暁の檻で、極悪な愛からは逃げられない

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 オークション会場を出た涼子は、貴族か実業家くらいしか持っていない車に乗せられた。
 車に乗せられる前に手枷は外されたのだが、なぜか青年は車の中でも涼子を脚の間で横抱きにしていた。車の中でも青年の狐面は外されず表情は窺えなかったが、もしかしたら逃げると思われたのかもしれない。

 しばらくして車が止まった。と思ったら、また青年に抱えられて降車させられた。到着した先は、頑健な門と壁を持った広大な和風屋敷だった。屋敷を取り囲む白壁付きの大門をくぐる時チラと見えた門柱の表札には、円の中に三日月が描かれた家紋と、『冬月一家』という文字が書かれていた。

 裏の世界に疎い涼子でも、その名くらいは聞いたことがあった。
 冬月一家といえば、帝都の裏社会を牛耳っていると噂の極道家である。




 車を降りても青年に横抱きで運ばれ、どこかの部屋に入ったと思ったら。

「――えっ……きゃっ!」

 いきなり身体の支えが消えた。
 ふわりとした浮遊感の後、ぼふんとした衝撃と共に背中からどこかに落ちた。しかし、大した痛みはなく、柔らかい感触に包まれていた。恐る恐る目を開くと、どうやら自分はソファに放られたらしいことがわかった。

 涼子は驚きで目を白黒させながら、正面に立つ青年を見上げた。青年はちょうど目元を隠していた狐面を外すところで、仮面の下から現れた顔貌を見て、思わず息をのんでしまった。
 佇まいからも充分鮮やかな美しさが滲み出ていたから、きっと隠れた顔も、それに見合った薔薇のように派手な顔貌をしているのだろうと思っていた。しかし実際は、花など一瞬で凍らせてしまうような、恐ろしいほどに冷めたものだった。感情という温度が一切感じられない。見下ろしてくる瞳はひどく静かで、まるで雪原の中、一匹で佇む黒狼のような不可侵の孤高さすらある。

 次の瞬間、バンッと顔の両側に手を突かれ、覆い被さるようにして青年が顔を近付けてきた。いきなりのことで、口から小さな悲鳴が漏れる。しかし、男はまるで気にした様子なく、形の良い薄い唇を開く。

「神祇省家の娘だそうだな」

 胸の内側で、ドッと心臓が痛いほどに跳ねた。
 やはり、彼は治癒の力を目的として自分を買ったのだ。

「は……い……」

 辛うじて声を出す。

「そうか」

 青年はそこではじめて、感情らしい感情を顔に描いた。薄い唇を弧にし、満足そうに目を細めている。
 涼子が()()()楸一族の娘であれば、この微笑に安堵できていたのだろうが、()()()()()()涼子にとっては何ひとつ安心材料にならなかった。きっと、次の質問だ。もし彼が望むような治癒の力がないと知られれば、何をされるか……。
 最悪の結末を想像して、ぶるっと勝手に身体が震えた。
 だが、次に降ってきたのは質問ではなかった。

「……え」

 ポタ、と頬に生ぬるいものが落ちてきた。涼子が指で拭えばぬるりとして、拭った指を見ると血がついていた。
 再び顔を上げた先には、血を流し続ける青年の左手があった。いつ取り出したのか、反対の手には小さな刃物が握られている。

「治してみろ」

 途端、涼子の顔がサァッと青くなる。

「――っな、何をしているんですか!」

 先程まで震えていたのが嘘のような俊敏な動きでソファから身を起こすと、涼子は躊躇いなく襦袢の裾を勢いよく引き裂いた。ビリッという音が部屋に響く。
 涼子は裂いた布を、手際よく青年の左手にグルグルと巻き付けていく。

「自分で傷つけるなんて……っ力の有無なんて聞いたら良いじゃないですか! どうして自ら痛い思いをなさるんです!」

 布の先を歯で裂いて掌に結ぶ。手に巻き付けた白い布にじわりと赤が滲み出すが、少しすると滲みも止まった。ホッとしたのも束の間、青年が自分を凝視していることに気付いて、涼子は自分がやったことの意味を理解する。
 彼は布が巻かれた己の手と涼子とを交互に見ていた。『なぜ』といった声が今にも聞こえてきそうなほど、その眉宇は曇っている。
 それもそうだ。治癒の力がある者ならば、こんな治療法は使わない。
 涼子は諦めて、ソファの足元で額づいた。
 問われて白状するくらいなら、自分から正直に言いたい。

「申し訳ありません。私に治癒の力はないんです」

「は?」という声が、頭上から聞こえた。声音は怒っているというより、怪訝の色が強い。

「……どういうことだ。異能がないのなら神祇省家というのも嘘か」

 一瞬、ピリッと空気に緊張が走る。

「う、嘘ではありません。私に治癒の異能がないだけです」

 自分で言っていて嗤ってしまう。『ないだけ』というのが、一番の問題だというのに。

「名前は?」
「す、涼子です」
「名字は?」
「それは……その……」

 楸家の名は出したくなかった。
 一族内で問題があると知られるのを懸念したこともあったが、何より父が守ってきた楸家という名を貶めたくなかった。楸家の娘は、闇オークションで売られるような人間だと思われたくない。夫が売ったのだと話したところで、自分自身ですらなぜ売られたかわかっていない状況だし、自分に非があったからだと思われて終わる。

「なるほど、家名は言えない訳ありってことか。まあ、裏に流れてくる時点でそうだとは思っていたが……無能故に捨てられたってところか」
「……っ」

『捨てられた』――その言葉に胸が痛んだ。やはり誰から見ても、自分は夫に……家族に捨てられたらしい。

(恋人だった頃はあんなに優しくて朗らかで、力がなくても愛してるって……っ)

 過去の夫の顔が脳裏に映し出され、涙が溢れそうになるのをぐっと目を閉じて堪え、振り切るように顔を上げる。

「あの、あなた様はいったい……」

 ややあって彼は口を開いた。

(ふゆ)(つき)(じん)……冬月一家の(そう)(だい)だ」
「そ……っ」

 総代ということは、冬月一家の頂点にいるということだ。
 思わず驚きに声を漏らしてしまった。見る限り自分よりも年上だろうが、それでも数歳程度だ。おそらく、晃と同じくらいだろう。冬月一家がどのくらいの規模かはわからない。しかし、帝都の裏社会を牛耳っていると言われる組織が、小さいはずがない。それを、こんな若い青年が纏めているとは、凄いという感情以上に、『どうやって』という恐ろしさがあった。

 呆気にとられた顔で青年――尋を見上げていれば、彼は「はぁ」と大きなため息を吐いてソファに腰を下ろした。ソファの背もたれに脱力した身体をあずけ、天井を仰いでいる。

「随分と高い買い物になったもんだ」

 青年は明らかに落胆していた。そこについては、本当に心の底から申し訳なく思う。なんといっても一万圓だ。野菜を買って腐っていたというのとはわけが違う。
 涼子は背中を丸めて、さらに平身低頭した。

「あの、一万圓は働いて必ずお返しします。ですから、どうか再び競売場で売ることだけはご容赦くださいませ」

 この先の自分の未来として一番確率が高いのは、再び闇オークションで売られることだった。一万圓という損失を少しでも補填しようとすれば、やはり高額で売買が行われる闇オークションに出すしかない。
 しかし、涼子はその未来だけは、なんとしても阻止したかった。
 今夜のオークションで、自分がどのような目的で買われるのかわかってしまったから。五千圓で落札しかけた男は、治癒の力を使うことだけでなく、慰み者として涼子を使おうとしていた節があった。あのねっとりとした声を思い出すだけで、ゾワリと怖気が走る。

「働いて返す?」

 顔を上げると、手指の隙間から向けられた尋の瞳と目があった。

「どうやって。まさか、そこらの店の売り子にでもなるとか言うつもりじゃないだろうな。俺は自分の監視下にない場所に出すつもりはないぞ。いくら無能でも、自分が買ったものに逃げられるのは業腹だからな」
「に、逃げません」

「どうだか」と、彼は鼻で笑った。
 逃げたところで行く宛もないし、逃げるつもりはない。どうせ楸家にも戻れない。戻ればまた売られるに決まっている。しかし、それを彼に言ったところで、確かになんの保証にもならないだろう。

「……でしたら、女中としてお屋敷で働かせてください」
「女中? 特務三省の奴らってのは貴族みたいなもんで、家事ができるとは思えないが」
「炊事、掃除、洗濯など家のことでしたら一通り可能です。お願いします……っ! なんでもいたしますので、どうかここで働かせてください!」

 正直、極道家という点は恐ろしい。しかし、彼の様子を見るに、彼は治癒の力がほしかっただけで自分に興味はないのだろう。それは涼子にとって幸いだった。異能がないのならば慰み者に……といった扱いを受けるより、たとえ過酷な肉体労働になろうとも、女中として働くほうがはるかにマシだった。
 すると、尋は「へぇ」と片方の口端をにやりとつり上げた。

「なんでも、ねえ?」

 次の瞬間、腕を引っ張られたと思ったら、涼子は床からソファの上で仰向けになっていた。正面――というか、真上には尋の顔があり、三度パチパチと瞬きをしてやっと涼子は彼に押し倒されたことに気付く。
 同時に、自分がとても心許ない格好をしていたことにも。

「――やっ!?」

 しかも、襦袢の裾は彼の手を治療するために裂いたため、少し短くなっている。涼子は慌てて腕で身体を隠そうとするが、その手はすぐに彼に捕らわれ、ソファに縫い付けられてしまった。

「女中仕事で一万なんて稼げると思ってんのか。そりゃ世間様を舐めすぎだろ」

 影が落ちた顔の中で、黒い瞳だけが鈍く光っている。しかし、その光りは熱に浮かされてという甘いものではない。氷が単に反射しているような、無機質なものだった。いったい彼は何を考えているのか。見下ろしてくる彼の表情は冷酷そのもので、恐怖が全身を強張らせる。

「なんでもするってんなら、手っ取り早く稼ぐ方法を教えてやろうか」

 手の拘束を解かれたと思ったら、尋の手が襦袢の合わせから侵入してくる。太股を自分とは異なる熱が撫でる。

「名前を聞いたからには、たくさん呼んでくれるんだろう? ……俺の下で」
「ん……っ」

 愉悦が滲んだ甘い囁き声が耳朶をくすぐり、手がゆっくりと脚を這い上がってくる。ゾクゾクとした感覚が足先から頭へと突き抜けた。晃にすら触れられたことがない場所への刺激に、涼子の頭は真っ白になり、そして――。

「――っきゃあぁぁぁぁ!」

 思い切り叫んだ。

「うるさっ」と、尋は耳を押さえてすぐさま身体を離す。
 その顔は、眉をしかめた迷惑千万といった表情だ。

「す、すみませ……」

 思わず謝ってしまう。しかし限界だったのだ。未知の刺激に心臓が今にも口から出そうだったのだ。出たのは悲鳴だったが。
 すると、勢いよく部屋の障子がスパンッと開いた。

「なんですか、今の悲鳴は!」

 血相を変えた男が部屋に飛び込んできた。
 後頭部で結んだ長い髪がひらりと揺れる男は、尋よりももう少し年上に見え、チェーンのついた眼鏡姿は印象的だ。
 男は部屋の状況――倒れた涼子に尋が跨がっている――を確認して、眼鏡の奥で何度も目をしばたかせていた。

「ど、どういった状況で……」

 尋は小さく肩をすくめると、涼子の上から降りた。涼子は安堵したものの、再び捕まらないようにとすぐにソファの端へと身を寄せる。

「丁度良い。(いばら)、この女に屋敷(ここ)のことを教えろ。今日から女中として働いてくれるんだと」
「は? え、女中? なぜそんなことに……」

 荊と呼ばれた男は、さらにわけが分らないといった様子で、片眉をへこませていた。

「治癒の異能がない」
「なっ――!?」

 まさしく言葉を失うといった荊の驚愕の仕方に、涼子はさらに身を縮めた。期待されていた役目を果たせないのは、相手がどのような者であっても、いたたまれない気持ちになる。

「一万圓分働いて返してくれるんだと。高級女中だ、丁重に扱えよ」
「そっ、それは、お屋敷に置いてもらえるということでしょうか!」

 尋の言葉に涼子は顔をパッと明るくした。しかし、涼子へと向けられた荊の目が、品定めするような冷ややかなもので、すぐに彼女の明るさは消える。

冬月一家(うち)が面倒を見ている妓楼で働かせればよろしいのでは」
「……っ!」

 涼子は息をのんだ。
 確かに、金を返済させるのなら、妓楼で働かせるのが一番手っ取り早い。妓楼ならば逃げれる心配もないのだし。
 尋がなんと返すのかと、涼子は祈るような気持ちで彼の横顔を見つめる。

「さっきの悲鳴を聞いただろ。妓楼は無理だ。色気がなさすぎる」

 失礼な言われ様ではあったが、正直色気がなくて良かったと思った。
 荊は「かしこまりました」と口にしつつも、納得していない表情で頷いていた。心の底から申し訳ない。
 荊に目で『来い』と言われ、涼子は慌ててソファから彼の元へと駆け寄る。尋の脇を通りすぎる時、卓に放られていた彼の羽織を肩に掛けられた。
 驚きに振り返ったが、目が合った彼はやはり感情の読めない顔をしていた。

「あのっ、一生懸命働きますので、よろしくお願いします!」

 そう言って頭を下げると、涼子は先に部屋を出た荊の後を追った。