暁の檻で、極悪な愛からは逃げられない

        ◆

 尋は、なぜいきなり涼子が女中をやめると言ったのか理解出来なかった。いや、『辞める』という言葉自体を理解するのに、まず時間を要した。

「駄目だ」

 ほぼ反射だった。
 頭はまだ混乱している。

「楸家へ戻ろうと思います」
「駄目だ……!」

 なぜいきなり家に戻るというのか。戻ってどうするのか。戻ったところであの家は、葛梨の者達が……。

「……あの男のところへ……帰るのか? 舞踏会で会って情でも湧いたか」
「違います。彼のことはなんとも思っていません」
「――っ!」

 顔を上げた彼女は、まっすぐに瞳を見つめてきた。その顔には特定の感情は乗っていなかったが、確固たる意思だけはありありと見えた。
 出会った時など、まともに目など合わせられなかったというのに。

「本気で言っているんだな……っ何故だ!」
「私が傍にいると、あなたは私を守ってしまうから」
「それの、何がいけない……」

 彼女の言っていることが理解できなかった。彼女を守ることの何が悪いのか。涼子が幸せそうに日々お過ごしているのを目にすると、安心できた。一番弱い彼女が笑っていられるのなら、自分は役目を果たせているのだと。彼女は弱い。自分が守らなければならない。
 尋の手は頭が痛いと言うように、前髪をグシャリと荒々しく握りこんだ。

「あなたはすべてを背負いすぎです」
「……背負えと…………言っただろう」
「え?」

 頭が割れるように痛かった。耳の奥で色んな奴らが叫んでいた。

「お前が守れと……! お前はそうやって生きろと……何度も何度も、すべて俺のせいだと……っ言っただろ!」
「尋様! どうされたのです、尋様!?」

 優しい声音が聞こえてきた。自分を心配する声だ。心配してくれるのか。

「慧も、伊月も雪矢も父も……守れなかったのに……?」

 いや、都合の良い幻聴か。

「俺が守らねば誰が守る……この国を、臣民を、何もしらない者達を……どうやって」

 上の奴らは自分勝手なことばかりを言う。そのひと言で、どれだけこちらが血を流し、損耗しているのかも知りもしないで。感謝されたいわけではない。ただ、行動中に死んでも、表で嘆くことを許されない者達をどうやって弔えば良いのか。また守れなかった、と何度後悔すれば終わるのか。後悔したくないのなら、もうすべて守るしかないだろう。

「ははっ……だったら俺は、誰が守ってくれるんだろうな……」
「尋様ッ!!」

 強い力で身体を揺すられ、意識が現実へと戻ってくる。

「ぁ……すずしこ……」

 視界いっぱいに怒った顔の涼子がいた。怒っているのに頬が濡れている。それはどういった感情なのだろうか。頬を拭わねばと手を伸ばした。

「私がお守りします」

 しかし、手が頬に辿り付く前に、彼女に頭を抱き寄せられてしまう。

「あなたは私が守ります……っ」

 柔らかい肌の下で、彼女の心臓が懸命に脈を打っていた。彼女の寝間着か肌か、甘い香りがして、もっとと彼女の腰を抱き寄せる。

「だから、私はあなたの傍にいれないのです。あなたは私を守ってしまうから。あなたの腕に守られたままでは、尋様を守れないんです」

 いつの間にか頭の痛みが引いていた。

「あなたが今まで守ってきたように、今度は私があなたをお守りします」
「……どうやって」
「同じ場所に立ちます。もう逃げません」

 苦笑が漏れた。

「逃げろよ。お前は逃げて良いんだよ」
「嫌です……っ絶対」

 こんな、抱き締めたら折れそうな細腰なのに。守られているほうが似合うのに、せっかく降ろした荷物をまた背負うとか。どれだけ律儀なんだか。こっちのことなんか上手く使えばいいのに、わざわざ出て行こうとするし。

「お前は俺のものだよ」
「はい」
「そこは認めるんだな」

 なんだこの女中は。また苦笑してしまった。

「楸家を取り戻すための力を貸してください、尋様」
「力を貸せってのは、はじめて言われたよ」

 目の前にある寝間着のあわせを指でずらせば、白い肌が現れて一層甘い香りが強くなる。ふっくらと丸みを帯びた双丘の谷間に唇を寄せ、吸い上げる。
「んっ……」と艶のある声が聞こえた。
 襟を綺麗に戻し、顔を離す。
 見上げれば、赤い顔した可愛い女が、頬に涙の跡が残るふやけた顔で見下ろしていた。
 後頭部に手を伸ばし、彼女の小さな頭を引き寄せた。

「お前を楸家に戻してやるよ」

 額に落とした口づけは誓いだ。



       ◆



 離れから母屋の自室へと戻っているのだが、わざわざ尋が「送る」と言って付いてきてくれていた。廊下が、もっと長ければいいのにと思っていると、彼が「そうだ」と一段落とした声で言った。

「涼子の死期見のおかげで、襲撃犯の雇い主のあたりがついた」
「本当ですか」

 ホッとした。早く犯人が捕まれば、冬月一家の人達も安心できるだろう。いつ襲われるかわからない状況で日々を過ごすのは、さぞ恐ろしかっただろう。

「それで……」

 誰なのか、と聞こうとして涼子は口を閉ざした。やはり、いくら死期見のおかげと言われても、そこは冬月一家の領分なのだし聞くべきではないと思った。

(でも……)

 チラっと横目を向ければ、こっちを見ていたらしい尋と目があって、フッと鼻で笑われた。

「聞きたいって顔をしてるな」
「うっ…………はいぃ」
「お前が商品として競売場に並べられた日に、客としてあの場にいた者だ」

 競売場と聞いて、あの日のことが、走馬灯のようにチカチカとした光景となって脳裏に映し出された。今でも思い出すと嫌な気分になる。
 視界に映る鉄格子。手首に掛けられた重い手枷と鎖。心許ない襦袢に一方的に照らし出された強い照明。そして暗闇の中、姿の見えない者達からの値踏みの声。
 そして――。

「え……待ってください……」

 思い出すのも嫌な『五千』という誰かの声。これで自分のものだと逸って勝利宣言した台詞の気持ち悪さ――どちらの声も聞き覚えがあるというか、最近聞いた覚えがあった。
 そうだ、舞踏会だ。

(あの人……なんて言ってたかしら……)

『彼女は……なるほど、羨ましい女性を手に入れられましたな』

 普通、『手に入れた』などと言うだろうか。美人で有名で百人の男達から言い寄られて競争率が高い人だったらわかるが、自分にいたっては手に入れたと言えるほどの何かを持っているとは言いがたい。それに、何をもって『羨ましい』と言ったのか。挨拶しか返していない相手だというのに。

(だけど、もし……あの商人が私が高値で売られていた人間と知っていたら……)

「あの、尋様。もしかしたらその雇い主に心当たりがあるかも……」