暁の檻で、極悪な愛からは逃げられない

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 涼子のその日は、あり得ないひと言からはじまった。

「俺の女になれ」

 それは、突然やってきた尋が、炊事場で朝食の支度をしていた涼子に開口一番で告げた言葉だった。
 足元で玉葱の皮を剥いていた一也はゴロンと玉葱を地面に落とし、涼子はガシャンと鍋の蓋を落とした。

「………………え?」




 それから時間は経ち、太陽が地平の彼方に沈んだ頃。
 涼子は、帝都中心部にある公営の社交場『(あか)()()(かん)』にいた。

 屋敷を出るのは、冬月一家に連れられてきた日以降はじめてで、人の多さと賑やかさに、視線を落として緊張しっぱなしだった。ざっと見ただけで、ホールには百名程の人間がひしめいていた。
 何より、緊張の原因は人の多さだけではない。

 今、涼子が身に纏っている衣装は、白を基調とした金刺繍の入ったドレスである。いつも首後ろでひとつに結っていた髪も、今夜は頭の高い位置から結いおろされ、蜘蛛の巣についた雨粒のように輝く、虹色のガラス玉の髪飾りで彩られている。
 はじめて着るドレスに涼子は多少の高揚と同時に、大きく開いた胸元や肩口に恥ずかしさ覚えていた。
 なんだか落ち着かず、酒が注がれたグラスをグイッとあおる。

 チラと隣に目を向ければ、いつものスーツではなく燕尾服をしっかりと着込んで、髪を後ろに流した正装姿の尋が、何食わぬ顔して誰かと談笑していた。
 てっきり社交は苦手かと思ったが、そつなく会話をこなす姿からは、人当たりがいい世渡り上手な雰囲気が漂っている。
 今、尋と談笑している者は、おそらく商業者だ。壮年の中肉中背の男性で、前髪部分だけ白くなった特徴的な髪をしている。
 じっと眺めていると、こちらの視線に気付いたようで商人と目があった。

「彼女は……なるほど、羨ましい女性を手に入れられましたな」

 上から下までなめ回すような値踏みの目で見られた。あまりいい気はしない上に、なんだか声に粘着性があり、言っては悪いが少し気持ち悪い。
 一方、尋は腰には佩刀してあり、極道とは思えぬ、まるで貴族のような立ち姿からは色気があふれ出すぎている。ホールにいる色気に当てられた婦人方が、チラチラとこちらを気にしてはヒソヒソと話していた。彼女達は尋に熱っぽい視線を向けたあと、横にいる涼子を見ては眉をしかめる。わかりやすい敵意を向けられている。ただの同伴者なのに。

「……尋様は、もう少し言い方を考えてください」

 談笑を終えた彼に、口を尖らせて呟くように言えば、彼の黒い瞳が目の端を滑って涼子へと向く。

「何がだ」
「俺の女発言です」
「間違っていないと思うが」

 ほら、と懐から出した封筒を渡される。
 中には一通の招待状が入っており、『政府高官と商業者達で集まって、食事やダンスしながら、この国の将来のために意見を交わし親交を深めたいから、ぜひ参加してね。同業者やパートナーがいる人は連れてきても良いよ』――といった旨の文が書かれていた。

「……商業者?」

 極道が?

「うちも事業で金を稼いでいるから、商業者といえば商業者だな」

 ものは言い様だなと、涼子の瞼が重くなる。

「極道にも招待状って届くのですね」
「知り合いに押し付けられた」

 極道に押し付けるとは、とんだ知り合いもいたものだなと変に感心してしまった。

「まあ、それは良いとして……『俺の女』とパートナーは一緒ではありませんよ。同伴と言ってください。一也君が驚いていたじゃないですか」

 あの後、一也は真っ赤な顔で涼子と尋とを交互に見やると、「は、腹が痛いんで厠に行ってきます! ごゆっくり!」と叫びながら炊事場を飛び出していったのだ。それから何度違うと言っても、「僕、誰にも言わないからさ」などと、誤魔化していると思われる始末。

(絶対にまだ誤解したままだろうし、帰ったらしっかり訂正しなきゃだわ)

 一也の様子を思い出し、骨が折れるだろうなと小さくため息を吐いた瞬間。

「間違いじゃない」
「え――――っん!」

 言われると同時に、いきなり顎に手を掛けられ強引に上を向かされた。
 すぐそこに尋の愉悦が浮かんだ顔があり、涼子は目をわななかせ思わず息をのむ。
 相変わらず距離感が狂っている。

「俺が買ったんだ。お前は俺の女だよ」

 確かに、そう言われてしまえばそうなのだが……。

「……っほ、他の方々が誤解しますのでご容赦を」

 婦人方の視線の鋭さが一気に増したのを感じ取り、涼子はそっと尋の胸を押し返して顔を背けた。きっと自分の顔は赤くなっているのだろう。熱が顔に集中しているの自分でもわかる。
 意外にも顎に掛けられていた手には力が入っておらず、するりと離れていく。彼の手袋のざらりとした感触が肌に残り、なんとなくそこを撫でた。

「それで、私を連れてきた理由はなんでしょうか」

 パートナーの同伴は必須ではない。それなのにわざわざ自分を伴うとは、何かしらの意図があるはずだった。彼は無意味なことはしないタイプだろうし。
 すると、彼はニヤと片口を上げると手招きをして、二階へと上がっていく。涼子もついて上がる。

 二階はホールに突き出したバルコニーとなっており、一階より人がはるかに少なく静かに過ごすには良さそうだった。グラス片手に談笑する落ち着いた男女がチラホラいる。
 尋はバルコニーの手すりから身を軽く乗り出して、一階を覗き込んでいた。涼子も隣で同じように下を覗き込む。

「よし、ここからなら全員見渡せるな」

 下を見ていた尋の顔が、こちらへと向けられた。そこには、先程までの愉悦も勝ち気な笑みもないく、至極真面目な顔をした尋がいた。

「死期見で、この人数の死期を見られるか」

 涼子は目を丸くして、一階の人だかりと尋の顔とを交互に眺める。

(私の、役立たずの異能を……必要としてくれているの……?)
『俺が使ってやる』と言った彼の言葉は、慰めでなく本当だったのか。本当に役立てようとしてくれている。じわりと目の奥が熱くなり、慌てて一階へと顔を向けた。

「できます」

 涼子は、力強く頷いた。
 彼の期待に応えたい。役に立ちたい。
 目を閉じて、いつもより強く意識を目に集中させる。身体の奥深くで、花がほころぶように何かが開いていく感覚があった。
 目を開いて、一階を瞳に映す。
 数字は三十以下でないと表れない。大半の者は、なんの数字も浮かんでいなかった。その中で、チラホラと数字が浮かぶ者がいた。

「窓辺で葡萄酒を持っている白髪の老紳士が23……バルコニー下の赤い羽根飾りの帽子を被った婦人が9……それと……」

 少しずつ視界を移動させながら、注意深く全員を見ていく。
 そして、異常に気付いた。

「尋様、入り口付近にいる方達がおかしくて……複数人に同じ数字が出ているんです」

「どれだ」と尋が視線を同じにするため、顔を寄せてくる。涼子は同じ数字が見えている者達の特徴を、ひとりずつ伝えていく。
 商業者達だろうか。政府高官というには落ち着きがないし若い者が多い。皆キョロキョロとして、誰かを探しているようにも見えた。同じ数字がまとまって見えるということは、一緒に事故にあったりするということだろうか。

「数字は?」
「『4』で、あの四人です」
「なるほどな」

 声に笑いが含まれているように聞こえて、チラと彼の顔を確認してみれば、彼は冷笑を浮かべていた。ゾクッと背中が冷たくなった。はじめて会った日と同じ、底冷えするような狼の目だ。

「あの、これは何のために……」

 尋はしばし腕を抱えて考える素振りを見せ、二度の襲撃してきた首謀者を探すためだと教えてくれた。
 襲撃犯は金で雇われた破落戸(ごろつき)であり、彼が推察するには、首謀者は同じ裏の者ではなく、表の者だろうということだった。彼は、その中でも商業者だとあたりを付けていた。あれだけ多くの破落戸を一度に雇える者など、それこそ、このような場に招待される商業者くらいだと。
 そして、その者はきっと破落戸をこの場に連れてきていると、尋は考えたようだ。

「誰かを狙っている者は、自分も誰かから狙われているという意識になって、用心深くなるもんだ。今回のように大勢が集まる場では特に」
「あの四人の方達は護衛ということでしょうか」
「護衛、身代わり、捨て駒……呼び方は色々あるがな。首謀者の狙いはまだハッキリとしない。しかし、首謀者が襲撃をあの二度だけで終わらすはずがない。そう遠くない内また襲撃を考えていたはずだ。そうなれば、まとまった死者が出るだろうな」
「なるほど。つまり、あの方達は四日後に冬月一家を襲う予定だったと……」

 また誰かが血を流すのかと、先日の光景を思い出してゾッとした。

「だが、お前の死期見の力のおかげで、それが今、回避された」

 優しい声音に思わず尋の顔を確認してみれば、彼は微笑を浮かべていた。皮肉でも冷笑でもない、純然たる微笑。

「お……お役に立てたのなら、嬉しい……です」
「……そうか」

 涼子は、下を覗き込むふりして尋から顔を隠した。

(変ね……狐山さんもお礼を言われたはずなのに……)

 どうして、彼の言葉は、こんなにも嬉しくなるのか。
 どうして、笑顔ひとつで顔が熱くなってしまうのか。
 笑顔なら、毎日一也や徒衆の皆から向けられているのに。何が違うのだろうか。

「あの、でしたら首謀者も、あの方達の近くにいるということでしょうか」
「おそらくな。だが、今探す必要はない。警戒されちゃ困る」

 彼は踵を返して先に階段へと向かう。

「ひとまず下に戻るか」

 そして、振り返ると「ほら」と手を差し出してきた。

「えっ……と?」

 意味がわからず差し出された手を眺めていたら、彼は口をへの字にして「手を出せ」とぶっきらぼうに言う。そこまで言われれば、社交場に慣れていない涼子にもわかる。
「し、失礼します」と呟いて、涼子は尋の手に手を重ねた。
 触れるようなささやかな力で指先を握られ、一緒に階段を降りる。

 周囲を窺えば、男女で手を重ねて男が引いて歩いたり、腕を手を置かせたりしている者達が目に入った。社交場ではこうやって手を重ねることは当たり前なのだろう。
 だから、きっと意識などすべきものではなく……。

「窓の外でも眺めていろ」
「え?」
「そんな顔を他の男達に見せるな」
「そんなって……」

 どんなだろうかと、涼子は階段横の窓に顔を向けた。
 夜色に染まった窓ガラスには、眉を垂らして目を潤ませた情けない顔をしている女が映っている。なんという顔をしているのかと、カッと全身が熱くなった。
 本当に、自分はどうしてしまったのだろうか。

 ガラスの中――映る自分の奥へと、涼子は視線を向ける。
 彼の顔は自分とは反対側――ホールを向いていて、どのような顔をしているかはわからない。

「………………ずるいわ」

 呟いた声は、自分でも驚くほど頼りなかった。
 顔が熱いのも、声が震えているのも、すべて距離が近いせいだ。






 ホールに戻ると、尋は涼子を階段の影になった壁際に連れて行き、ここで待つようにと言ってホールを出て行った。運転手として一緒に来ていた荊に、先程のことを知らせに行ったようだ。荊は赤薔薇館の入り口付近で、出入りする者達を確認しているとのことだった。
 ひとりになった涼子は、高い天井に反芻する優雅な音楽と、その下でクルクルと踊っている煌びやかな者達をぼうと眺める。
 神祇省本家の娘ではあるが、こうういった場にはとんと縁がなかった。父も積極的に社交するような人ではなかったし、まさか楸晃の嫁としてではなく、楸家を追い出された後で来ることになるとは思っていなかった。

「不思議っていえば、このドレスどうしたのかしら?」

 夕方に荊がやって来て、『夜はこれに着替えてくださいね』と言って渡してきたドレスなのだが、いったい誰が用意したのか。生地も手触りが良いし刺繍も細かくて丁寧だし、絶対に高いものだ。

(なんだか悪いし、これも借金に入れてもらおうかしら……)

 もしかすると一生、冬月一家から出られないかもしれない。しかも、こんな特大の借金持ちと結婚してくれるものなどまずいないだろうし、一生独り身か。

「家族がほしかったわ……」

 父が亡くなってひとりになって、でも晃と一緒なら大丈夫と思っていた。
 何も大丈夫ではなかった。どうして彼に売られたのだろうか。何かしてしまったのか。
 その答えすら出てこないほど、晃と夫婦だった時間は短かった。口づけなど数える程しかなかった。結婚しても本当の夫婦にはなれていなかった。今となっては良かったと思うが。

「涼子!?」

 いきなり驚愕した声で名前を呼ばれて、涼子は弾かれたように顔を上げた。そして、すぐに上げなければ良かったと後悔した。

「な、なんで君が舞踏会に……っ」
「あ……晃、さん……」

 涼子の視線の先には、燕尾服を纏った元夫が、腕に彼の妹をくっつけて立っていた。