暁の檻で、極悪な愛からは逃げられない

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 炊事場では、米を研ぐ音が響き続けていた。

「……涼子さん、それ以上研ぐと米が消えちゃうよ」
「あ、そうですね。水を……はぁ」
「流れてる流れてる流れてる、水と一緒に米も流れてる」
「あらまあ……はぁ」

 と、気もそぞろで朝食の準備をしていたせいか、一也に「今朝の仕事は日向ぼっこね!」と炊事場を追い出されてしまった。さすがにそれは悪いし大変だろうから、せめて配膳や片付けはすると言ったのだが、「大丈夫。どうせ今朝は食べに来る人も少ないだろうし」とよくわからないことを言われた。

 皆してどこかへ出掛けているのだろうか。女中といっても、冬月一家がやっていることに関してはほぼほぼ無知に近いし、自分が知らないだけで、そういった日もあるのかもしれない。
 そういうわけで、朝食の準備、配膳、片付けという一連の仕事を奪われ、涼子は大人しく裏庭にある岩に座り、朝日を浴びていた。
 朝起きてから、涼子の頭の中はずっと昨夜のことばかりがグルグルと巡っている。

 尋の()()はなんだったのだろうか。
 彼は、どうしてああも晃を気にしていたのか。自分を売った元夫になど、未練も愛情もあるはずないのに。
 記憶を振り返ろうとすると、身体が思い出したように熱を持ちはじめて、慌てて頭を振る。このことも、今朝のため息の一因ではあるのだが、実はそれ以上に昨晩からずっと頭に残っていることがあるのだ。





 あの後、尋には車で待つように言われた。それからしばらくすると、荊が運転席に乗ってきて、先に涼子だけ帰らせると言った。

『尋から、あなたは先に帰るようにと』
『尋様は?』
『まだ用事があるので。涼子さんを送り届けたら、また私が戻って来――』

 言いながら運転席から後ろを振り返った荊は、眼鏡から目が飛び出るのではと思うほど、ギョッと目を剥いて言葉を失っていた。なんだろうかと首を傾げる涼子に、彼は、はぁとため息を吐いて、自らの上着を脱いで渡してくる。

『こちらを着てください』

 どうも、と一応礼を言って受け取るが、彼は頑なに正面を向いたまま、チラとも振り向かない。ハンドルにしがみつき、ため息をまた吐きながら項垂れてる。どうしたのかと声を掛けようとすれば『尋の仕業ですか』と、控えめに胸元を指さされながら訊かれた。
 そこではじめて、自分の胸元に赤い点が散っていることに気付く。この赤がなんなのかはわからなかったが、これが尋によって付けられたものということは、すぐに理解できた。

(「痕」ってこういう……っ)

 慌てて荊の上着を着て前をギュッと閉じる。幸い、彼は燕尾服ではなくスーツ姿だったため、しっかりと前を閉じることができた。
 エンジンがかかり、ゆっくりと車が動き出す。
 しばらく会話もなく走っていた。タイヤの音がいきなり騒がしくなった。道路が煉瓦道から砂利道に変わったのだろう。
 しばらくして、『尋は』と荊がぽつりと呟いた。

『……尋は、生まれた時から一番上に立つと決まっていた人間です』

 彼が何の意図をもって、尋のことを話しはじめたかわからないが、涼子は耳を傾けた。

『私や他の者達は、この世界から逃げようと思えば、障りはありますが不可能ではありません』

 冬月一家のことを言っているのだろうか。

『しかし、彼は違う。絶対に逃げられないのです』

 彼は、尋のことを幼い時分から見てきたと言った。家族ぐるみの付き合いだったらしい。

『幼い頃からこんな血塗れの世界にいて、将来は多くの者達の命を背負うことが決まっていました。だが、そんな重責を背負わせてきた者達は、誰も尋を顧みない。彼のやっていることを、いや、存在すら知らない者がほぼだ。なのに、理不尽にも、彼がこの重責を放棄することは絶対に許されない……っ』

 荊の口調は涼子に向けてのものから、まるで己の中の憤りを吐き出すようなものに変わっていた。ハンドルを握る手に力が入ったのか、ギュッと革が苦しそうに鳴く。
 荊の深呼吸の音が聞こえた。

『……尋を怖いと思ったことはありませんか』
『最初は……冷たい目をした人だなと』

 今はもう思わないが。

『私達は裏の世界に生きる者です。裏にいるかぎり常に危険がつきまとうんです。表がどんどん賑やかに華やかに明るくなっていく裏で、私達は血を流し、人知れず死んでいく者もいます。決して感謝されることもない。表で笑って生きている者達は、この世界を知らない。昔、彼が「仲間が亡くなる度に、申し訳なさで死にたくなる」と言ったことがありました。優しい彼がこの世界で生きていくには、心を凍らせるしかなかったのです。ひとりひとりの死に心を動かしていたら、今頃尋は生きてはいません』

 なんと答えていいかわからなかった。
 彼が冷酷非道と噂されるような冷たさを持たなければいけなかった理由が、あまりにも酷でしかなかった。そうしなければならない世界で、彼は今までもずっと、そしてこれからも生きていかなければならないのだろうか。
 上着を握る手に力が入った。

『それは……彼が極道の総代だからですか』

 荊は答えなかった。

『なぜ、私にこの話をしたのですか』
『警告ですよ』
『警告?』
『あなた達は似すぎているんです』

 荊の言っていることが理解出来なかった。何も似ていないと思うが。

『中途半端に尋に餌を与えないでください。最後まで傍にいれないのなら、彼を受け入れないでください。いなくなって傷つくのは彼なんですから』





 それから、涼子は何も言えないまま屋敷に帰り着き、荊は来た道をまた車で戻っていった。

「受け入れないでって言われても……そんなの、わからないわ」

 受け入れるも何も、尋には何か言われたわけでもない。
 彼が言っていた通り、買った者と買われた者なのだから、受け入れる入れないとは別次元だと思う。元より一万圓の返済が終わるまでは、冬月一家の女中として働くしかないのだし。

 一万圓返済が終わっても傍にいれないなら、近付くなということだろうか。
 それはつまり、自分も冬月一家に入れと?

「いえ、それはないわね。狐山さんって、以前よりかは優しくなったけど、私が冬月一家にいるのをあまり良く思ってない感じだもの」

 では、彼はあの『警告』をどのような意味で言ったのか。
 慕っている総代に変な女が近付くな――といったところか。なるほど。これだけ大きな組織なら、結婚相手もきっと相応の女性を見繕うだろうし、その邪魔になることはして欲しくないという意味かもしれない。

「狐山さんって、尋様に対してちょっと過保護っぽいし」

 はぁ、と涼子は顔を覆った手の下で長嘆した。

「……最後までねえ……むしろ、最後までいれそうにないというか……」

 実は、涼子の心の中に『楸家に戻りたい』という気持ちがわきはじめていた。
 今までは自分が楸家にいなくとも、晃がしっかりと当主の務めを果たしてくれているのなら、と楸家に戻ることを諦めていた。元々自分には神祇省の代名詞である治癒の異能がないのだから、自分のような人間が当主になるより、異能を持った人間がなるほうが良いだろうと思っていた。
 あと……少し、ほんの少しだが、肩の荷が下りて安堵した。

 しかし昨夜、晃が当主権限を濫用して葛梨家を一等級にしていると知って、危機感を覚えた。このまま彼に任せつづけたら、神祇省がめちゃくちゃになってしまう。
 楸家の名が汚されてしまう。

「尋様と、きちんと話をしないと。借金についても要交渉ね」

 楸家に戻れたら、俸禄が出るから分割払いにしてもらえないだろうか。
 そうえいば、昨夜はちゃんと尋と荊は帰ってきたのだろうか。
 布団に入ってからすぐに寝てしまったから、彼らが帰ってきたかどうか確認していないのだ。舞踏会に残ってやる用事とは、いったいなんだったのだろう。



        ◆



 冬月一家の屋敷は、建屋部分以外の敷地にも随分と余裕がある。
 母屋から離れた場所に、ポツンと建つ蔵があった。周りを楠や松など背の高い木々で囲まれていることもあり、蔵で騒いでも母屋まで声は届かない。蔵の傍には井戸があり、食べ物さえ持ち込んでしまえば、数日くらいは過ごせるようになっている。

「どうだ、荊。吐いたか」

 朝がまだ明けきらぬ暁の頃、蔵にやって来た尋は、なんの感慨もない平板な声で荊に尋ねた。振り返った荊の白いシャツには血が飛び散っており、手には短刀が握られている。彼は近くにいた徒衆に短刀を渡すと、外した眼鏡をシャツの裾で拭きながら尋の元へとやって来る。

「シャツで拭くなよ」
「血を拭くんですから、すでに汚れたシャツで充分なんです」
「お前のヘソなんか見たくないんだよ」
()()れていいですよ」

 荊は一見すると神経質そうに見られがちだが、その実かなり大雑把である。自身のことに関しては、だが。尋や徒衆の体調不良や異変などには真っ先に気付くのに、自分のこととなると、倒れてもおかしくない熱があっても気付かないポンコツぶりだ。「なんか熱いと思いました」で済ませようとする。

「と、冗談はここまでにしましょうか。四人全員が、四日後に今度は直接屋敷(ここ)を襲う予定だったそうですよ」

 蔵の中央には、四人の男が横並びで椅子に座らされていた。皆、荒縄で椅子ごと身体を縛られており、精根尽きたように項垂れている。せっかくの燕尾服はボロボロになり、所々裂けた部分は血が滲んでいた。
 四人は、舞踏会で涼子が『4』の数字を見た男達である。
 涼子を、用事があると言って先に帰らせた理由がこれだ。あの後、彼らがひとりになるタイミングを見計らって、ひとりずつ荊と一緒に気絶させては捕獲した。

「やはりすごいな、死期見の力は」
「同意ですね。たった二度で、彼女は何人の命を救うことになったか……」

 満足げに尋は頷いた。

「で、雇い主については吐いたのか」
「やはり名前は聞かされていないようで。容姿はある程度把握できたのですが」

 尋は、二度の襲撃を仕掛けてきた首謀者を探していた。

冬月一家(うち)が襲われる分にはいいんだが、どうにもお前達の雇い主は、別のものを狙っているような気がしてね」

 尋はコツリコツリと、項垂れた男達に『起きろ』と言うように、わざと足音を響かせながら近付いていく。

「俺は、自分のものに手を出されるのが死ぬほど嫌いでね……殺したくなる」

 そして、転がっていた椅子を男達の正面に置き、どっかと腰を下ろした。

「さて、それじゃあ、知っていることを教えてもらえるだろうか」





 蔵から出ると、尋は傍の井戸で頭から豪快に水浴びをする。
 汲んでは被ってを繰り返し、全身ずぶ濡れになってやっと手を止めた。頭を振って水気を切り、脱いだシャツを絞り、腕に鼻を近づけスンと匂いを確かめる。

 蔵にいると、血の臭いが身体に染みつく。そのまま放置すると、数日は取れなくなるから、すぐに洗い流さなければならない。できるだけ、母屋にこの憂鬱になる匂いは持ち込みたくなかった。
 腹がくぅと鳴った。気付けば日はとうに昇り、朝食の時間も過ぎている。炊事場に行けば何かしら残り物があるだろうが、こういう時は腹に何も入れないほうが良い。口に入れた瞬間、まだ鼻の奥に残った血の残り香と食べ物の匂いが混ざって吐く。

 尋が井戸の傍らに腰を下ろした同時に、蔵から荊が出てきた。
 彼も井戸水を頭から何杯か浴びると、長い髪を絞って、尋の隣に腰を下ろした。

 四人の男達は誰ひとりとして、雇い主の名前を知る者はいなかった。
 ただ、雇い主は『娘』を欲しがっていた、ということが判明した。男達に娘の名前は伝えられなかったが、その娘には特別な力があり怪我や病も治せるらしい、と雇い主は話していたという。
 ここまでくれば、雇い主が誰を目的としていたか察せられるというもの。

「俺達を狙ったのは、涼子を屋敷の外に出すためだったんだろうな」

 外で大きな襲撃を受ければ、『治癒の力を持っている涼子』を、現場に呼び出すと思われたのだろう。そして、現れた涼子を攫っていく算段だったと。
 実際、最初の襲撃の時、もし涼子が治癒の力を持っていたのなら、若月達は屋敷まで運ばれることなく現場で涼子に治療させていたかもしれない。
 だが、皮肉なことに、治癒の力を持たなかったおかげで、そうはならなかった。

「涼子が神祇省家の娘ということを知っているのは、彼女が楸家にいた時に知り合った者と、闇オークション会場にいた者だけだ。彼女をほしがる者は間違いなく後者だろう。だが、どうやって雇い主は、涼子が冬月一家に買われたと知ったのか……」

 競売場では皆面布や仮面していた。司会者も決して客の名を呼びはしない。

「そんなの簡単ですよ。顔を隠していても、裏に出入りする者は、すぐあなたと気付いたでしょうよ」
「は?」

 荊は苦笑しながら肩をすくめた。

「知らぬは本人ばかりとはこのこと。あなた、人の目を惹くんですよ。顔を隠したくらいで、その全身からダダ漏れの圧が隠せるものですか。若く威風堂々として金もある裏に精通した者。ついでに付き従える者達も若い……とくれば、もう暗黙の了解ですよ」
「……顔を隠す意味がないだろう、それ」
「ま、素性がバレたところで、あそこに出入りしている時点で、皆、公には言えませんからね。同じ穴の狢です」

 それもそうか。

「あの闇オークションを仕切っているのは、渡来骨董組合だったかと」

 帝国の裏社会を牛耳っていると言われてはいても、商業関連すべてを掌握しているわけではない。特に開国してから入ってきた物や文化を扱う、比較的新しい商業者達は自分達で互助会のような組合を作っていることが多い。
 争いの火種にならないようであれば、こちらも自分達の縄張りだとか主張するつもりもなく、渡来骨董組合も新興互助会のひとつだった。

「それじゃ、次は例の骨董屋で参加者の名簿を調べてくれ」
「大人しく名簿を渡しますでしょうか」
「渡さないだろうな。だが、冬月一家と今後とも良好な関係を結んでいきたいのなら……まあ、わかってくれるだろう」

 いくら冬月一家が関与していない商業者といっても、この帝都で冬月一家に爪弾きにされることは、真綿で首を閉められるのも同じだった。どこも取引してくれなくなり、最後は枯れる。

「二度と彼女に関わろうなんて思えないほど、今回は徹底的にやるぞ」
「本当……厄介なのに気に入られてしまって……」

 ご愁傷様、とボソリ、荊は母屋に向かって呟いた。