暁の檻で、極悪な愛からは逃げられない

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 涼子が目を覚ました時、世界は真っ暗闇だった。

「え……?」

 夜だろうか。どうして自分は寝ていたのか。まず、ここはどこか。一瞬にして様々な疑問が頭の中を駆け巡るが、ハッキリとした答えは出なかった。
 まだぼわぼわと眠気が残る頭を振り、涼子は記憶を探る。

 晃に二人で出掛けようと誘われ、その後、帝都に新しくできたと評判の喫茶店へと連れて行ってもらった。まるで以前に戻ったみたいに晃は終始優しかった。
 そして、珈琲を飲み終え店を出ようかとなったところで、誰かが席にやって来たのだったか。晃の知り合いだという男で、それで少し席で会話することになって、もう一度飲み物を頼むことになって……それで……?

 そのからの記憶は曖昧で、気がついたら今この状況だった。
 ここがどこかはわからなかったが、微かに人の声は聞こえる。声は大きなものではなかったが、ざわざわとしていて、ひとり二人でないことはわかった。近くに誰かいることに僅かながらホッとする。
 涼子は闇に向かって、「誰か」と声を掛けようとした、のだが。

「さあ! いよいよ今宵最後の品となってしまいました――」

 突如大きな声が聞こえ、パッと明かりに照らし出された。
 眩しさに顔を手で覆おうとしたが、できなかった。腕がいつもより重い。なぜと手元に視線を落とせば、手首には鎖で繋がれた手枷が嵌まっていた。

(どういう、こと……)

 拘束されている。しかも、自分の纏うものが着物ではなくただの襦袢だとわかり、羞恥に「きゃっ」と小さな悲鳴が漏れた。晃と出掛けるのだからと、一番大事にしていた牡丹色の着物を着ていたはずなのに。身体を抱き締めて隠したかったが、手枷のせいで思った通りに動けない。周囲を見回せば、ぐるりと鉄格子が囲んでおり、自分は囚われているのだと理解した。

 しかし、なぜ囚われているのかは、まだ理解できなかった。
 暗闇の中から上がる様々な声が、他人事のように耳を通り過ぎていく。
 仕切っていた男は、神祇省だとか、治癒だとか、歳は二十二だとか言っていた。それはまるで自分を指しているかのように聞こえた。だとしたら、愉しめるとはなんなのか。わーわーと競うように数字を叫ぶ男達はなんなのか。
 涼子の脳は理解を拒んでいた。しかし、どれだけ理解を拒もうとも、男達が叫ぶ声に、この状況がなんなのか無理矢理に突き付けられる。

「は、はは……っ」

 口から出た笑いは渇いていて、音にはならなかった。

(私……晃さんに売られたのね……)

 二人で出掛けようと言ってくれたのに。久しぶりの二人きりの時間が、自分は心の底から嬉しかったのに。

(私は、あの人達にとって……晃さんにとって家族じゃなかったんだわ……っ)

 頬に流れる涙を拭いたいのに、手が持ち上がらない。仕方なく俯けば、ポタポタと雫が手に落ちて弾ける。
 気付けば、屋根を叩く雨音のように止めどなく上がっていた声が、聞こえなくなっていた。どうやら自分を買う人間が決まったようだ。落札者の男が暗闇の中で声を発した。それはねっとりとした荒い鼻息混じりのもので、絶望が足元から這い上がってくる。慰み者にされる。しかも、自分はおそらく彼らが欲しがっている治癒の力を持たない。バレたらどれほど酷い目にあわされるか。

「一万」

 刹那、低い男の声が響き渡った。
 誰もが聞き間違いかと思った。それは、まるで今まで懸命に競っていた者達をあざ笑うようなひと声だった。

「いっ、一万!? 一万ですね!?」

 仕切っていた男も、あまりの高額に声を震わせ確認していた。当然、五千で競っていた者達が一万などという桁違いの額と競れるはずもなく、すぐに「落札!」という声が会場に響き渡った。

(誰が……)

 聞こえた声はほんの一瞬で、どういった者が自分を買ったのか予想できなかった。
 暗闇の中は、嫉妬ややっかみの声で騒然としていた。しかし、なぜかいきなり声がしなくなった。
 静寂の中、コツコツと革靴の踵が床を蹴る音だけが聞こえた。

 足音は段々と涼子の方へと近付いてくる。
 そして、ダンッ! という派手な音と共に、黒い大鷲が壇上に舞い降りた。
 否、そう見えただけで、実際にその場に立っていたのは黒いスーツ姿の青年だった。彼の肩には和装の羽織が引っ掛けてあり、大鷲の羽ばたきに見えたのは、翻った羽織だったのだろう。

 顔の上半分は狐面をしていて、素性はわからない。ただ、髪もスーツも羽織も黒ずくめなのに、ライトに照らし出された姿はとても鮮やかに見えた。

「おい、競売人。鍵を寄越せ」

 ただ喋っているだけなのに、身震いしてしまうほどの冷ややかさがあった。「は、はい」と慌てた進行役の男が裏に向かって何やら声を掛けると、ひとりの男が小走りでやって来て、青年に鍵を渡して行った。
 ガチャン、とうるさい音をたてての扉が開けられた。
 青年は微笑んでいた。しかし、その笑みは貼り付けたように綺麗なだけで感情がない。
 思わずゴクッと固唾をのんでしまう。

「……ぁの――っきゃあ!」

 次の瞬間、いきなり腕を引っ張られ牢から出されたかと思うと、横抱きにされていた。手枷や鎖もあり重いはずなのに、青年は易々と涼子を抱えていた。彼は踵を返して壇上を飛び降りると、好奇の視線が注がれる暗闇の中を颯爽と歩む。彼が「帰るぞ」と言えば、周りから男達がゾロゾロと集まりだす。
 何が起きているのか。ずっと状況に理解が追いつかない。
 彼は腕の中から怯えた目を向ける涼子を見下ろし、告げた。

「女、今日から俺が飼い主だ」

 自分はいったい誰に買われてしまったのか。



        ◆



「きゃぁ! すごいすごいっ!」
「でかした、晃! こんなに高値で売れるとは!」
「ほほ、晃さんから聞けば、治癒の力すら持たない娘だったと言うじゃありませんか。本家の娘なのに今まで役立たずだったんですもの。これでやっと他人様の役に立てたというものですよ。本望でしょう」

 晃が持って帰ってきた物を見て、葛梨家の者達は喜びの悲鳴を上げた。
 卓の上には紙幣に似た紙が、山のように置かれていた。紙は金貨兌換券といい、一枚で金貨百圓の価値があり、銀行で換金するか、そのまま支払としても通用するものである。

 平民や、葛梨家のような末端の分家では、まずお目にかかれない代物である。
 それが七十枚――七千圓。ただの紙ではあるが、葛梨家の者達にはキラキラ輝く金貨の山に見えていた。

「向こうには、神祇省の娘ということしか伝えてないですし、きっと皆、治癒の力を目的に競ったんでしょうね」

 嘘は吐いていない。神祇省の娘なのは間違いではないのだから。ただ、聞かれなかったから異能はないということは言っていない。まあ、神祇省に無能がいるとは普通誰も思わないだろうが。
 もし、落札者が涼子に治癒の力がないと気付いても後の祭りだ。責任があるとするのなら、ちゃんと確認しなかった競売人側だろう。怒った落札者が涼子をどのように扱おうと、どうだっていい。
 もう夫婦ですらないのだから。

「涼子について何か聞かれたら、『家や神祇省の金に手を付けて豪遊していたから、離縁して追い出した』と言うようにしてください」

 彼女が眠っている間に、しっかりと離婚届も書いて彼女の捺印も済ませた。彼女の人差し指に墨を付けている時、ふとこんなに華奢な手だったのかと気付いた。しかし、そこで何か感傷がわくわけでもなく、結婚してから手を握ることもなかったなとぼんやりと思っただけだった。それも当然か。出会ってから一年も経っていない女に、情など抱けるはずもない。

「あ、『男遊びもひどくて、離縁後男と出て行った』っていうのも良いかも」

 きゃはは、と至極愉快そうに笑う百合子の様子からは、微塵も憐れみなど感じられない。しかし、この場でそれを咎める者はひとりもいない。

「これだけの金があれば、借金返済はもちろん、また投資もできるな!」
「ねえ、お母様。神祇省家の皆を呼んでお茶会でもしたら」
「あら、良いわね。だったら服も新調しようかしら。誰をお招きしましょう、ふふっ。あ、そうだ、まず女中を雇いましょう。あの子もいなくなったし掃除する人間が必要だもの」
「姉さんの着物、全部あたしが貰おうっと」

 家族が笑っていた。こんなに明るい表情を見たのはいつぶりだろうか。

「本当、晃さんのような息子を持てて幸せだわ。ありがとう、晃さん」
「お前は葛梨家の誇りだ、晃」
「ありがとう! 兄様、大好き!」

(良かった)

「いえ……家族は助け合わないと」

(僕の家族が喜んでくれて)