暁の檻で、極悪な愛からは逃げられない

        1

 涼子を呼ぶ父親の声は、いつも慈愛に満ちていた。

『ほらおいで、涼子』
『どれ、父が仰いであげよう。涼しいかい、涼子』
『誰がどう思おうと、父は涼子のことがこの世で一番大切で可愛いんだよ』

 涼子を産むと一緒に亡くなった母親のぶんまで、父親は惜しみない愛を彼女に注いだ。幼い娘の手を引いてゆっくりと歩き、友人と喧嘩をした娘の涙を拭き、己の無力さに悲しみ泣き暮れる娘を抱き締めた。
 家族というには二人きりの小さなものだったが、それでも涼子は幸せだった。彼女にとって父親は愛そのものであった。母親の愛を知らぬとも寂しさを覚えることなく、涼子が俯かずに笑っていられたのは父親のおかげだった。

 優しく真っ直ぐで、同時に一族をまとめる厳格さも持ち、何ひとつ恥じることない人間だった。
 国家機関である特務三省は、異能持ちの家だけが所属できる省である。その長官職は代々世襲制で特定の家が担ってきた。軍事を司る軍務省は椿(つばき)家、内政や外交を司る内務省は(えのき)家、そして、祭祀や守護を司る神祇省は(ひさぎ)家である。

 それぞれの家は本家と呼ばれ、己の省に属する家々を管理監督する責任を負っている。
 現在、神祇省家は本家以外に十五の家があるが、皆、治癒の異能を持っている。多くは外傷を治せる程度の力だが、時に異能が強い者は病すら癒やすことができた。神祇省家の守護という本分は、具体的に言えば国益人材を守ることなのだ。
 その中で父は本家当主に相応しく、病すら治癒できる強い力を持っていた。

 それなのに父は死んだ。
 あまりに突然のことだった。

「お義父さんがこんなことになってしまって、僕も残念だよ、涼子」

 父親の葬儀を終え、屋敷で涼子が気の抜けたようにぼうとしていたら、恋人の(くず)(なし)(あきら)がやって来て彼女の肩を抱いた。

「晃さん……私、ひとりぼっちになって……っ」

 半年ほど前、街へと出掛けた父が怪我をして帰ってきたことがあった。
 なんでも、馬車に轢かれかけ、足を捻って動けなくなってしまったところに晃が通りかかり、屋敷まで送り届けてくれたのだ。
 彼はその後も父の足の具合が心配だからと、何度も見舞いに来てくれ、自然と年の近い涼子との距離も縮まっていった。もちろん、父も晃の真摯な優しさを快く思っていた。父と晃の二人が縁側で会話する姿は、まるで本当の親子のようだった。
 将来、楸家は涼子の夫となるものが継ぐことになる。だから、夫になる者は同じ神祇省の者が好ましく、彼の好意を断ろうと思っていたのだが、実は彼も神祇省家のひとつだとわかり、晴れて恋人となったのだ。
 それが、一ヶ月前のことである。

「蔵からお義父さんの悲鳴が聞こえて駆けつけたら、階段の下で倒れていて……治癒を施す暇もなく……っごめん」

 何か探し物でもしていたのか、父は屋敷の隣にある二階建ての土蔵で亡くなった。階段を踏み外して落ちたのだろうということだった。

「晃さんのせいじゃありません」

 そう、彼のせいではない。階段から落ちた父は即死だったのだろう。晃にどれほど強い治癒の力があったとしても、死んでいたのなら無意味だ。
 父を救えたのは、間違いなく自分だけだったというのに。どうして本当に必要な時に、自分は異能を使っていなかったのだろうと後悔してやまない。

 涼子は己の不甲斐なさに密かに畳に爪を立て、唇を噛んだ。顔を俯け、再び小刻みに身体を震わせながら、涼子は小さく嗚咽する。
 そんな彼女を、晃が胸に抱き寄せた。

「これからは、僕が君も楸家も守っていくから安心してほしい」

 両腕で抱き締める力強さが嬉しかった。この先どうなるだろうという不安が解けていく。

「君をひとりにはさせないよ。僕と家族になろう」

『家族』――その言葉が心底嬉しかった。

 涼子は晃に身を委ね、胸板に頬を寄せた。
 彼は天涯孤独となるはずだった自分に、父が遺してくれた贈り物だ。

「もちろんです、晃さん」
「愛してるよ、涼子」

 顔を上げた涼子の唇に、晃のが重ねられた。

(お父様……私にもお父様のような温かな家族ができました)

 涙が滲んだ口づけは、しょっぱかった。



        ◆



 父親の死から一ヶ月後、喪が明けたタイミングで涼子と晃の結婚式はつつがなく行われた。ただし、来賓などなく、涼子と晃の家族のみというささやかな式となった。楸一族本家娘の結婚式にしては実に質素なものだったが、涼子はそんな見栄えよりも、愛する者と共に歩んでいけることのほうが重要だった。

 楸家の広い屋敷は、今まで父親と涼子しかいなかった。普通であれば女中などを雇うものなのだが、二人だけの生活に他人の手は必要なかった。広い庭や屋敷も一緒に手入れし、共に買い物に行き料理し食べるという、決して派手ではないものの確かな愛のある日々を過ごしてきた。

 温もりが息づいた屋敷で、新たな家庭を築いていけることが何より嬉しかったのだ。特に、涼子は自分が結婚できるとは思っておらず、家族など持てないと諦めていたから。
 涼子には公にされていない秘密があった。
 父は、晃が神祇省家だとわかった時、彼に涼子の秘密を打ち明けていた。それで拒否されるのなら涼子も仕方ないと覚悟していたのだが、彼は「何も問題ない」と受け入れてくれたのだ。父も自分も心底安堵したのを覚えている。
 それから、涼子は夫となった晃と二人、穏やかな日々を育んでいた。


 ――と、思っていたのに。
 結婚から一ヶ月経った頃から、少しずつ何かがおかしくなっていった。

「あ、晃さん、おかえりなさいませ――きゃっ」

 ドンッ、という重い音と共に鞄が廊下を転がった。国政議会から帰ってきた晃が、帰って来るなり玄関から乱暴に廊下へ鞄を放ったのだ。
 彼は「はぁ」と疲労が滲んだため息を吐きながら、ドスドスと荒々しい足音をたてて涼子の横を通り過ぎ、書斎へと入っていく。涼子は慌てて鞄を拾い彼の後を追いかけた。
 楸家の屋敷は外観は和風だが、中の設えは半分以上が洋室である。書斎は洋風の作りになっていて、彼は書斎の大きな椅子にどっかと腰を落とすと、今度は目の前の書斎机に拳を落とした。また、ドンッと大きな音が部屋に響き、涼子はビクッと肩を跳ねさせた。

「クソッ、内務省長官め、僕のことを馬鹿にしやがって……っ」

 どうやら、議会で何かあったようだ。
 国政議会には、各省庁の長官等が出るのだが、特務三省も国政機関のため参与が認められている。特務三省の長官席は、本家当主が務めることとなっている。父が亡くなった今、楸家の入り婿となった晃は、必然的に楸家当主となり、神祇省長官として議会に参加しなければならなかった。
 一応、彼も神祇省家ではあるが、やはり本家にいた涼子と比べて政治からは遠く、知らないことも多かった。結婚当初、他の省庁との関係や国政議会について色々と伝えたのだが、やはり相当苦労しているようだった。
 彼が床に脱ぎ捨てた長官服を、涼子が拾い上げる。憲兵の軍服に似た意匠だが、装飾はこちらのほうが凝っており、はじめて袖を通した時、彼はあれほど喜んでいたというのに。

「その、差し出がましいかもしれませんが、しばらくは私が議会に出席いたしましょうか」

 議会の参加に男女の別はない。彼が慣れるまで、本家周りのことをよく知っている自分が代理で出席したほうが、彼も心の余裕ができるだろうと思っての提案だった。元より、結婚がなければ涼子が当主となる予定だったのだから。

「君が?」

 しかし、チラと向けられた視線は鋭く、ハッと鼻で嗤われてしまった。

「どの面下げて出るっていうんだよ、()()の君が」
「……っ」

 晃の直截な言葉に、涼子はズキリと痛む胸を押さえた。
 涼子には、神祇省属家として誰しもが持つ治癒の力がなかった。
 正確に言えば、()()()()()()()()()()()

「いや、無能どころか気味の悪い異能で……皆そんな奴を当主には仰ぎたいとは思わないだろうし、僕も議会には出てほしくないね。他の省の奴らにも嗤われるよ」

 彼の言うことは、何ひとつ間違っていない。
 涼子も本家の娘なのに無能という負い目が常にあり、幼い頃は自分だけ誰も助けられないのだという情けなさと、父の後を継げるのかという不安に何度泣いたことか。
 だから、涼子は役に立たない自分など誰にも選ばれないだろうと、結婚を諦めていたのだ。そんな中、無能でも構わないと晃は受け入れてくれた、はずなのに……。

「そう、ですね。すみません……」

 俯いて素直に謝る涼子の声が震えているのに気付いたのだろう。

「ああっ、す、すまない涼子! つい、イライラして君に当たってしまった」

 勢いよく椅子から立ち上がった晃は、慌てて涼子に駆け寄りきつく抱き締めた。眉根を寄せた後悔しているといった表情だ。

「いえ……本当のことですもの」
「本心じゃないんだ、信じないでくれ」

 きっと、彼もいきなり与えられた本家当主としての重責で、色々と苦しんでいるのだろう。

「ええ、大丈夫です。慣れない環境に歯痒さを覚えるのは当然ですもの」
「涼子……君が妻で良かった」

 涼子が晃の頬を撫でてやれば、彼はその手を取って掌に唇を寄せた。涼子の頬がポッと色づく。
 実は、涼子と晃は結婚して一度も同衾したことがなかった。寝所が別なのだ。口づけはあったが、それも数える程しかない。寂しさはあったが、忙しい彼にそれを言える空気ではなかった。それに、涼子としては身体の関係がなくても、一緒に暮らせるだけで幸せだったから。

「君の言うとおり、僕がこの環境が慣れきれないのが原因だろうね」

 すると、晃は視線を中に投げると顎を撫で、何やら思案しはじめた。

「……涼子、ひとつお願いがあるんだけど」
「はい、私でお役に立てるのでしたら」

 涼子は夫の負担が減るのならと、彼のお願いに頷いた。