◆
尋が涼子に目立たない場所で待つように伝えた後――。
彼はホールの入り口にいた荊に、涼子が見つけた同じ死期を持つ者達を教え、彼らの行動を監視するよう言いつけると、いつもより速い歩みで涼子の元へと戻った。
途中で女達にキンキンとした耳に刺さる声で呼び止められたが、すべて無視する。
しかし、彼女に待つように言った場所に、彼女の姿はなかった。頭の中に井戸水を注がれたように、一瞬にして脳が冷たくなった。
(どこだ)
すぐに辺りを見回した。目印の白いドレスを探す。
脳の冷たさが全身に回ったように、腹や指先まで冷たくなっていく。
(どこだ……っ)
ホールに集う女達は皆色とりどりのドレスを纏っており、金刺繍だけの白いドレスは目立つはずだった。それなのに見つからない。二階から探すため階段に片足をかけたところ、いきなり背後から腕を引っ張られた。
視界の端にチラッと映った白いドレス。
「――っ涼」
しかし、振り返ってみて尋は落胆した。
腕を引っ張る者は確かに白いドレスを着ていたものの、探していた者ではなかった。
尋の表情から一気に感情が抜けた。煩わしそうに瞼を重たくした目で見下ろす。
「あのぅ、お初にお目に掛かります。神祇省長官の妹の百合子と申しますぅ」
表情こそ変わらなかったものの、尋の眉がピクッと微動した。
涼子から楸家を奪い、追い出した一家の娘だ。まさか、このような場で会えようとは。
彼女は頬を薄紅色にぽっと染めて、上目遣いに何かをねだるような目を向けきた。
似たような白いドレスを着ているものの、自分がこの女と涼子を間違えたことに腹立たしくなる。
「何か」
そう尋ねた声は思った以上に冷たく、百合子は驚いたように掴んでいた尋の袖から手を離した。しかし、ニコッと人好きのしそうな笑みを作ると、何事もなかったかのように再び腕に手をかけてきた。中々に図太い性根をしているようだ。
しかし、幾分かの戸惑いはあるようだった。
彼女からしたら『神祇省長官の妹』という肩書きは、他の男達にチヤホヤされるための強力な口上なのだろう。なのに、こちらが媚びを見せないことに戸惑っているといったところか。
「えっと……す、素敵な方だなぁと思いまして。よろしければお名前を伺っても?」
戸惑いながらもまだ接近を試みようとするとは、本当に図太い。いや、こういうのは無神経というのか。どちらにせよ、相手にしたくはない。
「なぜ。俺の名をあなたに教えることに、なんの意味があるんだ」
ヒクリと彼女の口端が引きつった。
「そ、そういえば、誰かお探しでしたか? 辺りを見回されていたようですが」
まだ諦めず話し掛けてくるかと、もう無視をしてやろうかと思ったところで、ふとこの女は行方不明になった義姉のことを、どのように言うのか気になった。神祇省長官の妹ということは、涼子の義妹で関わりがあったはずだ。
「す……涼子を」
彼女の名を口にして、そういえばはじめて名前を呼ぶのではと、途端に落ち着かなくなる。しかし、それも一瞬。
「まさか、楸涼子ですか!?」
尋の探し人の名を聞いた百合子が、驚きと嫌悪の混じった声を上げれば、すぐに感情が冷たいもので塗りつぶされる。
「そうだが、何か」
「おやめになったほうが良いですよ! 義姉は神祇省の者達を裏切り金を使い込んで、兄に離縁された挙げ句、当てつけのように他の男と行方を眩ませた女なんです! あなたも絶対騙されてますよ!」
なるほど、と尋は内心で嗤った。どうやら家族全員の性格がクズ以下のようだ。こちらが何も知らないと思って、罪悪感の欠片もなく、罪のない者をここまで悪し様に言えるとは。
尋は腕を掴む百合子の手を、腕を引っ張って払い落とす。
「自分の目で見たものしか信じない質でね。失礼」
これ以上構ってられるかと、尋は百合子に背を向けたのだが、またその背がグイッと引っ張られる。呆れた顔で振り返れば、彼女は顔を引きつらせながら懸命に笑顔を作っていた。
「アハハッ、残念でした! あの女だったら、さっき兄と二人で夜闇の中へと消えましてよ!」
尋の瞳が動揺に揺れた。
その変化を見逃さなかった百合子が、さらに笑みを深くする。
「遊ばれてしまいましたのね、お可哀想に。だったら貴方もあたしと――あぐっ!」
「いい加減にしろ」
尋は上着を引っ張る百合子の手を掴み上げ、背中から引き剥がした。手首を握る力に手加減などない。加減ができる頃合いなど、とうに過ぎていた。
「それ以上言ってみろ。冬月一家を侮辱したとして、帝都にいれなくしてやるぞ」
「……っ!」
青い顔に苦悶の表情を浮かべる百合子を、尋は冷めた無感動な目で見下ろす。
「本当、品のない女だ」
投げ捨てるようにして手を離す。いきなり手を離されて体勢を崩した百合子は、どたんっ、と尻から床に転げた。クスクスと婦人達の嘲笑が上がる。
どうやら先程からの彼女の癇癪的な大声のおかげで、周囲の者達はすでに聞き耳を立てた野次馬と化していたようだ。特に、尋を熱っぽい目で見ていた婦人達は、強引に迫っていた百合子に対し不満を持っていたようで、「下品な娘ね」や「ほら、最近噂になったお茶会の」「ああ……親が親なら子も子ね」と嘲弄が注がれる。
尋は、床で顔を赤くして憤怒に震える百合子を一瞥しただけで、声もかけることも助け起こすこともなく、足早にホールを出た。
尋は、植物すらすっかり夜に染まった庭園の中を駆けていた。
元夫が――自ら妻を売った奴が、今更彼女になんの用があるというのか。
そして、自分はどうして、こんなにも焦燥感を抱いているのか。
(どこだ……!)
敷地内からは出たとは考えにくい。わざわざ外に連れ出したということは、人目がない場所にいるはずだ。辺りを見回しながら、尋はどんな小さな音も聞き逃さぬようにと、耳の感覚を集中させる。
赤薔薇館から漏れ聞こえてくる賑やかな声が邪魔だった。しかし、集中力を切らさず尋は耳を澄まし続ける。
そして、賑やかな声の中に明らかに異質な、切羽詰まったような女の声。
「あっちか」
声が聞こえた方に目を向けると、暗闇の中、薄明かりを受けてぼんやりと浮かび上がる白いガゼボがあった。
見つけた瞬間、すでに尋の足は動いていた。
疾駆というに相応しい速さで、尋はガゼボへと一直線に駆けていく。
近付くにつれ、ガゼボの中に見える白い塊が、見覚えのあるドレスだとわかる。そして、白木蓮のような可憐なドレスを踏み潰すようにして、黒い塊が乗っていた。
その黒が、男の燕尾服の背中だと気付いた時、尋の視界は血に染まったように赤くなり、頭の中で何かが切れる音を聞いた。
ガゼボに飛び込むと同時に、尋の手は燕尾服の後ろ襟を掴み、一切の手加減なしに男を引き剥がした。そのままの勢いで後方へと力任せに投げ捨てる。
投げ捨てられた者が、鉄製のテーブルにぶつかった耳煩い音と呻き声がガゼボに響く。
「~~ックソ、誰だってんだよ」
痛そうな呻きを漏らしながら、晃はのそりと身体を起こした。
ふっと地面に影が落ち、彼は反射的に顔を上げ、そして息をのむ。
淡い月明かりを背に受け全身に影が落ちた男が、目の前で仁王立ちし、じっと晃を見下ろしていた。影の中で見下ろす瞳だけはギラギラと光っており、野生の獣を前にした時のような恐怖に襲われ、晃はぶるっと身体を震わせる。
「涼子に何をした」
「ヒッ!」
冷気すら漂ってきそうな獣の声に、晃の口からは悲鳴が漏れる。
「何をしたかと聞いている」
「な、何もしてな――っ」
「だったら、なぜ彼女は泣いている」
ひと言でも返答を誤れば命を落とすような、肌を焼くようなひりついた空気が流れていた。
「~~っぼ、僕が神祇省長官だと知っての狼藉か!」
空気に耐えきれなくなったのか、晃は腰に佩いていた刀に手をかけ、抜こうとした。
「遅い」
が、次の瞬間。
「――っああぁああぁあああッ!?」
汚い悲鳴が上がった。
晃の手は抜刀することなく、地面に縫い留められていた。
尋の刀が、晃の手の甲を突き刺していた。血がじわじわと地面に広がっていく。
「神祇省の者なら、治療くらい自分でできるよな」
「き、貴様……ッ」
さらに深く突き刺そうとして、尋が刀に力を加えようとした時、ドンッと背中に衝撃を受けた。
「尋様っ」
涼子が、背中から尋を抱き締めていた。
「……っもう、大丈夫ですから……尋様」
しゃくり上げで華奢な身体をヒクヒクと揺らしながら、涼子は尋の身体にしがみつくように力強く抱き締めた。
「お願いですから、尋様が傷ついてしまいます」
「…………」
尋はそこでやっと「ふぅ」と息を吐いて、晃の手をから刀を抜いた。
赤く染まっていた視界が徐々に色を取り戻す。眼下には、息を荒げて濡れそぼった顔で睨み上げてくる男がいた。
しばし、無言で視線だけが絡む。
「ぐぁっ!」
晃が、刃が抜ける痛みに再び呻きを漏らすが、もう尋の意識は晃にはなかった。
尋は背後にいた涼子を片手で抱き上げると、晃を置いてガゼボを出た。
◆
尋に抱きかかえられ連れて来られたのは、庭園とは反対側にある駐車場だった。
なぜこんな場所にと戸惑う涼子だったが、それを尋には聞けなかった。彼はここに来るまでひと言も喋らず、どこか声をかけてはいけない空気があった。
そして、車のドアを開けるなり、涼子は倒れ込むようにして、後部座席に押し込まれた。
「きゃっ」
涼子の小さな悲鳴が漏れるのと、ドアがバタンと閉まったのは同時だった。
薄暗く狭い車内という閉鎖空間で横たわる涼子を、座席に片膝だけついた尋が覆い被さるようにして、見下ろしていた。
出会った日にソファへと押し倒された時よりも、今の涼子と尋の距離は遠く、肌も触れ合ってなどいないというのに、あの時よりも逃げられないという拘束感があった。
「どうしてついて行った」
静かな声だった。だからこそ、余計に恐ろしかった。
「まだあの男を愛しているのか」
見下ろしてくる瞳は怒っているようで、しかし酷薄さはない。ただ、返答を間違えれば、喉元を噛みちぎられそうな危うさがある。
「あの男の妻に戻りたいのか」
「ち、違……っ」
涼子は、ふるふると首を小さく横に振った。
ギッ、と座席が軋む。
そんな無機質な音にすら心臓が跳ねた。
彼が、なぜ晃を気にしているのかわからなかった。しかし、このじりじりとした空気の中、答えないという選択肢などとれるはずもなく、引きつる喉で懸命に言葉を紡ぐ。
「つ、ついて行ったわけではなく、む、無理矢理連れ出されて……それに、晃さんへの愛など、あの人に売られたとわかった時から、とうにありません。妻に戻りたいなんて……少しも思わないです」
彼と今日会って、本当に自分の中から彼への愛は消えたのだと自覚した。あんなに何度も触れ合った彼の手や唇が、気持ち悪くて仕方なかった。
「どこだ」
「え?」
「あの男はどこに触れた」
「それ、は……」
聞かれても、どこと言うなど、恥ずかしく答えられるはずがない。
涼子はフイッと顔を逸らし「大丈夫です」とだけ答える。
「へぇ……」
すると、目を細めた尋は涼子の胸元にかかった髪を、指先で座席へと払い落とした。一束ずつ、髪を指先に引っ掛けてはゆっくりと払っていく。
「随分と反抗的じゃないか」
彼の爪先が肌を浅く引っ掻く度に、肌が熱を持っていくようで、無意識に両手で口を押さえていた。髪を払い落とした尋の指が、ドレスから露出した胸元をゆっくりと撫でていく。指先が鎖骨をなぞり、爪先で首筋をなぞりあげていく。
そして、首元でわだかまっていた髪もすべて、梳くようにして座席に払い落とされた時、彼は「ははっ」と哄笑した。
突然の笑い声になんだと驚きに目を丸めていれば、今度はいきなり首筋に顔を埋められた。
「あ、やっ、尋様……っ何!?」
肌の上を熱が這い、歯を立てられたのか首や肩、鎖骨に痛みが走る。
狭い車内では身動きなどほぼとれず、手も足も宙を掻くばかり。
「痕なんか付けられてんなよ……っ」
「ん……ぁっ」
『痕?』と、熱が集中しきった頭で考えようとするが、ぼんやりとして思考できない。
彼の大きな身体は、狭い車内で密着するには不向きなようで、二人の上半身の間には隙間ができていた。涼子は彼が一瞬顔を離した隙に身を捩り、うつ伏せになってこれ以上の刺激から逃げる。
これで、話ができるとホッと安堵の息をついたものの、今度は背中に熱を感じた。そうだ、ドレスは背中も深くあいているのだった。
「尋様……あっ、ダ、メ……っ待、話を……」
「お前は俺が買ったんだ」
「んっ!」
肩に痛みが走った。
(食べ、られてる……っ)
歯が肩に食い込んでいるのがわかった。噛まれたところがジンジンとするが、不思議なことに嫌とは感じなかった。晃に触れられたときは泣くほど嫌だったのに。
なんだか頭がクラクラする。車内の空気が熱を帯びていた。どこもかしこも熱い。
「お前の飼い主は……俺だ」
背後から聞こえた声は、絞り出すような掠れ声だった。
先程までの荒々しさとは打って変わって、背中を這う熱が優しくなる。
気になり、首を回して背中の様子を窺ってみれば、こちらを見つめる彼と目が合った。
「尋……様……?」
真っ直ぐ射抜くような眼光の鋭い瞳は、目を逸らすなと言っているように見えた。
「……俺のだ」
彼の顔が近付いてきて、こめかみに口づけを落とされる。気付けば左手には彼の指が絡んでいた。彼に与えられる熱が肌に馴染むのが心地好い。晃に触れられた時の不快感がすべて消えていく。
「涼子」
「はい……」
至近距離でまた視線が絡み、しかし彼は髪や瞼、耳にだけ口づけを落とし続けた。
尋が涼子に目立たない場所で待つように伝えた後――。
彼はホールの入り口にいた荊に、涼子が見つけた同じ死期を持つ者達を教え、彼らの行動を監視するよう言いつけると、いつもより速い歩みで涼子の元へと戻った。
途中で女達にキンキンとした耳に刺さる声で呼び止められたが、すべて無視する。
しかし、彼女に待つように言った場所に、彼女の姿はなかった。頭の中に井戸水を注がれたように、一瞬にして脳が冷たくなった。
(どこだ)
すぐに辺りを見回した。目印の白いドレスを探す。
脳の冷たさが全身に回ったように、腹や指先まで冷たくなっていく。
(どこだ……っ)
ホールに集う女達は皆色とりどりのドレスを纏っており、金刺繍だけの白いドレスは目立つはずだった。それなのに見つからない。二階から探すため階段に片足をかけたところ、いきなり背後から腕を引っ張られた。
視界の端にチラッと映った白いドレス。
「――っ涼」
しかし、振り返ってみて尋は落胆した。
腕を引っ張る者は確かに白いドレスを着ていたものの、探していた者ではなかった。
尋の表情から一気に感情が抜けた。煩わしそうに瞼を重たくした目で見下ろす。
「あのぅ、お初にお目に掛かります。神祇省長官の妹の百合子と申しますぅ」
表情こそ変わらなかったものの、尋の眉がピクッと微動した。
涼子から楸家を奪い、追い出した一家の娘だ。まさか、このような場で会えようとは。
彼女は頬を薄紅色にぽっと染めて、上目遣いに何かをねだるような目を向けきた。
似たような白いドレスを着ているものの、自分がこの女と涼子を間違えたことに腹立たしくなる。
「何か」
そう尋ねた声は思った以上に冷たく、百合子は驚いたように掴んでいた尋の袖から手を離した。しかし、ニコッと人好きのしそうな笑みを作ると、何事もなかったかのように再び腕に手をかけてきた。中々に図太い性根をしているようだ。
しかし、幾分かの戸惑いはあるようだった。
彼女からしたら『神祇省長官の妹』という肩書きは、他の男達にチヤホヤされるための強力な口上なのだろう。なのに、こちらが媚びを見せないことに戸惑っているといったところか。
「えっと……す、素敵な方だなぁと思いまして。よろしければお名前を伺っても?」
戸惑いながらもまだ接近を試みようとするとは、本当に図太い。いや、こういうのは無神経というのか。どちらにせよ、相手にしたくはない。
「なぜ。俺の名をあなたに教えることに、なんの意味があるんだ」
ヒクリと彼女の口端が引きつった。
「そ、そういえば、誰かお探しでしたか? 辺りを見回されていたようですが」
まだ諦めず話し掛けてくるかと、もう無視をしてやろうかと思ったところで、ふとこの女は行方不明になった義姉のことを、どのように言うのか気になった。神祇省長官の妹ということは、涼子の義妹で関わりがあったはずだ。
「す……涼子を」
彼女の名を口にして、そういえばはじめて名前を呼ぶのではと、途端に落ち着かなくなる。しかし、それも一瞬。
「まさか、楸涼子ですか!?」
尋の探し人の名を聞いた百合子が、驚きと嫌悪の混じった声を上げれば、すぐに感情が冷たいもので塗りつぶされる。
「そうだが、何か」
「おやめになったほうが良いですよ! 義姉は神祇省の者達を裏切り金を使い込んで、兄に離縁された挙げ句、当てつけのように他の男と行方を眩ませた女なんです! あなたも絶対騙されてますよ!」
なるほど、と尋は内心で嗤った。どうやら家族全員の性格がクズ以下のようだ。こちらが何も知らないと思って、罪悪感の欠片もなく、罪のない者をここまで悪し様に言えるとは。
尋は腕を掴む百合子の手を、腕を引っ張って払い落とす。
「自分の目で見たものしか信じない質でね。失礼」
これ以上構ってられるかと、尋は百合子に背を向けたのだが、またその背がグイッと引っ張られる。呆れた顔で振り返れば、彼女は顔を引きつらせながら懸命に笑顔を作っていた。
「アハハッ、残念でした! あの女だったら、さっき兄と二人で夜闇の中へと消えましてよ!」
尋の瞳が動揺に揺れた。
その変化を見逃さなかった百合子が、さらに笑みを深くする。
「遊ばれてしまいましたのね、お可哀想に。だったら貴方もあたしと――あぐっ!」
「いい加減にしろ」
尋は上着を引っ張る百合子の手を掴み上げ、背中から引き剥がした。手首を握る力に手加減などない。加減ができる頃合いなど、とうに過ぎていた。
「それ以上言ってみろ。冬月一家を侮辱したとして、帝都にいれなくしてやるぞ」
「……っ!」
青い顔に苦悶の表情を浮かべる百合子を、尋は冷めた無感動な目で見下ろす。
「本当、品のない女だ」
投げ捨てるようにして手を離す。いきなり手を離されて体勢を崩した百合子は、どたんっ、と尻から床に転げた。クスクスと婦人達の嘲笑が上がる。
どうやら先程からの彼女の癇癪的な大声のおかげで、周囲の者達はすでに聞き耳を立てた野次馬と化していたようだ。特に、尋を熱っぽい目で見ていた婦人達は、強引に迫っていた百合子に対し不満を持っていたようで、「下品な娘ね」や「ほら、最近噂になったお茶会の」「ああ……親が親なら子も子ね」と嘲弄が注がれる。
尋は、床で顔を赤くして憤怒に震える百合子を一瞥しただけで、声もかけることも助け起こすこともなく、足早にホールを出た。
尋は、植物すらすっかり夜に染まった庭園の中を駆けていた。
元夫が――自ら妻を売った奴が、今更彼女になんの用があるというのか。
そして、自分はどうして、こんなにも焦燥感を抱いているのか。
(どこだ……!)
敷地内からは出たとは考えにくい。わざわざ外に連れ出したということは、人目がない場所にいるはずだ。辺りを見回しながら、尋はどんな小さな音も聞き逃さぬようにと、耳の感覚を集中させる。
赤薔薇館から漏れ聞こえてくる賑やかな声が邪魔だった。しかし、集中力を切らさず尋は耳を澄まし続ける。
そして、賑やかな声の中に明らかに異質な、切羽詰まったような女の声。
「あっちか」
声が聞こえた方に目を向けると、暗闇の中、薄明かりを受けてぼんやりと浮かび上がる白いガゼボがあった。
見つけた瞬間、すでに尋の足は動いていた。
疾駆というに相応しい速さで、尋はガゼボへと一直線に駆けていく。
近付くにつれ、ガゼボの中に見える白い塊が、見覚えのあるドレスだとわかる。そして、白木蓮のような可憐なドレスを踏み潰すようにして、黒い塊が乗っていた。
その黒が、男の燕尾服の背中だと気付いた時、尋の視界は血に染まったように赤くなり、頭の中で何かが切れる音を聞いた。
ガゼボに飛び込むと同時に、尋の手は燕尾服の後ろ襟を掴み、一切の手加減なしに男を引き剥がした。そのままの勢いで後方へと力任せに投げ捨てる。
投げ捨てられた者が、鉄製のテーブルにぶつかった耳煩い音と呻き声がガゼボに響く。
「~~ックソ、誰だってんだよ」
痛そうな呻きを漏らしながら、晃はのそりと身体を起こした。
ふっと地面に影が落ち、彼は反射的に顔を上げ、そして息をのむ。
淡い月明かりを背に受け全身に影が落ちた男が、目の前で仁王立ちし、じっと晃を見下ろしていた。影の中で見下ろす瞳だけはギラギラと光っており、野生の獣を前にした時のような恐怖に襲われ、晃はぶるっと身体を震わせる。
「涼子に何をした」
「ヒッ!」
冷気すら漂ってきそうな獣の声に、晃の口からは悲鳴が漏れる。
「何をしたかと聞いている」
「な、何もしてな――っ」
「だったら、なぜ彼女は泣いている」
ひと言でも返答を誤れば命を落とすような、肌を焼くようなひりついた空気が流れていた。
「~~っぼ、僕が神祇省長官だと知っての狼藉か!」
空気に耐えきれなくなったのか、晃は腰に佩いていた刀に手をかけ、抜こうとした。
「遅い」
が、次の瞬間。
「――っああぁああぁあああッ!?」
汚い悲鳴が上がった。
晃の手は抜刀することなく、地面に縫い留められていた。
尋の刀が、晃の手の甲を突き刺していた。血がじわじわと地面に広がっていく。
「神祇省の者なら、治療くらい自分でできるよな」
「き、貴様……ッ」
さらに深く突き刺そうとして、尋が刀に力を加えようとした時、ドンッと背中に衝撃を受けた。
「尋様っ」
涼子が、背中から尋を抱き締めていた。
「……っもう、大丈夫ですから……尋様」
しゃくり上げで華奢な身体をヒクヒクと揺らしながら、涼子は尋の身体にしがみつくように力強く抱き締めた。
「お願いですから、尋様が傷ついてしまいます」
「…………」
尋はそこでやっと「ふぅ」と息を吐いて、晃の手をから刀を抜いた。
赤く染まっていた視界が徐々に色を取り戻す。眼下には、息を荒げて濡れそぼった顔で睨み上げてくる男がいた。
しばし、無言で視線だけが絡む。
「ぐぁっ!」
晃が、刃が抜ける痛みに再び呻きを漏らすが、もう尋の意識は晃にはなかった。
尋は背後にいた涼子を片手で抱き上げると、晃を置いてガゼボを出た。
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尋に抱きかかえられ連れて来られたのは、庭園とは反対側にある駐車場だった。
なぜこんな場所にと戸惑う涼子だったが、それを尋には聞けなかった。彼はここに来るまでひと言も喋らず、どこか声をかけてはいけない空気があった。
そして、車のドアを開けるなり、涼子は倒れ込むようにして、後部座席に押し込まれた。
「きゃっ」
涼子の小さな悲鳴が漏れるのと、ドアがバタンと閉まったのは同時だった。
薄暗く狭い車内という閉鎖空間で横たわる涼子を、座席に片膝だけついた尋が覆い被さるようにして、見下ろしていた。
出会った日にソファへと押し倒された時よりも、今の涼子と尋の距離は遠く、肌も触れ合ってなどいないというのに、あの時よりも逃げられないという拘束感があった。
「どうしてついて行った」
静かな声だった。だからこそ、余計に恐ろしかった。
「まだあの男を愛しているのか」
見下ろしてくる瞳は怒っているようで、しかし酷薄さはない。ただ、返答を間違えれば、喉元を噛みちぎられそうな危うさがある。
「あの男の妻に戻りたいのか」
「ち、違……っ」
涼子は、ふるふると首を小さく横に振った。
ギッ、と座席が軋む。
そんな無機質な音にすら心臓が跳ねた。
彼が、なぜ晃を気にしているのかわからなかった。しかし、このじりじりとした空気の中、答えないという選択肢などとれるはずもなく、引きつる喉で懸命に言葉を紡ぐ。
「つ、ついて行ったわけではなく、む、無理矢理連れ出されて……それに、晃さんへの愛など、あの人に売られたとわかった時から、とうにありません。妻に戻りたいなんて……少しも思わないです」
彼と今日会って、本当に自分の中から彼への愛は消えたのだと自覚した。あんなに何度も触れ合った彼の手や唇が、気持ち悪くて仕方なかった。
「どこだ」
「え?」
「あの男はどこに触れた」
「それ、は……」
聞かれても、どこと言うなど、恥ずかしく答えられるはずがない。
涼子はフイッと顔を逸らし「大丈夫です」とだけ答える。
「へぇ……」
すると、目を細めた尋は涼子の胸元にかかった髪を、指先で座席へと払い落とした。一束ずつ、髪を指先に引っ掛けてはゆっくりと払っていく。
「随分と反抗的じゃないか」
彼の爪先が肌を浅く引っ掻く度に、肌が熱を持っていくようで、無意識に両手で口を押さえていた。髪を払い落とした尋の指が、ドレスから露出した胸元をゆっくりと撫でていく。指先が鎖骨をなぞり、爪先で首筋をなぞりあげていく。
そして、首元でわだかまっていた髪もすべて、梳くようにして座席に払い落とされた時、彼は「ははっ」と哄笑した。
突然の笑い声になんだと驚きに目を丸めていれば、今度はいきなり首筋に顔を埋められた。
「あ、やっ、尋様……っ何!?」
肌の上を熱が這い、歯を立てられたのか首や肩、鎖骨に痛みが走る。
狭い車内では身動きなどほぼとれず、手も足も宙を掻くばかり。
「痕なんか付けられてんなよ……っ」
「ん……ぁっ」
『痕?』と、熱が集中しきった頭で考えようとするが、ぼんやりとして思考できない。
彼の大きな身体は、狭い車内で密着するには不向きなようで、二人の上半身の間には隙間ができていた。涼子は彼が一瞬顔を離した隙に身を捩り、うつ伏せになってこれ以上の刺激から逃げる。
これで、話ができるとホッと安堵の息をついたものの、今度は背中に熱を感じた。そうだ、ドレスは背中も深くあいているのだった。
「尋様……あっ、ダ、メ……っ待、話を……」
「お前は俺が買ったんだ」
「んっ!」
肩に痛みが走った。
(食べ、られてる……っ)
歯が肩に食い込んでいるのがわかった。噛まれたところがジンジンとするが、不思議なことに嫌とは感じなかった。晃に触れられたときは泣くほど嫌だったのに。
なんだか頭がクラクラする。車内の空気が熱を帯びていた。どこもかしこも熱い。
「お前の飼い主は……俺だ」
背後から聞こえた声は、絞り出すような掠れ声だった。
先程までの荒々しさとは打って変わって、背中を這う熱が優しくなる。
気になり、首を回して背中の様子を窺ってみれば、こちらを見つめる彼と目が合った。
「尋……様……?」
真っ直ぐ射抜くような眼光の鋭い瞳は、目を逸らすなと言っているように見えた。
「……俺のだ」
彼の顔が近付いてきて、こめかみに口づけを落とされる。気付けば左手には彼の指が絡んでいた。彼に与えられる熱が肌に馴染むのが心地好い。晃に触れられた時の不快感がすべて消えていく。
「涼子」
「はい……」
至近距離でまた視線が絡み、しかし彼は髪や瞼、耳にだけ口づけを落とし続けた。



