、それじゃあ次は小松菜を――って、ん?」
涼子は目尻に滲んだ涙を拭い、料理を再開させようとしたのだが、そこでなんだかガヤガヤとした声が聞こえるのに気付いた。
次の瞬間――。
「早く運び込め!」
荒々しい男達の声が炊事場まで響いた。直後、床板が割れるのではと思うくらいの、ドタドタとした多くの荒々しい足音が聞こえてきた。「こっちが先だ!」「梅爺を呼べ!」と叫ぶ達の声は怒声に近く、切羽詰まった緊張感が滲んでいる。
「な、何があったのでしょうか」
涼子は不安に駆られ、炊事場から顔を出した。
すると、その横をびゅんと一也が駆け抜けていった。
「えっ!? 一也君!」
一也は焦ったように、涼子の声に振り返りもせず駆けていく。その様子にただごとではないと、涼子も一也の後を追った。
「総代は!?」
「今、狐山さんが呼びに……!」
騒がしい声は玄関ではなく、なぜか屋敷裏の方から聞こえてくる。声に近付くにつれ、握った掌に汗が滲む。そして、屋敷裏に近い部屋の入り口で、男達が群がっているのが見えた。
「――っ!」
涼子はその男達の姿に思わず息をのんだ。
彼らは和装洋装と様々な格好をしていたが、一様に袖や背中には赤が滲んでいた。
血だ。
今まで生きてきて見たことがい量の血に、涼子は頭がくらりとしてその場でへたり込んでしまった。脚が震えていた。男達の合間から部屋の中が見えたが、寝かされている者達は、全身赤かった。水漏れしたようにじわじわと畳に血が広がっていた。
感情の昂ぶりに身体が勝手に反応して、涙がこみ上げてくる。嗚咽が漏れそうになった口を、慌てて両手で強く塞ぐ。
そこへ、離れから大股でやってきた尋が部屋へと入っていくのが見えた。後ろをついて入った荊の頬や胸元にも、少なくない量の血が飛び散っていた。
忘れていた。
極道は、本来とても恐ろしい場所なのだ。平和な場所でも穏やかな場所でもなく、人世の闇を生きる者達の世界だ。
自分の両手を見つめる。自分に治癒の力があれば良かったのに。
「……私……役立たずだわ……っ」
涼子はよろよろと立ち上がると、踵を返してその場を離れた。
その姿を、尋が部屋の中から横目で見つめていたことに、涼子は気付かなかった。



