暁の檻で、極悪な愛からは逃げられない

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 朝の失態を取り返すように、涼子は昼と夜は一也に「ちょっと作りすぎじゃない?」言われるほど、しっかりと役目を全うした。
 そして夜、尋の離れへと向かう廊下の前で、涼子は風呂上がりの尋を呼び止めた。

「尋様、少しだけお話しませんか」

 瞠目した尋は、持っていた手ぬぐいを、ボトと廊下に落としていた。




 はじめて尋の離れに足を踏み入れた。
 独り用の離れだからかこぢんまりしており、六畳一間の部屋が三つあるらしい。ひとつが寝所でもうひとつが卓や座布団が置かれた来客用の応接間、そして最後のひとつが、今涼子が案内された尋の私室だった。文机と小さな本棚と箪笥しかない、飾り気のない彼らしい部屋だった。

 涼子の掃除範囲は母屋に限られているため、離れがどのようになっているのか知りようがなかったが、母屋の執務室と違い調度品はすべて和風のもので統一され、しっかりと手入れが行き届いている様子だった。文机にいくらかの書類が広げてはあったが、他に何か床に散乱しているということもなく、ほこりっぽいということもない。尋が整理しているのか、もしくは荊かもしれない。

 あまりジロジロと他人の部屋を眺めるのもよくないと、視線を尋に向けた。しかし、風呂上がりの和装――寝間着姿で、いつもと雰囲気の違うしっとりとした尋を前に、落ち着かなさを感じて顔を俯ける。
 座布団も何も置かれていない場だと、どこに座って良いのかわからず、つい彼が腰を下ろした正面に座ってしまった。おかげで膝をつき合わせた格好となり、考えなしに座った一分前の自分を叩きたかった。

(せめて隣に……いえ、隣も変だわ)

 しかし、どこに座ろうと、彼に自分の気持ちを伝えるという目的は変わらない。
 深呼吸をして、気合いを入れ直す。
 そして、意を決して「あの」と顔を上げたのだが、僅かに早く、尋が「なあ」と口を開いた。
 慌てて開きかけた口を閉じて、「はいっ」とすぐに聞く態勢に変える。

「こんな時間に、男の部屋を訪ねる意味をわかってるのか」
「え」

 胡坐をかいた足の上で頬杖をついた尋が、顎を上げて涼子を見下ろしていた。その目がふっと目尻をすぼめた瞬間、カッと全身が火がついたように熱くなった。

「――っち! 違いまして……あの、お、お話をしなければと、それだけで……っ本当に、変な意味はなくて……っですね!」

 こんな、自分でも赤くなっているだろうとわかるような顔で言われても、説得力などないだろう。しかし、言葉を止めてしまったら今度こそ彼に食べられてしまいそうで、無理矢理あーだこーだと口を動かし続ける。

「お、お昼間は、お仕事で忙しいでしょうし、あの、いつがお暇かなとか考えてたら、こ、こんな時間に、なってしまいまして……!」

 彼の向けられた視線から漂う色香に動悸が止まらず、涼子の目には瞳が熱で溶けた涙が浮かぶ。目が回りそうだった。

「……っで、ですから、決してそういったことを望んでやってきたわけでは……ぁ」

 刹那、「ふっ!」と、思い切り噴き出した音が聞こえ、涼子は「え」と口を止めた。
 正面の尋は、顔を隠すように後ろを向いて、小刻みに身体を震わせていた。
 ここまでくれば、揶揄われたのだとさすがの涼子でもわかる。

「…………尋様」
「っ悪い」

 絶対、悪いと思っていない。
 しかし、一度、極度まで緊張したからか変に落ち着いた。ふうと鼻から息を抜けば、熱も一緒に抜けていった。それと同時に、やっと尋もこちらを向く。

「よくそんなで結婚などできたものだな」

 呆れたとばかりに片眉を下げた尋に、涼子は自嘲を返した。

「……結婚したとて、必ず夫婦になるわけではありませんから」
「どういう意味だ」

 途端に尋が怪訝な顔になる。
 それもそうだろう。自分も結婚とは夫婦になることだと思っていたのだし。

「晃さ――むぐっ」

 晃の名を出した瞬間、手で口を塞がれた。

「俺の前で、そいつの名は出すな」

 瞳孔の開いた目で刺すように見つめられ、コクコクと慌てて頷く。ガゼボで見た時の、触れれば切れるような危うさがあった。
 ゆっくりと手が離れ、涼子は言葉を選んで口を開く。

「か、彼は、私には興味がなかったようです」

 だから、舞踏会の日のガゼボでの彼の行動には驚いたのだ。酒に酔っていたとしても、子供などという言葉が彼の口から出てくるなど、信じられなかった。

「結婚前までは愛してると言ってくれていたのに、結婚してからは彼がそう言うことも、寝所を共にしてくれることすらありませんでした。口づけですら数えるほどで……」

 無意識に唇に手が伸びた。
 この唇に触れた者がいたのか疑わしいほど、彼との口づけの熱も、もう思い出せない。
 彼からのあれは、愛だったのだろうか。
 自分の彼への想いは、愛だったのだろうか。
 そんなことを、ぼうと思いながら唇を触っていたら、そっと尋の手が重ねられた。ハッとして、思考の奥底に潜っていた意識を浮上させれば、視界いっぱいに尋の綺麗な顔が飛び込んできた。

「じ、尋様……!?」

 彼は、握った涼子の手に口を寄せていた。
 彼の伏せられた真っ直ぐな睫毛一本一本まで見える。口づけではないのに、まるで口づけをしていると錯覚してしまいそうな距離に、どんどんと鼓動が早くなっていく。

 彼に握られた手が震える。()むように小指に落とされる口づけ。人差し指は涼子の唇に触れたままで、手を通して彼の熱が唇に伝わってきそうだった。
 心臓がどうかなってしまいそうだった。ギュウと締め付けられ、息が上がるほど苦しいのに、添えるような力で握る彼の手を、涼子は振りほどけなかった。

「……っ尋、様」

 名を呼べば、やっと彼の瞼が上がる。
 真っ直ぐに向けられた、彼の瞳の中に映る自分の顔は女だった。直視できず、今度は涼子が瞼を伏せれば熱が遠ざかっていく。
 目を開け、元の場所に戻った尋と視線が交われば、彼は目だけを細めた淡い笑みを浮かべた。
 胸が甘く疼く。

「……どうして私なんですか」

 変なことを言っている自覚はある。
 どうしても何も、自分と彼の関係は主人と女中でしかない。買った者と買われた者だ。その他に関係を表す言葉を持たない。
 言葉がほしいわけじゃない。
 口づけがほしいわけでも、関係に名前がほしいわけでもない。
 ただ、これ以上()()を鈍らせないでほしいのだ。

「わからない」

 尋の視線が畳に落ちる。

「が、似ていると思った」
「尋様と私が……ですか?」

 彼はおもむろに頷いた。

「俺もお前も、逃げることができない世界に生まれた」

 低く抑揚のない声は、外から聞こえてくる涼やかな虫の音を邪魔せず、夜によく馴染んでいた。

「何があっても、決して膝を折ることが許されない。嫌になっても苦しくなっても、上としての責務と判断を求められる。皆が自分の背中を見ていた。弱音など吐いてはならない」

 静かに語られた尋の言葉に、涼子は唇を噛んだ。
 胸が痛むほどに心当たりがあった。

 涼子は本家娘だった。
 それは楸家を継がなければならないということでもある。
 本来持つべき異能を持たずに生まれてきた。他の家であれば、それでおわりだ。

 しかし涼子は違う。家を継がねばならないのだ。無能のくせに。
 皆が当たり前に持っている異能を持たないというのに、その当たり前の者達の上に立たなければならない。なんの手本にもなれないくせに上に立つ者に、皆はどのような目を向けるだろうか。どのような言葉を投げるのだろうか。考えただけで冷や汗が噴き出す。

 一番重要な異能がないのだから、それ以外では完璧でないといけなかった。両肩に乗る重圧に押し潰されそうになっても、膝を折る資格すらない――そう思って生きてきた。
 確かに、周囲を取り巻く環境こそ違えど、求められることは似ていた。

「本当は、『大切な者』なんて作るつもりなかった……」

 彼の視線は、まだ畳の上に縫い留められたままだ。

「この世界じゃ、いきなり死がやって来る。大切な者なんて作っていたら、心がいくつあっても足りなくなるんだ」

「でも」と彼はやっと視線を上げた。

「楸涼子は、知れば知るほど俺と似ていた。おそらく、誰よりも俺はお前の苦しみや葛藤を理解できる。俺が耐えてきたものを、この小さいのも耐えてきたのかと思ったら……幸せにしたいと思った」

 元夫に幸せにすると言われた時の何百倍も嬉しかった。のに、喜べなかった。

「お前の苦しみを俺は理解できる。俺だけがお前を守れるんだ」

 伸びてきた尋の手が、頬にそっと触れた。

「お前は俺のものだ。他の奴になんか触れさせない」

 涼子は呆然として尋を見つめていた。
 彼の言葉だけを見れば、彼はとても優しい人なのだろう。しかし、守ると言って向けてくる瞳は、井戸の底のように一筋の光りすら拒んでいた。
 ゾッとした。


『中途半端に尋に餌を与えないでください。最後まで傍にいれないのなら、彼を受け入れないでください。いなくなって傷つくのは彼なんですから』


 今やっと、荊が言っていた言葉の本当の意味を理解した。
 恋だの愛だのといった、そんな易しい問題ではなかったのだ。

(嗚呼……神様どうして……)

 彼を、こんなに酷な道に落としたのでしょうか。
 尋は永遠に解除されることのない『守れ』という命令で、突き動かされている人形も一緒だった。

 彼は常に守ることを求められ、そしてずっとずっとそうやって生きてきたのだ。そうしないと、生きられなくなるほどに。もやは一種の呪いだろう。

 荊が尋の過去を教えてくれた。
 あの時、自分が想像した世界なんて、きっと生やさしかったに違いない。ずっとずっと過酷で凄惨な日々を、彼は生き抜いてきたのだろう。『仲間が亡くなる度に、申し訳なさで死にたくなる』と自分を限界まで責めてしまうほど、彼は血と死が当たり前の日々を過ごしてきたのだ。

 涼子にもつらい日々はあった。
 しかし、心を凍らせなければ生きていけないほどではなかった。
 いったいどれほどのものを、彼はその背に守ってきたのか。

「涼子、なぜ泣く……」

 ずっと、彼は牙を剥いた状態なのだ。一瞬たりとも警戒が解けない、解かない。

「泣くな」

 いつかこの人はひとりで死ぬ。

「どうしたら泣き止んでくれる」

 ボロボロになって血塗れになって、多分そこではじめてこの人は救われる。はじめて役目から降りられるのだ。

「……なんで……っ」

 涼子は幸か不幸か、神祇省長官という役目から降りることができた。降ろされたと言ったほうが正しいが、それでも肩の荷は下りた。
 彼はそれが許されない。
 死ぬことが救いになっているのに、死ぬことすら許されない。彼がいなくなれば、冬月一家の者達は、きっとその座を虎視眈々と狙っている者達に食い荒らされてしまうから。

「尋様は誰が守るのですか」
「必要ない」

 彼は最初から自分の存在を、守るべきものとして数えていなかった。
 彼は、暖炉に火が灯され、橙色のランプの明かりが部屋を照らし出し、皆が笑い歌をうたい温かな食事をする光景を、窓の外の雪が吹き付ける世界から眺めて「良かった」とドアを守り続ける。誰かが「もういいよ」と言ってくれるまで。
 涼子は後ろへ下がって額ずいた。

「女中を辞めさせていただきたく存じます」