暁の檻で、極悪な愛からは逃げられない

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 母屋の執務室。
 翌朝、改めて涼子は尋に、かつてオークション会場で自分に向けられた声と、先日の舞踏会で尋が挨拶を交わしていた商業者の声が同じだったことを伝えた。

「ですが、オークション会場は暗く姿までは見えなくて……ですので、私の勘違いという可能性もあるのですが」

 ソファに座った尋は、背もたれに頭を乗せ、しばらく天井を仰いでいた。ソファの後ろに立つ涼子は、眼下で難しい顔をして懸命に記憶を探る尋の顔を眺める。

「壮年で中肉中背の、髪は前髪部分だけ白くなっていて……」と特徴を伝えれば、ややあって「ああ、あの商人か」と無事に思い出せたようだ。
「その方の名前がわかれば、すぐに居場所がわかるのではありませんか。尋様、お相手の名前は覚えていますか?」
「いや、まったくだな。涼子を舐めるように見ていて、ホールから投げ捨ててやりたいと思っていた記憶しかない」

 談笑していたように見えたのだが。さすが冬月一家の総代ともなると、社交力も違うのだろう。

「ただ、よく考えたら、舞踏会には他にもオークションに出席した方がいた可能性もありますので、舞踏会に参加していただけでは襲撃の首謀者かわかりませんよね」

 早合点してしまったかなと涼子は眉を下げたのだが、今まで聞くに徹して気配を消していた荊が、「いえ」と言葉を挟んだ。

「オークションで聞いた声の主は、五千圓で落札しかけた者だと言いましたよね」

「ええ」と涼子は頷く。
 今思い出してもゾッとする。「これは色々と愉しめそうだ」と言うねっとりとした声だった。もし、尋が買ってくれなかったら今頃どうなっていたか。それこそ治癒の異能がないからと、もっと酷い相手に売られていたかもしれない。

「極道を襲撃するくらい、涼子さん……この場合は治癒の異能を欲しがっている者が、オークションで大人しく競り負けるとは思えませんね。尋が一万と言わなければ、五千で落札されていたでしょうし、その男である可能性は高いでしょう」
「でしたら、その商業者を探したら……!」

 と、そこまで言って、涼子は自分で言葉を切った。

「いえ、無理ですね」

 顔ならまだ覚えているが、帝都の商人だけでも数百人はいるのだ。ひとりひとり顔を見て回るなど現実的ではない。

「そういうことなら、別に見て回る必要はないぞ。荊、鷹乃を呼べ」

 どうするつもりか涼子にはわからなかったが、指示された荊はポンと手を打って、なるほどと言って部屋を出て行った。




 それから一時間もせず荊は戻ってきたのだが、彼の後ろには見知らぬ男が二人並んでいた。そのうちのひとり――襟足が長めの亜麻色髪の青年は、涼子の元へと一直線に歩み寄ると、まるで幼い子にするように、軽く膝を折って目線を合わせる。

「久しぶりだね、涼子。こんなに綺麗なお姉さんになって……覚えてるかな? 小さい頃に何回か会った榎鷹乃って言うんだけど」

 いきなり距離を詰められれば誰でも抵抗を覚えるものだが、不思議と彼に対しては抵抗を覚えなかった。それは、彼の人に警戒心を抱かせないような柔らかな声音と微笑みによるもので、それだけで涼子は鷹乃が尋のように高い位置にいる者だとわかった。
 実際に、榎家は特務三省のひとつである内務省長官を任された家である。

「すみません、ちょっと覚えてなくて……」

 申し訳なさに眉を下げると、鷹乃は俯いた涼子の頭に手を置いた。

「いいんだよ、君が二歳とか三歳の時に、三回だばかりチラッと会っただけだから。涼子が覚えてないのも無理はないよ。私は内務省家だしね」
「二歳……」

 むしろなぜ覚えていると思った、と口端が引きつりそうになったが、『内侍省家だしね』という言葉にすべて詰め込まれていた。
 内侍省家の者達は、記憶力や計算力など頭を使った分野について、ずば抜けた適性を示す。きっと彼は記憶力が良いのだろう。鷹乃と一緒に来たということは、もうひとりの三十くらいの男も内務省の者だと思われるし、きっと彼も何かしらの異能を持っているのだろう。

 しかし、なぜ彼らが呼ばれたのか。というか極道の家に政府高官がいて良いのか。
 その答えを、尋が卓へと放った。

「ここに、例のオークションに参加した者達の名簿がある」

 バサッと卓に置かれた紙束の表紙には、思い切り朱墨で『店外秘』と書かれている。そんなものがなぜあるのか――と聞くのは、きっと無粋なのだろう。冬月一家なのだし。

「あらかた絞り込んだから、その者達の似顔絵を描いてくれ」

 なるほど、と荊から一時間遅れて、涼子も手をポンと打つ。
 涼子の反応を見て、「尋ってば、面白いこと考えるよねー」と鷹乃はケラケラと楽しそうに笑っていた。

 鷹乃が名簿の名前を読むと、もうひとりが紙にサラサラとペンを走らせていく。淀みない筆運びから、あっという間に次々と人物画が出来上がっていく。記憶力というのは文章だけでなく、このように絵にも使えるのかと感心してしまう。今、絵を描いている者が持っている異能を絶対描画というらしい。神祇省とはまた違った異能の分枝方法なのだろう。

 そして、五枚目が完成して卓に置かれた時、涼子と尋は同時に「これだ」「この人です」と声をあげた。
 そこに描かれていた者は、前髪だけ色が抜けたという特徴的な髪型をもつ壮年の男。
 数年前から、帝都で貿易事業を営んでいる、『市(し)福(ふく)』という男だった。


 
        ◆



 国政議会の場に向かいながら、晃は「クソッ」と右手を睨み付け、忌々しそうに悪態を吐いた。

「あの男、躊躇いなく刺しやがった……っ誰だか知らないが、見つけたら只じゃおかないからな!」

 右手甲を刀で刺された傷はもう消えているのに、あの夜を思い出せばズキッと手に痛みが走るのだ。腹立たしいこの上ない。
 涼子がどうとか言っていたということは、あれが涼子を買った奴だろうか。もっと小汚いオッサンに買われたと思ったのに、なんだか釈然としない。

「……そういえば、百合子が、涼子を探していた男に恥をかかされたと憤慨していたな。確か、極道のくせにって……って、待てよ」

 涼子は、確かあの男のことを「尋様」と呼んでいなかったか……。
 極道で尋という名前で思い浮かぶのは、ひとりしかいない。

「冬月尋か……!」

 まさか帝都の裏を牛耳る一大悪組織に買われていたとは。

「ッハハハハ! なるほどなるほど、だったらあの刃の躊躇いなさは頷ける。人殺し集団だもんな、抵抗なんかないはずだ! 涼子も堕ちるところまで堕ちたもんだ!」

 まさか極道に買われているとは。情婦にでもされているのかもしれない。なんといっても、あんなに男を誘うようなドレスを着ていたのだし。安い女に成り下がったものだ。

「本家の娘も、家さえなけりゃ何もできない」

 まあ、元々、彼女は何もできないが。
 無能だと聞いた時は、腹が立った。無能のくせに偉そうに本家にいたのかと。神祇省長官になるつもりだったのかと。治癒の力を持たないということは、彼女は治療要請が来ても動けないということだ。なぜ働かない奴が自分達よりはるかに良い金をもらって、上でふんぞり返るのが許されるのか。
 出会う前も出会った後も、彼女のことを愛しいと思ったことはなかった。それでも、彼女と結婚したのは、金と家を奪うためだ。

「それにしても僕はついてるな」

 まさか、こんなに簡単に楸家が手に入るとは思わなかったし、何よりあの日、協力者が現れたのは天のお告げだったのだろう。
 そのうち、神祇省長官家は楸家ではなく、葛梨家に変わっていくのかもしれない。楸の血などもう神祇省には遺っていないのだから。

「やあ、神祇省長官の楸殿」

 クスクスと忍び笑いをしていたら、いきなり正面から声が飛んできた。廊下の先にはひょろりと長い、美しいマッチ棒のような男がいた。ニコリと向けられた笑顔がなんとも軟派的だ。

「……何かご用でしょうか、内務省長官殿」

 などと、用件を聞きつつも、晃は鷹乃の横を通り過ぎる。
 この内務省長官は絶対記憶の異能のおかげで、一度聞いたことや見たこと、味わったものの味すら完璧に覚えているという。下手な会話は極力避けたいのだ。
 しかし、鷹乃はまるで待っていましたとばかりに、晃が通り過ぎると一緒に隣に並んで歩きはじめる。面倒だなと思いつつも、向かう場所は同じ会議室なのだからどうしようもできない。

「そういえば、楸殿は、神祇省の先代様を助けられたのだとか?」

 いきなりなんだと思いながらも、適当に「そうですね」と相槌を打つ。

「馬車に跳ねられそうになっていたのを、ちょうど通りかかったので助けたのです」
「それは素晴らしい」

 小さな拍手を贈られ、晃は笑いが漏れるのを誤魔化しながら「どうも」と素っ気なく返答した。完全記憶を持っていたとて、どうやらその他の思考力はザルらしい。
 すると、鷹乃はパンと両手を打った。

「思い出しました。そうだ、私はこれを伝えに来たんだった」
「これ?」

 鷹乃を辺りを気にしたようにキョロキョロと顔を巡らすと、内緒話だとばかりに耳元に線を添えた

「近頃、神祇省家を狙った誘拐事件が起きているらしく。今のところすべて未遂で済んでますが、なんでもどこかの豪商が治癒の力ほしさに、神祇省家の者を買い取ると言っているのだとか。だから、長官殿からも神祇省家の皆様に注意するよう伝えてほしくて」

 まるで、自分の時と瓜二つな状況に、背中に冷たいものが流れる。

「わかりました、伝えておきましょう」
「やはり、治癒の力は他の省よりも特別ですからね。昔からちょくちょくこういったことは起こると、先代様も対応に苦慮されてましたし」
「昔から、ですか?」
「ええ、いつの時代も同じ考えをする者はいますね。先代様の頃は、二万圓で買い取る者もいたとかで、金に目が眩む者が多かったらしいですよ。神祇省家の者を守るのに苦労されたと、よく話しておられて……楸殿も苦労するかと思いますが、先代様の跡を継いだのですから、しっかりと神祇省家の皆様を守ってくださいね。それが……長官職の役目ですからね?」

「はい」と晃は頷くも、頭の中は事件にどう対処するかということよりも、『二万圓』という言葉がぐわんぐわんと響いていた。

「わっ、少しゆっくり話すぎましたね。早く――」

 腕時計を見て歩速を上げた鷹乃を、晃の「榎殿」という声が引き留める。

「おや、名前で呼んでくれるんですか」と、鷹乃が笑いながら振り返った。
「対処法を考えたいので、榎殿の持っている情報をすべて教えてくれませんか」
「ええ、お安いご用ですよ」
「ではまず、いくらで神祇省の人間は売買されているのですか?」